備前国 岡山城

岡山城天守と後楽園

 所在地:岡山県岡山市北区丸の内 ほか
 (旧 岡山県岡山市丸の内 ほか)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆■■
★★★★☆



戦国屈指の梟雄・宇喜多直家の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡山平野の中心を流れる旭川沿いに築かれた平城。別名で「烏城(うじょう)」「金烏城(きんうじょう)」と呼ばれる。■■■
黒く流麗な天守から採った名称でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この地に初めて城が築かれたのは南北朝期、正平年間(1346年〜1369年)に名和(なわ)氏(伯耆(鳥取県東部)国人)の
一族・上神太郎兵衛尉高直(うえかみたかなお)の手に拠る石山城とされる(「備前軍記」の記述)が詳細は不明。■■■
戦国時代には大永年間(1521年〜1528年)土豪の金光(かなみつ)氏が改めて築城したとされるが、これにも異説があり
天文年間(1532年〜1555年)或いは永禄年間(1558年〜1570年)の事とする説や、遡って応仁の乱の頃と見る説もあって
正確な所は分からない。いずれにせよ金光備前守なる者、その養子である金光與次郎宗高と受け継がれた城らしいが、
それを1573年(天正元年)宇喜多(うきた、浮田とも書く)和泉守直家(なおいえ)が奪い、その息子・左近衛権中将秀家の
時代に大改修が行われて現在見られる近世城郭へと完成された流れとなる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宇喜多氏についてもう少し詳しく記すと、戦国時代の備前国(現在の岡山県東部)は、播磨国(兵庫県南西部)守護である
赤松氏の被官だった浦上(うらがみ)氏が統治していた。この浦上氏の重臣だったのが宇喜多氏。浦上氏は宇喜多氏の
活躍によって次第に主家を圧倒、赤松氏の支配を離脱し独立する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、浦上遠江守宗景はこれまで功労のあった宇喜多氏の実力を危険視し、家臣の島村貫阿弥(しまむらかんあみ)こと
島村豊後守盛実(もりざね)に命じ宇喜多平左衛門尉能家(よしいえ)を謀殺してしまう。能家の孫である直家は宇喜多の
家督を継承、やむを得ず宗景に仕えて雌伏の時を過ごした。直家は若年ながら謀略・暗殺を駆使して見事に宇喜多家を
再興させ、遂には仇である島村貫阿弥を葬り去ったと伝えられる。但し、こうした経緯は近年の新史料発見により再考が
行われており、あくまでも“当時の流動的な情勢”と捉えて頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
能家よりも才知のある直家を宗景はまたも危険視し、1573年に討伐しようと画策するが、梟雄・直家はこれに素早く対応。
安芸国(現在の広島県西部)を本拠とし中国地方一帯を支配しつつあった巨大勢力・毛利氏と将軍・足利義昭を通じ同盟、
1577年(天正5年)浦上氏の本拠である天神山城(岡山県和気郡和気町)を攻め落として宗景を返り討ちにしたのだった。
宇喜多・浦上における一連の抗争中、金光宗高は直家に屈して石山城(岡山城)を明け渡し切腹。これは石山城の周辺が
大いに発展する可能性を見越した直家が、その地を欲して宗高を脅し謀殺したと言われる。宗高は開城の引き換えとして
子息の保護を約束させ、以後金光氏は宇喜多家臣として命脈を保った。こうして直家は従前の居城・沼城(岡山市内)から
居を移し、宇喜多氏の勢力下に入った岡山城はその本拠地として城郭の整備が行われたのでござった。■■■■■■■
斯くして直家は備前・美作(みまさか、現在の岡山県北部)の太守となり一大勢力を築くに至った。しかし1578年(天正6年)
畿内から織田信長軍の先鋒である羽柴筑前守秀吉が播磨に進軍。毛利家との対決の時が近づいてくると、直家は時勢を
的確に判断し1579年(天正7年)10月に今まで同盟を結んでいた毛利と手を切り、秀吉と誼を通じた。当初、信長は直家の
投降を認めなかったが(宇喜多領を接収するつもりだったらしい)、京都の豪商・小西隆佐(こにしりゅうさ)の口添えを得て
10月30日に降伏が許可された。ちなみに、隆佐の2男である小西弥九郎が後の小西日向守行長だ。弥九郎が宇喜多家と
取引していた為に宇喜多―小西―織田の繋がりを得たのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

五大老・宇喜多秀家の手で近世城郭へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦わずして備前・美作を得た秀吉は多いに喜び、直家の嫡子である秀家を自身の猶子に迎え入れた。秀家の「秀」の字は
秀吉の片諱だ。同様に弥九郎、即ち行長を配下の部将に加え入れたのでござった。その僅か3年後、1582年(天正10年)
1月9日に直家は病死し、秀家は秀吉の後援を得て宇喜多家を相続。そして同年6月2日に本能寺の変で信長が横死すると
秀吉が天下の主となり豊臣へ改姓、関白に就任する。豊臣政権下で秀家は五大老(政務を統括する5人の最高閣僚)に
抜擢される。また、同じく秀吉の養女となっていた豪姫(実父は前田又左衛門利家)と1589年(天正17年)に婚姻。岡山57万
4000石の太守として磐石の地位を得た秀家は、1590年(天正18年)から本拠地となる岡山城の大改修工事に取りかかった。
それまで石山城と呼称されていた直家時代の本丸を東側の丘陵へ移転させ、「岡山城」と改名した。近世岡山城の形態が
整えられたのはこの時で、工期は1597年(慶長2年)まで及ぶ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
5重6階で黒くそびえる天守は信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や秀吉の大坂城(大阪府大阪市中央区)を模したものと
言われ、安土城天守と同じく不等辺5角形の天守台の上に築かれている。後期望楼型の典型的な天守で西側に塩櫓を附す
複合式。通常、天守は巨大な物見櫓であって居住空間を持つ必要はないのだが、岡山城天守は2階に「城主の間」と言う
書院造の部屋を持つ独特の構造であった。不等辺の底面、望楼部の複雑な接合、巨大な塩櫓が附随する事により岡山城
天守は見る角度によって全く違う外観を見せ、極めて特徴的な姿を現している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の縄張りは、本丸が天守を含む上段(天守曲輪)と西側の中段に分かれている。各段にそれぞれ御殿が置かれ、それを
帯曲輪になっている下段が取り囲んでいる複雑な構造だ。背後(北〜東)は旭川に直接面していて、これを天然の濠として
利用した所謂「後堅固」の様態である。本丸曲輪群の西は二ノ丸内郭(西の郭)と西ノ丸が塞ぎ、同様に南側に二ノ丸内郭
(東南郭)が連なる。更にそれらを南〜西へと囲う形で広大な二ノ丸が築かれた。二ノ丸には重臣らの屋敷が建っていたと
推測される。ここまでが主郭を構成する部分だが、外郭部に広大な三ノ丸が広がり、その三ノ丸も内部をいくつかの区画に
分割して守りを強固なものにしていた。城内には櫓や門が無数に林立し、五大老の城郭に相応しい大規模な縄張りである。
言うまでもないが、各曲輪の間は旭川から引き込んだ水を満たした水濠で隔てられ、壮大雄渾な縄張でござった。■■■■
本拠となる城を磐石なものとした秀家は1592年(文禄元年)の文禄の役に総帥として参陣、秀吉没後も五大老の職にあり
政務に励むが、1599年(慶長4年)に家臣団の離反を招く。直家時代から権謀と迎合で身を立ててきた宇喜多氏は「忠節」と
いう言葉と縁遠く、家臣の掌握には疎かったようである。この御家騒動で家臣団は二つに割れ、歴戦の重臣が秀家の元を
去っていってしまった。しかも、出奔した武将は軒並み“歴戦の勇者”と呼べる人物で、これで宇喜多家の軍事力は大いに
減退。更に、宇喜多家を離れた彼らが頼った先は、翌年に秀家の敵となる徳川家康であった。■■■■■■■■■■■■

関ヶ原戦後処理、そして池田家の入封■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
混乱冷めやらぬ翌1600年(慶長5年)関ヶ原合戦が勃発。秀家は石田三成に与し西軍の主力として激闘を演じるが、先年に
武功派の家臣が去った影響は大きく敗戦。戦場から逃亡した秀家は、同じく西軍へ与した薩摩国(現在の鹿児島県西部)の
島津氏にかくまわれたが、1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立すると恩義のある島津氏に迷惑がかかる事を恐れて出頭。
島津氏や妻・豪姫の生家である前田氏の助命嘆願によって死罪は免れたが、一族共々八丈島へ遠流の処分となったので
あった。流罪を受けてから約50年後、1655年(明暦元年)11月20日に83歳で死去。現在も八丈島の大賀郷に葬られている。
ちなみに小西行長も西軍として関ヶ原に参戦。敗軍の将となった行長は戦後捕縛されるが、キリシタンであったが故に自害
(切腹)を拒み、斬首の刑を受ける事になった。教義に殉じた行長の行為は遠く欧州にも伝わり、ローマ法王にも悼まれたと
いう。関ヶ原戦役において、岡山城と関わった者らは軒並み運に見放されたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■
さて関ヶ原合戦後の岡山城主に任ぜられたのは金吾中納言こと小早川秀秋。皮肉にも関ヶ原で西軍を裏切り宇喜多勢を
壊滅させた張本人である。しかし秀秋による岡山治世は「文弱」「裏切者」という観念からは程遠く、岡山城外郭の大拡張や
寺社の復興・保護、領内の総検地、城下町水路網の整備など優秀なものであった。在任わずか2年で死去してしまったが、
備前・美作51万石をよく治めた。「小早川秀秋=暗愚の将」という烙印は後世の創作であろう。■■■■■■■■■■■■
1602年(慶長7年)10月18日に嗣子のないまま21歳で秀秋が没した為、翌1603年(慶長8年)から岡山城は池田氏が城主を
務める。姫路城(兵庫県姫路市)主・池田三左衛門輝政の2男である左衛門督忠継が岡山28万石の領主に任じられたものの
この時、忠継は僅か5歳だったので実際には兄の右衛門督利隆が政務に当たった。しかし輝政死去に伴い利隆が姫路藩を
相続、忠継も程なく1615年(元和元年)2月23日に嗣子なきまま病死したため宮内少輔忠雄(ただかつ、利隆・忠継の弟)が
岡山31万5200石を継承。忠雄は城を改造すると共に(月見櫓などはこの時の創建)、城下町の整備に尽力する。新田開発・
河川改修も積極的に行った後、1632年(寛永9年)4月3日に江戸で没した。享年31。■■■■■■■■■■■■■■■■■

名君・池田光政の治世を経て■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠雄の嫡男である光仲は僅か3歳と幼少だった為、山陽道の要衝・岡山は任せられず因幡国鳥取(鳥取県鳥取市)へ移封、
交替で岡山へ入ったのが鳥取藩主であった池田左近衛権少将光政(みつまさ)。光政は姫路藩主・池田利隆の嫡子である。
1616年(元和2年)6月13日の利隆没後、姫路藩を相続したが若年であった事から翌1617年(元和3年)に鳥取32万石へと
国替えとなっていたのであった。鳥取藩主時代に「論語」を基とした治世理念を確立、儒学思想を政治に取り入れ儒学者・
熊沢蕃山(くまざわはんざん)を岡山に招聘。さらに天才藩士と呼ばれた津田永忠を政務に登用した。これら優秀な家臣に
支えられて類稀なる仁政を敷いた名君である。享保の改革時に青木昆陽が将軍・徳川吉宗に甘藷(サツマイモ)の栽培を
進言した事は有名だが、その100年も前から岡山藩では光政が自ら農民に甘藷栽培を説いていた。愛民の情深い光政は
この他にも農民保護政策を実施、新田開発や治水事業に取り組むと共に自身は一貫して質素倹約に努めている。その為、
財政悪化の折にも年貢率を上げることはなかったと言われる。藩政の改革も積極的に行い、家臣掌握・行政機構再編は
もとより、広く有能な人材を育成するために藩学である花畠教場と郷学の閑谷学校を創設。津田永忠はこの閑谷学校の
教授も兼任して、身分の分け隔てなく農民・町民にも講義を行った。光政は1672年(寛文12年)6月11日に隠居し、1682年
(天和2年)5月22日に岡山城西ノ丸で没したが、江戸時代初期の四賢君として現在に名を残している。■■■■■■■■
(残り3人は前田加賀守綱紀(加賀藩主)・保科肥後守正之(会津藩主)・徳川右近衛権中将光圀(水戸藩主))■■■■■
光政の跡を継いだのが嫡子・左近衛少将綱政である。父から引続き津田永忠を藩政に登用した。岡山城に関して言えば
1686年(貞亨3年)永忠に岡山城庭園の造営を命じ、翌年に着工。14年の歳月を経て1700年(元禄13年)に完成した。この
山里曲輪は岡山城本丸から旭川を隔てた北側(城の裏側)に造られたため、「後園」又は「御後園」と名付けられた。金沢
兼六園や水戸偕楽園と並び日本三名園の一つとして数えられる風光明媚な林泉回遊式の大名庭園でござる。■■■■
綱政より後、左近衛権少将継政―伊予守宗政―左近衛権少将治政―左近衛権少将斉政―左近衛権少将斉敏(なりとし、
薩摩島津家からの養子)―左近衛権少将慶政(豊前奥平家からの養子)―備前守茂政(もちまさ、水戸徳川家からの養子)
―左近衛権少将章政(あきまさ、肥後相良家からの養子)と池田家が代々岡山城主を務め、1871年(明治4年)7月14日の
廃藩置県を迎えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

明治維新後の岡山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡山県設置により岡山城は国に接収され、この時に後園を後楽園と改称。廃城令においては存城の扱いとされて城地は
兵部省の所管となるも、大半の建築物は1873年(明治6年)以降、順次破却となり堀も殆どが埋め立てられた。残存建築は
天守(附塩櫓)・月見櫓・西ノ丸西手櫓・石山門と、西ノ丸御殿の一部のみ。一方、後楽園敷地は池田家に残され明治初期
池田家の住居となっていた。しかし1884年(明治17年)池田家は後楽園を岡山県に譲渡。県所有となり一般開放される。
対して1890年(明治23年)に岡山城跡地が池田章政に払い下げられたが、これも程なく県の手に移り1896年(明治29年)
本丸跡地に岡山県立岡山第一中学校が建てられた。二ノ丸や三ノ丸は市街地化。現在では、二ノ丸跡地に岡山県庁や
県立図書館、県警本部分庁舎などの公共建造物が並び建つ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし時代が進むと次第に史跡景勝地としての価値が見直されていく。後楽園は1922年(大正11年)3月8日に国の名勝に
指定される。城郭建造物群も保全されて、天守は1931年(昭和6年)1月19日に、月見櫓・西ノ丸西手櫓・石山門が1933年
(昭和8年)1月23日に旧国宝の指定を受けた。されど、残されていた部分の西ノ丸御殿は昭和初期に破却され、1945年
(昭和20年)6月29日には米軍の空襲で天守と石山門、後楽園内の亭屋は焼失してしまう。天守台の石垣はこの時の熱で
赤く変色してしまっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
太平洋戦争後、文化財保護法の施行によって1950年(昭和25年)8月29日からは僅かに残された月見櫓と西手櫓は国の
重要文化財に。1952年(昭和27年)11月22日には後楽園が国の特別名勝に変更された。そして、戦後復興を象徴すべく
名城であった岡山城を惜しんで1966年(昭和41年)に天守・塩櫓を外観復元。復元天守は内部6階の他に地階を新設し、
郷土博物館として史料を展示している。但し、地階増設によって旧来の天守とは若干構造が異なる物になっている。なお
天守復元に合わせて不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建。1987年(昭和62年)5月30日には本丸および
および二ノ丸の一部と後楽園が国の史跡に指定され、これ以後旧城地内の史跡整備が進められるようになり申した。
城内を占有していた学校や公共建築物は順次別の敷地へと移転。また、石垣の修復なども行われ、2006年(平成18年)
4月6日に財団法人日本城郭協会から日本百名城の一つに選定されてござる。加えて、2007年(平成19年)2月6日には
外下馬門址付近の石垣一帯を国の史跡範囲に追加している。ちなみに、岡山城内の石垣は宇喜多時代・小早川時代・
池田時代のそれぞれに構築・修繕されており、様々な工法が使われている。こうした違いを見比べるのも、国史跡である
岡山城を楽しむ一つの方法でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

岡山城の「今」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近年の改修としては、1996年(平成8年)に築城400年記念事業として天守の鯱と軒瓦に金箔を施して威容を増した。金の
瓦が輝く様はかなり印象的だ。天守については2021年(令和3年)7月から2022年(令和4年)11月にかけても耐震補強を
含めた大改修が行われている。また、本丸中段には発掘で掘り出された宇喜多時代の埋没石垣が地表展示されるように
なっている。更に、これは城址の整備ではないのだが西ノ丸西手櫓の前に建っていたビルが撤去されたので、櫓の景観が
非常に良くなった。以前は櫓の正面を塞ぐが如く、しかも近接してビルがあったので殆んど見えなかったが、今後は写真も
撮り易くなるので大変ありがたい話でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その西手櫓は1・2階同大の桁行(南北)5間(10.36m)×梁間(東西)3間半(7.27m)の規模。棟高は35尺(10.6m)で本瓦葺、
白漆喰総塗籠の2重櫓。2階の3面(南・西・北)には出格子窓を設けて城外側への監視を強めているが、城内側の東面は
雨戸を備えた大窓を開く。2階内部は畳敷きの部屋になっており、この東面大窓によって採光を良くし居住性を高めている。
また、もう1つの重要文化財である月見櫓は一部地下付きの2重2階櫓、本瓦葺漆喰塗籠だが2重目の望楼部は白木作りと
なっている。地階と1階は桁行(東西)32尺3寸(9.75m)×梁間(南北)26尺2寸(7.94m)、2階は正方形で16尺5寸9分(5.03m)
四方の規模。棟高は45尺4寸(13.67m)。北面には入母屋破風がある一方で、南面には軒唐破風と地下階分の下層部が
あるため、北側は望楼型・南側は層塔型に見えるという独特な意匠になっている。2階の東面と南面には手摺を巡らせた
大窓が開き、その名の通り月見を楽しむに適した構造と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2つの重要文化財を有し、後楽園は国指定の特別名勝として日本屈指の観光地。その後楽園の築山越しに眺める岡山城
天守(写真)は感動モノ!吉備路は古代からの史跡が数多くある地、この岡山を基点にして周遊する事をオススメいたす♪
なお、市内南区小串(こぐし)には京橋御門が移築され現存しているとか。加えて、城内二ノ丸内郭(西の郭)に建立されて
いた天台宗常住寺円務院が市内中区門田文化町に移築され、城内時代からの本堂が残存する。■■■■■■■■■■



現存する遺構

本丸月見櫓・西ノ丸西手櫓《以上国指定重文》
堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡
後楽園は特別名勝

移築された遺構として
京橋御門・円務院本堂




松江城  備中松山城