出雲国 松江城

松江城 国宝天守

 所在地:島根県松江市殿町・母衣町・内中原町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★☆
★★★★☆



悲願の国宝指定!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2015年(平成27年)7月8日、松江城天守が国宝に指定された。松江市民の宿願が叶い、これで全国の城郭に於いて
国宝天守を保有する城は5城になった訳だが、国宝化までは築城から408年を経ており、長い歴史を順に紐解かねば
その意義を語り尽くす事は出来ない。以下、松江城の歴史を記し申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の松江市街地は、中海そして日本海へと至る水路が繋がる“宍道湖の出口”に位置する。尤も、古代〜中世に
かけてこの一帯は低湿地帯に沈み、点在する島のような陸地を利用した民家がいくつか建っているだけだったらしく
大きな町を形成するような地形ではなかったと伝わる。その低湿地帯の中、島根半島山塊(市街地北側)から南へと
突き出した小さな舌状台地の先端部が小山となって「亀田山」と呼ばれ、そこには古く「須衛都久(すゑつく)の社」が
祀られていた事から、彼の地の地名は「末次」とされていた。そして鎌倉時代前期、出雲源氏の流れを汲む富田胤清
(とだたねきよ)が亀田山に館を構え、姓を末次に改める。これが亀田山に城が築かれた創始であるとされ、その館は
末次城(末次の土居)、城主たる末次胤清以降の国人領主・末次氏が代を重ねていく元になっている。言わずもがな
亀田山と云うのが後に松江城の城地となる山である。また、末次氏は戦国時代になると出雲守護代から戦国大名に
転化した尼子氏の配下に組み込まれ(末次城もそれに同じ)ていくものの、後に尼子氏が没落し中国地方の雄として
毛利元就が出雲国(現在の島根県東部)を領有するようになると直系が断絶して元就の8男が家督を乗っ取り、末次
七郎兵衛尉元康を名乗るようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「すゑつくの森」 亀田山への築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その元就の孫・毛利輝元は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍の総大将へ担ぎ上げられた挙句に敗北。一気に
所領を削減されて、出雲国と隠岐国(隠岐諸島全域)の計24万石は堀尾出雲守忠氏(ほりおただうじ)に与えられる。
遠江国浜松(静岡県浜松市)12万石から移封された忠氏は、父・堀尾帯刀長吉晴と共に同年11月に出雲へ入国。
当初は尼子氏の本拠地だった月山富田(がっさんとだ)城(島根県安来市)に入ったのだが、月山富田城は山間部に
築かれた山城で近世城郭に不可欠な水運の便に乏しく、また城下町を広げられるような広大な平地も無かったので
早々に新たな城を築く事を計画する。ところが忠氏は極楽寺山(亀田山の事)を選び、父・吉晴は荒隈(あらわい)山
(松江市国屋町、松江城の1.7km西南西)を推し、両者の意見は対立した。忠氏曰く、荒隈山では山容が大き過ぎて
城を維持するのが困難になる程だとの判断である。されど結局この論争は決着せぬまま、何と忠氏が急病を発して
1604年(慶長9年)8月4日に27歳の若さで没してしまった。忠氏の子・忠晴はこの時まだ6歳。当然、政務など執る事は
出来ず、残された吉晴が後見人になった訳だが、子に先立たれた父は忠氏の言を容れて新城の建設を極楽寺山に
決定。幕府の許可を得て1607年(慶長12年)から築城を開始、1611年(慶長16年)正月に竣工した。これが松江城の
創始である。縄張を担当したのは当時堀尾家に仕えていた小瀬甫庵(おぜほあん)。「信長記(信長公記ではない)」
「太閤記」等を記した文学者として現在は名が知られている人物だが、儒学者・医師それに軍学者として多彩な才を
有していた者だ。ちなみに、亀田山にあった須衛都久神社は遷座され、城の南側(現在の松江市西茶町)へと移転し
今も継続している。吉晴は亀田山の北に繋がる台地を切り離し、城山を独立した地形にするべく巨大な堀切を掘削、
その残土で城の周辺低湿地を埋め立てて城下町用地を確保した。また排水を兼ねて城下に水路網を整備、それが
城の水濠と運河の役を果たし、松江の城下町は劇的な発展を遂げて行く。まるで、神田山を切り崩し御茶ノ水渓谷を
開削、日比谷入江を埋め立てて巨大都市を誕生させた江戸城(東京都千代田区)と同様だ。故に、松江藩初代藩主は
忠氏だが、吉晴が松江開府の祖と位置付けられた。だが、吉晴も同年6月17日に69歳で亡くなる。吉晴が没したのは
通説では松江城の完成「直前」とされていたが、近年の再検証により覆され、城が完成した「直後」に改められている。

堀尾家の断絶■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松江城主の座は忠晴に引き継がれたが、その忠晴も継嗣無きまま1633年(寛永10年)9月24日に死去。末期養子も
認められず、堀尾家は断絶し所領没収となった。この時、津山城(岡山県津山市)主・森左近衛権中将忠政を転封し
松江に入府させる計画が持ち上がったのだが、その忠政も直後の1634年(寛永11年)7月7日に死した為、この話は
立ち消えになっている。結局、新たな松江城主となったのは京極若狭守忠高。前任地は若狭国小浜(福井県小浜市)
9万2000石であるが、出雲・隠岐2ヶ国とそれまでの残領を合計し23万5000石、それに加えて世界遺産になった石見
銀山も割り当てられるという大封を得た異動である。これは父・京極若狭守高次の正室(忠高の母ではない)常高院が
2代将軍・徳川秀忠の義姉であると同時に、忠高にも秀忠の4女・初姫が嫁いだという“徳川家との特別な関係”が
あっての事だが、室町時代に出雲国は京極家が守護であった(故に尼子氏はその配下という位置づけ)という前歴、
或いは西に控えるかつての関ヶ原西軍・毛利家に対する備えを重視しての松江入封でもあった。実は、京極高次は
関ヶ原の折に上記の末次元康と対戦しており、京極家は毛利家と因縁浅からぬ関係だったのである。その京極家が
古の末次城、つまり松江城に入ったとあらば、徳川幕府が毛利家を今なお潜在的な脅威と見做す強烈な意思表示を
行った事になろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが忠高は兎角“問題児”だったようで、次第に将軍家から疎まれる存在になっていく。そして彼が1637年(寛永14年)
6月12日に没すると京極家は播磨国龍野(兵庫県たつの市)6万石へ大幅に減転封されてしまった。この時点で隠岐
国は幕府天領へ収公されている。なお、堀尾家から始まった築城工事であるが、外郭〜三ノ丸部分における造成は
京極忠高の時代まで行われていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

堂々たる縄張りと町づくり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではここで松江城の構造について御紹介。舌状台地の先端を巨大な堀切で切り離した亀田山は、そのほぼ全周を
水濠が取り囲んでいるので、さながら小山がそのまま小島のように浮かび上がっている。楕円の形をした亀田山は
東西およそ350m×南北610m程。標高31mを数える山頂は山の丁度真ん中に位置するが、この山頂部はそのまま
最高所の曲輪として成形。そこから南側の頂部敷地を削平して本丸としている。6基の櫓と天守を擁した本丸一帯は
標高28m〜29m程度の高さだ。本丸の南側中腹(標高20m程)には二ノ丸上段を構えるが、ここには現在松江神社と
洋館・興雲閣が建っている。この興雲閣は1903年(明治36年)に建設された明治天皇行幸時の御宿所とする擬洋風
建築の迎賓館。日露戦争の開戦により明治天皇は来訪しなかったが、1907年(明治40年)5月に皇太子・嘉仁親王
(後の大正天皇)が当地に行啓し宿泊している。1969年(昭和44年)2月18日、島根県文化財に指定された。この他、
二ノ丸上段には復元された太鼓櫓・中櫓・南櫓などが建っている。江戸時代にはこの敷地内に藩主の公的な儀式・
政務の場となる御広間や、城主の私的空間である御書院、玄関の御式台(おんしきだい)、配膳所となる御台所など
から成る二ノ丸御殿、それに加えて櫓2基などが建っていた。山麓から二ノ丸上段の脇を抜け、大きく折れて本丸へ
至る道が大手登城路であるが、この道は周りの曲輪から観射され逃げ場の無い構造。攻め手の気持ちでこの坂を
登ると、周囲から狙われまくりなのが一目瞭然で戦慄させられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸の東側山麓は二ノ丸下段。江戸時代にはこの中に藩の米蔵が建ち並んでいたとか。幕末期には他に御破損方
(ごはそんかた)・寺社修理方(それぞれ城や寺社仏閣の建物修理役所)の建物もあった。更にその南側、亀田山が
唯一陸続きで周囲と接続する地点が大手門の枡形だ。枡形と言っても東西南北50m四方ほどもあり、学校の校庭と
同じくらいの大きさを有し、もはや一つの小さな曲輪と考えても差し支えない程。実際、明治時代には運動場として
使われていたらしい。あまりに大きいため、敷地内には井戸も2本掘削。単なる枡形ではなく馬溜と呼ばれていた。
馬溜を塞ぐ大手櫓門には鯱が揚げられ、城の正面玄関としての威厳を示していたとされる。■■■■■■■■■■
一方で亀田山の北半分は北ノ丸とされているが、それほど明確な造成が為されていない。これは松江城の完成期、
既に天下は太平の方向へ定まっており、これ以上の城郭防備を必要としなくなったからだとか。現在、ここには松江
護国神社が鎮座している。ただし、本丸北口(搦手口)から北ノ丸との間を通って二ノ丸下段へと至る経路は導線が
複雑に屈曲し、城内でも特に堅固な構えになっているのでなかなかの見所と言え申そう。■■■■■■■■■■■
亀田山の南には三ノ丸が置かれている。本丸は狭隘なので三ノ丸に城主の御殿が建てられた。また、山の東西も
それぞれ外郭部として機能した。これらの敷地は宍道湖まで繋がる複雑な水路(水濠)で区分けされて、攻め手が
容易に押し寄せる事が出来ない。二ノ丸上段と三ノ丸を結ぶ橋が廊下門であった千鳥橋、二ノ丸下段から東側へと
抜けるのが北総門橋でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
亀田山の北側、本来は台地続きであった部分が松江城にとって唯一の弱点と呼べる方角であろうが、ここには塩見
縄手と呼ばれる武家屋敷群が配置され、家臣団が即応できる状態にしてあった。縄手とは、縄のように長く伸びた
路地を意味し、ここが細い通路で仕切られた防衛陣地帯だった様子を物語るが、塩見と言うのは藩政期に町奉行を
務め急激な栄達を果たした塩見小兵衛の名に由来する。この辺りは現在でも旧家が数多く残り、松江市伝統美観
指定地区・日本の道100選・新日本街路樹100景などの様々な景観称号を与えられていて、松江観光の中核を担う
地区となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

文化の華開く松平家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、京極家が松江から退けられた翌年、1638年(寛永15年)2月11日に松平出羽守直政が新たな松江城主に任じ
られた。直政は徳川家康の2男・結城三河守秀康の3男、越前松平家(秀康は越前宰相であった)の名門に生まれた
上に武勇の誉れも高く、初陣であった大坂の陣において敵将・真田左衛門佐信繁(幸村)から戦いぶりを称賛されて
彼の軍扇が投げ与えられたと言う逸話は有名だ。信濃国松本(長野県松本市)7万石から出雲一国18万6000石へと
大幅加増となった直政は将軍・徳川家光の信頼篤く、天領である隠岐国1万4000石の委任統治も受けている。以後
明治まで松平出羽守家が松江城主の座を相続。直政以降、綱隆(つなたか)―綱近(つなちか)―吉透(よしとお)
宣維(のぶずみ)―宗衍(むねのぶ)―治郷(はるさと)―斉恒(なりつね)―斉貴(なりたか)― 定安(さだやす)と、
10代が藩主に就いているが、このうち最も有名な人物が7代・治郷でござろう。茶人として大成し、独自の流派を作り
上げた彼は不昧(ふまい)と号し、その流派も不昧流を名乗っている。故に、松江は茶道や芸術の町として現在でも
優雅な気風を湛えているのであり、開府の堀尾吉晴や武勇の松平直政と並んで松平不昧の存在は郷土の歴史に
欠かせない人物と言え申そう。松江城下には不昧所縁の茶室や庭園が数多く存在する。■■■■■■■■■■■
尤も、松江藩の歴史は常に財政窮乏に逼迫していたので、平穏無事なものではなかった。特に幕末、軍事力強化を
急いだあまり、幕府から預かっていた隠岐において苛政を敷き民衆の叛乱を惹起させてしまう。このため、隠岐国に
おいては他の県に先立ち1869年(明治2年)2月25日に隠岐県へ移行。松江藩の支配は事実上終了した上、松江藩
自体も1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県で終焉を迎えた。これにより松江城は統治施設としての役割を終える。

廃城後の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1873年(明治6年)1月14日に発布された廃城令に基づいて城地は陸軍省の所管(存城処分)となったが、軍の兵営
設置においてはむしろ旧来の建造物を不要なものであると判断し、城内諸建築は1875年(明治8年)以降、順次破却
払下げが行われてしまう。松江城天守も180円で売却される事になったのだが、出雲(しゅっとう)郡坂田(さかだ)村
(後に合併し出東(しゅっとう)村、現在の島根県出雲市)の豪農・勝部本右衛門栄忠(かつべもとえもんしげただ)や
旧藩士(銅山方役人)の高城権八(たかぎごんぱち)らに同額で買い戻されて破壊を逃れた。これが後の国宝化へと
繋がるのだから、彼らは郷土の英雄と言えるだろう。ちなみに、歴代の勝部本右衛門(坂田村大庄屋)は松江藩主と
親交があり、苗字帯刀を許されていたので松江城の危機に心を砕いたようだが、この勝部家は、遡れば何と相模国
小田原城(神奈川県小田原市)を築いた大森氏に辿り着くと言うのだから驚きでござる。■■■■■■■■■■■■
三ノ丸は松江の官庁街(現在も県庁舎が置かれている)になったものの、これ以後少しずつ松江城では保存運動が
行われるようになっていく。1889年(明治22年)当時の島根県知事が主導して松江城天守閣景観維持会が組織され
1927年(昭和2年)旧城主(城地地主であった)松平家から城跡一帯が松江市に寄付されて公園解放の運びに。
そして1934年(昭和9年)5月1日に城地が国指定史跡となり、翌1935年(昭和10年)5月13日に天守が旧国宝と指定
された。しかし旧国宝(「国宝保存法」による要件)は、太平洋戦争後に新しく制定された「文化財保護法」では重要
文化財に相当するものとされ、新たにその中から別格のものが国宝(新国宝)へと指定される事になった。松江城
天守は新国宝にはならず、文化財保護法の施行日(1950年(昭和25年)8月29日)以降は重要文化財とされている。
松江市は松江城の整備保存に努めて1960年(昭和35年)本丸一ノ門と南多聞櫓(部分)を復元。1992年(平成4年)、
都市景観100選に入り、1994年(平成6年)千鳥橋(廊下門)と北総門橋(眼鏡橋)を架ける。更に2000年(平成12年)
二ノ丸南櫓と塀40mを再建、翌2001年(平成13年)には中櫓と太鼓櫓それに塀87mも建てている。2006年(平成18年)
4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城にも選ばれた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国史跡の指定範囲は1991年(平成3年)4月3日・2013年(平成25年)10月17日・2014年(平成26年)10月6日の3回に
渡って拡大されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

祝!国宝指定■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが松江市と松江市民の悲願は松江城天守を文化財保護法でも国宝として指定する事にあった。古くは同法施行の
翌年、1951年(昭和26年)に市から国宝指定の陳情が国へ出され、1959年(昭和34年)5月29日に市議会で国宝指定
促進の決議を採択。国への陳情は続けられてきた一方で、2009年(平成21年)には市長がマニフェストで天守国宝化
運動を発表、「松江城を国宝にする市議会議員連盟」や「(同)市民の会」も結成され、署名活動や市民の集いも継続
して行われたのでござる。当然、天守に関する調査研究も進められていたものの、国が国宝指定を認めなかったのは
「天守の創建年が確定されていない」からであった。そのため市では懸賞金をかけて天守創建の史料を公募。すると、
意外にもその証拠は城内にある松江神社から発見された。天守内部に掲げられていながら長らく行方不明であった
祈祷札が松江神社の倉庫から出てきたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これは、日本建築史家の城戸久(きどひさし)氏が1937年(昭和12年)7月に行った天守実測調査時には確認されて
いながら、その後に紛失していたものでござる。再発見された祈祷札は2枚あり、そのうちの1枚は■■■■■■■■
「(梵字)奉讀誦如意珠経長栄処 慶長十六暦 正月吉祥日 欽言」と墨書された70.6cmの杉材。もう1枚は■■■■
「(梵字)奉轉讀大般若経六百部 武運長久処 慶長拾六年 辛亥 正月吉祥日 大山寺 敬白」と推測される文言が
書かれた長さ81cmの杉材だ。この札には「慶長16年正月」(松江城竣工の伝聞と一致する期日)と明記されている。
そして天守内部を改めて調べたところ、この2枚の札が掲げられていた日焼け跡と釘穴が確認された。即ち、天守が
1611年に完成しそれを明示していた証拠が確定した訳だ。この2枚の札は2012年(平成24年)5月21日に再発見され、
2013年3月29日には松江市文化財に指定される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更に2013年7月19日には天守地階で鎮物(地の神を鎮める為の供物)の玉石も再発見される等、松江城天守創建に
関する研究は一挙に進展した。これらの研究成果に基づき、満を持して2015年4月17日の文化審議会で諮問され、
晴れて5月15日に国宝指定の答申が引出された。斯くして冒頭に記した通り7月8日、官報に告示され松江城天守は
念願の国宝化を果たした(平成27年文部科学省告示第118号)のでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城郭建築物が国宝になったのは実に63年ぶりという快挙であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、創建時期の証拠となった祈祷札2枚や鎮物も国宝の附(つけたり)指定をされている。現在、これら附指定物は
松江城に隣接する松江歴史館に収蔵されているが、この松江歴史館には松平直政が真田信繁から大坂の陣で与え
られた軍扇なども展示。更に歴史館では1953年(昭和28年)松江市へと寄贈された「極秘諸国城図」も収蔵。これは
江戸時代初期に描かれた全国の城砦縄張図の写本74枚から成る絵図面。長らく倉庫に眠ったままになっていたが
近年になって再精査を行った結果、大坂冬の陣に際して真田信繁が構築した大坂城(大阪府大阪市中央区)の出丸・
真田丸を描いた「大坂 真田丸」の絵図が含まれていると2016年(平成28年)2月に判明。従前、丸馬出を踏襲にした
単郭城砦と考えられていた真田丸が、この図の発見によって複郭形式の強固な縄張だった可能性が浮上している。
信繁の軍扇と共にこの図が松江歴史館に収蔵されていたというのも何かの縁か?また、2017年(平成29年)2月には
徳川家康が構築した幕府草創期の江戸城縄張図「江戸始図(えどはじめず)」も極秘諸国城図の中から発見された。
江戸城は元和期や寛永期での図面が数多く残されているものの、慶長期のものとなると不鮮明な物しかなく、これ程
精緻な図面が出たのは奇跡的と言える大発見であった。昨今の城郭研究における“台風の目”と呼べる存在が松江
歴史館なのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国宝天守の詳細 1:構造編■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では最後に、目出度く国宝となった松江城天守に関し解説。4重5階+地下1階、本瓦葺き下見板張りの後期望楼型
天守で、南面に1重1階の附櫓が加わった複合式天守の形態。天守地階には井戸が掘られており、松江城が実戦に
際したならば、天守のみでも最後まで籠城し続ける徹底抗戦の構えであった事を物語る。現存12天守の中で、天守
建築内部に井戸を包有するのは松江城天守のみである。天守を最終防衛拠点とする意識はこれだけに留まらない。
天守入口となる附櫓は、そこへ入った者を更に奥の天守側から狙い撃つ狭間で囲まれており、建物の内部でもまだ
銃撃戦を行うつもりだった証拠である。そして天守地階には常時食塩が貯蔵されていた。水と共に人間の生命維持に
欠かせないのが塩である為、松江城での籠城戦はこの天守を最後の拠点とし、水・塩・銃眼の3点を常備して決戦に
即する構えだった訳だ。天守外壁に拵えた袴形石落としも、2階の軒下から攻撃を行う“隠し石落とし”となり敵兵への
不意打ち効果を高めている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
建造物としての工法にも独特なものがあり、その最たる例は帯鉄を使って柱を包板でくるんでいる点であろう。通常、
天守のような巨大建築の柱は強度を必要とするために1本の太い木材を使うものだが、松江城天守においては主と
なる柱の周りに数枚の板材を組合わせ、それを鉄の帯で締め上げて太い柱と同じ強度に仕立て上げた物が多く用い
られている。これは芯材となる柱が細い場合の補強や、経年劣化で柱が干上がり割れてしまう事を防ぐ為の処置だ。
これら包板材の使用は創建当時から使われたと考えられていたが、昭和の修理(詳しくは後記)において検証された
結果、建物完成の後に補強として板を打ち付けた物と推定されるようになった。実は、松江城の天守は完成間もない
頃から傾きが発生しており(その原因は周辺地盤が沼沢地であった事による地盤沈下なのだが)、傾斜による倒壊を
防ぐため、随時補強工事を行った事による。創建当初の柱が細かったのは、他城からの転用材が多かった事が一因。
この時代、建物は新材だけでなく他からの古材を流用する事が極めて一般的で、松江城天守の木材は月山富田城の
古材である事を示す「富」の字を刻印した物が多数見受けられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
特徴的な工法はこの他にも。柱を複数階に通し、それを互い違いに組み上げていく「互入式通柱」構法の使用である。
互入式通柱という構法は城郭建築史の大家・内藤昌(ないとうあきら)博士による命名で、例えば1階〜3階を貫通する
柱で下層を支え、次に2階〜4階を通る柱が別の位置に置かれ、更に3階〜5階を支える柱がその上に…と云う具合だ。
姫路城(兵庫県姫路市)大天守では地階〜最上階までを貫通する大柱が大黒柱になっているが、それとは対照的に
短い柱で重量を分散させるのがこの互入式通柱である。これも月山富田城からの古材を用いたため、巨大な大柱を
確保できなかった事が原因なのであろうが、当時、望楼型天守から層塔型天守へと建築様式が進化していく時代に
開発された新技術と言え、建材の上手な活用法だったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国宝天守の詳細 2:外観編■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鉄壁の防御体制、試行錯誤を凝らした工法だった松江城天守であるが、その外観は芸術的な美しさを醸し出している。
下見板張りの壁面は屈強な古武士を思わせる重厚感を出している一方で、望楼部の基部になる3階部分は白漆喰の
出窓となる入母屋破風を形成。そこには花頭窓が開き、戦意満々の天守の中に咲いた一輪の花のようで、不思議な
安らぎを見せてくれる。そして最上階は高欄を巡らせた優美な姿。通常、高欄は建物外壁の外側へベランダ状に繰り
出すものだが、松江城天守は壁面と一体化させた高欄が窓枠の中を全通している為、大きな窓が開かれているのが
特徴。これにより天守最上階からの眺めは抜群で、城下町の彼方に広がる宍道湖の風景が良く望め、特に夕暮時は
幻想的な雰囲気が楽しめよう。この大窓を開く最上階も、何故か天守の安定感を良く見せている。■■■■■■■■
威風堂々とした佇まいは、まるで浮沈戦艦のような迫力と威厳に満ちている一方で、夜の闇にライトアップされた姿に
なると可憐な美女を思わせる魅力に繋がり、松江城天守が卓越した美意識に基づき作り上げられたに違いないと感嘆
させられる。個人的な話で恐縮なのだが、白漆喰の層塔型天守が好みの拙者でも松江城の天守だけは一目見た瞬間
「これには敵わない」と思わせられた程に美しかったのを覚えている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど現在まで残る天守の歴史は苦難の歴史そのものであった。1611年に完成した天守だが、早くも1638年に最初の
大修理が行われている。先に記した通り、天守は地盤沈下に伴って傾き始めており、創建20余年にして修理が必要と
なったようだ。1676年(延宝4年)附櫓の屋根を修理、1700年(元禄13年)には天守の部分的修理が行われた記録も。
創建当初の天守を描いた「正保城絵図」には東西面・南北面のそれぞれに千鳥破風が描かれていたものの、現在の
天守にはそれが無く、恐らくこの頃までに撤去されたと考えられる。この後、1737年(元文2年)〜1743年(寛保3年)に
かけて各層ごとの修理が為され、1815年(文化12年)にも最上層の修復が行われた。しかし、幕末維新の頃になると
藩財政が破綻を迎え、1870年(明治3年)に天守4層目の屋根を応急修理したが、倒壊の危険性さえ考えられる程に
荒廃を極めた。廃墟同然のあまりに悲惨な有様に、1888年(明治21年)3月27日から6月頃まで修復の手が入った後、
1894年(明治27年)から明治の大修理が行われて、ようやく危難は去った。更に太平洋戦争後の1950年6月1日から
1955年(昭和30年)3月31日までの5年をかけ昭和の大修理も行われ、晴れて現在の国宝天守へと命脈を繋いだので
ござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の別名は千鳥城。草創期にのみ存在した天守の千鳥破風に伴う雅称である。長らく千鳥破風の存在は誤りとされて
いたが、国宝指定に伴う2016年4月の内部調査により改修の痕跡が発見され、正保城絵図の描画が正当である事が
立証され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

天守・天守附櫓《国宝》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移設された遺構として
天守祈祷札2枚・鎮宅祈祷札4枚・鎮物3点(祈祷札・槍・玉石)《以上国宝附指定》
天守旧鯱瓦




富長城・淀江台場・米子城  岡山城