日本海を背にした古城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道9号線、往時の山陰道が美保湾に沿って緩くカーブを繰り返すあたり、鳥取県道36号線と交わる富長交差点から
280mほどの位置にある富長神社が富長城跡でござる。城の縄張りを見ると、神社の境内となっている敷地が不等辺
5角形(ほぼ正方形)を為す主郭跡で、この敷地をぐるりと囲んでしっかりとした土塁が構築されている。主郭は東西
南北とも約100mの大きさで、海抜は21m〜22mある。また西北隅には櫓台らしき一段高い土盛がある。主郭の入口と
なるのが東側虎口で、そこには深い堀が掘られているが、自然の谷(沢のような谷戸)をそのまま利用したものとも
考えられている。その虎口の脇には現在、写真にある史跡標柱が立つ一方で神社参道の反対側には一里塚跡が。
つまり旧山陰道の眼前にこの城跡があった訳だ。主郭の西には副郭があった?と推測されるものの、今ここは激しい
藪の山となっており、それを確認するのは困難だ。そして城跡の北側は一面の日本海。現状では富長神社の北側に
海に沿った道が1本走っているだけの余地があるが、恐らく当時は海岸線がもっと迫っていて城跡の直下は直接波に
洗われている状態だった。即ち富長城は海城としての要素もあったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源・来歴については定かならず諸説入り混じっている。そもそも、富長城について記した文献記録は何もなく
全ては伝承に基づくものばかり。鳥取県が小冊子「山陰の城館跡」を作製した折に富長城を入選させ、根拠史料が
ある他の城を選外にした為に疑義が立った程である。つまり遺構こそ残っているが真偽は良く分からない城なので
当頁でも、諸説を列挙するしかない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝時代の富長城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最も古い築城説は鎌倉時代、現地豪族の居館として築かれたとしたものだが、これは正確な年代を特定できない。
その後、元寇に備えて鎌倉幕府が日本海沿岸一帯に城砦群を築かせ、その中にこの富長城が含まれるとする説が
ある。鎌倉期の典型的な武家居館である方形館としての体裁を有している事や、海城としての立地がこれらの説の
論拠となっているのだろう。そして元弘年間(1331年〜1333年)土豪の荒松氏が築城したというのが通説である。■
時代は倒幕の頃、鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇の腹心として知られた伯耆守・名和長年(なわながとし)の
配下だったのが荒松氏で、富長城には荒松兵庫なる者が居城したと云う。幕府から隠岐に幽閉されていた後醍醐
天皇が伯耆国へと脱出した事で起きた船上山(せんじょうさん)の戦いに於いても、この城が軍事拠点の一つとして
使われたそうだ。この後、南北朝の戦いへと戦況が移り長年が湊川(兵庫県神戸市)合戦で討死すると、その首を
伯耆に持ち戻ったのが荒松氏だとされるのだが、長年の死によってこの地域を領有するのは福頼(ふくより)氏へと
代わっていく。大山町内、茶畑(ちゃばた)にある曹洞宗金華山正福寺に於いては大山町教育委員会が数度に渡り
発掘調査を行った結果、中世豪族の居館址と考えられているが、その主が福頼氏(または荒松氏)ではなかったかと
推測されてござる。この福頼氏は元来、出雲国飯石郡(いいしぐん)須佐郷(現在の島根県出雲市内)の出自とされ
伯耆国汗入郡(あせりぐん)宇多河荘(現在の鳥取県米子市淀江町福頼)に進出、伯耆国の沿岸部一帯に勢力を
広げたという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山陰太守・尼子氏と富長城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
次いで室町時代中期、1500年(明応9年)頃に福頼左衛門尉が築城とする説もある。となると、荒松氏時代の城は
廃城になっていたのか、或いは新築に比する程の大改修を加えたという事なのかは分からないが、これによって
富長城は中世居館から戦国城郭への体裁を整えるに至った。ところが戦国前期の山陰地方と言えば、出雲国から
急伸した尼子民部少輔経久(あまごつねひさ)が名高いが、経久は1524年(大永4年)西伯耆への侵攻を一夜にして
成し遂げたと伝わる。この「大永の五月崩れ」にて富長城も落城し城主・福頼左衛門尉(左右衛門尉とする説も)は
逃亡したとも、経久に臣従したが後に蓄電したとも言われてござる。ともあれ、この件にて城は廃絶したようだ。■■
一方で時代不明ながらこの地を領した駒井刑部なる者の陣屋が現在の富長神社主殿の辺りに建てられ、周辺に
馬屋や馬飼場が置かれたと云う説もある。しかし江戸時代に入った後は神社境内となり、1659年(万治2年)今に
残る社殿が建立(古御堂(こみどう)集落(大山町内)から移築された)され龍王大明神の社号で祀られていた。■■
後に明治の神仏分離令で仏教色が排除され、現在の富長神社という名になったそうだ。■■■■■■■■■■■
江戸時代後期の1818年(文政元年)鳥取藩が作成した「因伯古城跡図志」なる地誌には、富長城の規模や歴史を
「富長村古城跡、福頼左衛門尉居城と申し伝え、当時社地となり森あり、高さ三間許、前は往来なり。■■■■■■
近辺竹木在、後は直ちに海なり。海辺より古城まで高さ二十間許、長さ六十間許、横五十間許」と記す。■■
1982年(昭和57年)11月19日、当時の名和町が史跡に指定。現在は大山町指定史跡として継承されてござる。■■
史跡指定面積は1万4227u。山陰本線の名和駅と大山口駅のちょうど中間に位置するので、公共交通機関での
来訪はちょっと厳しいか?車であれば国道9号からすぐなので簡単だが、駐車する場所がない。最悪、路上駐車を
する事になりそうだが、神社の周りを巡る道はどこも幅員が狭く、どのように停めるべきか悩ましい。くれぐれも近隣
居住者の御迷惑にならないよう気を付けたいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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