伯耆国 富長城

富長城跡標柱

 所在地:鳥取県西伯郡大山町富長(富長西)
 (旧 鳥取県西伯郡名和町富長)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
■■■■



日本海を背にした古城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道9号線、往時の山陰道が美保湾に沿って緩くカーブを繰り返すあたり、鳥取県道36号線と交わる富長交差点から
280mほどの位置にある富長神社が富長城跡でござる。城の縄張りを見ると、神社の境内となっている敷地が不等辺
5角形(ほぼ正方形)を為す主郭跡で、この敷地をぐるりと囲んでしっかりとした土塁が構築されている。主郭は東西
南北とも約100mの大きさで、海抜は21m〜22mある。また西北隅には櫓台らしき一段高い土盛がある。主郭の入口と
なるのが東側虎口で、そこには深い堀が掘られているが、自然の谷(沢のような谷戸)をそのまま利用したものとも
考えられている。その虎口の脇には現在、写真にある史跡標柱が立つ一方で神社参道の反対側には一里塚跡が。
つまり旧山陰道の眼前にこの城跡があった訳だ。主郭の西には副郭があった?と推測されるものの、今ここは激しい
藪の山となっており、それを確認するのは困難だ。そして城跡の北側は一面の日本海。現状では富長神社の北側に
海に沿った道が1本走っているだけの余地があるが、恐らく当時は海岸線がもっと迫っていて城跡の直下は直接波に
洗われている状態だった。即ち富長城は海城としての要素もあったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源・来歴については定かならず諸説入り混じっている。そもそも、富長城について記した文献記録は何もなく
全ては伝承に基づくものばかり。鳥取県が小冊子「山陰の城館跡」を作製した折に富長城を入選させ、根拠史料が
ある他の城を選外にした為に疑義が立った程である。つまり遺構こそ残っているが真偽は良く分からない城なので
当頁でも、諸説を列挙するしかない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

南北朝時代の富長城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最も古い築城説は鎌倉時代、現地豪族の居館として築かれたとしたものだが、これは正確な年代を特定できない。
その後、元寇に備えて鎌倉幕府が日本海沿岸一帯に城砦群を築かせ、その中にこの富長城が含まれるとする説が
ある。鎌倉期の典型的な武家居館である方形館としての体裁を有している事や、海城としての立地がこれらの説の
論拠となっているのだろう。そして元弘年間(1331年〜1333年)土豪の荒松氏が築城したというのが通説である。
時代は倒幕の頃、鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇の腹心として知られた伯耆守・名和長年(なわながとし)の
配下だったのが荒松氏で、富長城には荒松兵庫なる者が居城したと云う。幕府から隠岐に幽閉されていた後醍醐
天皇が伯耆国へと脱出した事で起きた船上山(せんじょうさん)の戦いに於いても、この城が軍事拠点の一つとして
使われたそうだ。この後、南北朝の戦いへと戦況が移り長年が湊川(兵庫県神戸市)合戦で討死すると、その首を
伯耆に持ち戻ったのが荒松氏だとされるのだが、長年の死によってこの地域を領有するのは福頼(ふくより)氏へと
代わっていく。大山町内、茶畑(ちゃばた)にある曹洞宗金華山正福寺に於いては大山町教育委員会が数度に渡り
発掘調査を行った結果、中世豪族の居館址と考えられているが、その主が福頼氏(または荒松氏)ではなかったかと
推測されてござる。この福頼氏は元来、出雲国飯石郡(いいしぐん)須佐郷(現在の島根県出雲市内)の出自とされ
伯耆国汗入郡(あせりぐん)宇多河荘(現在の鳥取県米子市淀江町福頼)に進出、伯耆国の沿岸部一帯に勢力を
広げたという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

山陰太守・尼子氏と富長城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
次いで室町時代中期、1500年(明応9年)頃に福頼左衛門尉が築城とする説もある。となると、荒松氏時代の城は
廃城になっていたのか、或いは新築に比する程の大改修を加えたという事なのかは分からないが、これによって
富長城は中世居館から戦国城郭への体裁を整えるに至った。ところが戦国前期の山陰地方と言えば、出雲国から
急伸した尼子民部少輔経久(あまごつねひさ)が名高いが、経久は1524年(大永4年)西伯耆への侵攻を一夜にして
成し遂げたと伝わる。この「大永の五月崩れ」にて富長城も落城し城主・福頼左衛門尉(左右衛門尉とする説も)は
逃亡したとも、経久に臣従したが後に蓄電したとも言われてござる。ともあれ、この件にて城は廃絶したようだ。■■
一方で時代不明ながらこの地を領した駒井刑部なる者の陣屋が現在の富長神社主殿の辺りに建てられ、周辺に
馬屋や馬飼場が置かれたと云う説もある。しかし江戸時代に入った後は神社境内となり、1659年(万治2年)今に
残る社殿が建立(古御堂(こみどう)集落(大山町内)から移築された)され龍王大明神の社号で祀られていた。■■
後に明治の神仏分離令で仏教色が排除され、現在の富長神社という名になったそうだ。■■■■■■■■■■■
江戸時代後期の1818年(文政元年)鳥取藩が作成した「因伯古城跡図志」なる地誌には、富長城の規模や歴史を
「富長村古城跡、福頼左衛門尉居城と申し伝え、当時社地となり森あり、高さ三間許、前は往来なり。■■■■■■
    近辺竹木在、後は直ちに海なり。海辺より古城まで高さ二十間許、長さ六十間許、横五十間許」と記す。■■
1982年(昭和57年)11月19日、当時の名和町が史跡に指定。現在は大山町指定史跡として継承されてござる。■■
史跡指定面積は1万4227u。山陰本線の名和駅と大山口駅のちょうど中間に位置するので、公共交通機関での
来訪はちょっと厳しいか?車であれば国道9号からすぐなので簡単だが、駐車する場所がない。最悪、路上駐車を
する事になりそうだが、神社の周りを巡る道はどこも幅員が狭く、どのように停めるべきか悩ましい。くれぐれも近隣
居住者の御迷惑にならないよう気を付けたいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭
城域内は町指定史跡







伯耆国 淀江台場

淀江台場址

 所在地:鳥取県米子市淀江町今津
 (旧 鳥取県西伯郡淀江町今津)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



幕末、鳥取藩の台場跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末、鳥取藩主・池田相模守慶徳(よしのり)の命によって築かれた異国船打払用の砲台場。相次ぐ異国船の襲来に
備え、鳥取藩は領内およそ160kmの海岸線で因幡国内3箇所、伯耆国内5箇所に台場を築いたが、その内の1箇所、
淀江湊(現在は淀江漁港になっている)を守る位置に作られたのが淀江台場でござる。この台場について欠かせぬ
人物が、その守備隊長として任じられた松波徹翁(てつおう)と号した松波宏年(ひろとし)である。■■■■■■■■
1834年(天保5年)僅か20歳で田中六郎兵衛(たなかりくろうべえ)は伯耆国汗入郡今津村(淀江台場の所在地)の
大庄屋役に任じられ、1855年(安政2年)鳥取藩の郷士に取り立てられると松波宏年と改名。更に1860年(万延元年)
剃髪し徹翁と名乗るこの人物は、鳥取藩の要請に応えて1863年(文久3年)自らの畑地を提供して淀江に台場を築く。
因幡・伯耆両国(合わせて現在の鳥取県)32万石の大封を領した因州池田家であるが、幕末になると財政が逼迫し
台場に拠る海防の必要性は認識していながら、それを築く予算が無かったのである。かろうじて因幡国内においては
藩の予算で台場を築いていたが、伯耆国内では在地の豪農や大商家に丸投げするような状態。斯くして、勤皇攘夷を
志す徹翁は台場構築に名乗りを上げ、彼の子・松波宏元がその設計に携わったと言う。長崎で蘭学を学んで帰郷した
宏元は西洋築城術に明るく、淀江台場の他、境台場(鳥取県境港市)の築造にも貢献しており申す。近郷の農民が
労務に駆り出され完成した淀江台場には、鳥取藩領内の六尾(むつお、鳥取県東伯郡北栄町)反射炉で製造された
5寸砲(長さ3.6m)・18斤砲(同3m)・6斤砲(同1.2m)の3門の大砲が据え付けられたが、この六尾反射炉を設置した
瀬戸村(同じく北栄町)の大庄屋・武信佐五右衛門(たけのぶさごえもん)にも西洋砲術を学んだ潤太郎という養子が
おり、伯耆の幕末海防は同じような境遇を有した豪農によって支えられていた様子が興味深い。なお、淀江台場の
大砲は後に8門が増備されてござる。(六尾反射炉については由良台場の頁を参照の事)■■■■■■■■■■■
徹翁は郷士に取り立てられた際、農民を組織して農兵隊を結成。淀江台場完成後、徹翁は池田周防守と共に台場の
管理を任せられ(これも武信家と同様である)、松波農兵隊が守備を担当。彼らは1〜2ヶ月に1度、大砲の発射訓練を
行っていたと言う。更に幕府による長州征伐で反幕府側として戦い、後には戊辰戦争にも参戦していく。■■■■■■
しかし淀江台場が実戦に用いられる事はなく明治維新を迎え、1898年(明治31年)から養良(ようりょう)高等小学校
(旧鳥取県立西部農業高等学校(後に淀江産業技術高校→現在は米子南高校)の前身)の整地で一部を削り取られ
1937年(昭和12年)にも学校敷地拡大によって台場の北辺を削平されてしまった。1970年(昭和45年)学校移転に
伴い台場跡地残存部分が公園化され、1988年(昭和63年)7月29日に鳥取藩台場跡として由良・境・橋津の3台場と
共に国の史跡に指定されている(後に2台場が追加指定され、現在は5台場で史跡群を構成)。■■■■■■■■■
現在ある遺構は高さ約4m・幅およそ24mの大掛かりな土塁(写真)。その延長は約67mを残すが、明治・昭和期の
削平が行われる前には、北側と南側にそれぞれ同じくらいの敷地を加えた大きさでござった。また、こうした滅失
部分は角度を付けた構造になっており、完存していたならば台場敷地は弓なりの弧を描くような形状だった。■■■
台場全域が全て残っていたならば相当な巨大さを誇ったであろうが、しかし現在残る土塁を見るだけでも圧巻。■■
所在地は淀江漁港のすぐ脇。駐車余地も十分にあるので、見学は非常に容易で有り難い。海を眺めれば美保湾の
対岸にあたる美保関が望め、ここが沿岸防御の要衝であった事を想像させてくれる良好な史跡と言えよう。■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭
城域内は国指定史跡







伯耆国 米子城

米子城址 表中御門枡形石垣

 所在地:鳥取県米子市久米町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



水陸両用の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
米子市役所の南西700m、或いはJR山陰本線米子駅の西1.2km地点にある大城郭。標高90.1mに達する湊山の山頂部
一帯を本丸とし、その北東側山麓に二ノ丸・三ノ丸を広げつつ、湊山の東にある標高57mの小山・飯山(いいのやま)も
城域に取り込み、その頂を采女(うねめ)丸として啓いている。現在、2つの山の谷間を国道9号線が貫通分断しているが
往時はこれら両山と山麓全体が城地となっていて、その規模は東西およそ700m×南北600m弱に及んでおり申した。
湊山は3方に小山を内包する複合峰で、北に丸山、南東側に八幡台(はちまんたい)、西に出山が突出しており、其々の
頂が出曲輪として機能。中でも丸山は一番大きく、本丸や采女丸に順ずる敷地面積を有する内膳丸に仕立てられている。
八幡台郭は本丸の前衛防御となる重要拠点で、ここを落とさないと本丸へは登れない。だが八幡台郭へ至る道は本丸を
背にする形になるので、攻手は八幡台郭と本丸から挟み撃ちに遭う訳である。そして本丸から麓までは一直線に延びる
竪堀があり(この竪堀は2017年(平成29年)になって発見された)八幡台郭を迂回し直接本丸へ回り込む方法も採れない。
本丸の裏手には水手曲輪が並び、搦手側の監視も抜かりない。湊山山中は実に巧妙な縄張を仕組んでいるのでござる。
このような米子城は、南側を東から西へと流れる加茂川が塞ぎ、東面〜北面へは飯山と二ノ丸・三ノ丸を囲い込む巨大な
水堀を掘削。そして西面は日本海と直結する汽水湖・中海が洗っていた。米子城は平山城であると同時に水城としての
要素も兼ね備え、出山には水上監視の為の物見櫓を建てている。加茂川の川縁(湊山の南麓)には舟入になる深浦郭が
広がっていたが、深浦郭は別名で御船手郭と言い、米子城は水軍基地にもなっていたのだ。現在、城内を貫通する国道
9号は(もちろん、当時は城下町を迂回する経路ではあったが)即ち往時の山陰道(出雲往還)である為、この城は陸路と
海路の両方を掌握する戦略的要地だった訳だ。最盛期(江戸時代初期)、本丸には5重の大天守と4重の小天守が並立し
内膳丸には2基、本丸表御門の虎口・八幡台郭・本丸西出隅の遠見郭・水手曲輪それに二ノ丸(山麓平野部)の表中御門
虎口などの各所に2重櫓を配置しており、四方八方に睨みを効かせていたのだ。湊山と飯山の2山で左右に広がる縄張は
姫山と鷺山を活用した姫路城(兵庫県姫路市)のようでもあり、湖に直結し山麓の曲輪をも水濠の内に取り込んだ様子は
彦根城(滋賀県彦根市)に酷似した防御構造でもあり、何よりこの城を戦国末期に構築した着眼点は織田信長の名城・
安土城(滋賀県近江八幡市・東近江市)と共通するようでもあり、米子城が全国屈指の発達した城郭である事を物語る。
別名に久米城とあるが、城地の地名から付けられたものだろう。湊山城・飯山城という別名も、それぞれ山の名を採ったと
考えられる。但し、鳥取藩編纂の史書「伯耆民諺記(ほうきみんげんき)」に拠れば、古では湊山と飯山を総称し「飯山」と
呼んでおり、米子城築城の際に2つの山を分けるようになったと伝わっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

築城の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来、当地に城が築かれたのは詳細不明ながら応仁の乱が行われていた頃のようだ。伯耆守護・山名兵部少輔教之の
命で家臣の山名宗之が砦を築いた事を始まりとしているが、それは湊山ではなく飯山に築かれた砦であったと言う。■■
伯耆国は西軍総大将・山名一族の領国だが、中海の向こうに広がる出雲国(島根県東部)は東軍方・京極氏の支配地。
国境を睨むこの飯山砦は、出雲守護代・尼子刑部少輔清定(きよさだ)と戦った伯耆の軍勢が1471年(文明3年)の8月に
境松合戦で大敗し逃げ込んだと云うのが文献上の初出(佐々木家文書「京極政高感状」)でござった。■■■■■■■■
尼子家は清定から経久に代替わりし、ますます強大化。それを危険視した守護の京極氏から追放処分を受けるも、逆に
返り討ちとしより強固な地盤を築くに至り、1524年「五月崩れ」と呼ばれる大規模な伯耆侵攻を成し遂げたのは富長城の
項に示した通りだが、これにより米子一帯(飯山城)も尼子家の支配下に入った。ところがその経久も没する時代になると
今度は中国地方の雄・毛利家が所領を激増させ、1562年(永禄5年)頃、飯山城も毛利領に組み込まれ、城主として山名
治部大輔秀之なる者が派遣されたと言う。この秀之は伯耆山名氏の一族とされるが詳らかではない。既に伯耆守護家は
没落し、名門・山名氏と言えど新興勢力である毛利氏の禄を食む程度の身に落ちていた。しかも1569年(永禄12年)尼子
残党が飯山城を奪回したと言い、更に翌1570年(元亀元年)それを毛利軍が取り返す。この争奪戦の中で、秀之は戦死
或いは自害したとされているが、これまた諸説入り混じっていてはっきりとした事は分からない。ともあれ、毛利と尼子の
飯山城を巡る係争は続き、1571年(元亀2年)3月中旬に尼子方の将・羽倉孫兵衛元陰(はくらもとかげ)が率いる兵500が
飯山城下町を襲撃。この時、城を守っていた毛利方の城番・福原次郎大輔元秀が討ち取られたと言うものの、これまた
諸説紛々、あまり詳しい事は分からない。福原氏と言うと毛利家旗揚の頃から従う古参家臣一族で、要衝の米子に派遣
されていてもおかしくはないが、福原元秀の戦死後に新たな城番になったのが福頼左衛門尉元秀とされ、名が類似して
いる。福頼氏は富長城の城主となっていた一族だが、「福原」と「福頼」を混同して史料が書かれたのか、それとも本当に
そのような人事交替があったのか、もはや今となっては分からない話だが。更に福頼元秀の後、城番は古曳(木引とも)
長門守吉種(こびきよしたね)に代わったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代がなお進んで、豊臣秀吉が天下統一した後になると米子周辺は毛利一族の重鎮・吉川(きっかわ)民部少輔広家の
所領になった。秀吉は吉川家に12万石で出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡と隠岐国を与え、その居城をかつての尼子氏本城・
月山富田(がっさんとだ)城(島根県安来市)にするよう命じた。よって広家は月山富田城に入ったが、これと並行する形で
1591年(天正19年)広家は吉種に湊山への築城を命じている。築城奉行には山県九左衛門が任じられて、九左衛門と
吉種は米子城を誕生させた。これが近世米子城の創始とされており、湊山山頂の本丸には4重の天守(後の小天守)が
揚げられる事になる。広家が米子城を築いたのは、月山富田城から居城を移す予定であったとするのが通説だったが、
近年では新たに秀吉の朝鮮出兵に用いる海上輸送拠点として強力な海城(中海を経て日本海航路へと出帆できる)を
作ったと考える説も取り沙汰されてござる。しかし築城途中にしてその朝鮮出兵が開始され、吉川広家は朝鮮へと渡海。
それに随行した古曳吉種は1592年(文禄元年)11月24日、彼の地で戦死したと伝わる。その結果、築城工事は長引いて
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後の転封で吉川広家が周防国岩国(山口県岩国市)3万石へと移る時も、城は7割程だけ
完成していた状況(吉川家文書「戸田幸太夫(とだこうだゆう)覚書」に「十の内七つ程も出来候」とある)だった。■■■

中村家による近世城郭化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
広家に代わり米子城主を命じられたのは中村伯耆守一忠。豊臣家の中老職(この定義については諸説あり)だった中村
式部少輔一氏(かずうじ)の嫡男である。関ヶ原の直前、病身であった一氏は家老・横田内膳正村詮(むらあき)の献策を
容れ、徳川家康に臣従する事を選択する。駿府にて家康と会談し中村家が徳川方に就く事を鮮明にしたが、その直後に
病没してしまう。結果、関ヶ原合戦後の論功行賞で家康は中村家の安泰を約束し遺児の一忠に伯耆一国17万5000石を
与え米子城に入れたのだ。ただし、この時まだ一忠は11歳であったため、家康は横田村詮に後見役を命じて中村家中の
仕置を託していた。斯くして中村一氏は伯耆国に入国。米子城は建築途中であったので、一氏は尾高城(米子市内)を
仮の居城とし、横田村詮が中心となって米子城の建築工事を続行。中村家による築城工事では、新たに5重の新天守が
本丸に揚げられ、吉川時代の天守は4重櫓と呼ばれるようになるが、これは“古天守”や“副天守”とも称され、事実上の
小天守になっている。それにより、米子城本丸には大小2つの天守が並び建つ壮観な姿を現出させたのでござる。なお、
後から作られた5重天守はそれまでの4重天守と意匠を統一させて下見板張の外観を有したのだが、さながら豊臣期の
大坂城(大阪府大阪市中央区)天守にそっくりであった事から、米子城の別名には「湊山金城(あるいは湊山錦城)」との
雅号が附せられるようになったと言う。金城、錦城というのは大坂城の雅号だ。更に加えると、5重天守の創築にあたって
古天守を本丸隅部に移築し、その跡地に新天守を建てたと言う可能性も指摘されている。■■■■■■■■■■■■■
1602年(慶長7年)に米子城は完成し中村一忠が入城。なおも城下町整備が村詮によって進められ、米子の町は急速に
発展していく。駿府時代から軍事と内政に辣腕を振るった村詮は、米子でもその実力を発揮したと言われており、丸山の
別郭「内膳丸」と言うのは、彼の屋敷が与えられたという事に由来する。ところが村詮の才能を嫉んだ中村家家臣の安井
清一郎・天野宗杷(そうは)らは一忠に讒言。1603年(慶長8年)11月14日、一忠は村詮を米子城内で謀殺してしまった。
これに対して村詮の遺児・横田主馬助や横田家臣らが決起、米子城采女丸(内膳丸とも)を占拠し中村一忠に抵抗した。
中村家は軍勢を派遣して鎮圧しようとするものの、横田方には剣豪として知られた柳生五郎右衛門宗章(むねあき、柳生
石舟斎宗厳(むねよし)の4男)ら、それまで村詮が全国各地を渡り歩いて知己を得た戦国期の猛者たちが加わっており、
全く歯が立たない。中村家は隣国・出雲国松江城(島根県松江市)の堀尾家に応援を求め、その援軍を得てようやく反乱
軍を倒す事が出来たと言う。しかし、家康の肝煎であった執政家老を殺害したとあれば、幕府からの叱責は免れない。
村詮は町の整備に近隣住民を強制移住させるなどの強硬手段を採ったとも言われるが、彼の死に関与した安井・天野の
両名は家康から問答無用で切腹の沙汰が下されている。この騒動を横田騒動と言う。■■■■■■■■■■■■■■
中村一忠も1609年(慶長14年)5月11日、20歳で急死。中村家は無嗣断絶につき御家取り潰しとなったが、横田騒動で
家康の心象を悪くしたため救済されなかったのだろう。米子城の引き取りには古田大膳亮重治(ふるたしげはる)と一柳
四郎右衛門直盛(ひとつやなぎなおもり)が在番と記録されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

因州池田家の“支城”に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1610年(慶長15年)7月15日、美濃国黒野(岐阜県岐阜市)4万石を領していた加藤左衛門尉貞泰(さだやす)が2万石
加増された6万石で米子城主になる。しかし1617年(元和3年)伊予国大洲(愛媛県大洲市)へと再移封され、以後、ここ
米子城は鳥取藩池田家が預かる城となり申した。即ち、因州池田家は因幡国と伯耆国の2国を有する国持大名としての
家格を備え、伯耆国の持城として米子城が残される事になった訳だ(他の城は一国一城令で破却)。■■■■■■■■
時の鳥取城(鳥取県鳥取市)主は池田左近衛権少将光政、家老の池田出羽守由之(よしゆき)が城代として米子に駐在。
由之の所領3万2000石は彼の没後、嫡男の主計由成(よしなり)が相続したが、1632年(寛永9年)光政が備前国岡山城
(岡山県岡山市)へ移される事になるとそれに従い、米子から下津井(岡山県倉敷市)へと移って行く。池田左近衛少将
光仲(みつなか)が光政と入れ替わって鳥取藩主になると、米子城は家老・荒尾但馬守家が代々の城代を務めるように
なった。光仲の入封時、米子城を池田家の本拠にする選択も考えられたと言うが、結局は鳥取城が本城のまま用いられ
城代の荒尾家は1万5000石を領して米子治世を執り行う。こうした荒尾家による統治は藩主から一任され、米子独自の
「自分手政治」と呼ばれる独自の支配が行われており、戦国時代の“分国法”のような米子限定の法令なども発布されて
明治維新まで継続している。荒尾家の初代米子城代となったのは荒尾内匠介成利(なりとし)で、以後、荒尾家は11代に
渡り修理亮成直(なりなお)―但馬守成重(なりしげ)―但馬守成倫(なりとも)―大和守成昭(なりあき)―豊前守成昌
(なりまさ)―近江守成熙(なりひろ)―内匠介成尚(なりひさ)―内匠介成緒(なりつぐ)―但馬守成裕(なりひろ)―
近江守成富(なりとみ)と家督を継承。この荒尾家が統治する間、1665年(寛文5年)には水濠の埋没防止を目的として
内堀への柴積船入渠を禁止し、1667年(寛文7年)西北部外郭の修繕、1693年(元禄6年)落雷時の危険性を減らすべく
天守の傍にあった蔵で保管していた火薬類を内膳丸隅櫓へと移管する一方、1697年(元禄10年)に大風の影響で4重櫓
(古天守)が1尺5寸(およそ45cm)傾斜、1720年(享保5年)三ノ丸米蔵の半数を修理し、1796年(寛政8年)には外縁堀の
浚渫を行うなどの改修記録がある。そして1852年(嘉永5年)から翌1853年(嘉永6年)までの期間、古天守とその石垣を
大修理する。だが藩にその資金は無く、米子市中の大富豪・鹿島家に出資させて凌いだ。西伯耆随一の豪商と呼ばれた
鹿島家は、その功により古天守に揚げられていた鯱瓦が下賜されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃城後の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古天守改修から程なく明治維新を迎えて、1869年(明治2年)2月に成富は自分手政治の廃止を宣言する。同年5月には
朝廷から米子城返上の命令が下り、8月に米子藩庁へと引渡した。これで米子城は武家政権統治の役割を終えたため
廃城令で廃城、1872年(明治5年)城山は士族・小倉直人らに払い下げられ申した。更に1873年(明治6年)以後、城内の
諸建築は競売にかけられ破却されていく。天守は城下にある尾高町の古物商・山本新助が30円(37円とも)で買取ったと
伝わる。1880年(明治13年)頃までには全ての建築物が取り壊されたようでござれば、城地も士族が生活に困窮し転売を
目論み、結果として城山一帯は米子の実業家・坂口平兵衛の手に渡った。その平兵衛は城山下で乳業を営む原弘業の
相談を受け、1902年(明治35年)に本丸跡を整備して弘楽園という公園を開放。平兵衛の没後に坂口家を継いだ長男・
清太郎(2代目坂口平兵衛)は1933年(昭和8年)城山全域を米子市に寄贈、現在は湊山公園として利用されている。
1966年(昭和41年)10月、飯山に英霊塔が竣工。その工事中、城の瓦や瓦礫の破片が出土したと伝わる。米子城跡では
建物こそ失われたものの石垣や曲輪群などは良好に残存しており、これ以後は史跡保全の機運が高まっていく。1982年
(昭和57年)から石垣修理工事が、1988年(昭和63年)以降は発掘調査が継続して行われ、1991年(平成3年)舟入遺構を
確認し、2015年(平成27年)には八幡台郭に埋もれた石垣(中村期整備で埋められた吉川期石垣)を発見。冒頭に記した
通り、2017年には竪堀や登り石垣までもが検出され、米子城の城山にはまだまだ隠れた埋没遺構が残されている可能性
すらある訳だ。これに伴い1977年(昭和52年)4月1日に米子市指定史跡、2006年(平成18年)1月26日には国指定史跡に
なってござる。この間、2000年(平成12年)10月6日に起きた鳥取県西部地震によって甚大な被害を受けるも、翌2001年
(平成13年)には石垣の修復工事を行っている。そうして2008年(平成20年)8月に史跡米子城跡整備計画基本構想が、
次いで2017年3月には史跡米子城跡保存活用計画が策定され、米子城の整備発展を継続する方針が決められた。■■
更には同年4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選定されている。■■■■■■■■■■■■■
城内、二ノ丸跡地には武家屋敷小原家の長屋門が移築されている。この小原家長屋門はもともと三ノ丸(西町)にあった
ものが1953年(昭和28年)11月に米子市へ寄贈されて移設した。小原家は荒尾家の家臣で、重厚感のある長屋門は米子
城下町にあった武家屋敷建築で唯一現存するもの。移築当初は米子市立山陰歴史館として公開されていたが、1984年
(昭和59年)12月に市役所庁舎新築に伴って旧庁舎を新たな歴史館建物とした為、現在は展示保存物とされ米子市指定
有形文化財になっている。この長屋門は桁行20.38m×梁間4.03m、木造平屋建て瓦葺入母屋造り。向かって左側に2室、
右側に1室、さらに屋根裏の中2階がある。城としての建造物ではないが、この位置に移築されるとまるで城の多聞櫓が
建っているかのような雰囲気を漂わせる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、城の構造物で残存するのが鯱瓦。鹿島家に下賜された物を含めて、5基が現存している。鹿島家に伝わる2基は
1852年の修理が行われるまで古天守に載っていた物。他の2基は修理後の古天守に載せられた物だが、破却の後に
初代の米子市立義方(ぎほう)小学校長・伊吹市太郎(いぶきいちたろう)が学校に譲り受け、保管していたと云う。残る
1基は古天守修復時の試作品とされ「嘉永五年壬子月日 十代目松原仁左衛門作之」と刻まれている。この鯱は現在、
山陰歴史館にて展示保存。5基の鯱はいずれも市指定有形文化財でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
鯱瓦5基《市指定有形文化財》




由良台場  松江城