伯耆国 由良台場

由良台場跡

 所在地:鳥取県東伯郡北栄町由良宿
 (旧 鳥取県東伯郡大栄町由良宿)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★



由良川河口の砲台場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧大栄町、現在は市町村合併で北栄町となった町域の由良宿にあった幕末台場跡。旧大栄町は由良川流路に
沿って形作られていた敷地であるが、その由良川が日本海へ流れ込む河口の東側に位置している。所在地に
「由良宿」とある通り、ここは山陰道(伯耆往来)の宿場町である上、日本海と由良川を利用した水運物流の要と
なる場所。そして宿場と台場の歴史は由良川と密接な関係がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
北栄町域には数々の古墳があり、古代から地方首長が統治した痕跡を残し、室町時代には“六分の一衆”とまで
呼ばれた大大名・山名氏の領国であった。当然、戦国時代になると毛利氏がこれを奪い、畿内から勢力を伸ばす
織田信長の先鋒・羽柴秀吉軍に対する陣城が近隣の茶臼山(北栄町内)に築かれていた。1580年(天正8年)頃に
吉川元春(毛利元就2男)が構築したと伝わり、それを羽柴方の部将・亀井新十郎茲矩(これのり)が秀吉に報じた
遣り取りの書状が残されている。鳥取と言えば鳥取砂丘が有名だが、砂丘のみならず県内の海岸部はいずれも
砂浜海岸地形である上、往時は海岸線が現在よりも内陸側に入り込んでおり、貴重な平野部を有する北栄町の
周辺は山名氏・毛利氏そして江戸時代に入ってから統治者となった池田氏にとって有益な場所だったのでござる。
このような中、由良川の河口部は海抜が極めて低く水が逆流したり砂丘堆積物により流路が塞がれる被害を出し
続けていたが、戦国期〜江戸時代初期に河川改修が行われ水運が劇的に発達。江戸中期までは、この地方の
年貢米は逢束(おうつか、鳥取県東伯郡琴浦町)の藩倉に納入されていたのだが、1719年(享保4年)に鳥取藩は
由良宿に藩の倉庫と船着場を設置、年貢米の番所を構え東伯耆の要地になっていく。由良川は上流部に倉吉の
町を有し、日本海から西廻り航路で大坂方面へと流す物流の集積地となったのだ。由良藩倉は因幡・伯耆両国
(合わせて現在の鳥取県)内において鳥取・米子・橋津(はしづ、鳥取県東伯郡湯梨浜町)に次ぐ4番目の規模を
誇ったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末、日本沿岸に数々の異国船が出現するようになると、国防に必要な大砲の製造やそれを備え付ける台場が
構築されるようになる。鳥取藩では1857年(安政4年)六尾村(むつお、北栄町内)に反射炉を築造、大砲の生産を
開始した。と言っても、江戸時代末期は諸藩が財政困窮になっている時代。鳥取藩もその建造費は捻出できず
資金は瀬戸村(現在の北栄町瀬戸、六尾の隣村)の大庄屋・武信佐五右衛門(たけのぶさごえもん)が出資した。
「自邸から大山(だいせん、中国地方最高峰で山岳信仰の聖地でもある)まで他人の土地は踏まずに行けた」と
云われる程の豪庄であった武信家は、分家の養子・潤太郎を長崎に遊学させており、異国の脅威を良く承知して
いたそうだ。反射炉の技術的協力はその武信潤太郎が担当。潤太郎は美作国湯原(岡山県真庭市)の出身で、
武信家に養子入りし、砲術の大家・高島秋帆(たかしましゅうはん)に西洋砲術を学んだ人物だ。反射炉着工の
前年、1856年(安政3年)の11月に彼は鳥取藩の反射炉御用掛を命じられている■■■■■■■■■■■■■
その翌年である1858年(安政5年)暮れ、鳥取藩では藩士の砲術家・武宮丹治が御台場築立掛に任命される。
領内に台場を築いて海防を進めようとし始めたのだが、武宮は直ぐに妙案が出なかったらしく1863年(文久3年)
瀬戸村の武信家を訪ね、知恵を求めた。そこで潤太郎が建議し、由良河口にフランス式の台場を6月に着工。
これまた藩は資金がなく武信家をはじめとする近隣在郷の富豪から献金を求め、労働力も由良藩倉21ヶ郷から
延べ7万5000人を超す16歳〜50歳の農民を男女問わず徴用動員した。■■■■■■■■■■■■■■■■■

美麗な形状を保つ台場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
台場の形状は6角形、と言うか8角形を半分に切ったような形でござる。南側は長い一直線の辺を有し、その距離
125.5m。中央部に蔀土塁を備えた虎口を開き、ここが唯一の出入口となっている。北側(海側)は角を斜めに切り
落とした形状で、西辺60.3m・西北面40.5m・北辺59m・東北面46.1m・東辺53.6mとなっている。1979年(昭和54年)
8月に作成された実測図に拠れば、この切り落とし角(西北西・北北西・北北東・東北東)4箇所に其々砲座が開く。
台場面積は1万1913u、外周延長およそ400m、125m×83mの敷地を有し、形状はオールドゲーム「XEVIOUS」の
巨大要塞「アンドアジェネシス」を半分に割ったような姿(例えが古い上に分かり難いwww)である。外周は全面
分厚い土塁で囲まれており(写真)特に北側3面(北西〜北〜北東)は高く厚い構造。土塁基礎は東隣の畑の砂を
積み上げて造り、土を鍛冶山(鳥取県自動車運転免許試験場跡地)と清水山(大栄中学校グラウンド北隅)から、
芝は干目野(鳥取県園芸試験場)から運んだと言われる。積み上げた砂の上に粘土を葺き、その上に芝を植えた
構造で、石垣は用いられていない。これは砲術に通じた潤太郎が、石を用いては被弾時に石つぶてを飛散させ
人的被害を増大させる事を知っており、砂や粘土をクッションにして敵弾を吸収する意図で使用したのでござる。
台場には六尾反射炉で鋳造された砲4門(鉄造の60斤砲・24斤砲・15斤砲・5寸径砲が各1門)運び込まれたが
(この他、7門説や8門説もあり史料により異なる)六尾反射炉も由良台場も由良川に面した場所にあり、川を下り
大砲が輸送された訳である。なお、六尾反射炉では50門を越える大砲が作られており、鳥取藩だけでなく萩藩や
浜田藩・岡山藩などにも納入されていた。また、大坂湾にある天保山台場(大阪府大阪市港区)鳥取藩守備隊は
六尾反射炉製の大砲を実際に砲撃したと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
由良台場の砲座は1863年の8月(僅か2ヶ月)に完成したとする説もあるが、台場全体は翌1864年(元治元年)2月
竣工。その守備は武信佐五衛門に任せられ、近郷農民を駐留兵に使った。藩財政の疲弊は正規の武士を台場の
守備に回せぬほど悪化していた訳でござる。結局、構築から5年後に明治維新を迎え、台場は実用に供せられる
事なく廃止。配備されていた大砲は廃棄改鋳され、台場跡地は陸軍省の接収を経た後に1925年(大正14年)8月、
由良町(当時)に払い下げられ申した。しかし敷地の保存状態は極めて良好で、1988年(昭和63年)7月27日に
国の史跡に指定された。1863年当時、鳥取藩主・池田因幡守慶徳(よしのり)は由良を含め8箇所の台場築造を
命じていたが(因幡では浦富・浜坂・賀露の3箇所、伯耆では境・淀江・赤碕・橋津の4箇所と由良)、このうち
現存する4箇所(由良・境・淀江・橋津)が纏めて「鳥取藩台場跡」として国の史跡に指定されている。浦富台場が
1998年(平成10年)12月8日に、2016年(平成28年)3月1日に赤崎台場が追加指定されたが、由良台場は最も
遺構の残存状態が良好で、全体が完存している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1991年(平成3年)台場跡の東隣に「お台場公園」が開園。公園の総面積は9.7haで運動場などの多目的広場や
子供公園、キャンプ場などがあり、更に1993年(平成5年)4月22日には道の駅大栄も開駅。この場所は東西に
国道9号線が走っており、交通の便は非常に良い。よって、自動車での来訪は極めて簡単でござる。もっとも、
お台場公園が広すぎる上に大砲のレプリカを置いた広場が本物の台場跡と混同しやすく、見学しようとすると
大変紛らわしい(笑)本物の台場跡は道の駅や公園の更に西側(由良川に隣接する位置)なので御注意を。■■
なお余談だが、六尾反射炉の建材が一部転用され北栄町弓原にある浜本家住宅の柱や梁になっているとの事。
反射炉自体や台場建築物は現存しないので、これだけが幕末海防の名残として語り継がれているものである。



現存する遺構

土塁・郭
台場敷地内は国指定史跡




鳥取城  富長城・淀江台場・米子城