紀伊国 新宮城

新宮城跡 主郭石垣

 所在地:和歌山県新宮市丹鶴・池田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



熊野は霊験の地、そして水運の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で沖見城。丹鶴(たんかく)城とも。和歌山県の最東端に当たる新宮市内、紀伊半島を縦貫する大河・熊野川の河口部に面し
市街地の中に屹立する標高47.2mの小丘陵・丹鶴山に築かれた平山城。城山直下には城内に取り込まれる形で川湊が設けられ
(詳細下記)川から海へと繋がる物流の大動脈を管制する城郭となっており、その航路を見晴らす城はまさに「沖見」の城であろう。
この地は古来から鶴の飛来地と言われ、それが由来で田鶴原(たづはら)と呼ばれていた。そして言うまでもなく、ここは熊野速玉
(くまのはやたま)大社の霊験灼かな土地。熊野の神社を統括する熊野別当は当地の有力者であり、平安時代には京都の公家や
皇族が度々熊野詣出を行った事で、熊野別当と中央政権との結び付きは強まっていく。平安時代末期、熊野を訪れた河内源氏の
棟梁・源為義(みなもとのためよし)は、熊野別当の娘に子を産ませた。こうして誕生した女児が長じ丹鶴姫と呼ばれ、その住居が
この山にあったと云う伝承から丹鶴山の名が付いたとされている。因みに、丹鶴姫の同母弟(為義の10男)が十郎蔵人こと源行家
(ゆきいえ)、平氏打倒の令旨を全国に広め、源平合戦の契機を作った人物だ。源頼朝・義経兄弟の叔父である。当然、丹鶴姫は
頼朝らの叔母と言う事になる訳で、丹鶴城の名は源氏由来の由緒ある城名なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■
丹鶴姫の時代から400年以上を経て、時代は戦国末期。関ヶ原合戦の後、紀伊に所領を与えられた浅野紀伊守幸長(よしなが)は
紀伊東部の要衝・新宮の地を押さえるべく、分家の浅野右近大夫忠吉(ただよし)を2万8000石で封じた。1601年(慶長6年)忠吉は
丹鶴山に築城を開始する。当時、丹鶴山には丹鶴姫が建立したと伝わる真言宗丹鶴山東仙寺をはじめとし、香林寺(神宮寺とも。
現在は曹洞宗東陽山宗応寺)などの寺社が建ち並んでいたのだが、忠吉はこうした寺社を移転させ城地を造成していき翌1602年
(慶長7年)完成した。これが新宮城の原初である。ところが大坂の陣を終え天下泰平の時が訪れると、徳川幕府は一国一城令を
発し、各地の大名は居城以外の城を廃さざるを得なくなった。この為、浅野家も本城である和歌山城(和歌山県和歌山市)以外の
城は破却する事となり、1615年(元和元年)新宮城も一旦は廃城となったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

和歌山藩の支城として存続■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど浅野家は幕府から支城の構築を勝ち取り、1618年(元和4年)新宮城の再興が許された。これが1619年(元和5年)に完成。
しかし、完成を目前とした同年7月に浅野家は安芸国広島(広島県広島市)42万石への加増転封を申し付けられる。忠吉も備後国
三原(広島県三原市)3万石へと居を移した。浅野家に代わって紀伊を治める事になったのは徳川左近衛権中将頼宣(よりのぶ)、
徳川家康の10男である。この頼宣から始まるのが紀州徳川家、将軍輩出の家格を有する徳川御三家の1つだ。西国監視の大任を
帯びた紀州徳川家を補佐すべく、頼宣には将軍家から附家老が与えられており、それを担った水野対馬守重央(しげなか)が3万
5000石を以って新宮城を預かる事となった。以後、江戸時代を通じて新宮城主は水野家(重央系)が歴任するようになる。■■■■
浅野忠吉による新宮城再興工事は重央の手で完了したが、水野家2代・淡路守重良(しげよし)は城の南(伊佐田町〜丹鶴付近)に
池(濠)を掘削し、外郭部の強化を行った。なお、重央は1621年(元和7年)11月12日に没したが、長男の重良は他の水野家各派が
それぞれ独立大名となっているのに対し(水野家は徳川家康の母方縁者であり、譜代家臣の中でも名家であった)、重央系だけが
附家老(つまり陪臣)となっている事に不満を持ち、家督相続を拒否しようとし、実に2年近くを経て1623年(元和9年)6月に3代将軍
家光と大御所・秀忠の説得を受けてようやく家督を継いだという経緯がある。この堀の掘削は1633年(寛永10年)に完成しているが
水野家3代・土佐守重上(しげたか)も城内の改造を行うなど、逐次改修が続けられていたようだ。重上以後、淡路守重期(しげとき)
大炊頭忠昭(ただあき)―筑後守忠興(ただおき)―土佐守忠実(ただざね)―対馬守忠啓(ただあき)―土佐守忠央(ただなか)と
代を重ねるが、この間、新宮城は1664年(寛文4年)6月12日の夜に地震で松ノ丸が崩落、「亥の大変(いのたいへん)」と呼ばれる
1707年(宝永4年)10月4日の宝永地震でも被害を受ける等の災難が続いた。その為、1709年(宝永6年)に重期が大がかりな補修
工事を行っている。だが、その後も1808年(文化5年)に暴風雨被災が起き、1854年(安政元年)11月5日にも大地震で崩れるなど、
南海ならではの災厄が続いた。また、1676年(延宝4年)2月17日には火災被害も受けてござる。■■■■■■■■■■■■■■

一瞬だけの独立大名■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後の城主となったのは水野大炊頭忠幹(ただもと)、1860年(万延元年)6月14に家督相続。父の忠央は幕府大老・井伊掃部頭
直弼(なおすけ)に同調し、専制的な統治を行い紀州徳川家中を牛耳った。紀州藩主・徳川左近衛権中将慶福(よしとみ)が14代
将軍・家茂となったのは、直弼と忠央が暗躍しての政治工作である。しかし直弼が桜田門外の変で暗殺されると逆風が吹き荒れ、
忠央は失脚、新宮城に押込めとなり忠幹へと代替わりしたのだった。誠実な人柄だった忠幹は父の強権政治を改め、紀州藩内の
人望を得るに至るが、一方で武勇にも秀でており、1866年(慶応2年)の第2次長州征伐において各地で幕府軍が大敗を喫する中、
忠幹軍だけは長州藩領内への進撃に成功。また、幕府勢が撤退する際にも殿軍を担って、忠幹軍の強さに恐れをなした長州軍は
それ以上の追撃が出来なかったとか。「鬼水野」と称賛された忠幹は戊辰戦争時の紀州藩と新政府の交渉も纏め上げ、紀州藩が
朝敵とされる事を回避したのみならず、水野家が長年の悲願としてきた独立立藩をも成し遂げて、1868年(慶応4年)1月24日から
新宮藩は紀州藩の属領から正式な大名として新政府に公認される事となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)6月20日に新宮藩は版籍奉還を行い、水野忠幹は新宮知藩事に。この時、城下の下屋敷が藩庁となっており、
1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県からは新宮県庁とされた。されど同年11月22日、新宮県は和歌山県に統一された事で用を
為さなくなり、城は1875年(明治8年)までに破却処分を受けてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小山を用いた堅固な縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丹鶴山の山頂部は馬蹄型の敷地となっており、北東隅側が最も高い。この部分を本丸とし、馬蹄の口が開いた対岸側(北西隅)は
松ノ丸、両者の間を繋ぐ部分が鐘ノ丸と呼ばれている。本丸の南端部には3重5階の天守があったと言うものの、現存しない。また
本丸の北側、1段下がった突出部には出丸が構えられ、ここがまさに「沖見」の場所であった。ここまでが山上部の縄張り。松ノ丸の
西面から山を下った麓にあったのが二ノ丸。浅野氏時代は三ノ丸とされていたそうだが、水野氏の治世下で二ノ丸(上屋敷)となり
城主の居館になっていた。その敷地は東西32間(約58m)×南北28間(約50m)の長方形。ここまでの敷地は大半が石垣で固められ
しかも慶長後期〜元和期の築城だけあって精緻な切込接ぎで整えられている。実に見事な城郭と言えよう。二ノ丸の南側、現在は
NTT新宮ビルが建っている場所は下屋敷跡。新宮県庁となっていた所である。このように二ノ丸以遠、山を囲むように侍屋敷地が
広がり、これが外郭部を構成しており、先述の伊佐田池(と称する濠)が前衛となっていた訳だ。古地図を見ると、この池は屋敷地
(つまり城の外郭全域)の南側を塞ぐように築かれた大池。城の模式として、丸馬出の前に構えられた堀を三日月堀と呼称するが
この伊佐田池はそれを町全体の縮尺に拡大したかのような規模・構造となっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、馬蹄の内側山麓にあったのが水ノ手郭である。主郭部の山に囲まれつつ、熊野川に面する位置にあったこの郭は、川湊が
置かれ、城に内包する形で水運を掌握する機能を果たしていた。洪水対策として川面からは6m程の高さを有する石垣が築かれ、
曲輪の内部は比較的広く、また厳重な構えとなっていたのである。発掘調査の結果、水ノ手郭の内部からは大量の炭粉が出土。
また、密集する礎石建物の痕も確認されている。水野家は特産品である紀州備長炭の専売で収益を上げており、水ノ手郭は産出
された備長炭を集積し、湊から江戸や大坂などの販売先へ出荷する為の曲輪だったと考えられている。戦国期の城内港と言うと
水軍を収容する“軍港”だったのが定石だが、泰平の時代になってからの近世城郭たる新宮城では、交易のための“商業港”として
城内の港を必要としていたのだろう。水ノ手郭の内部にあった炭小屋は、炭俵にして1万俵分の収容力を擁していたとされている。
水野家、なかなかのやり手である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

昭和の荒廃から続百名城へ!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな“実利に富んだ”新宮城であったが、廃城後は荒廃の一途を辿る。1891年(明治24年)二ノ丸跡が天理教の教団敷地となり
1920年(大正9年)には伊佐田池が埋め立てられた。1952年(昭和27年)台風で天守台が崩壊。1952年(昭和27年)鐘ノ丸跡に宿泊
施設が開業したため、山麓からそこへ至る区間に鋼索鉄道(ケーブルカー)が1954年(昭和29年)8月1日に開通する。この路線は
「新宮観光リフトカー」と呼ばれ、営業距離わずか72mという日本で最も短い鉄道路線であった。しかも鋼索鉄道なのに単線、保有
車両は1両のみと言う、様々な意味で特殊なものである。通常、鋼索鉄道は2両の車両が上下を行き来する釣瓶式の運行形態と
なるが、この新宮観光リフトカーは1両の車両を上げ下げする、その名の通り“リフト式”と呼ばれる独特なものだったそうな。■■
斯くして史跡としての意義が失われていく中で、1979年(昭和54年)10月に新宮市が城跡の保全に着手し敷地の買い取りを開始。
翌1980年(昭和55年)都市公園としての計画が決定、第1次発掘調査が始まるのだが、この年には鐘ノ丸の宿泊施設も廃業となり
その敷地も収公。第1次発掘調査は、本丸とその腰曲輪を中心に行われた。鉄道の運行も同年11月の美智子皇太子妃(当時)の
新宮訪問を最後に運休され、1981年(昭和56年)10月から正式な休止路線に。そのまま1994年(平成6年)1月25日廃止となった。
宿泊施設の撤去に伴い、1982年(昭和57年)鐘ノ丸で第2次発掘調査も行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、各所で調査や整備が進められ往時の雰囲気を取り戻していき、川沿いに計画されていた防災道路計画も水ノ手郭の発掘
結果から白紙に戻され、遺構保存が決定。1988年(平成元年)新宮市の史跡に指定されていたが、2003年(平成15年)8月27日に
新宮城は水野家墓所と共に国史跡と指定される。更に2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の
1つに選出され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丹鶴山は小ぶりな山であり、また山以外の敷地は殆んどが市街地化された為、城址としての区域は然程大きくない。だがその分
山中に残る遺構は実に“濃密”であり、兎にも角にも精緻な石垣が見事としか言いようが無い城跡。「続百にハズレ無し」が昨今の
城界のトレンド(?)だが、この新宮城も色々と見回していくといつの間にか時間が過ぎて行く名城なのである。紀伊半島の最南端
地域に位置するので遠征するのがなかなか大変な場所だが、機会があれば是非見学して頂きたい城でござろう。■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








紀伊国 新宮周防守屋敷

新宮周防守屋敷跡 日蓮宗恵雲山本広寺

 所在地:和歌山県新宮市新宮

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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新宮自治を執り行った豪族の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新宮城は江戸時代に入ってからの城郭だが、それ以前の中世でこの地に根を張った豪族・新宮周防守行栄(ゆきひで)の館跡。
先に記した源行家は新宮十郎を称し、新宮氏の祖になったと言う。行家は源頼朝との権力争いの中で謀殺されたが、その子孫が
新宮氏として当地に土着したそうだ。戦国動乱の時期となり、宗教勢力が権威を低下させるに伴い熊野別当は支配権を薄めた為
新宮周辺では七上綱(しちじょうこう)と呼ばれた七人衆(国人七家)が合議制で統治を行っていく。この熊野七上綱は、宮崎・簑島
矢倉(鵜殿)・滝本・中曽(中脇)・芝・楠の7家で、その中の楠が新宮家(又は新家)だったとか。応仁の乱以降、例えば山城国では
一揆衆による合議制での統治が行われたり、加賀国では守護大名を追放して“農民の持てる国”となった訳で、紀伊国でも同様に
西紀州では雑賀(さいか)・根来(ねごろ)と言った地侍集団による自治が起き、新宮でもこのような熊野七上綱の合議統治が成立
した訳だ。新宮氏は行栄の代、1571年(元亀2年)頃に従前の下熊野(現在の新宮市熊野地?)からここに館を移し威勢を誇ったが
豊臣秀吉が天下統一を行うに至り、豊臣政権から新宮の統治を任じられた堀内安房守氏善(うじよし)によって1591年(天正19年)
滅ぼされている。この時、新宮行栄は氏善の攻略に対し七上綱の中で最後まで抵抗したが討たれたそうでござる。■■■■■■
1596年(慶長元年)館跡に法華寺が開山された。これが水野氏入封以後の1678年(延宝6年)、水野重上により水野家の菩提寺と
され、その時に父・水野重良の法号「本廣院」と母の法号「恵雲院」から日蓮宗恵雲山(えうんざん)本広寺(ほんこうじ)と改称され
現在に至っている。その為、現状では寺の境内となっており、館としての遺構は殆んど見受けられない。ただ、館の来歴を残すべく
1964年(昭和39年)6月8日、「新宮周防守屋敷跡」として市の史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寺の参拝者用に駐車場はある。だが、この界隈は細い路地が入り組んでいてそこを走らねばならないので来訪時には御注意を。



現存する遺構

郭群
館域内は市指定史跡








紀伊国 堀内氏屋敷

堀内氏屋敷跡 曹洞宗全龍寺

 所在地:和歌山県新宮市千穂

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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某戦国SLGにも登場する地方豪族■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらは堀内氏の館跡。別名で堀内新宮城とも。新宮市内にあった平城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堀内氏は熊野別当の後裔とも、或いは新宮十郎の末裔を称したともされるが、初めは佐野(新宮市南部)に居住し、戦国時代に
現在の新宮市街地に相当する地へ進出したと考えられている。この屋敷の創建年代は不明とされるが、一説には上記の氏善が
天正年間(1573年〜1592年)初期(1573年(天正元年)か?)に築いたとも。堀内氏屋敷は周囲5町、四方を水堀で囲んだと言い
その構えから「堀の内殿」と呼ばれ、転じて堀内氏を称したとの説がある。ならばこの館が堀内氏の姓を定めたとなろう。真偽は
兎も角、館の主郭部から東にも屋敷を広げ、更に出城となる砦も構えたとか。現在は館跡ほぼ全域が市街地化されてしまったが
跡地の西側には方形の縄張りを踏襲する水路(堀跡)が部分的に残されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
海に面した新宮港を掌握する佐野を本拠としていた堀内氏は、熊野水軍を統括し勢力を広げた。父・安房守氏虎の代から氏善の
時代にかけては近隣豪族の尾呂志氏や鵜殿氏を懐柔し、有馬氏は事実上乗っ取った上で廃絶させており、新宮地域での地盤を
着々と固めた。一方で氏善は織田信長に接近、信長から熊野社領を安堵され、更に本能寺の変直後より豊臣秀吉に従属し中央
政権の後援も確保する。当時、紀伊は雑賀・根来一揆等で織田・豊臣政権と対決姿勢にある中、堀内氏が臣従の態度を見せた
事はさぞかし高く評価された事であろう。氏善は熊野社領の他に秀吉から7000石を加増されている。更には、氏善は志摩国へも
侵攻の手を進め、これにより領土を「確保」のみならず「併合」しており、その為それまで志摩国であった英虞(あご)郡の一部が
紀伊国へと取り込まれた。堀内氏善は国境をも変更してしまったのである。この後、熊野水軍を擁する氏善は豊臣政権の軍事
行動に積極的な働きを成し、小田原征伐や朝鮮出兵などで軍功を挙げた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした歴史の中で、秀吉の全国統一が成った後の1591年に氏善は熊野惣地(熊野の統治者)を認められた。当時、堀内氏の
石高は公称2万7000石、実高で6万石もあったとか。それにより熊野七上綱は解体され、新宮氏は滅ぼされたのである。この後、
氏善の嫡男(6男、或いは弟とも)の堀内氏弘が新宮氏の家督を継承し新宮若狭守行朝(ゆきとも)を名乗った。■■■■■■■

豊臣家に靡く事が徒となり、幕藩体制で没落した者たち■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど1600年(慶長5年)豊臣政権の行く末を左右する天下の大戦・関ヶ原合戦が勃発すると堀内氏の運命は暗転する。氏善は
海賊大名として名高い九鬼大隅守嘉隆(くきよしたか)の養女を妻に娶っており、嘉隆が西軍主力として参戦した事で、なし崩し
的に氏善も西軍へと加担させられた。堀内家は350の兵を率いて伊勢国へと出陣するが、9月15日の関ヶ原本戦で西軍は大敗。
そのため慌てて領国へと逃げ帰ったのだが、帰着する事には軍勢が半分にまで減っていたそうだ。そして東軍方の和歌山城主・
(当時)桑山修理大夫一晴(くわやまかずはる)が徳川家康の内意を受けて10月に堀内新宮城つまりこの館を攻略。熊野の豪族と
しては大掛かりな平城であったが、所詮は館城に過ぎず満足な防備もままならず落城する。行き場を失った氏善は逃亡し、この
戦いで館は廃された。なお、逐電していた氏善は後に徳川家康から許され(西軍参加に積極的では無かった為)、後年に肥後国
熊本城(熊本県熊本市)主・加藤主計頭清正に2000石で召し抱えられたと言う。一方で、新宮行朝は新たな和歌山城主となった
浅野幸長に500石で仕えるようになったが、それでは満足しなかったのか出奔し大坂の陣に於いて豊臣方へ加勢した。関ヶ原の
戦後処理で没収された所領を回復しようと考えたのだろう。さりとて周知の如く、豊臣氏は滅亡。この際、行朝と共に豊臣秀頼の
近習となっていた弟の堀内主水氏久(うじひさ)が、秀頼の妻・千姫(徳川家康の孫娘)の脱出を助けた為、その功を以って行朝・
氏久兄弟は助命されている。ギリギリの綱渡りを生き延びた行朝と言う人物、負け組だったのか、はたまた勝ち組と言えるのか?
ともあれ、その後の新宮は冒頭に記した新宮城による統治が行われていくのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、堀内氏屋敷の中心部跡は曹洞宗全龍寺の境内となり、門前に小さな案内板と石碑が置かれている。遺構は先述の通りで
水路となった堀割が部分的に残存。新宮周防守屋敷と同様、1964年6月8日に新宮市史跡と指定され申した。■■■■■■■■



現存する遺構

堀・郭群等
館域内は市指定史跡




雑賀城・太田城  鳥取城