鉄砲兵団・鈴木氏の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道42号線「和歌浦」交差点の北西側、現在は津屋公園となっている妙見山なる小山一帯が城跡。故に別名は妙見山城。
妙見山は日蓮宗妹背山養珠寺の南側にあり、山頂には妙見堂が建っているが、この堂は養珠寺の堂宇である。ちなみに
養珠寺は1654年(承応3年)紀伊藩主・徳川左近衛権中将頼宣(よりのぶ)が生母である於万の方(養珠院)の霊牌所として
建立。妙見堂が建てられたのは1659年(万治2年)の事だとか。この地点(写真)の標高は海抜21mで、その高さはそのまま
海に面した丘城である雑賀城の比高差を意味する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
和歌山と言えば頼宣を始祖とする徳川御三家・紀伊徳川家が印象深いが、それを遡って戦国時代の話となれば鉄砲集団と
して名を馳せた雑賀(さいか)衆の割拠地であった事が有名だ。雑賀衆の首魁・鈴木一族は当主が代々「孫一」を名乗って、
“雑賀孫一(孫市とも)”の称号は虚実入り混じった様々な伝説に彩られている。鈴木氏の他、土橋(つちばし)氏・島村氏・
栗村氏・松江氏・宮本氏らが団結し、雑賀地方は自主独立を保って将軍や大名と言った武家勢力の支配を拒む惣国体制
(地域住民の合議によって所領の運営を図った国)を作り上げていた。その一方、雑賀衆の大多数は一向宗門徒である為
(注:必ずしも全てが一向宗だった訳ではない)戦国後期には本願寺の総本山・石山本願寺(大阪府大阪市中央区)からの
指示に従って織田信長と抗戦。元々、雑賀衆は紀伊水道の海上交易で生計を立て、戦のある所に傭兵として赴いて西へ
東へ縦横無尽に出没していた勢力であり、石山御坊の出陣要請に応じて軍を動かすのは造作もない事でござった。■■
雑賀城は鈴木佐大夫こと鈴木重意(しげおき、しげもととも)が築城したと言われるが、構築年代は不明。妙見山の周囲は
今でこそ宅地化が進んでいるが、当時山裾まで海が入り組み、更に紀ノ川(和歌山市を河口とする紀州の大河)は流路を
いくつかに分岐させていた為(妙見山の東側に流れる和歌川はその名残)この一帯は大軍が展開するのに難しい地形と
なっていた。雑賀地域は、いわば孤島が群立するような状態になっており、比高21mの低山でも十分に要害を成していた。
南は海、東は侍屋敷を構えた狭小な平地の先に川、北は別の山々が隣接した事で必然的に陸続きとなるのは西側だけと
なり、ここに城下町が形成されて雑賀城の繁栄を築いていたと考えられている。元々、和歌山周辺は砂地を地盤としており
和歌川河口にも長大な砂州が伸びている程で、一帯は農耕に向かない。ゆえに雑賀衆は外に出て交易を図る事を生業と
していた為、山に守られた入江付近に商業城下町を築くと言う姿は当然の結果となろう。鈴木佐大夫は海洋貿易で莫大な
財を成し、それが“鉄砲傭兵”としての軍資金になっていた訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
石山合戦に連動した攻城戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、中世とくに戦国時代後期に宗教勢力として大きな影響力を維持した本願寺勢力は、折々の政権権力者と対立を
繰り返した結果、石山御坊に本拠を置くようになっていた。その石山御坊も、畿内に進出した織田信長と対立して1570年
(元亀元年)から戦争状態に突入する。時の本願寺法主・顕如(けんにょ)は各地の一向門徒に檄を飛ばし全国で織田軍に
対する門徒の蜂起が発生、雑賀衆もこの流れに与する事になる。以降、信長と本願寺の戦いは10年に及ぶ大乱となって
強権な織田政権をしても本願寺を屈服させるのは難しかった。石山本願寺が険要な堅城であった事、毛利氏など本願寺の
支援者があった事、本願寺が他の大名等と連携して所謂「信長包囲網」を敷いた事など、長期戦を戦い抜く要因は様々に
あったのだが、精強な鉄砲傭兵団である雑賀衆の参戦、石山の後背地たる紀州雑賀を強固に守った事も織田軍の不利を
招いた。業を煮やした信長は、1577年(天正5年)2月に本願寺への兵員・物資の補給拠点となっていた雑賀攻略を発動し
総勢6万もの大軍を山側と海側の両方から攻めさせて、雑賀郷を挟み撃ちにする。これに対して守る雑賀衆は2000程度。
多勢に無勢、織田軍が圧倒的に有利と見られた戦いであったが、雑賀城を本拠とした雑賀衆は地の利を活かして敵軍の
渡河点に予め罠を仕掛け集中攻撃、更には神出鬼没のゲリラ戦を展開するなどして織田軍を翻弄し、遂に膠着状態へと
持ち込んだ。また、雑賀城の周囲には多数の砦(支城群)を築いて容易に攻城軍が近づけないようにしている。■■■■
結局、3月中旬に信長は雑賀衆と和議を結んだ。雑賀側としても、大軍に攻められればいずれ陥落するのは明白である為
和議で織田軍が撤退するなら御の字として、鈴木佐大夫・土橋守重・粟村三郎大夫ら7人が連署して誓紙を差し出し、この
戦いは手打ちとなり申した。雑賀城は見事に織田軍を撃退した訳だが、この半年ほど後に織田軍は再び雑賀へ侵攻。同年
7月から8月にかけて7万もの織田勢が雑賀を攻めたが、その戦いも雑賀衆が縦横無尽にゲリラ戦を行って敵を攪乱。再度
織田軍は撤退するに至る。最終的に信長は雑賀の力攻めを諦めたが、雑賀衆もこれ以上敵対行動を採らず、痛み分けに
終わったようだ。その後の雑賀衆は中央政権(信長の後を継いだ豊臣政権)に味方する者あり、或いは敵対して滅亡する
者あり、時代の闇に消えてゆく(そう、まさに日本史の暗部に関わる成り行きなので、これ以上は割愛)。鈴木重意は中央
政権に臣従したものの危険視され謀殺されたと言うが、彼の後継者である鈴木重秀はそのまま豊臣家臣となったらしい。
いずれにせよ、鈴木一族がこれ以上の軍事的行動を止めた事によって雑賀城も廃絶したようでござる。■■■■■■■
冒頭に記したように、現状の城跡は津屋公園の敷地となっていて「公園の小山を散策する」と言った感じで見て回る事に
なる。山そのものは殆ど手付かずの雰囲気ではあるが、曲輪や土塁・堀といった城郭遺構は全然見受けられず、ここが
本当に織田軍と争った実戦城郭だったのかは想像できない長閑さである。一応、妙見堂(城山の南端部に相当する)から
北に僅かながらの平場が延びており、そこは城の曲輪に由来して「千畳敷」と呼ばれている。■■■■■■■■■■■■
なお、この城から西へ2.8km程の地点(現在は雑賀崎灯台が建つ場所)には「雑賀崎城」という名前の城があったようだが、
「雑賀城」とは別のものなので、混同せぬよう注意が必要。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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