紀伊国 雑賀崎台場

雑賀崎台場 砲座石垣

 所在地:和歌山県和歌山市雑賀崎字長尾西原

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
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異国船に備えた台場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
カゴバ台場とも。と言うか、むしろその名前の方が一般的に知られているのかも?幕末、紀伊沖にロシア艦が
来航した際、その動向や紀州藩の対応を記した1857年(安政3年)の文書「異船記」に、この場所を「カゴバ」と
記録してある事がその名の由来である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2010年(平成22年)4月20日、和歌山県史跡に指定。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
和歌山南港の南側、雑賀崎(さいかざき)地区にあった江戸期の砲台場跡。雑賀、とあるように戦国時代には
紀州の鉄砲傭兵集団として知られる雑賀党の本拠地だった場所で、リアス式海岸の入り組んだ地形を巧みに
活用し、紀伊水道を睨む海上交通の要衝である。それはそのまま江戸時代になると、遠洋から日本近海へと
出没するようになった異国船を監視するに相応しい場所だったと言える。現代では、港湾整備と併せて海の
埋め立てが進んで台場のある山の北麓が陸地になってしまったが、当時、この山は「トンガの鼻」と呼ばれる
独立した岬となっており、その先端部(しかも屹立する断崖上)を台場として造成したのは必然であろう。■■
徳川御三家の一つである紀州藩では、藩祖・左近衛権中将頼宣(よりのぶ)以来、農民や漁民を組織化して
「浦組」と言う海防体制が整えられていた。浦組は紀伊徳川家5代目に当たる吉宗の時代に強化されており、
和歌山城下の海岸から南の熊野までの担当区域を整えたと言う。こうした中で幕末期を迎えると、いよいよ
異国船の脅威は本格化し、各地に台場を構築するようになった訳だが、雑賀崎台場がいつ作られたのかは
明らかではない。廃絶した時期も不明だが、遺構は見事に残されてござる。岬の根元から先へ進むにつれ、
“軍事要塞”たる台場の敷地を区画する石垣や土塁が現れ、台場主郭には砲座に使われたと考えられている
平坦部とそれを囲む石垣遺構が残る。また、その傍らには方形壇(弾薬庫か?)の石組みも存在。これらは
2007年(平成19年)和歌山市教育委員会によって発掘調査が行われ、実に良好な保存状態が確認された。
その結果、上記の通り県史跡に指定されるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
台場主郭の手前、岬の根元近くからは遠く和歌山城(同市内)天守を望む事が出来、当時は藩政中枢部に
最も近い台場として「最重要軍事拠点」だった状況を噛み締められよう。幕末の緊迫感、体感して頂きたい。



現存する遺構

石垣・郭群
台場域内は県指定史跡








紀伊国 元番所台場

元番所台場跡 全景

 所在地:和歌山県和歌山市雑賀崎番所ノ鼻

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★★■■



海を睨む番所から、空中庭園の観光地へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
雑賀崎台場があった「トンガの鼻」の一つ南側、「番所(ばんどこ)の鼻」と呼ばれる岬にあった台場。■■■■
トンガの鼻が北西方向へ長い岬だったのに対し、番所の鼻はほぼ真西を向いている。岬の先には大島(男島)・
中ノ島(女島)・双子島が並ぶ夕陽の景勝地だそうで、奈良時代の724年(神亀元年)10月に聖武天皇が行幸。
その折には、供の者として随行していた藤原房前(ふじわらのふささき)が沖の漁火を見て■■■■■■■■
「紀の国の 雑賀の浦に 出で見れば 海人(あま)の燈火(ともしび) 波の間ゆ見ゆ」という歌を詠んだとか。■■
この歌は万葉集の巻七(1194番)に収録されており、雑賀の岬が海を眺める絶景の地だった事を伝えている。
番所の鼻は、海に細長く突き出た岬でありながらその上面は極めて平坦な為、遠見には最適な地形であった。
江戸時代初頭、紀州藩は海洋監視の遠見番所をここに構える。長大な海岸線を擁していた紀州藩領の中でも
この番所は当時最も和歌山城に近い位置にあったものでその重要性は高かったが、後に近隣の鷹の巣山頂
(現在、雑賀崎灯台のある地点)へ移転した。故にこの場所が「番所の『あった』場所」すなわち「“元”番所」と
呼ばれるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、ペリー来航を機に異国船の脅威は一気に高まり、紀州藩では1854年(安政元年)の正月から加太
(かだ、和歌山市の最北西端地点)〜大崎(和歌山県海南市)までの沿岸を7つの地区に分け、7人の家臣に
持ち場を分担させて各所で台場を築かせた。こうした中で家老・三浦長門守為質(ためもと)の持ち場となった
番所の鼻には台場が構築され、「元番所」はその名も「元番所御台場」と称した現役の台場に生まれ変わる。
上記の「異船記」にも、この台場の図面や人員・大砲・鉄砲の配置が記録されている。■■■■■■■■■■
とは言え、明治以降の近代化で台場は廃絶し、現在では番所の鼻全域が番所庭園という観光施設になって
ござる。敷地内は庭園として散策を楽しめるようになっているが、反面、遠見番所や台場としての遺構は殆ど
湮滅してしまった。カゴバ台場とは両極端な顛末だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



和歌山城(紀州岡山城)  雑賀城・太田城