紀伊国 和歌山城(岡山城)

和歌山城 復元天守岡山城址 岡山の時鍾堂


  所在地:和歌山県和歌山市一番丁 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★☆



羽柴秀長の城に始まるが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
紀州、和歌山の城と言えば当然「御三家の城」、徳川幕府が鎮西の睨みを利かせる為の強固な近世城郭な訳だが
起源は豊臣政権に始まる。本能寺の変以後、急速に勢力を拡大した羽柴筑前守秀吉は1585年(天正13年)3月から
紀伊征伐を敢行。それまで、所謂“根来(ねごろ)衆・雑賀(さいか)衆”と呼ばれる本願寺系在地勢力が自治独立し
戦国大名や中央政権からの支配を拒み続けていた紀伊北部の地は、織田信長の侵攻をも跳ね除け独自に地盤を
保っていた。天下統一に邁進する秀吉は、満を持してこの紀伊を平定せんと総勢10万とも言われる大軍勢を派遣し
時に苛烈な殺戮も辞さずに敵勢力を撃破する。斯くして、当時最大であった惣国(百姓らが自治する国)は解体され、
紀伊国は豊臣政権の支配下に組み込まれた。それに際し秀吉は実弟・羽柴小一郎秀長に紀伊支配を命じ、秀長は
百姓らの反抗を封じる強大な統治拠点となる城郭を築く事になるのである。彼は大和郡山城(奈良県大和郡山市)を
居城とした為に紀伊の新城は支城という扱いになるが、本拠となる大和国に紀伊や和泉などの所領を加えると総計
100万石を超える大身となり、豊臣政権の副官として“大和大納言”の尊称で呼ばれるようになった。斯くして、政権の
屋台骨を支える秀長の収益地として、また秀吉の居城たる大坂城(大阪府大阪市中央区)の南を睨む要害の地として
そして何より根来・雑賀の民の叛乱を防ぐための戦闘要塞として、紀伊の新城つまり和歌山城は非常に重き役割を
期待されたのである。なお、この城が構えられた地は元来「若山」と呼ばれていたが、城の完成により「和歌山」へと
改称された。古代、聖武天皇が和歌山市内の景勝地・若の浦へ行幸、供をしていた山部赤人(やまべのあかひと)が
彼の地で歌を詠んだ事から「和歌浦」と雅称されるようになった経緯に因み、城の名も「和歌山城」となったのだ。■■
若山(和歌山)の地の中、「虎伏山(とらふすやま)」俗に「吹上の峰」と呼ばれる小山を城地に選び縄張を命じたのは
秀吉自身であったと言われる。ここには元々、雑賀衆の土橋(つちばし)氏が築いた砦があったとされ、また山続きで
南に隣接する岡山にはかつての紀伊守護・畠山尾張守高政が築いた岡山城があったようだが、大掛かりな城として
築城されたのは豊臣家によるものが創始となる。秀長家臣だった藤堂和泉守高虎が普請奉行、補佐役に羽田長門守
正親・横浜一庵正勝が任じられ、僅か1年ほどで完成。言わずもがな、高虎は後に“城の神様”と称される名築城家だ。
完成した1586年(天正14年)に秀長の重臣・桑山修理大夫重晴が3万石で城代に任じられる。この後、重晴は本丸を
中心に城の手直しも行ったが1596年(慶長元年)に隠居、城代の職を嫡孫の修理大夫一晴へと譲った。もっとも、主の
秀長は1591年(天正19年)1月22日に病死しており、跡を継いだ養嗣子・中納言秀保(ひでやす)も1595年(文禄4年)
4月16日に僅か17歳で急死(死後に大納言遺贈)。大和大納言家はこれで断絶しており、城代とは名ばかりで事実上
和歌山城は桑山家の持ち城でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

浅野家時代を経て徳川御三家の城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)の関ヶ原戦役にて、桑山一晴は東軍・徳川家康方に与し、紀伊国内で西軍方であった堀内安房守
氏善(うじよし)の新宮城(和歌山県新宮市)を攻略。その功績で翌1601年(慶長6年)大和国の葛上(かつじょう)郡と
葛下(かつげ)郡に所領を移されて新庄藩を立藩した。これにより、和歌山へは甲斐府中(現在の山梨県甲府市)で
16万石を領していた浅野左京大夫幸長(よしなが)が37万6560石に加増されて城主に任じられる。幸長は入城の後、
主に土塁造りであった城内各所を石垣に築き直して城を強化、城域の拡張も行っている。1605年(慶長10年)頃には
下見板張りの天守も揚げられた。さらに、城の大手が南東側の岡口門から北東側の一ノ橋門へと変更されてござる。
1613年(慶長18年)8月25日、幸長は嗣子なく病死したので浅野家の家督は次弟の但馬守長晟(ながあきら)が相続。
その長晟は福島左衛門大夫正則が武家諸法度違反で除封された安芸国広島(広島県広島市)へ1619年(元和5年)
42万石で加増転封されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
空席となった和歌山城主の座に据えられたのが徳川左近衛権中将頼宣(よりのぶ)、家康の10男である。築城から
34年、ここにようやく御三家紀伊徳川家の城という冠が和歌山城に附される事となる。1619年7月19日、駿河・遠江
50万石から加増され紀伊国一国及び伊勢国南部の合計55万5000石を領する事になった頼宣は、将軍家・尾張家と
並んで徳川御三家の一角を成し(水戸家が加えられるのは後の事)、南海の鎮として紀州藩の舵取りを託された。
没する直前まで家康が手元で育て、その薫陶を受けていた頼宣は剛毅の将であり、豊臣家の滅亡後まだ間もない
不穏な情勢の中で西国諸大名に睨みを利かせる重要な責務を任せられたのである。そのため、幕府は銀2000貫を
紀州藩に与え、1621年(元和7年)から和歌山城の改修工事に着手。頼宣は二ノ丸の大奥部分を拡張し、南ノ丸や
砂ノ丸を内郭部分に取り込んだ形に改め(縄張の詳細は後記)、岡山と峰続きであった南側を堀切で分断、ここは
三年坂と呼ばれるようになり申した。その工事はあまりに大掛かりであり、逆に幕府から謀叛を疑われる程だったが
この時は附家老・安藤帯刀直次の弁明で嫌疑は晴れた。その後も和歌山城の改修は行われ、1629年(寛永6年)に
南ノ丸の櫓台や吹上口の石垣が竣工。正保年間(1644年〜1648年)には総構え(城の最大外郭線)となる外堀の
掘削も開始されたが、相次ぐ増強に再び幕府は警戒の念を強め、遂にこの工事は中止せざるを得なくなっている。
これに基づき、現在の和歌山市内には「堀止」という地名が残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
頼宣には様々な由緒が残され興味深い人物ではあるが、個人の事績は省いて和歌山城に関する話を続けると、
1655年(明暦元年)11月13日に家臣屋敷(大小姓三番組:都筑瀬兵衛(つづきせいべえ)宅)からの出火が延焼、
二ノ丸や西ノ丸が焼失し、後に再建された。以後度々、城は火災の被害を受けていく。以下、城主の変遷と併せて
列記したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

“幕府中興の祖”8代将軍や“紀州の鳳凰”を輩出した紀伊徳川家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
頼宣は1667年(寛文7年)5月22日に隠居、紀伊徳川家2代となったのは長男の権大納言光貞(みつさだ)である。
その光貞は1698年(元禄11年)4月22日に隠居して長男の左近衛権中将綱教(つなのり)に家督を譲ったが、彼は
父に先立って1705年(宝永2年)5月18日、病没してしまう。このため、光貞の3男(2男は早世)・左近衛権少将頼職
(よりもと)が江戸表で4代目を継ぐも、直後に父・光貞が国元で危篤となったので慌てて帰国する。その結果、同年
8月8日に光貞が没し、強行軍で和歌山へ戻った頼職も病に倒れ、1ヶ月後の9月8日に急死してしまった。紀州藩は
1年の間に当主3人が立て続けに死去する異常事態に見舞われ、葬儀費用などで財政が極端に悪化していった。
こうした状況の下、5代目となったのが光貞の末子・右近衛権少将頼方(よりかた)である。頼方は紀州藩主就任に
際して時の将軍・徳川綱吉から「吉」の一字を与えられ、吉宗と改名する。そう、後の8代将軍となる徳川吉宗だ。
吉宗は10年に及ぶ紀州藩主時代に倹約や藩政改革に努めて藩財政を立て直し、名君の誉れ高き人物であった。
その業績が評価され、徳川宗家(将軍家)が絶える危機には上の家格である尾張徳川家を押えて将軍継承を勝ち
取った訳だ。ともあれ、吉宗が将軍として江戸へ転向した事により今度は紀州藩主(和歌山城主)の座が空いた為
吉宗は従兄弟の左近衛権中将宗直を後継とした。徳川頼宣の3男・松平左京大夫頼純(よりずみ)の5男で、伊予
西条藩(愛媛県西条市)主であったのが宗直でござる。その後は権中納言宗将(むねのぶ)―右近衛権中将重倫
(しげのり)と続くが、この重倫は素行が極めて悪く、幕府から強制隠居を申し付けられている。然るのち、改めて
右近衛権中将治貞(宗将の弟)が紀伊家9代当主となり申した。この治貞は熊本藩(熊本県熊本市)8代藩主・細川
越中守重賢(しげかた)と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれた人物でござれば
紀州藩は赤字体質を克服し10万両もの蓄えを成す程になったそうな。また、篤実な人柄は本流である重倫の子に
家督を戻すと約束し、彼の死後、紀伊徳川家10代当主には右近衛権中将治宝(はるとみ、重倫の2男)が就いた。
この治宝の時代に当たる1798年(寛政10年)和歌山城天守は下見板張りを廃して白漆喰塗籠に改められた。他方
1813年(文化10年)11月には西ノ丸大奥からの出火で西ノ丸御殿が全焼してしまう。■■■■■■■■■■■■■
治宝が1824年(文政7年)6月6日に隠居すると、養子の権中納言斉順(なりゆき)が11代当主に。斉順は御三卿の
清水家出身にして11代将軍・徳川家斉の7男である。治宝は文化面で大きな功績を残した殿様であったが、幕府と
確執があったらしく、強制的に養子を宛がわれたそうだ。ところが1846年(弘化3年)5月8日に斉順が病没し、急遽
権大納言斉彊(なりかつ、斉順の異母弟)が12代当主となる。この混乱の中、7月26日に和歌山城では天守に雷が
落ち、御殿を除いて、大小天守・櫓4基・蔵3戸前・多聞櫓63間分など山上の主要建造物が軒並み全焼した。更に
不幸は続き、1849年(嘉永2年)3月27日、斉彊が急死する。結果、13代目となったのが斉順の遺児・左近衛権中将
慶福(よしとみ)だった。慶福は斉順が没してから産まれたので、実父の顔は知らない。その一方、隠居した10代目
治宝はまだ存命であり、紀伊家中では隠然とした治宝の勢力と、様変わりする歴代当主との間で暗雲とした権力の
綱引きが続けられていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

江戸時代に稀な天守再建事業と、和歌山城の主郭部■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中で明るい材料となったのが天守の再建許可でござる。江戸時代を通じ、武家諸法度の統制で諸大名は
城の新築はおろか改修でさえ幕府の許可が無くては不可能とされた。況してや天守を建てる事など皆無である。
しかし和歌山城は御三家の城として、また鎮西の要として特別に幕府が再建を許し、1849年から工事に着手。
翌1850年(嘉永3年)3重3階の大天守とそれに附随する小天守や多聞櫓などが竣工した。この再建においては
旧来の天守になぞらえて5重天守を揚げる案も検討されたが、流石にそれは憚られ3重天守として完成している。
ではここで和歌山城の縄張を紹介。城の別名は「若山城(“和歌山”の旧名に由来)」「竹垣城」などがあるものの
一番良く知られているのが「虎伏(とらふす)城(伏虎城)」であろう。城が築かれた山、虎伏山に因んだものだが、
虎が身を伏せた姿を想像すれば、肩のあたりと腰のあたりが高く盛り上がっている感じが頭に浮かび申そう。即ち
この城山は、東西2つの山塊が繋がって一つの丘陵を成している訳だ。最高所に当たる西峰の頂(標高48.7m)に
天守曲輪を構え、やや低い東峰の上(標高44.7m)一帯は本丸となっており、上空から見れば瓢箪形の曲輪取りで
一城別郭の体を成す縄張。言うまでも無いが、西の天守曲輪へ行くにも東の本丸へ行くにも、両者の中間にある
山の鞍部を経由して登らねばならないので、攻め寄せる軍勢は2つの峰から挟み撃ちに遭う事は必定だ。■■■
天守曲輪はひしゃげた菱型の形状。東隅に大天守、北隅に小天守が建ち、西隅には2重櫓の乾櫓、南隅に天守
二ノ門(楠門)とそれに接続する二ノ門櫓がある。この4隅の建造物を繋いで、天守曲輪全体を囲む多聞櫓があり
この曲輪そのものが連立式天守の要諦を成しているのでござった。故に和歌山城は、姫路城(兵庫県姫路市)や
松山城(愛媛県松山市)と合わせ“日本三大連立式平山城”と称される。更に天守曲輪の全周を細長い帯曲輪が
取り囲むが、特に南側だけは広い敷地となっているので、その部分は天守曲輪下段と呼ばれ申す。この下段が
虎伏山の鞍部から登って来る道筋となっており、そこを塞ぐ位置(東端)には天守一ノ門が建っていた。ちなみに、
来歴では天守を1605年(浅野時代)の創建と記したが、徳川頼宣入封後の1619年とする説もある。■■■■■■
対する東峰の本丸は不等辺五角形の敷地。秀長時代に主郭として啓開され、浅野時代に整備された曲輪で東西
29間(約57m)×南北27間(約53m)の大きさ。その中には本丸御殿の殿舎群が建っていたものの、近世城郭の
御殿としては手狭であった為、謁見の場として利用するくらいで通常は空家同然の扱いであった。城主の住処は
主に二ノ丸御殿が利用されていたと言う。但し、幕末に参勤交代制度が停止され江戸藩邸に居た藩主の正室が
和歌山へ帰国するようになると、その居所に充てられるようになった(詳細は後記)。その庭園には宝船に乗った
七福神を模した石組があり、七福の庭と呼ばれていた。東峰の中腹全周は鬱蒼とした森のまま手を付けず、山を
直登させない障害帯となっていたが、南側の最下段にだけ松の丸と呼ばれる東西に細長い腰曲輪が存在する。
ここが虎伏山鞍部へと至る表坂通路(正規の登城路)となってござった。なお、鞍部の北側から九十九折りに谷を
下って台所門へと繋がる道もあったが、これは裏坂と呼ばれる通用路と認識されている。■■■■■■■■■■

二ノ丸以遠も技巧的な縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その台所門の先、本丸(虎伏山東峰)の北側山麓に広がるのが二ノ丸だ。山の自然地形を転用した天守曲輪や
本丸とは違い、二ノ丸は完全に造成された敷地で、城内の曲輪では最も大きな面積を有する。浅野時代までの
和歌山城は虎伏山とこの曲輪だけで構成されており、当初は天守曲輪が本丸、本丸が二ノ丸、二ノ丸が三ノ丸と
されていた。徳川家の入府によって城が大きく拡張された事により、現在の呼称に改められたと言う。二ノ丸には
城主居館や藩政の場となる大掛かりな御殿が建てられており、実質的な城の中枢として機能していた。二ノ丸は
虎伏山と接する南側以外、3方を広大な水堀で囲まれ、更に要所要所で櫓を構えて防備を固めている。中でも、
北西隅に揚げられた櫓は駿河櫓と称されるが、これは徳川頼宣が旧領・駿河に因んで命名したものだとか。■■
二ノ丸の東側には南北に細長い閉鎖空間が作られている。ここの北端に城外へ繋がる一ノ橋があり、その手前に
一ノ橋門、つまり大手門が建つ。築城当初は「市之橋」と記されていたが、1769年(寛政8年)から「一ノ橋」に変わり
正式の大手御門と称されるようになっている。一ノ橋は欄干に擬宝珠(寺社建築に見られる玉ネギ形の装飾)が
上がり、門は古式ゆかしい高麗門形式で格式の高さを感じさせる。登城する侍はこの門から下馬する事とされ、
門の脇(二ノ丸の東北隅)には月見櫓が睨みを利かせていた。しかしここの虎口は平虎口、しかも高麗門なので
櫓門のような重武装な構えではない。仮に敵が攻め寄せたなら、そこだけで食い止めるのは難しいように見える。
が、一ノ橋門の中へ入ったとしても通路はそのまま真っ直ぐ、閉鎖空間の南端にある一中門(いちなかもん)まで
直進するしかない。この間、侵入する敵勢は常に右手の二ノ丸から射撃を受け続ける事になる訳で、一ノ橋門〜
一中門までを巨大な枡形と考えれば、敵を十分に引き込んだ上で殲滅する壮大な罠と見る事も出来よう。■■■
一中門の南、本丸の東側山麓が御蔵の丸。岡中門(おかなかもん)の仕切りを経て、その南には南ノ丸が広がる。
南ノ丸の南東隅を塞ぐのが岡口門で、築城当初はこちらが大手とされていた。門の東側外部には「雑賀庄の岡」と
呼ばれる地域があってこの名が付けられたと云う。他方、南ノ丸の南西隅には不明門(あかずもん)が。こちらは
名前の通りに通常は締切りとされた門で、遺体や罪人の搬出といった緊急時にのみ使用されたそうだ。不明門の
南側が三年坂の堀切。築城に携わった藤堂高虎は紀州徳川家による大改造時の折にも指南役として派遣され、
岡山との接続部を断ち切って城内・城外の明確な分離を指導したとの話が。さすが築城の天才、時を経た後も
存分に手腕を発揮する大活躍ぶりでござる。不明門はこの時に作られたそうだ。■■■■■■■■■■■■■
なお、岡山には1712年(正徳2年)徳川吉宗が建立を命じた時鐘堂があり、その鐘はかつて大坂夏の陣において
豊臣軍から鹵獲した大筒の青銅を改鋳して作ったものとの事。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

石垣にも様々な違いが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南ノ丸の西(天守曲輪の南麓)、城の西側一帯に広がるのが砂の丸。地質の話になるが、もともとの若山台地は
砂丘として成立したもので、この曲輪付近は特にその状態が顕著である。砂質の地面である為、砂の丸の外周は
水濠を作れず和歌山城の西側は空堀で守りを固めていた訳だ。これが砂の丸と呼ばれる所以でござろう。砂の丸
西面の中央部(天守のほぼ真西)には追廻門(おいまわしもん)が開く。ここは食い違い虎口に朱塗りの高麗門。
搦手口であると共に裏鬼門であるが故、厄除けとして朱塗りになったと考えられている。また、砂の丸の北端には
北向きに勘定門と吹上門があったのだが、そこには近年まで和歌山市消防局中消防署が建っていた。吹上口は
主に物資の搬入口として使われていたと推測されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勘定門の東、天守曲輪の北側に位置するのが西ノ丸。徳川頼宣の隠居所として築造され、ここにも御殿群が建て
られていた。西ノ丸の南半分は紅葉渓庭園(もみじだにていえん)と呼ばれる池泉回遊式庭園になっており、その
池には虎伏山からの湧水が湧くと同時に内堀(二ノ丸西面から食い込んだ部分)へも繋がっていた。江戸初期の
大名庭園の中でも秀作とされ、その名の通り紅葉の木々が美しく秋の色付く頃には見事な風景を成すと言う。
ところでその内堀は西ノ丸と二ノ丸を分断する形になっているが、両者の間を繋ぐべく廊下橋が架けられていた。
その名も御橋廊下と言うだけあって、この橋は外面を剥き出しにせず渡り廊下の建物として建てられている。また
西ノ丸よりも二ノ丸の方が若干標高が高い為、この橋は坂道となって傾斜している。中を渡ってみると、イマイチ
平衡感覚が狂う感じになって面白いものだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
和歌山城の構築年代は豊臣期・浅野期・徳川期と数度に分かれているので、石垣の工法にも様々な違いが確認
出来る。古い物は野面積み、新しくなるにつれて打込ハギ、切込ハギとなり、その差異をあちこちで見られよう。
更に紀伊半島周辺(日本列島の中央構造線)では緑泥片岩が多く産出し、それが石材として用いられているので
この城の石垣は緑色に見えて(特に雨で濡れた後は)独特の風合いを醸し出し申す。■■■■■■■■■■■

14代将軍も輩出するが、幕末維新〜戦禍の荒波に揉まれ…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、徳川慶福の城主就任からの話に戻そう。慶福は1858年(安政5年)10月25日、再度の徳川宗家断絶に伴い
14代将軍に迎えられ、その名も家茂と改名した。これにより、紀州藩主(和歌山城主)には西条藩主の縁者である
松平頼久(よりひさ)改め徳川茂承(もちつぐ)が就任。彼は伏見宮邦家親王の娘・倫宮(みちのみや)則子女王を
正室に娶ったが、この頃に幕府は参勤交代制を緩和し大名の妻子が江戸を離れる事を認めている。そのため、
則子は1863年(文久3年)3月10日から翌1864年(元治元年)10月26日まで和歌山城の本丸御殿に居住。■■■
これが故に和歌山城本丸御殿は「宮様御殿」とも称されていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
茂承は将軍・家茂と非常に仲が良く、一説には15代将軍への推挙もあったと言われる。しかし家茂が急死した後、
徳川宗家は一橋慶喜が継ぎ、時代は幕府滅亡へと進む中で茂承は新政府へ与する途へと舵を切った。その結果
徳川将軍家と密接な血縁にある紀伊徳川家は咎めを受ける事も無く明治維新を乗り切り、茂承は版籍奉還後に
和歌山知藩事(この時、紀州藩から和歌山藩へと正式に名称が変更されている)となったのでござる。だが直後に
廃藩置県が断行され茂承はその職を解かれる。和歌山城も廃城令の上では存城とされたものの、明治初年から
軒並み建物の解体処分が進められていった。特筆すべきは二ノ丸御殿で、白書院・黒書院・遠侍の3棟が1885年
(明治18年)大阪城本丸に移築された。この建物は陸軍大阪鎮台本営とされ「紀州御殿」と尊称されるようになり、
1931年(昭和6年)からは大阪市迎賓館として使用されるようになって、2年後に「天臨閣」と改称されている。■■
維新以後、城跡は激変の歴史を遂げていく。和歌山県の設置から1年弱の1872年(明治4年)7月14日、砂の丸に
県庁が設けられるものの、翌年に新庁舎を建てて移転。1873年(明治6年)時の和歌山県令(県知事)北島秀朝は
20日間のみ県民に和歌山城の天守を公開したそうだが、この当時、城址を管理していたのは兵部省(陸軍省)。
(廃城令による「存城」とは軍管理地として使用する事を意味していた) 軍の中枢と言える天守を公開するのは
行政の垣根を越えた大英断だった事だろう。その後も、1889年(明治22年)和歌山中学校が西ノ丸に入渠した一方
1898年(明治31年)和歌山兵隊司令部が二ノ丸へと入り、そうかと思えば1901年(明治34年)城の内郭部が和歌山
公園として一般開放されるなど、城址は軍施設としての役割と市民への活用が二転三転していくのだった。但し、
これ以降は市民利用への流れが定着するようになり、1908年(明治41年)二ノ丸に県立図書館が建てられ、更に
1912年(明治45年)和歌山公園は内務省の管轄から和歌山市へ払い下げられて市立公園になるのでござる。■■
1915年(大正4年)西ノ丸の和歌山中学校校舎は市役所の仮庁舎に転用し、1923年(大正12年)には本丸跡地を
上水道の給水施設とする事が決定、これは1925年(大正14年)6月から運用が開始されている。なお、これにより
七福の庭の石組は松の丸に移設され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1931年(昭和6年)3月30日、城跡が国史跡に指定。この時点で残存していた旧建築は、天守曲輪一帯の建造物と
岡口門(及びそれに附属する土塀)・追廻門。移築された建物は大阪城の天臨閣(紀州御殿)と、和歌山市大垣内
(おおがいと)にある浄土宗懐岳山光恩寺の庫裡となった本丸御殿御台所である。このうち、天守曲輪内にあった
大天守・小天守・北西隅櫓(乾櫓)・西南隅櫓(二ノ門櫓)・楠門・北東多門櫓・北西多門櫓・西多門櫓・南多門櫓と
東倉庫・西倉庫(表記は文部省告示に準拠)の合計11棟が1935年(昭和10年)5月13日に国宝(旧国宝)指定を
受けている。なお、外郭部施設として岡山の時鐘堂も残存している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが太平洋戦争の戦火は容赦なく和歌山の町も襲い、1945年(昭和20年)7月9日に国宝指定の11棟が空襲により
全焼してしまった。更に戦後、進駐軍に接収されて米軍司令部とされていた紀州御殿は1947年(昭和22年)9月12日
米兵の煙草の火の不始末から炎上、全損する。この時、大阪市の消防隊は大阪城本丸の目前まで到着していたが
米軍側から入城の許可を得られず、燃えるがままに手をこまねいて見るしかなかったと言う。■■■■■■■■■

地元に愛された和歌山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は地域の象徴。戦後復興期に於いて全国で天守復元の機運が盛り上がる中、和歌山城では1957年(昭和32年)
6月18日、焼け残った岡口門と続き土塀が国の重要文化財に指定された。これを契機として天守再建が進んでいき
翌1958年(昭和33年)天守曲輪一帯の建造物が再建されている。もともとの天守が1850年と幕末の再建であり、
比較的資料が揃っていた中ではあるが、東京工業大学教授・藤岡通夫博士が設計を担当し、鉄筋コンクリートで
復元された(楠門部分だけは木造再建)。藤岡博士は焼失前の天守を調査しており、また紀州藩大工・中村家が
作成していた指図「御天守起シ御絵図」等の図面も参照の上で古態を踏襲した外観復興天守が作り上げられた。
大天守は3重3階、破風には青海波があしらわれ、最上階の外壁には長押(なげし)が付く、所謂“徳川天守”の
特徴を備えた層塔型。袴腰の石落としが大きく膨らむ外見が印象的である。天守台の面積は2640u、建物の高さ
23.42mであり、棟までの高さは海抜72.32mを数えると言う。北側に連結する小天守に式台(玄関)があって、天守
内部に入る構造だが、その為には楠門を突破して天守曲輪内部に到達せねばならず、しかも曲輪内部は全周を
多聞櫓が取り囲んでいる為、外敵が天守全域を制圧するのはかなり難しい訳だ。■■■■■■■■■■■■■
1960年(昭和35年)岡口門を解体修理。1973年(昭和48年)には紅葉渓庭園(西ノ丸庭園)の復元整備も行われ、
鳶魚閣(えんぎょかく)・紅松庵(こうしょうあん)・紅葉渓橋・茅門と言った建物(茶室等)が建てられた。なお、西ノ丸
整備に先立って発掘調査が行われ、元々建てられていた茶室である聴松閣(ちょうしょうかく)の跡地から地鎮具が
出土した。話が前後するが、天守の再建においても基礎工事中に偶然天守台から同様の地鎮具が出てきており、
1850年の天守再建地鎮祭で埋められたものと見られている。西ノ丸庭園は1985年(昭和60年)11月27日に国の
名勝に指定。出土した地鎮具は2018年(平成30年)5月11日に考古資料として和歌山市指定文化財となっている。
大手門は1909年(明治42年)5月に老朽化で倒壊していたのだが、1982年(昭和57年)3月に再建竣工。翌1983年
(昭和58年)3月には一ノ橋が架け替えられている。1985年(昭和60年)には追廻門も解体修理を行っている。更に
2006年(平成18年)4月、二ノ丸と西ノ丸を繋ぐ御橋廊下も再建され申した。橋の長さ26.7m、幅2.95m、勾配11%。
また、同年4月6日には財団法人日本城郭協会から日本100名城にも認定されている。■■■■■■■■■■■■
2019年(令和元年)3月8日から、従来用いられていた「和歌山公園」の名が「和歌山城公園」に改められ、より一層
城址史跡としての意識が高められた。奇しくも、これは徳川頼宣の前居城である駿府城(静岡県静岡市葵区)でも
同様の事が行われており、全国的に城跡を観光文化遺産として活用する通例となっていく感じが見受けられる。
光恩寺庫裡は1971年(昭和46年)1月9日に和歌山市指定文化財に。岡山の時鍾堂は1958年(昭和33年)4月1日
和歌山県指定の文化財である。時鐘堂は木造本瓦葺2階建、間口5.95m×奥行5.97m×高さ8.27mで、内部の鐘は
直径0.97m×高さ1.33mの大きさでござる。藩政時代の貴重な遺物と言えよう。右側に掲載した写真がそれであるが
ここでは畠山氏による岡山城跡に所在する建造物として紹介しておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸跡地が上水道施設であるため何も再建されず空地のままなのが惜しいが、これは都市計画上致し方の無い
事か。紀州御殿が移築された大坂城でも同様に本丸裏手が配水施設となっており、平野部に独立する小高い丘が
平山城として一等地である場合(和歌山城も大坂城もその条件に当てはまる)高低差を利用して配水する上水道
施設も全く同じ条件だと言えるので、当然の結果となろう。武士の時代に町を守った城跡は、現代に於いても町を
活かす為に役立っていると思いたい。その一方、和歌山市では景観基準を設けて和歌山城天守を超える高さの
建造物を抑制し、城からの眺望を守る努力を続けて下さっているのだとか。確かに、せっかく天守へ登っても眼前に
高層ビルが立ち塞がっていては、何とも興醒めである。天守からの眺めが広く紀伊水道や摂津山地まで届くよう
和歌山市では最大限に気を配っている訳であり、町も城を守り助け合っている“粋な計らい”に敬意を表したい。



現存する遺構

岡口門および続土塀《以上国指定重文》・岡山の時鍾堂《県指定文化財》
追廻門・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡
紅葉渓庭園は国名勝

移築された遺構として
光恩寺庫裡(本丸御殿台所)・天守台および西ノ丸出土地鎮具《以上市指定文化財》




大和郡山城  雑賀崎台場・元番所台場