大和国 大和郡山城

大和郡山城 復元梅林門

 所在地:奈良県大和郡山市城内町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★☆



畿内の流動的な政局に振り回される城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奈良盆地の中央部にある郡山丘陵南端部に築かれた城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南都・奈良一帯は古代から貴族荘園や寺社勢力が割拠し、何かにつけ争乱の舞台となっていた。当然、
こうした勢力はそれぞれに武力組織(武士団や僧兵)を有し、特に平安末期になると源平の対立に伴って
戦闘が発生している。有名なものが平清盛による南都焼き討ちでござるが、そのような時世の中、1162年
(応保2年)の「東南院文章」に「狼唳之輩張雁陣之城」と記述がある。「狼唳之輩」というのは現地の地侍
郡山衆の事で、彼らが「雁陣之城」を築いたと言うのである。この雁陣之城と言うのはどのようなものか
判然とせず、奈良と言う場所柄から環濠集落の類型と考える向きや、“雁行陣”つまり居館群を斜めに
並べたものだとする説もある。こうした雁陣之城は“掻揚の城”と称され、即ち土塁を張り巡らせた状況と
考えられている。また、先に行われた発掘調査に拠ると奈良県立郡山高校(郡山城跡地内にある高校)
敷地内から方形館の痕跡が検出され、単純に平安末期〜鎌倉期によくある武家居館が築かれていたとも
考えられよう。この雁陣之城が、古く郡山城の源流となるものでござる。なお、郡山という地名はそれまで
大きく「薬園荘(東大寺領荘園)」とされていた一帯の統治区分から1300年(正安2年)「郡山荘」が独立した
事に始まる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、城の起源には明応年間(1492年〜1501年)土豪の小田切氏が築城、4代が居城にしたとの説もある。
室町時代になると1506年(永正3年)夏に赤沢朝経(あかざわともつね)が大和国(奈良県)へ侵攻、8月24日
郡山城を数千の兵力で包囲したと「多聞院日記(興福寺の塔頭・多聞院の記録)」にある。応仁の乱が勝者
なきまま終了し、幕府の権威が失墜した後も足利将軍家では家督争いが絶えず、これに諸勢力が加担して
終わりなき争乱が続いていた頃だが、朝経は管領(室町職制において将軍を補佐する実質的最高権力者)・
細川右京大夫政元の命を受けて奈良地域の支配強化を目論み、出兵したのだった。城に籠っていたのは
郡山衆つまり現地の有力豪族らだったが、管領家の軍事力を背景にした赤沢軍には敵わず2日で落城。
しかし権力が安定しない当時の情勢下、細川政元は暗殺により落命し大和一帯は相変わらず現地豪族や
寺社勢力が割拠する状況が続いている。こうした中、次第に大和国内は国人衆の双璧・筒井氏と越智氏が
勢力を2分するようになり、郡山衆もそれに追随し、郡山城は筒井氏の城となっていた。■■■■■■■■

“洞ヶ峠の日和見”から“大和大納言の城”へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして1559年(永禄2年)松永弾正忠久秀が河内から大和へ侵攻、筒井勢の諸城は次々と落とされていく。
信貴山城(奈良県生駒郡平群町)を手にし本拠とした久秀に対し、劣勢の筒井軍であったが郡山城だけは
堅持されたのだが、当時の郡山城主と言う郡山辰巳なる者は城を捨て松永軍へと投降してしまっている。
固く郡山城を守る筒井軍に対し、松永軍は付城(攻城軍側の攻略拠点城砦)を四方に築いて締め上げるが
遂に城は落ちなかった。しかし大和国の実権は久秀の手に落ち、事実上大和の大名として君臨するように
なっていく。されど、その状況を一変させたのが織田上総介信長であった。強大な軍事力で畿内を制圧した
織田家に筒井家は臣従。松永久秀も服属を余儀なくされた。一旦これで松永・筒井の戦いは矛を収めたが
野心家の久秀は度々信長に反逆したため織田軍の後援を受けた筒井順慶(じゅんけい)の軍が松永軍を
追討、遂に1577年(天正5年)松永久秀は自害した。松永氏が滅亡した事で筒井氏は信長から大和国主と
認められる。信長は1580年(天正8年)の大和仕置に於いて、大和国内の城は郡山城を除いて廃城を命じ
(大和一国破城)、以後この城が筒井氏20万石の本城となった。斯くして順慶は翌1581年(天正9年)から
郡山城の大拡張工事を開始、これが現在の郡山城の直接的な起源となっている。故にこの時を郡山城の
築城と見做す見方もある。順慶が信長に臣従する際、明智日向守光秀が仲立ちに働いており、それ以来
順慶は光秀の監督を受ける立場にあった事から、郡山城の築城・本拠移転に於いても光秀が普請目付と
なった。ところが、1582年(天正10年)本能寺の変によって光秀は落命。“洞ヶ峠の日和見”として知られる、
信長に叛した光秀が筒井順慶を恃みにしたという逸話はこうした事情あっての事なのだが、順慶は謀叛に
加担せず光秀を見限り独力で大和支配権を確立し、1583年(天正11年)には郡山城に天守が落成している。
だが1584年(天正12年)8月11日、36歳の若さで順慶は病死してしまう。新たな天下人・羽柴筑前守秀吉から
筒井家は所領を安堵されていたものの、跡を継いだ伊賀守定次(さだつぐ)は1585年(天正13年)閏8月に
隣国の伊賀国(三重県北西部)へと移封されてしまった。転封の理由は様々考えられており定かでない。
ともあれ、代わって新たな郡山城主となったのは羽柴小一郎秀長、即ち秀吉の実弟である。■■■■■■
表に出て、人を動かし、世を作り出す兄・秀吉に対し、裏方に回り、誠実な人柄で皆を遇し、資金と段取りを
準備する事に徹した秀長は、決して目立ちはしなかったが多くの者からの感謝と信頼を呼び、羽柴(豊臣)
政権の大黒柱となっていた。それは秀吉もよく分かっており、100万石の大封と畿内の要所・大和郡山の地を
与えたのである。また、これは畿内のほぼ全域を秀吉と秀長で統治し政権基盤を固める意味も持っていた。
官位も大納言となった秀長は「大和大納言」と呼ばれ、大和一国と紀伊国(現在の和歌山県)などを領有。
関白となり豊臣姓を与えられた秀吉の政権運営に欠かせない調整役であり、その居城となった郡山城では
更なる整備拡張が行われていく。この時、後に“築城の神様”と称される事になる藤堂和泉守高虎が秀長の
家臣におり、彼が郡山城の拡大工事に手腕を発揮したであろう事は想像に難くない。順慶・光秀から始まり
秀長・高虎によって続けられた大和郡山城の近世城郭化工事であるが、郡山周辺には石垣に使える優良な
石材は少なく、彼らは古墳や平城京跡の敷石、古寺の墓石や石仏などの石をも用いて城郭工事を推進。
古都・奈良ならではの転用石と言えるが、豊臣政権の強大さを示す為には壮大な石垣の城が必要とされ、
その甲斐あって大和郡山城は見事な城郭となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

大坂の陣に関連する数少ない地方戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが秀長は兄に先立ち1591年(天正19年)1月22日に郡山城内で病没する。跡を養子(秀長の娘婿)の
秀保(ひでやす)が継ぐも、13歳と幼少であったため遺領のうち和泉(大阪府南部)や伊賀などは召し上げ
られ、大和と紀伊のみが受け継がれた。この秀保は中納言に任じられたので「大和中納言」と呼ばれたが
その秀保も1595年(文禄4年)4月16日(諸説あり)に17歳の若さで病死。後嗣が無く大和豊臣家はこれで
断絶、同年7月に郡山城は増田右衛門少尉長盛(ましたながもり)が城主となった。長盛は豊臣政権内の
五奉行に数えられる官僚大名で、近江国水口(みなくち、滋賀県甲賀市)6万石から大和郡山22万石へと
加増転封を受けたのである。だが秀吉も没し、1600年(慶長5年)に天下分け目の関ヶ原が起こるや長盛は
東軍・徳川家康に通じつつ西軍・石田治部少輔三成に与し、結果として戦後の9月27日に改易されている。
長盛の整備によって郡山城には総構え(城下町も囲い込む外縁防御線)も築かれていたのだが、改易に
伴い城内建築物のいくつかは伏見城(京都府京都市伏見区)へと移された。廃城同然の城は奈良奉行が
預かり、大久保石見守長安(ながやす、ちょうあんとも)次いで山口駿河守直友が在番となってござる。■■
しかし大坂城(大阪府大阪市中央区)には秀吉の遺児・秀頼が居座り、日に日に徳川将軍家との対立が
深まっていく。畿内要所たる郡山を確保する事は徳川幕府にとって必須であり、1608年(慶長13年)当地に
所縁の筒井氏一族である筒井主殿頭定慶(さだよし、じょうけいとも)が所領1万石で在番を命じられた。
その定慶に対し、大坂方は寝返りを促すが彼は断り、豊臣家との対決姿勢が鮮明になる。斯くして1615年
(慶長20年)4月26日、最終決戦を前に先手を取ろうとする大坂方が大和制圧を目論み郡山へと襲来。■■
この時の派遣軍は兵力2000ほどであったが、見誤った定慶は3万もの大軍と勘違いしとても敵わぬと諦め
城を捨てて退避してしまう。翌27日、僅かな残兵が籠る郡山城は大坂方に攻められたが、幕府軍が奈良へ
進軍して来るとの報が入った為に撤退していった。この後、5月8日に大坂城が落城して豊臣家は滅びたが
逃亡に恥じた定慶は同月10日に自害したと言うも、諸説あって定かではない。■■■■■■■■■■■■

徳川譜代大名の入封■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、筒井家はこれで滅亡。改元して元和元年となったこの年の7月19日に、水野日向守勝成が
三河国刈谷(愛知県刈谷市)3万石から3万石加増の6万石で移封され新たなる郡山城主になった。勝成は
家康の従兄弟に当たる人物で、畿内における豊臣家の遺風を払拭すべく要地の郡山に配されたのだ。
彼は荒廃した郡山城と城下町の再整備を行ったが、幕府も郡山を重視していたので、石垣や堀の修復は
幕府の公儀普請で進められた。この後、勝成は1619年(元和5年)8月には備後国福山(広島県福山市)
10万石へと加増転封に。10月、後任として郡山城主になったのは松平(奥平)下総守忠明。豊臣家滅亡後
10万石で大坂城主となりその町を迅速に復興させた彼は12万石で郡山へ加増移封されたのでござる。
行政手腕に長けていた忠明は、郡山城の隆盛を図って城の工事を継続していく。二ノ丸御殿を造営した上、
廃城となった伏見城から桜門・西門・鉄門などを移築。現在に残る郡山城の姿はこれでほぼ完成した。■■
2代将軍・徳川秀忠の信任篤く、3代将軍となる家光の後見人を任された忠明は1639年(寛永16年)3月3日
播磨国姫路(兵庫県姫路市)18万石へと更なる加増転封に。15万石で姫路城主だった本多大内記政勝が
入れ替わりで郡山城主に入り、その死後は養長子の中務大輔政長が家督を継ぐ事になったのだが、生前
政勝は実子の出雲守政利(まさとし)に遺領を継がせようとしていた。本多家は嫡男が幼少の時に当主が
没する状態を何度も繰り返し、その都度代行当主を立て、それを成長した本来の相続人へと返しており
政勝も、本来の相続人である政長に家督を返すべき処を違約して、自らの子の政利に継がせようと画策
したのであった。斯くして政長と政利の間に「九・六騒動」と言われる御家騒動が勃発。幕府の裁定により
遺領は政長9万石・政利6万石に分割され、政長は元々持っていた3万石を加えて12万石の大名となった。
その政長は1679年(延宝7年)4月24日に没するが、これは15万石全部を継げなかった事を逆恨みした
政利が毒殺したとの噂も。政利はその後も色々な悪行を重ねたとされ、罪人として生涯を終える。■■■■
一方、政長の跡は養子の中務大輔忠国(ただくに)が家督を継いだのだが、直後の6月26日に陸奥国福島
(福島県福島市)15万石へ転封となっている。播磨国明石(兵庫県明石市)6万5000石から藤井松平日向守
信之(のぶゆき)が8万石に加増されて郡山城主となり申したが、翌1680年(延宝8年)郡山の城下に大火が
発生、信之は復興に尽力したと言う。1685年(貞享2年)6月10日に老中昇進、それに伴って同月27日に
下総国古河(こが、茨城県古河市)に1万石加増の上で転封されてござる。■■■■■■■■■■■■■
これにより下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)11万石から本多能登守忠平(ただひら)が12万石に加増され
郡山に入府。忠平は本多政長の同族だが別系の家だ。忠平は郡山城下町の拡張を行っている。彼の後、
城主は能登守忠常(ただつね)―信濃守忠直(ただなお)―忠村(ただむら)―忠烈(ただつら)の順番で
継がれた。このうち、忠村は忠直の2男で、忠烈は忠直の3男だ。忠直が没し、忠村が後継となったものの
彼は12歳で病死してしまい(故に官職を得ていない)、その弟にあたる忠烈が養子に入ったのだが、当然
忠烈も幼少であったため石高は5万石に削減され、本多家中では大量の人員削減をせねばならなかった。
そして忠烈も僅か8歳で1723年(享保8年)11月27日に亡くなり、ここに郡山本多家は断絶した。■■■■■

柳沢家による統治の時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここまで水野氏・奥平松平氏・本多氏・藤井松平氏と多くの城主家が入れ替わったが、いずれも徳川譜代
家臣であり、大和を押さえる城として重要視されていた事が分かる。本多忠烈が急死したので一時的に
郡山城は主を失くしたが、1724年(享保9年)3月11日には甲斐国甲府(山梨県甲府市)から柳沢甲斐守
吉里(よしさと)が移封されてくる。石高は15万1000石。柳沢の姓から分かるように、5代将軍・徳川綱吉の
側近として知られる柳沢左近衛権少将吉保(よしやす)の長男だ。綱吉没後、柳沢家は左遷人事を受けて
徳川幕府の最要地である甲斐国を取り上げられ郡山へ転封された。とは言え、郡山も畿内の要地である
事に変わりなく、また吉里は学識ある名君であり、その統治は幕府の期待に応えるに足りる内容であった。
故に、明治時代になると郡山城址に吉里とその父・吉保を祭神として柳沢神社が建立される。■■■■■
1745年(延享2年)9月6日に吉里が亡くなると、美濃守信鴻(のぶとき)が相続し、その後は甲斐守保光
(やすみつ)―美濃守保泰(やすひろ)―造酒正保興(やすおき)―甲斐守保申(やすのぶ)と、吉里以来
柳沢氏6代が郡山城主を継承し明治維新を迎えている。そんな中で1858年(安政5年)12月1日、郡山城
二ノ丸から出火、城の居住区域は失われた。1861年(文久元年)から再建に着手するが、倒幕の機運に
新政府軍へ参加する事になり出征。城の工事は後回しとされ、1870年(明治3年)には工事の中止を決定。
そして程なく廃藩置県および廃城令発布で郡山城は廃城となった。1873年(明治6年)以降、城内の建物は
ことごとく入札により破却解体され、現存するものは郡山城下の黄檗宗(おうばくしゅう)龍華山永慶寺に
移築された南御門が山門として残るのみである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

大和郡山城の縄張りと整備事業■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
縄張りは、南北に細長い本丸を城の中央に置き、その東に毘沙門曲輪、そこから反時計回りに北東の
法印郭と玄武郭、北西に御厩郭、南西の新宅郭(緑郭)、南の二ノ丸、と並んでいく。これら渦郭式をした
主郭部一帯はまるで大坂城の縄張りを見ているかのようであり、羽柴秀長の築城は兄である秀吉の城を
見倣って作ったかのように思える程だ。両者が異なるのは大手門が西南(大坂城)か北東(郡山城)かと
言う点くらいであろう。この主郭部を、東に柳郭、西に麒麟郭と鰻堀池、そして南に鷺池・蓮池が塞いで
巨大な外郭部を構成。天守台は本丸の北部に占位。往時はここに5重6階と伝わる天守が建っていたと
伝承され、それが慶長期に二条城(京都府京都市中京区)へと移築された。この天守は後年、更に淀城
(京都府京都市伏見区)へと再移築されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城後、城内建築物は全て撤去されたが曲輪群の石垣と堀は大半が残存。1881年(明治14年)二ノ丸に
旧郡山中学校の校舎が建てられた。現在、ここは奈良県立郡山高校の敷地になっている。このような学校
転用や近代化により敷地一帯は変貌していったが、1960年(昭和35年)7月28日に本丸と毘沙門曲輪が県
指定史跡となり、以後は城地が保存・再整備されていく事になった。1979年(昭和54年)以降、大和郡山市
教育委員会や橿原考古学研究所などが発掘調査を展開。建造物の復元も行われ、1983年(昭和58年)に
追手門(梅林門、写真右)、翌1984年(昭和59年)にはそれに繋がる追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)
追手向櫓(御弓隅櫓、写真左)が市民の寄付などにより再建されている。発掘の結果、織豊期における
天守の存在が確認され、2013年(平成25年)から2017年(平成29年)にかけて天守台石垣の整備も実現。
2017年3月26日には天守台を利用した展望台も一般開放され、新たな郡山城の名所になり申した。旧態を
残す高石垣や天守台は非常に貴重なもので、同年4月6日には続日本百名城の1つに数えられた。2021年
(令和3年)本丸と毘沙門曲輪を繋ぐ極楽橋が復元された上、2022年(令和4年)11月10日には本丸周辺の
16万2177.28uが国史跡に指定された。その本丸には上記の如く1880年(明治13年)柳沢神社も建てられ、
市民公園として開放されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で犬伏城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
永慶寺山門(南御門)




多聞山城  和歌山城(紀州岡山城)