大和国 多聞山城

多聞山城跡石碑

所在地:奈良県奈良市多聞町佐保

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



大和の梟雄、松永久秀の築いた城。1560年(永禄3年)の築城といわれる。
東大寺から北西方向、佐保山丘陵に築かれた山城でござる。
もともとは聖武天皇陵の敷地であり、ここに城を築くことは前代未聞の大事件で
奈良の町衆はさぞかし驚愕したことであろう。築城資材も寺社を破却して流用している。
さすが松永弾正、神仏を恐れない罰当たりな男である。
久秀は室町幕府管領細川家の家臣三好長慶の家宰として勢力を伸ばし
多聞山城と信貴山城を足がかりとして大和国の支配権を獲得した。
大和国は筒井氏をはじめとする国衆や宗教諸勢力が覇権を競っていたが
久秀はこの混乱に乗じてそれらを排除・制圧してしまったのであった。
実際、多聞山城からは東大寺を眼下に見下ろすことができる。
久秀のことだから東大寺を足蹴にでもする気分だったのであろう。
この後、彼は東大寺を焼き討ちし大仏も破壊してしまった。
さらに主君三好長慶を謀殺、時の将軍足利義輝をも暗殺してしまう。
もはややりたい放題の久秀であったが、織田信長の侵攻には敵わず服属した。
しかし謀将・久秀、これでおとなしく引き下がる人物ではない。
本願寺・上杉・武田・毛利らと連携、数度に渡って信長に叛旗を翻す。
その度に陰謀は失敗、服従するがそれでも収まらない人間であった。
1573年(天正元年)11月、遂に久秀は多聞山城を信長に明け渡して信貴山城へ退去する。
1576年(天正4年)信長に大和守護を任じられた筒井順慶により多聞山城は破却となった。
これを恨んだのか?1577年8月、またも久秀は信長に刃向かい兵を挙げた。
今度こそは信長も許さず、10月10日に信貴山城は落城。
久秀は愛用の茶釜「古天明平蜘蛛」と共に自爆して果てた。享年67歳。
多聞山城は城郭建築史において重要な城とされる。
塁上で細長く長屋状に連なる形式の櫓を初めて建てたのがこの多聞山城といわれ、
それゆえこの形式の櫓を「多聞櫓」と呼称するようになったのでござる。
現在の多聞山城跡に建築物は残っておらず、わずかに土塁や堀切の名残があるのみ。
城域は若草中学校の敷地となっている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群




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