摂津国 尼崎城

尼崎城址標柱

所在地:兵庫県尼崎市北城内・南城内

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



大坂夏の陣後の1617年(元和3年)秀吉時代から尼崎を治めていた建部政長に代わり
徳川譜代家臣の戸田氏鉄(とだうじかね)が近江国膳所(滋賀県大津市)から5万石で入封
現在の尼崎市・伊丹市・神戸市にあたる一帯を領した。
一国一城令に基づき、富松城(下記)をはじめとする領内の他城を廃し
尼崎藩の本拠として1618年(元和4年)尼崎城の建築に着手。
工期は数年に及んだとみられてござる。
完成した城郭は連立式の4重(3重説もあり)天守をはじめ
多数の櫓や門で固めた厳重な輪郭式平城。
隣接して流れる神崎川・庄下川を濠として取りこむと共に、
城の周囲に寺社を配し出城の代わりとしたのでござる。
尼崎は大坂湾に面した港湾都市であり、川と海に囲まれた尼崎城は水城でもあった。
城内から濠と川を使って船の出入りができるようになっていたと言われる。
水に浮かぶ優美な姿から「琴浦城」の別名を持つ。
勇壮な建造物群と水利を用いた縄張りはいかにも堅城であり
大坂の西に接する譜代大名の城郭として重視されていたことがよくわかる。
城の南側には中国街道が走っており、これに沿う形で城下町が形成された。
氏鉄は1635年(寛永12年)美濃国大垣へ転封。代わって尼崎へ入ったのは
同じく譜代大名の青山幸成。遠江国掛川からの移転でござった。
青山氏の治世は4代続いたが、6代将軍家宣の時代である1711年(正徳元年)
青山秀幸が移封となり、今度は松平(桜井)忠喬が4万石で尼崎を領した。
桜井松平氏は名の通り徳川氏一門に含まれ、本来は葵の紋を使用できる家格であったが
幕府に遠慮し、敢えて桜の紋を用いていた。この桜井松平氏藩主時代の
1769年(明和6年)兵庫津(現在の神戸市)・西宮町といった海岸沿いの重商業地域は
幕府へ召し上げられ、代わりに播磨国の赤穂郡・多可郡・宍粟郡が
尼崎藩の飛地として与えられたのでござった。
桜井松平氏は7代の統治に及び、明治維新後の1873年(明治6年)1月に廃城。
藩主松平忠興は東京へ居を移し、尼崎城は全て破却されてしまった。
この際、濠に面した石垣は川の堤防としてそのまま利用されたとも言われる。
現在の尼崎城跡に現存する遺構は何もないが、城敷地内にある桜井神社に
戸田氏の九曜紋が入った天守鬼瓦が2枚保管されている。桜井神社は国学の祖であり
「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を記した契沖(けいちゅう)を祭る学問の神社。
(写真は桜井神社にある尼崎城址の標柱)
なお、阪神・淡路大震災で被害を受けた城内小学校の立替工事の時に本丸御殿跡の
遺構が検出された。このため、同校の校庭には天守と櫓の復元模型が展示される。
また、市立図書館脇には城塀を模った城址公園が整備された。
…が、これがどーにもウソっぽい。「作り物」というのがバレバレ!
一応写真撮ったんだけど、掲載する気になれません (^^;




摂津国 富松城

富松城跡

所在地:兵庫県尼崎市富松町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



富松城(とまつじょう)は尼崎市の北端に位置する小さな城郭。別名東富松城。
もともと富松城は東西に分かれて存在していたらしい。
尼崎は「海人が崎」が変化した地名とされ、
漁業や水運で栄えた町というのが容易に想像できる。
古墳時代からこの近辺には豪族が居住していたが、本格的に水運業が拓けるのは平安時代。
784年(延暦3年)の長岡京遷都に伴って神崎川と淀川を繋ぐ運河が造られたので
神崎川は瀬戸内海通運の一大拠点として発展していく。平安時代後期には
尼崎の海岸一帯は港湾都市として巨大な町が形成されていた。
「富松荘」の地名もこのころから既に文献に登場してくる。富松荘や武庫之荘といった
内陸部は摂関家のような高級貴族・東大寺や春日大社など有力寺社の荘園がひしめいており、
尼崎は農業と水運の両方で繁栄していたのでござる。
鎌倉幕府創設期には兄・源頼朝に追討された弟・源義経が尼崎の大物(だいもつ)浦から
逃亡の船出をしたという。南北朝の動乱を経て、室町時代に入ると
摂津の要衝である尼崎周辺地域には多数の城が築かれた。この地は細川・赤松といった
幕府要職を務める名家の利権が複雑に交差しており、越水城・瓦林城(いずれも西宮市)
伊丹城(伊丹市)・塚口城・大物城などの城が境界防衛や連絡の役割を担っていたのでござる。
これらの城と同様に富松城も築かれたと思われる。
富松城の所在地は伊丹・西宮・尼崎を結ぶ三角形の中心にあり
この3つの町を掌握する絶好の要地だったのである。
築城時期は1480年代頃とみられ、築城者は薬師寺氏と推定されるが定かではない。
富松城をめぐり戦国時代の動乱において幾多の戦闘が行われたが、
特に有名なのが天王寺合戦の前哨戦における攻城戦でござろう。
室町幕府管領である細川家の家督を争り、細川高国と細川晴元は数年来対立していたが
四国の三好勢を味方に付けた晴元が都から高国を追放。高国は諸国を流浪した後
備前国(岡山県東部)を治める浦上氏の後援を受けて京都奪回の軍を進めたのでござる。
1530年(亨禄3年)7月頃から本格的な戦闘が開始され、高国は晴元軍の守る各城を攻略。
籠城軍はよく持ちこたえたが、9月21日に富松城が陥落。
1531年(亨禄4年)1月には堺からの晴元増援軍も破られた。
2月には伊丹城、3月に池田城が落とされ晴元勢は危機に陥ったが、
ここで四国から細川持隆軍・三好元長軍が救援に駆けつけ
さらに播磨国から赤松政村軍が合流すると形勢は逆転した。
6月4日、天王寺に布陣する高国軍に総攻撃が仕掛けられ、これを殲滅したのでござる。
この「天王寺合戦」で破れた高国は逃亡を図ったが、晴元方の探索を逃れる事ができず
尼崎の藍染屋で大瓶に身を隠している所を発見され捕縛された。
6月8日、尼崎市内の広徳寺で切腹。享年48歳。
この後、三好元長をも粛清した晴元が中央政権を握るようになったのでござる。
さらに時代は移ると尼崎は豊臣秀吉の領地となり、代官として建部政長が派遣された。
関ヶ原合戦後、徳川幕府の時代になると上記の通り戸田氏鉄が入府し
近世尼崎城の築城に伴って富松城は破却され申した。
現在の富松城址は欝蒼とした小さな雑木林。住宅街の真中に取り残された小山である。
1963年(昭和38年)の県道工事の際、瓦や礎石が出土されている。
また、土塁の調査が行われた結果、幅11m・高さ4mにもなると推定されたが
現状は樹木に覆われて容易に判別できない有様でござる。
土塁の他に堀の跡が残るが、これも城郭愛好者でなければ何だかわからない。
「保存」というよりも、完全に「放置」されている状態である。う〜む… (ーー;


現存する遺構

堀・土塁




伊丹城  多聞山城