摂津国 伊丹城

伊丹城址石垣

所在地:兵庫県伊丹市伊丹・宮ノ前

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★☆■■■



伊丹の町の起こりは早く、市内の口酒井遺跡から出土した土器に
稲籾の痕跡が残っていることから、縄文時代に猪名川流域に集落が発生し
稲作の農耕生活を営んでいたと推定されている。
古墳時代には渡来系の「猪名部(いなべ)」と呼ばれた集団が移住し
優れた木工技術で繁栄したと言われる。猪名部の子孫は奈良東大寺の建築にも従事。
奈良時代には高僧の行基が伊丹へ訪れて昆陽池・昆陽寺を築いたのでござった。
こうして発展した伊丹の町、平安時代に入ると貴族の荘園となり
在地の武士団である伊丹氏がその守護を務めるようになった。
勢力を伸ばした伊丹氏は国人として台頭、鎌倉時代末期には
幕府要職・六波羅探題の配下として歴史の表舞台に出るようになった。
この頃に猪名川西岸の河岸段丘を利用した現在の場所に居館を構え、
次第に城郭化していった。これが伊丹城のはしりでござる。
南北朝動乱期の1353年(正平8年・文和2年)には文献に登場、
室町幕府管領(将軍を補佐し政務を統括する役職)細川家の被官として活躍する。
この間に伊丹城は逐次改良され、1472年(文明4年)には伊丹但馬守が大修築した。
1520年(永正17年)には日本最初の「天守」の記載がなされ、注目に値する。
天守の構造・理念は後に織田信長が安土城で体系化し完成されるが
その起源はこの伊丹城にあったのでござる。その信長が摂津に勢力を伸ばすと
伊丹氏はこれに従属。池田氏・和田氏と並び「摂津三守護」と賞されたが
1574年(天正2年)信長の家臣であった荒木村重の攻撃に遭い伊丹氏は滅亡。
伊丹城に入った村重は城の改造に着手、「有岡城」と改名したのでござった。
東西800m、南北1600mに及ぶ広大な段丘を総構えとして整備、石垣を巡らし
北端・西端・南端に北(岸)ノ砦・上臈塚砦・鵯塚砦を築いて防衛力を強化した。
こうして修築された有岡城は要害を利用した難攻不落の城、壮大なものとして評され
1577年(天正5年)に伊丹を訪れた宣教師ルイス=フロイスは
「甚だ壮大にして見事なる城」と書き残している。
然るに1578年(天正6年)10月、突如として村重は信長に謀反。この有岡城に籠城し
中国地方の毛利氏や三木城の別所氏と連携、信長配下の羽柴秀吉軍を悩ませた。
この謀反の原因は諸説あるが明確なことは解明されていない。
信長の下で共に働いてきた秀吉は叛乱の理由を問いただし帰参するよう説得すべく
村重と旧知であった黒田官兵衛孝高を使者として有岡城へ派遣した。
しかし官兵衛は捕らえられ、城の地下牢に幽閉されてしまう。
信長は官兵衛までが村重に加担したと疑い、官兵衛の嫡子・長政を殺そうとしたが
秀吉の軍師・竹中半兵衛重治が長政をかくまって難を逃れた。
荒木軍の籠城は10ヶ月にも及び、城兵も一致団結して持ちこたえたが
1579年(天正7年)9月ついに城主村重が城を捨て逃亡、
残された城兵はことごとく織田軍の殲滅に遭い撫で斬りにされ
捕らわれた一党500余名も見せしめに洛中を引きまわしの上、処刑された。
黒田官兵衛は救出されたものの片足が不自由な身体となってしまい、
さらに長政を救ってくれた半兵衛へ礼をしようにも叶わなかった。
半兵衛は6月13日、結核を患い36歳の若さで既に薨じていたのである。
亡き半兵衛の恩を忘れぬため、黒田家は竹中家の家紋を引き継いだという。
落城した有岡城には1580年(天正8年)池田元助が入城したが
3年後の1583年(天正11年)美濃国(現在の岐阜県南部)へ転封、有岡城は廃城となった。
以後の伊丹は豊臣秀吉、次いで徳川幕府の直轄地となり
1661年(寛文元年)からは近衛家の領地となって明治を迎えた。
城域は町屋として再生され、かろうじて各砦跡と主郭跡が残されていたが
1893年(明治26年)旧川辺馬車鉄道(現在のJR福知山線)開業によって
主郭跡の東半分が切り崩された。現在のJR伊丹駅はこの主郭東部に所在する。
さらに複線電化に伴う伊丹駅前再開発工事によって1975年(昭和50年)から
有岡城跡の発掘調査が開始されたのでござった。結果、1979年(昭和54年)
12月28日に国の史跡指定を受け残された城跡を史跡公園として整備する事となった。
堀については調査結果が不明瞭であったため、1985年(昭和60年)から1986年にかけて
伊丹市教育委員会が発掘調査を行い、深さ約5m・幅約15m〜20mの大規模なものと確認された。
北ノ砦周辺でも1986年(昭和61年)・1987年(昭和62年)の2回に渡って同様に堀を調査し
こちらでも深さ約4m・幅10m〜15m程度の堀と認められ、堀底に仕込まれた杭を検出。
荒木氏時代の有岡城が伝承通り巨大なものであったことが実証されたのでござる。
現在、有岡城跡は史跡公園として開放されている。石垣や土塁の遺構が整えられ
井戸跡・建物礎石も展示されている。JR伊丹駅の目の前なので交通の便は非常に良い。


現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁
城域内は国指定史跡




三木城  尼崎城・富松城