播磨国 三木城

三木城跡 天守台

所在地:兵庫県三木市上の丸町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



三木城は1492年(明応元年)別所則治によって築かれたとされる。
別所氏は播磨守護赤松氏の一族であり、1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱で没落した
赤松氏の復興を助け、その功績で東播磨8郡(加古川、明石、高砂など)24万石を与えられた。
この時に旧来の釜山城を改修したのが三木城だとも言われている。
三木市街地を流れる美嚢川を天然の濠とし、小高い丘陵を城郭として構えた。
以来東播磨の中心都市として栄え、別所氏は播磨国衆のまとめ役となったのでござる。
戦国時代になると畿内から織田信長が勢力を伸ばし、播磨へ羽柴秀吉が進軍してくる。
姫路城主の黒田官兵衛孝高はいち早く秀吉に恭順、別所氏もこれに従った。
さらに秀吉軍は上月城を陥落させ尼子勝久を城代として入れたのでござる。
続けて中国地方の毛利氏攻略に取りかかった秀吉は別所氏に先鋒を下命、
1578年(天正6年)2月、軍議の為に加古川城へ別所一族を招き寄せた。
この時の別所氏当主は若干21歳の別所小三郎長治。若い当主を補佐するために長治の叔父
2人が後見役となっていた。一人は早くから織田家に親密であった別所重棟。
もう一人は毛利家と誼を通じていた別所吉親でござる。加古川城へ参上したのは
織田家に反抗的な吉親の方で、秀吉との折り合いがつかず交渉は決裂する。
別所氏は織田氏と交戦中であった丹波国の波多野氏と姻戚関係であった事もあり、
三木城へ戻った吉親は長治を説得して秀吉に叛旗を翻し挙兵に及ぶ。
他方、重棟はこれに反対して秀吉軍に合流した。
長治は周囲の豪族を糾合し大勢力を結集、秀吉方に付こうとした勢力を掃討した。
ちなみに、この時に討たれた一族に藤原氏の末裔である冷泉為純がいたが、
かろうじて生き残った為純の3男が秀吉に敵討ちを依頼した。
この3男が朱子学の祖とされる藤原惺窩(ふじわらせいか)でござる。
惺窩は乱世を生き抜き、後に江戸幕府の思想統制政策に貢献した。
さて、毛利攻めの前に思わぬ叛乱が発生した秀吉は三木城平定に腐心する。
別所氏の挙兵に同調して毛利氏は上月城を包囲する事となり
秀吉はやむを得ず尼子勝久を見捨てる事態に至った。
これにより上月城は毛利軍に落とされ尼子一党は滅亡した。
播磨に入国して日が浅い秀吉は基盤が固まらず、戦況不利であったのだ。
播磨国衆を多数抱えた三木城は容易に落ちず、これを毛利氏が支援。
戦いは長期戦になる様相を呈した。さらに秀吉と共に播磨攻略に当たっていた
信長の家臣・荒木村重までが10月に叛乱を起こし伊丹城に立てこもる。
驚いた秀吉は黒田官兵衛を村重説得の使者に送ったが、捕虜として捕まってしまった。
信長は官兵衛が荒木軍に寝返ったと疑い、官兵衛の子・長政を処刑しようとした。
この混乱を収めたのが秀吉の軍師・竹中半兵衛重治である。
半兵衛は事故死した子供の遺体を長政のものとして信長に報告し長政をかくまった。
この後から攻守逆転、秀吉の反撃が始まる。
1579年(天正7年)3月、秀吉は毛利氏に従っていた宇喜多氏を懐柔し味方につける。
同年7月に丹波国波多野氏が滅亡、9月には荒木村重が逃亡し伊丹城は落城した。
伊丹城から救出された官兵衛は片足が不自由となってしまったが秀吉軍に復帰、
嫡子長政の命を助けてくれた半兵衛の恩を終生忘れなかったという。
結核を患っていた半兵衛は既に6月13日陣中で死去していた。享年36歳。
官兵衛は竹中家の家紋を黒田家の家紋として引き継ぎ、
子々孫々まで半兵衛の交誼を伝えたのである。
この間、秀吉軍は三木城を孤立させて包囲。無理な力攻めは行わず兵糧攻めに徹し、
平定した土地に検地を行って支配を強化していた。
一方、毛利軍や荒木軍との連携が消えた三木城中は飢餓に喘ぐようになり
牛馬や木の芽はもちろん戦死した兵の人肉さえも食料とした。
いわゆる「三木の干殺し」と呼ばれる凄絶な籠城戦でござる。
秀吉はこの戦法を鳥取城や備中高松城の攻略にも用いた。
1580年(天正8年)正月、敗北を悟った別所長治は秀吉の勧告を容れて降伏、
別所一族の自刃と引き換えに城兵の助命嘆願を申し出た。
秀吉はこれを受諾、自刃前に酒宴を開くべく兵糧を提供した。
1月15日、三木城開城。17日に長治・友之(長治の弟)・三宅治忠(家老)らが切腹した。
「今は只 恨みもあらず 諸人の 命にかはる 我身と思へば」
長治23歳、辞世の句である。自害した別所一族は法界寺に葬られた。
約束通り城兵の命は助けられたものの22ヶ月の籠城に及んだ三木の町は疲弊しきっており、
これを救済するために秀吉は年貢・労役の永代免除を約束したのでござった。
この恩典は徳川幕府の統治時代にまで引き継がれている。
落城した三木城には前野長康が入城、1585年(天正13年)に中川秀政が城主となる。
中川氏統治時代に三木城は改造され、天守なども築かれたのでござる。
1596年(慶長元年)には但馬豊岡城主杉原家次が三木郡を領有する事となった。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後は姫路城主池田輝政が三木郡を統治するようになり
三木城代として輝政の家老・伊木清兵衛忠次が入城した。
1615年(元和元年)に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、三木は小笠原忠真に預けられる。
忠真は明石城の建築に着手、一国一城令に基づいて三木城を破却して
その用材を明石城の建築資材としたのでござった。
現在の三木城址は公園となっており、本丸跡からは三木の町が一望できる。
天守台と伝えられる小塚(写真)の上には別所長治辞世の句を記した石碑が建つ。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群




出石城  伊丹城