但馬国 出石城

出石城跡から市街を望む

所在地:兵庫県豊岡市出石町内町
(旧 兵庫県出石郡出石町内町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★☆■■



但馬国(現在の兵庫県北部)の由来は「古事記」「日本書紀」に記載がある古いもの。
新羅(朝鮮半島南東部にあった王朝・356年〜935年)王子である天日槍(あめのひぼこ)が
妻を追いかけて渡日し流れ着いた地が「多遅摩(但馬)」であったとされている。
出石の地名も天日槍の持っていた宝物「出石小刀」から取られたものと云われており
天日槍は出石町内の出石神社に祭られている。
この記載は伝承にすぎないが、但馬国と大陸との交流は古代から盛んであり
製鉄をはじめとする様々な大陸技術がこの地に伝えられてきたのでござる。
鎌倉幕府が成立すると小野時広、さらに承久の乱(1221年)後には太田昌明が
但馬守護になり、鎌倉時代後期まで太田氏が守護職を相続する。
そして室町時代、但馬を制圧したのは名門山名家の当主・山名時氏(やまなときうじ)。
山名氏は新田氏の傍流にあたり、足利将軍家と同じく源氏の末裔である。
時氏の子・時義(ときよし)は但馬守護として出石に入府、
1372年(文中元・応安5年)頃に此隅山(このすみやま)城を築いた。
元々は「子盗山(こぬすみやま)」であったのが訛って「此隅山」になったと言われる。
標高140mの山頂に主郭を配し尾根沿いに多数の曲輪を設置。
麓には屋敷や城下町を形成していた中世城郭でござる。
以後、山名氏は但馬以下11ヶ国の守護職を独占し
「六分の一衆(全国60余国のうち11国を領有)」と呼ばれる程に権勢を強めたが
これを危険視した室町3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の討伐を受け
1391年(元中8・明徳2年)に当主山名氏清が敗北。
この「明徳の乱」で山名氏の領国はわずか3ヶ国に減らされてしまった。
1392年(明徳3年)に時義の子・時熈(ときひろ)が但馬守護職を相続。
さらに1433年(永亨5年)に時熈の子・持豊(後に出家して宗全)が守護になると
山名家は勢力を回復するべく積極的に中央政界に介入、管領細川氏と対立し
1467年(応仁元年)に「応仁・文明の乱」を引き起こす。この大乱で日本は戦国時代に突入、
下剋上(身分の低いものが実力で上位のものを倒す)の風潮により
従来の権威・身分・社会制度が一切否定される世になったのでござる。
実力を伴わない各地の守護大名は一部を除いて没落。山名氏も例外ではなく弱体化し
中国地方の新興勢力であった毛利氏・尼子氏らに従属を繰り返すようになる。
そして1569年(永禄12年)羽柴秀吉率いる織田信長軍が此隅山城を攻め落とす。
城主山名祐豊(すけとよ)・氏政(うじまさ)親子は辛くも脱出し、1574年(天正2年)
此隅山の南方2kmにある有子山(標高321m)に新たな山城を築いて抵抗を図ったが
この有子山城も1577年(天正5年)と1580年(天正8年)に秀吉の討伐に遭い落城。
祐豊・氏政親子は因幡(現在の鳥取県東部)へ逃亡し、但馬守護山名氏は滅亡した。
秀吉は占領した出石に木下昌利、続いて青木勘兵衛を配した。
1585年(天正13年)には秀吉股肱の臣である前野長康が入府、さらに1595年(文禄4年)
播磨国(現在の兵庫県南部)龍野から国替えとなった小出吉政が6万石で出石を預けられる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で小出氏は家名存続の為に東西両軍に分かれて参戦。
吉政とその父・秀政は西軍、吉政の弟・秀家は東軍に与したのでござる。
秀家の戦功は目覚しく、おかげで吉政は西軍に加担しながらも出石を安堵された。
吉政の嫡子である吉英(よしふさ)は1604年(慶長9年)山頂の有子山城を廃城とし
その麓に新たな平山城を築き直した。これが現在の出石城でござる。
稲荷曲輪と呼ばれる郭を最高所にし、その下に本丸・二ノ丸・三ノ丸を置いた梯郭式。
堀と共に西の出石川・東北の谷山川を防衛に利用、城と同時に整備された城下町全体を使って
敵軍の侵入を防ぐようになっている。城下町の各街道口には大規模な寺院を建立、
砦の役割を担わせており、例えば京街道丹波口にある経王寺には
城櫓同様の鐘楼を設けていて銃撃用の狭間が作られている。
また、出石城には7つの城門が作られ、大手門脇には時鐘用の大櫓「辰鼓櫓」があった。
吉英は1613年(慶長18年)和泉国岸和田(大阪府岸和田市)へ除封、代わって弟の
吉親(よしちか)が出石城主となるが1619年(元和5年)に再び吉英が出石城主に任じられ、
吉親は丹波園部(京都府船井郡園部町)2万8000石の領主に封じられたのでござった。
この後、小出氏9代が出石を領したが1697年(元禄10年)無嗣断絶、今度は徳川親藩である
藤井松平忠徳(ただのり)が武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)から4万8000石で入府。
忠徳は1702年(元禄15年)に三ノ丸対面所御殿を建設、以後歴代出石城主の居館となり申した。
1706年(宝永3年)には信濃上田(長野県上田市)の仙石氏と藤井松平氏が国替えとなり
6月2日に上田城を引き渡した仙石政明(まさあきら)が同月15日に石高5万8000石で出石城へ入った。
これ以降、出石は城主の交替なく明治維新まで仙石氏が統治したのでござる。
仙石氏は信州からさまざまな物産を出石に伝え、特に蕎麦は郷土の名産として現在に根付いている。
更に江戸時代中期には出石で磁器の生産なども行われるようになったのでござる。
また、仙石氏統治時代には学問が奨励され、1775年(安永4年)には仙石政辰が学問所を開校、
これを1782年(天明2年)に仙石久行が「弘道館」と改めた。
もう一つ、仙石氏の時代で挙げる事象が「仙石騒動」と呼ばれる御家騒動でござる。
1835年(天保6年)仙石氏の分家2家が藩財政運営を巡って対立したのが発端。
仙石造酒(財政担当)と仙石左京(行政担当)の争いが幕府に知れる所となり
出石藩5万8000石は3万石に減封、仙石左京は切腹の裁きが下った。
時代は幕末に移ると出石にも激動の波が押し寄せる。弘道館で学んだ多田彌太郎は
来るべき大乱に備え軍備拡張を目指し独学で木製大砲を製造。
倒幕運動に賛同し、1863年(文久3年)生野の変で挙兵したが失敗し死亡した。
翌1864年(元治元年)、蛤御門の変(禁門の変)で破れた長州藩士・桂小五郎は
名を偽り素性を隠して各地を逃亡、7月に出石へたどり着いて身を潜めた。
出石滞在中は商人になりすましていたという。
この桂小五郎、「維新の三傑」の一人・木戸孝允その人である。
こうした曲折を経て1868年に明治改元。明治新政府に恭順の意を示した出石城主仙石久利は
他藩に先駆けて居城を破却した。同年9月の事である。
これにより城の建築物は全損、城下も1876年(明治9年)3月26日の大火で多くを失ったが
残された町並みは現在もその姿を留めている。仙石左京宅跡には家老屋敷が移築保存され
周囲には武家屋敷の軒が連なっている。また、辰鼓櫓は明治以降時計台として生まれ変わり
現在はオランダ製の3代目大時計が時を刻んでいる。
旧出石町は伝統的町並みの景観保護を重視し、電線等をいち早く地中埋没化させており
観光産業振興の為に駐車場や道路も整備してきた。
出石城の復元工事も行われ、1967年(昭和43年)に隅櫓を再建。
1994年(平成6年)には大手口の登城門と登城橋も建立されてござる。
仙石氏の縁続きで1979年(昭和54年)に長野県上田市と姉妹都市協定を調印。
「但馬の小京都」の通称を持つ出石の町、古き伝統を今に残す努力で未来へと進むのは
本家京都の町に負けない心意気でござろう。


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群




竹田城  三木城