淡路国 洲本城

洲本城本丸石垣

所在地:兵庫県洲本市小路谷

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★★☆■■



淡路島最大の都市・洲本市を一望する標高133mの三熊山頂に築かれた山城でござる。
紀伊国(和歌山県)熊野から移ってきた安宅(あたぎ)氏の築いたものと言われ、
築城時期は室町時代後期(1500年代前半?)とみられる。
もともと安宅氏は熊野水軍の頭領で、熊野灘から紀伊水道、
さらに淡路島へと勢力を伸ばしたのでござる。
淡路島に入った安宅氏はまず由良城を築き、周囲に支城を多数配置した。
この支城群のひとつが洲本城である。
淡路島は大阪湾・播磨灘・紀伊水道の水運を掌握する戦略・交通の要衝で
当然、山陽道・紀伊半島・四国、そして畿内に睨みを利かせる効果も兼ね備えていた。
安宅氏はこの縁で足利将軍家から瀬戸内海の海賊退治を任じられた事もある。
応仁・文明の乱を経て天下が麻の如く乱れると、安宅氏は阿波守護細川氏に従属。
三好氏が細川氏を討ち畿内に進出すると、安宅治興は同調して淡路支配権を確立した。
これにより、治興は三好長慶の弟・冬康を養子に受ける。
安宅冬康は安宅水軍を継承し四国と畿内の軍事力を統べ、兄である長慶を補佐。
畿内一帯と四国の東半分は三好氏の領土となり、中央政界は足利将軍家でも管領細川家でもない
三好氏が掌握して、天下は三好氏のものになるかと見えた。
が、三好氏の家宰である松永久秀が天下を我が物にせんと画策、
様々な謀略を仕掛けて主家である三好氏の勢力を削いでいったのでござる。
久秀は長慶の嫡子・義興(よしおき)を気取られないように暗殺。
悲嘆に暮れる長慶に安宅冬康謀反の讒言をしてこれを攻め滅ぼさせた。
ほどなく長慶は精神に異常をきたして病没。久秀は生き残った三好一族を巧妙に操り
目障りな将軍・足利義輝をも闇討ちにしてその野望を顕にした。
畿内は権力の空白地帯となり、天下の気勢は見えなくなってしまったのでござる。
この後、久秀は尾張から伸張した織田信長と服属・反抗を繰り返し、自らもまた滅びるのであった。
さて淡路国でござるが、安宅冬康死亡の後はその子・信康が家督を継承して領国とした。
三好・安宅氏は永らく織田信長と対立していたが、松永久秀が信長に討たれた事を機に降伏。
信康は本拠であった由良城を羽柴秀吉・池田元助らに明け渡し、
洲本城もこれに倣って開城となったのでござる。
新たに淡路領主として仙石秀久(せんごくひでひさ)が任じられ、
由良城以下淡路の各城はその支配下に入る。
本能寺の変で信長が亡くなり、羽柴秀吉が後を継ぐ頃になると、
四国は土佐国(現在の高知県)から侵攻した長宗我部(ちょうそかべ)氏が威勢を張り
秀吉と対立するようになっていた。秀久は長宗我部氏攻略の先鋒に立つ事になり
苦戦の末これを撃破。1585年(天正13年)降伏した長宗我部氏は土佐一国の領土に減じられ、
仙石氏は讃岐国(現在の香川県)に転封となったのでござる。
秀久に代わって淡路国には脇坂安治(わきさかやすはる)が入り淡路水軍を吸収。
安治は「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる武功派、秀吉子飼いの将として信任も篤かった。
脇坂氏は洲本城を改修して水軍の本拠地とし、豊臣水軍の中核を形成する事となる。
この水軍は後に後北条氏の小田原城攻めで海上封鎖作戦を行い戦果を挙げた。
現在に残る洲本城の石垣は脇坂時代に作られたものでござる。
秀吉が没し、関ヶ原合戦を経て徳川幕府が開かれると脇坂氏は転封。
この際、洲本城の天守は移封先の伊予国(愛媛県)大洲城へ移築されたという。
1615年(元和元年)大坂の陣の功労で淡路国は阿波徳島藩主である
蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)に加増された。徳島藩は合計25万石の大身となる。
至鎮は秀吉出世の立役者で有名な蜂須賀小六正勝の孫でござる。至鎮は淡路統治に稲田氏を派遣。
1631年(寛永8年)から4年掛かりで由良城下を洲本へ移転させ、由良城を廃城とする。
この「由良引け」で洲本城が淡路政庁と定められ、明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めた。
1642年(寛永19年)太平の世において山城は不要とされ、三熊山の麓に政庁機能を移転。
これ以降、山上の洲本城が使われる事はなかったのでござる。
明治維新を以って洲本城は廃されたが、1928年(昭和3年)に昭和天皇御大典記念として
鉄筋コンクリート製の模擬天守を建造(写真)、現在に至っている。
展望台として公開されている模擬天守からは洲本の町並みだけでなく
紀淡海峡越しに遠く紀伊半島をも望むことができ申す。


現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




赤穂城・大嶋城  龍野城