播磨国 龍野城

龍野城跡

所在地:兵庫県龍野市上霞城

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★★★■■



龍野は「播磨の小京都」と呼ばれる閑静な町でござる。
揖保川の清流は醤油・素麺・皮革といった伝統産業を育み、
川の水運や姫路との往来で古くから賑わっていた。
この龍野にはじめて城を築いたのは赤松村秀。1400年代後半と見られる。
当時の城は現在と異なり鶏籠山の頂上に造られた山城であった。
赤松氏は播磨守護の名族であったが、この時期実権は被官の浦上氏が握っており
村秀の子・政秀は浦上氏や他勢力を打倒するべく交戦。
室津城主であった浦上政宗を攻め滅ぼし、三木城の別所氏と組んで
黒田氏や小寺(おでら)氏とも対立したが、今度は逆に毒殺されてしまう。
これ以後、播磨国は様々な勢力が乱立し、最終的には
織田信長の命を受けた羽柴秀吉によって制圧されたのでござる。
これに伴って龍野には小出吉政など秀吉直臣が配置された。
江戸時代に入ってから龍野を統治したのは脇坂氏。
1672年(寛文12年)信濃国(現在の長野県)飯田から脇坂安政が入府し
今度は鶏籠山の麓に平山城を築いた。これが現在に残る龍野城でござる。
脇坂氏は「賤ヶ岳の七本槍」として知られる秀吉直臣・脇坂甚内安治を祖とする。
安治は関ヶ原合戦で西軍から東軍に寝返り、1609年(慶長14年)伊予国(現在の愛媛県)
大洲5万3000石の所領を与えられたが、その子・安元は1617年(元和3年)信濃飯田へ転封。
さらに安政の代に龍野へ国替えとなったのでござる。
徳川幕府から敵対視される外様の家柄であったが忠勤に励み、
10代安薫は幕府老中に任命される。外様大名が老中に任じられたのは
江戸時代265年を通じて脇坂安薫ただ一人である。
11代安宅も寺社奉行となり、脇坂氏は外様にして破格の栄達を遂げたのである。
当然、龍野城下も繁栄した事はいうまでもない。明治になって城は廃されたが
武家屋敷や寺社、商家などは現在に至るまでその姿を留めている。
「小京都」の名に恥じない古き良き街並みはぜひ一度散策してみる事をお奨めする。
現在、龍野城址は公園として整備されており
隅櫓・多聞櫓・埋門・本丸御殿などが復元されてござる。
特に本丸御殿は脇坂時代の御殿建築を忠実に再現しており、一見の価値あり。




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