播磨国 明石城

明石城 坤櫓(左)と巽櫓(右)

所在地:兵庫県明石市明石公園・大明石町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★★☆



JR山陽本線明石駅の北側が兵庫県立明石公園、かつての明石城跡でござる。明石は平安時代から風光明媚な
須磨・舞子の地として知られ、いわば平安貴族の保養地として繁栄していた。戦国時代には京から山陽道を下り
淡路島・四国や中国地方へと進む要衝となり、明石市内にある船上(ふなげ)城(下記)が拠点となっている。
大坂の陣が終わり、幕藩体制の整った1617年(元和3年)7月、信濃国松本(長野県松本市)8万石から2万石を
加増され徳川譜代家臣である小笠原左近将監忠真(おがさわらただざね)が10万石で明石に移封。入国当初は
船上城に入ったが、1618年(元和4年)2代将軍・徳川秀忠が西国諸大名への備えとして忠真に新城の建築を下命。
築城に際し秀忠は姫路城(兵庫県姫路市)主・本多美濃守忠政の指導を受けるように指示し(忠政は忠真の義父)
塩屋町(現在の兵庫県神戸市垂水区塩屋町)・かまが坂(兵庫県明石市和坂)・人丸山(赤松山)という3箇所の
築城候補地から人丸山、即ち現在の城地が選ばれ明石城の造営が決定された。人丸山の傍には大きな池があり
これが城の防備に転用できるという事からの判断だそうな。
明石城の用地は海岸に張り出した丘陵を利用した平山城。東から西へ向かって東ノ丸、二ノ丸、頂部に本丸、
一段下がって稲荷曲輪と続く。外周には水濠や池が多数存在し、水利の便は非常に良い。城下に西国街道が通過、
海岸には港湾が整備され陸海交通の要所となっている。幕府は普請費用として銀1000貫目(現在の31億円)と
普請奉行3名(建部政長・都筑為政・村上吉正)を派遣、1619年(元和5年)正月から工事が開始された。本丸と
二ノ丸・三ノ丸工事は幕府直営、その他の曲輪は幕府と小笠原氏の共同工事で進められ、同年8月中旬に石垣
堀・土塁が完成。この時点で幕府による普請が終了したため普請奉行3名は江戸に帰参したのでござる。9月から
忠真による塀・門・櫓・御殿などの作事が開始され、建材として廃城となった伏見城(京都府京都市伏見区)や
三木城(兵庫県三木市)の古材が転用された。本丸の四隅に三重櫓を配し、中心に御殿を造営。その脇に天守台も
構築されたが実際に天守が建てられる事はなかった。1620年(元和6年)正月には忠真が船上城から居を移し、
残された工事もその年の4月に一応の完成を見る。城全体で櫓は20基、門は27棟を数えた。が、1631年(寛永8年)
火災が発生。三ノ丸下屋敷台所から出火、本丸全域にまで火が回り、御殿なども焼失してしまった。本丸四隅の
三重櫓は建て直されたが御殿や多聞櫓は再建されず、やむなく三ノ丸に屋敷を建てて藩主の御殿とした。ただし
焼失した御殿から数点の襖絵が搬出され大坂の蔵屋敷に保管。これが数度の改変を受けた後、太平洋戦争後に
海外へ売却されたが現在は日本に戻され、愛媛県美術館に寄託されており申す。
話を戻すと、翌1632年(寛永9年)11月に忠真は豊前小倉15万石へ転封。半年間は城主不在で幕府直轄となり、
姫路の本多能登守忠義・内記政勝が交代で在番。1633年(寛永10年)4月に信濃国松本から移封となった戸田松平
丹波守康直が7万石で城主に任じられた。しかし康直は1634年(寛永11年)5月12日に嗣子なく病没し、本来ならば
武家諸法度に基づき御家断絶となる筈であったが戸田家は父祖の功績目覚ましく、徳川3代将軍・家光から特段の
思し召しが下され丹波守光重(みつしげ、康直の甥)に家督相続が許された。1639年(寛永16年)3月3日、光重は
美濃国加納(岐阜県岐阜市)に転封。加納から入れ替わりで大久保加賀守忠職(ただもと)が入るも(石高7万石)
1649年(慶安2年)7月4日、1万3000石加増の8万3000石で肥前国唐津(佐賀県唐津市)へと移った。新たに明石城の
主となったのは藤井松平山城守忠国、石高は7万石。その死去により2男・日向守信之が相続した際(長男は早世)
3弟の信重に5000石を分知した為、明石藩領は6万5000石になった。信之の在城時、儒学者・片山兼山が中国の故事
「塩鉄論」から明石城を「喜春城」と称した。以後、明石城の別名として喜春城の名が定着する。この他、明石城には
「錦江(きんこう)城」の雅号もある。
松平信之は1679年(延宝7年)6月26日、大和国郡山(奈良県大和郡山市)に転封。その郡山にて支藩であった
郡山新田(こおりやましんでん)藩主の本多出雲守政利が6万石で明石藩主に就任、城を預かる。しかし政利は
暗愚の主君で、前藩主であった戸田松平氏が2代に渡って善政を敷いた明石の地において過酷な収奪を実施、
さらに幕府からの巡見使に対して無作法を働いた事で陸奥国大久保(岩瀬藩、現在の福島県須賀川市大久保)
1万石へ1682年(天和2年)2月22日に減転封の懲罰を受ける。ちなみに、政利の狂乱は度重なる懲罰を招くが
死ぬまで収まらなかったという。
本多政利に替わって明石城主となったのは松平(越前松平系)若狭守直明(なおあきら)、石高は6万石。前任地は
越前国大野(福井県大野市)。直明は徳川家康の2男・結城秀康の孫に当たる人物で、親藩として西国要衝・明石を
守る事になり、1697年(元禄10年)には改易となった美作国津山(岡山県津山市)藩主・森衆利(もりあつとし)から
津山城を受け取る大任を果たしている。1701年(元禄14年)長男の但馬守直常に家督を譲って隠居、以後は明治まで
越前松平家が明石城主を継承してござる。直常の後、左兵衛督直純(なおすみ)―丹後守直泰(なおひろ)―
左兵衛佐直之―左兵衛督直周(なおちか)―左近衛権少将斉韶(なりつぐ)―兵部大輔斉宣(なりこと)―
左近衛権中将慶憲(よしのり、初名は直憲)と続き明治維新を迎えた。松平家8代藩主の斉宣は徳川11代将軍
家斉の末息子(つまり12代将軍・家慶の末弟)から養子入りした人物で、その血縁により明石藩は2万石加増の
8万石とされ、家格は10万石同等になったが、むしろそれにより藩の出費が嵩み財政は火の車になったと言う。
また、前藩主・斉韶に押し付けられた養子縁組であったが、結局斉宣は嗣子なく死去したため斉韶の実子である
直憲に家督が戻ってきたという経緯がござる。1869年(明治2年)2月8日、慶憲が隠居し左兵衛督直致(なおむね)が
藩主の座を継ぐもその年の6月17日に版籍奉還で知藩事になり、更に1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県。
直致は免官、主が東京へ去った明石城は明石県庁となったが11月2日に姫路県に統合、飾磨県と改称された為
1873年(明治6年)の廃城令で廃城、城跡は官有地として管理されるようになり申した。ちなみに、現在の兵庫県と
なるのは1876年(明治9年)8月21日の事である。
さて、城の建築物は民間に払い下げされるようになり1873年に居屋敷曲輪切手門が月照寺の山門として移築された。
現在の明石市人丸町にある曹洞宗月照寺はもともと人丸山にあった寺で、明石城の築城に際して移転させられた
歴史を持つ。山号はそのものズバリ、人丸山だ。そこに移築された明石城切手門は、これまた伏見城薬医門で
あった建物を明石城へ移した建物。つまりこの門は2度の移築を受けた訳でござる。伏見城、そして明石城の
残存建築である月照寺山門は現在も威風堂々とした姿を残し、1970年(昭和45年)5月21日に明石市指定の
文化財となっている。この他にも城内建築の破却は進み、1881年(明治14年)に本丸艮(うしとら)櫓を解体して
神戸相生小学校の建材とした(神戸相生小学校は現在の湊川小学校)。こうした城の荒廃を憂いた旧藩士が
城跡保存の儀願書を県に提出、1883年(明治16年)国から明石公園として明石城保存の許可が下りた。城跡は
私設明石公園として生まれ変わったが、1898年(明治31年)10月に宮内省所管の御料地に編入され、公園は
廃園となってしまった。1901年(明治34年)宮内省京都事務所によって痛みの激しい本丸・二ノ丸土塀の取り壊し、
本丸乾(いぬい)櫓の破却、巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓の大修理工事が行われた。しかし1918年(大正7年)
4月、御料地利用計画は撤回された為、兵庫県が本丸敷地を宮内省から借り受け県立明石公園として再び
公園開放が行われるようになった。1924年(大正13年)には公園区域を拡張、1929年(昭和4年)に御料地全域の
払い下げを受けて1932年(昭和7年)3月には現在の明石公園の状態となったのでござった。
明治の大修理を受けて残った巽櫓と坤櫓は1957年(昭和32年)6月18日に指定された国の重要文化財である。
巽櫓(写真右)は桁行5間・梁間4間、高さ7間1寸。入母屋屋根の棟向きは東西。船上城からの移築建築。
坤櫓(写真左)は桁行6間・梁間5間、高さ7間2尺9寸。屋根の棟向きは南北。1982年(昭和57年)の解体修理で
伏見城からの移築物と判明している。石垣や堀・土塁なども江戸時代の姿をそのまま残した遺構であったが
1995年(平成7年)1月17日早朝の阪神・淡路大震災で非常に大きな被害を受けてしまった。石垣は各所で崩壊
沈下し、2基の櫓は壁面の剥離・ひび割れを起こしわずかに傾斜。しかし櫓自体が倒壊する事はなかった。これは
1901年の大修理によって建物の強度が増していたために成し得た事象であった。とは言え、櫓の土台である
石垣が崩落した状態にあっては、いつ櫓そのものが落下するとも限らない。緊急の危機に瀕した明石城に関し、
兵庫県では震災直後から城郭遺構の復旧工事に着手。文化財未指定の石垣を含めて、伝統的工法による
修理工事が行われた。この修復工事は「平成の天下普請」と呼ばれる程の大規模なもの。櫓は建造物と
基台石垣を同時に補修するために曳屋工法を採用。巽櫓は62m、坤櫓は48m移動させ仮設置し木組を補修。
これと併せて石垣の組み直しと櫓台の修復を行って再び元の位置に戻された。最後に壁の塗り直しと屋根の
葺き替えを行って修理完了。石垣修復は1995年8月〜1997年(平成9年)3月、櫓修復は1995年10月〜2000年
(平成12年)3月に渡った。2基の櫓を繋ぐ本丸土塀も1999年(平成11年)3月〜2000年3月において
約100年ぶりに復元され、現在は往時の明石城の姿を偲ばせる美しい外観を誇っている。本丸展望台からは
明石の新名所・明石海峡大橋(明石パールブリッジ)を望むことができ、平安時代から続く観光都市の心意気を
今に伝えている。2004年(平成16年)9月30日、城跡は国の史跡に指定。日本百名城にも選出されている。


現存する遺構

坤櫓・巽櫓《以上国指定重文》
堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
月照寺山門(居屋敷曲輪切手門(旧伏見城薬医門))
太鼓(明石城太鼓門内所蔵物)《以上市指定文化財》







播磨国 船上城

船上城跡 古城大明神

所在地:兵庫県明石市新明町・船上町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



室町時代に播磨守護の赤松氏が砦を築いたとする説がある一方、永禄年間(1558年〜1570年)三木城(兵庫県三木市)の
支城として別所氏が築城した事を創始とする説もある。この当時は林ノ城と呼ばれていた別所氏の城は、時の別所氏当主
長治の叔父である山城守吉親(よしちか)が守っていたとされ、林ノ城下にあった浄蓮寺には吉親を本尊とする観音像が
安置されている。しかし別所一族は織田信長に反抗し1580年(天正8年)1月に滅亡。反信長の最右翼であった吉親も
然りである。別所氏が滅びるに先立つ1578年(天正6年)の時点で織田家が攻略した明石の地は、蜂須賀小六政勝配下の
稲田左馬亮植元(いなだたねもと)が占領。これにより1580年、蜂須賀正勝が林ノ城を与えられる。この後、林ノ城主は
生駒政勝(雅楽頭親正の事か?)に移っている。生駒家は蜂須賀家との縁が深かった事からの人事であろう。
本能寺に織田信長が斃れ、新たな天下人として羽柴秀吉が急成長していた1585年(天正13年)8月、秀吉の命により
国替えが行われ、摂津国高槻(大阪府高槻市)4万石から明石郡6万石に移封された高山右近重友が入る。右近は
枝吉城(兵庫県神戸市西区枝吉)を仮居とし、従来の林ノ城を廃し改めて築城(林ノ城を大改造したとする説もある)、
これが船上城としての始まりでござる。キリシタン大名として有名な右近は名築城家としても名を馳せており、
低湿地帯に浮かぶ船上城を作る難工事はその面目躍如と言った所でござろう。城下町も含め、翌1586年(天正14年)
頃には完成していたと云われている。史料には「城構多門塀ヲ掛ケ小サキ殿主モ有リ之候」とあり、総構(城構)に
多聞櫓を並べ、天守相当の望楼櫓も備えた立派な城だったようである。
ところが秀吉はキリスト教が全国統一の阻害になると考え禁教令を発布。キリスト教信者であった右近にも
棄教を迫った。しかし教義は命より大事とするほど熱心なキリシタンであった右近は、これを拒否する。激怒した
秀吉は右近を改易、1587年(天正15年)6月の事である。大名としての地位を失った右近は死罪になると考えられたが
周囲からの助命嘆願もあって加賀前田家の客将として引き取られる。一方、主を失った船上城は秀吉直轄の城に。
数名の城番が交替した後、関ヶ原合戦後の1600年(慶長5年)10月に姫路城(兵庫県姫路市)主・池田輝政の支城と
なった。輝政は自身の9男・摂津守利政(としまさ)を城代とし4190石(後に5000石)を与えたが、輝政が没し
代替わりした1613年(慶長18年)池田家の家宰・池田出羽守由之(よしゆき)が4万石で新たな城代になっている。
ところが池田家は1616年(元和2年)6月またも代替わりを迎えた。新たな姫路城主となった光政はまだ幼少であった為
翌1617年3月、鳥取32万石へと減転封とされてしまう。これに伴い池田一門は播磨を去り、池田由之も伯耆国米子城
(鳥取県米子市)の城代に転任。そして同年7月、船上城に小笠原忠真が入り明石城への移転に繋がっていくのである。
明石城への移転に伴って船上城は廃城とされる。また、明石築城の資材として船上城の古材が転用されたともあり
城の侍屋敷門は、明石城下の重臣屋敷・織田(おた)家の長屋門として用いられた。この織田家長屋門は現在まで
残されており、1970年(昭和45年)5月21日に明石市指定文化財となってござる。加えて、明石城の巽櫓も船上城から
移築された物だという伝承がある。
大坂の陣以後、幕府から一国一城令が発布された事により池田時代の末期から既に廃城状態であったとする説もある
船上城は、一方で1619年(元和5年)に火災で焼失し廃城となったという説もある。いずれにせよ明石城の完成により
その役目を終えたこの城は、次第に風化し耕作地へと変貌。現状では住宅街に埋もれ、ごく僅かな微高地に小さな祠が
建てられている(写真)一角が、かつての本丸跡だとか。この微高地は周囲を田圃に取り囲まれており、さながら堀に
浮かぶ曲輪の姿を想像させてくれるが、それ以外に目立った遺構はない。しかし1981年(昭和56年)度に兵庫県教育
委員会が行った周辺の発掘調査に拠れば、堀跡の一部と思われる溝状遺構ならびに建物に伴う暗渠が検出されてござる。
言われてみれば確かに、城跡の周囲には細かい用水路が張り巡らされている。これが城の堀跡なのかもしれない。更に
1991年(平成3年)明石市教育委員会による調査では東西に延びる屋敷境の溝跡を確認。その溝跡からは焼けた瓦類の他
17世紀初頭の唐津焼・志野焼・織部焼などが出土し、本丸を囲繞する武家屋敷地が整備されていた様子を窺える。以降
明石市教育委員会は数度に渡って発掘を行っており、2007年(平成19年)の調査でも武家屋敷地の遺構を確認。この時は
深さ約70cmの柱穴痕を2m間隔で検出、東西3棟の建物があった事が裏付けられ、遺物2000点が出てきたという。なお、
廃城後も寺町として城下町が残っていた可能性も指摘されている。周囲の小字名にも、城のみならず寺に関連する
古地名が用いられており、城下町・寺町それぞれの名残を今に残してござる。
古城大明神の祠が建つ本丸跡は明石警察署の西120mの位置。周辺は住宅地で駐車場などは無いので来訪時には
注意されたい。ここは明石川河口の西岸に位置し、往時は海川両方の水運を担う要地だった事が推測できる上
すぐ目の前を走る道路はかつての山陽道で絶好の築城好地だった訳だが、現在はその面影もない。


現存する遺構

堀・土塁・郭群

移築された遺構として
明石城巽櫓(伝 船上城移築櫓(天守?))《国指定重文》
織田家長屋門(侍屋敷門)《市指定文化財》







播磨国 舞子台場

舞子台場跡

所在地:兵庫県神戸市垂水区東舞子町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



幕末、異国船の襲来に備えて明石藩が構築した砲台場の1つ。文献史料には舞子砲台跡とも記されている。現在、
明石海峡大橋の北側橋台が備えられている舞子公園の片隅に位置してござる。
アメリカ合衆国のペリー提督は江戸湾に来航し開国を要求、江戸幕府はその圧力に屈し1854年(安政元年)日米
和親条約を締結したが、その年に大坂湾へはロシア帝国のプチャーチン使節を乗せた艦が入り込み同様の要求を
行っていた。将軍の居る江戸湾岸をはじめ、日本沿海全土の海防は急務であったが、当時の日本経済の心臓部たる
大坂や天皇の居る京都に近い大坂湾の防備も最重要課題の一つとされ、周辺諸藩に対して幕府は台場構築や
大砲鋳造などの海防命令を下す。既に1853年(嘉永6年)3箇所の台場を建設していた明石藩は1862年(文久2年)
9箇所の台場を追加構築。翌1863年(文久3年)14代将軍・徳川家茂の上洛時に大坂湾岸の警備状況が視察される
事と予定され、明石藩は更なる海防増強を求められる。時の藩主・松平慶憲は幕府から1万両の貸し付けを受け
台場の拡充工事に着手、この時に舞子台場が建設された。対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場(兵庫県淡路市)と
連携し、明石海峡を通過する外国船を挟撃できる位置を選択したと言う。竣工は1865年(慶応元年)でござる。
設計・築城指揮には現地へ赴いていた幕府の軍艦奉行並・勝海舟が、設備担当は幕使の佐藤與之介があたった。
このほか神戸海軍操練所等の協力があったと言う。
南向き、つまり明石海峡側に砲門を向ける舞子台場は東西幅およそ70mの規模をもち、Mの字の縄張りをした半星形の
稜堡式城郭(西洋砲術理論に基づいた単郭城塞)で、外周を幅6〜10m、高さ10m程度の石垣が一周していた。このうち
現状で残存する石垣の高さは平均6mに減少しているが、これは台場の下層部分(基礎)に相当する部分で、往時は
その上に出入口となるアーチ形門や砲門の上部構造物が作られていたようだ。明石藩学問所儒者・橋本海関の記した
「明石名勝古事談」に拠れば、前面には砲門が15基設けられ背後に5つの石製円形門等があったという。全国各地に
台場あるいは稜堡式城郭の遺構は残存しているが、そのいずれも石垣と土塁の併用構造になっている中、舞子台場は
総石垣造りになっており、これは現在確認される中では日本唯一のものとされてござる。その一方で、砲弾庫や火薬庫
それに兵舎など台場として必須の施設は建設されず、実際には大砲も据えられなかったようで、この台場が実戦に
用いられる事はなかった。
明治末期、火災により上部構造が滅失・破却され高さが半減、その後も護岸工事などにより台場跡地は埋め尽くされ
旧来の遺構は総て湮滅したかに見られていた。近年に至るまで舞子台場は残存状況が悪いと考えられていたが
共同住宅開発に伴い2003年(平成15年)に神戸市教育委員会が発掘調査を行ったところ、台場石垣の残存を確認。
このため発掘は数度に及び継続され、結果的に石垣は全域にわたって良好な保存状態である事が判明し申した。
また、護岸として固められた海岸線はそのまま台場基礎を流用したものとも確認され、つまり舞子台場は単純に
「埋没していただけ」の状態だった訳である。花崗岩を用いた石垣は、海に面した部分(戦闘正面側)で特に形状を
統一した角石を並べ、表面にはすだれ加工など美麗な表面加工を施して威儀を示していた。石垣の基底部は胴木を
据える念入りな基礎工事を行っていることも発見され、最末期の幕府が欧米列強の軍事的圧力に対抗し得る強固で
威厳を備えた台場を構築したという証拠となった。激動期の軍事・外交努力の一端を垣間見る貴重な遺跡である
事から、遺構面積4353.96uが2007年2月6日に国指定史跡となったものの、保存の為にその殆どが再度埋められ
埋没保存の形式を採っている。このため、現状では遺構らしいものを現地に見る事は難しいが、残存石垣の
天端(てんぱ、最上段列)が公園として整地された平坦面の中に組み込まれた形で表示されている。
なお、国史跡の登録名称は「明石藩舞子台場跡」。公園ベンチが大砲の形になっているのがオシャレ(笑)



現存する遺構

石垣・郭群
城域内は国指定史跡




姫路城・男山構・御着城  赤穂城・大嶋城