播磨国 姫路城

姫路城 本丸全景

所在地:兵庫県姫路市本町 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★★
公園整備度:★★★★★



播磨平野に独立する丘陵「姫山」に築かれた平山城でござる。その起源は1333年(元弘3年・正慶2年)に
播磨守護職であった赤松則村が砦を構え、子の貞範によって1346年(正平元年・貞和2年)本格的な
城郭化されたものと言われている。時は南北朝の動乱期、赤松氏は北朝方足利尊氏の重臣として活躍し
室町幕府の成立後は侍所所司を任じられる四職(ししき)の一つに入る名族であった。室町時代前期には
順調に勢力を拡大、幕府での権力も大きかったが1441年(嘉吉元年)赤松満祐(みつすけ)は6代将軍
足利義教(よしのり)と対立、遂に将軍を暗殺する事態に発展する。満祐は領国播磨で幕府の追討軍と
戦うが、山名氏をはじめとする大軍には敵わず敗北してしまう。この「嘉吉の乱」を境に赤松氏は勢力を
衰退させ没落の一途を辿ったのでござった。
1467年(応仁元年)に「応仁・文明の乱」が起こり戦国時代になると播磨国は被官や国人が独立、赤松氏は
名目上の守護に成り下がる。姫路城は在地豪族・小寺(こでら)氏の領城となり、その後は黒田氏が
実質上の城主となる(近年の研究では赤松氏ではなく黒田氏の姫路築城説も注目されている)。
黒田重隆(しげたか)・職隆(もとたか)親子は小寺氏の家臣として重用されたが、職隆の子である
孝高(よしたか)は京から勢力を伸ばしてきた織田信長への服従を表明、主家である小寺政職(まさもと)を
退去させ姫路城に羽柴秀吉を招き入れた。この孝高こそ秀吉の懐刀と呼ばれた名軍師・黒田官兵衛でござる。
1580年(天正8年)、姫路に入城した秀吉は城郭の改修に着手し、3重の天守を持つ西国攻略の一大拠点として
生まれ変わった。同時に城下町を楽市とし、姫路は播磨随一の都市として繁栄したのでござる。姫路城は
秀吉による中国地方攻略の本営となり、本能寺の変においては中国大返しの中継拠点としても大いに
活用された。こうした経緯で姫路城は豊臣政権成立時における不動の地位を確保し、その功績により黒田
官兵衛もまた立身出世するのである。よって黒田氏は九州地方に大きな所領を得る栄転を果たしたが、一方で
姫路城は羽柴秀長(秀吉の弟)次いで木下家定(秀吉正室・寧子(ねね)の兄)と城主が代わり、関ケ原合戦の
後には「西国将軍」と称された池田三左衛門輝政が52万石で封じられる。輝政は徳川家康の娘婿に当たり、
征夷大将軍となる家康の意を受け、西国大名に睨みを利かせると同時に大坂城(大阪府大阪市)で居座る
豊臣秀頼を封じ込めるべく、姫路城の防衛力強化を図った。秀吉の縄張りをさらに拡張、近世城郭としての
体裁を整えるべく新規築城と同様の大改造を行い1601年(慶長6年)に工事を開始。池田氏による改造は
8年に及び、現存する5重6階+地下1階の大天守やそれに連なる連立式天守群はこの時に作られ申した。
姫路城の主郭部分である姫山区画(天守から三ノ丸にかけての東側主要部)は概ねこうして完成するが、
池田氏は輝政の後を継いだ利隆(としたか)―光政(みつまさ)の3代で転封を命じられる。光政は
家督相続時9歳の幼さであった為、幼少を理由に鳥取37万石に減転封させられたのだが、この間に豊臣氏は
滅びており、巨大な姫路城を外様大名である池田氏に与え続けるのは幕府にとって危険であると判断された
事が裏にある。1617年(元和3年)3月6日、光政は転封、代わって15万石の姫路城主に同年7月14日から
任じられたのが徳川譜代家臣の本多美濃守忠政。「家康に過ぎたるもの」と賞された本多平八郎忠勝の
嫡子でござる。この時期、2代将軍である徳川秀忠の娘・千姫と忠政の嫡男・忠刻(ただとき)が婚姻。忠政は
忠刻・千姫夫妻の為に城域西側の鷺山区画で西ノ丸を拡張、千姫の居所として化粧櫓や長局を整備した。
これにより今に残る姫路城の全容が整った事になる。ところが忠刻は家督を継ぐ前に病没してしまい
忠政の跡は甲斐守政朝(忠政2男、忠刻の弟)が継ぐ。夫と死別した千姫は江戸に戻り、政朝も子のないまま
病没したので彼の従兄弟である政勝が家督相続。しかもその翌年である1639年(寛永16年)には
大和郡山(奈良県大和郡山市)15万石へと移封され申した。このように本多家の治世は慌ただしく過ぎ
替わって大和郡山から18万石で入った奥平松平忠明も1644年(寛永21年)に死去、嫡子・忠弘が継ぐも
これまた幼少を理由に1648年(慶安元年)6月14日、出羽国山形(山形県山形市)へ転封された。
山形から15万石で入れ替わりを命じられたのは越前松平直基(なおもと)であったが、移動中の8月15日に
没し、姫路に入る事はなかった。その後嗣であった長男・直矩(なおのり)はこの時まだ5歳。やはり
幼少の君主は幕府から姫路城主に不適当とされ、1649年(慶安2年)6月9日に越後国村上(新潟県村上市)へと
移される。今度は陸奥国白河(福島県白河市)から榊原忠次が姫路城主となり申したが、この忠次は徳川四天王
榊原康政の孫。また母は徳川家康の姪であり名門中の名門と言える人物である。本多家に次いで榊原家も
入封した姫路であるが、忠次は名族の名に違わぬ活躍を見せ、4代将軍・徳川家綱の後見として幕政に
参与する傍ら播磨国内では加古川の改修工事を行い、更に新田開発にも取り組んだ。榊原家は刑部大輔政房
式部大輔政倫(まさみち)と続くが、この政倫も家督相続時わずか3歳であった為、幕府から転封を
命じられた。1667年(寛文7年)6月19日、榊原家は越後国村上へと移り交代で越前松平直矩が姫路城主に復帰。
ところが一族の御家騒動に巻き込まれ、1682年(天和2年)2月7日に豊後国日田(大分県日田市)7万石へと
減転封。同月12日、本多忠国(ただくに)が姫路城主となるが、その没後を継いだ3男・忠孝(ただたか)は
1704年(宝永元年)越後国村上に移された。そして村上から榊原政邦(まさくに)が姫路に入る。
政邦は政倫の養嗣子である。この後、政祐(まさすけ)― 政岑(まさみね)―政純(まさずみ)と
榊原家は代を重ねるが、1741年(寛保元年)11月1日に越後国高田(新潟県上越市)へと転封。
今度は陸奥国白河から越前松平明矩(あきのり)が入封するも、1745年(延享2年)来日した
朝鮮通信使の接待役を命じられ、財政困窮につき領内で過大な御用金を課した事から大一揆を
誘発させてしまった。1748年(寛延元年)11月16日、その一揆に対処している最中に明矩は病没し
11歳の嫡男・朝矩(とものり)は1749年(寛延2年)1月22日に上野国前橋(群馬県前橋市)へと
転封させられてござった。前橋から姫路へ移ったのが幕府の重鎮・酒井忠恭(ただずみ)。
これまで目まぐるしく入れ替わった姫路城主の座は、以後明治維新まで酒井家が継ぐ事になり
ようやく安定した統治を迎えるようになる。尤も、松平家の苛政により起きた一揆で、忠恭の
姫路入府は5月まで待たされており、必ずしも順風満帆なものではなかったようだ。忠恭の後、
酒井家は忠以(ただざね)―忠道― 忠実(ただみつ)―忠学(ただのり)―忠宝(ただとみ)
忠顕(ただてる)―忠績(ただしげ)―忠惇(ただとし、ただとうとも)と9代続き、忠績は
江戸幕府最後の大老、忠惇も老中に就くなど幕閣で重きを為した。まさしく徳川譜代家臣筆頭である
酒井家の面目躍如と言った所だが、それはつまり幕末の混乱期において明治新政府に敵対的な事でも
あった。徳川幕藩体制の維持を貫かんとする酒井家に対し、鳥羽伏見の戦い以後一気呵成に幕府を
崩壊させようとした薩長らは姫路城の明け渡しを要求。当時、江戸にて徳川慶喜の処遇改善を求めていた
忠績・忠惇は当然これを拒絶するつもりであったが、藩の存続を危惧した国元の家臣らは独断でこれに
対処せざるを得なかった。姫路城を攻略せんと包囲した薩長方の岡山藩兵が大砲の威嚇射撃を行い
中濠を扼する福中門が破壊されている。いよいよ戦火が及ぶと危惧された折、姫路藩家臣や領内豪商らが
新政府への恭順と献金を行い、城の被災は免れた。また、新政府の命により忠惇は強制隠居の処分が下り
最後の藩主である忠邦(ただくに)が家督相続する事になる。忠邦は藩内の佐幕派に弾圧を加え一掃、
これにて姫路城は辛くも戊辰戦争の戦火を回避した。
さて近世姫路城の縄張りでござるが、東西それぞれに頂を持つ丘陵部を取り込んだ城地は、東の頂点である
姫山一帯を備前丸(いわゆる本丸)とし、そこには3つの小天守(東小天守・西小天守・乾小天守)を従える
大天守が連立式天守群を構成。大天守直下の南側には城主の御殿(備前丸御殿)が広がっていた。
西の頂点である鷺山は、前述の通り西ノ丸になっており、広大な敷地を有した。備前丸と西ノ丸の間は捨堀の
三国堀で隔てられ、城内へと至る道を分断・攪乱する構造になっている。その三国堀の南側に菱ノ門と呼ばれる
巨大な櫓門が塞ぎ侵入者を排除する訳だが、この菱ノ門には優美な火頭窓などの装飾が施され、単に武骨な
戦闘設備ではなく城主の権威を示す象徴にもなっている。菱ノ門の南側には広大な三ノ丸が広がり、江戸時代
中期以降には城主御殿が築かれ平時の政庁になっていた(備前丸御殿は狭隘かつ山上で不便であった)。
三ノ丸以内の敷地が内曲輪とされてござる。その内曲輪を囲い、中堀によって区画される敷地が中曲輪。
さらにそれを取り巻く巨大な総構以内の部分が外曲輪である。この外曲輪は現在の姫路駅付近まで達し
「西国将軍」池田輝政が大坂城包囲網の一翼を担い、西国大名の東上を阻止する為の兵力集中拠点とした
築城意図を体現するものとなっている。外曲輪→中曲輪→内曲輪へと至る導線は螺旋状の順路となっており
付近を流れる船場(せんば)川から取り込んだ水路を巧みに利用して水堀を形成していた。この縄張りから
姫路城は特に渦郭式(かかくしき)の縄張りと呼ばれる事がある。言わずもがな、これらの曲輪には無数の
城門や櫓が建ち並び、しかもそれらは全て城漆喰総塗込の外観で統一され、姫路城の類稀な美観を作り出す。
このように秀麗な姫路城ゆえに白鷺(しらさぎ、はくろとも)城との雅称を付されたのも納得であろう。
版籍奉還・廃藩置県へと続く流れの中、1873年(明治6年)1月14日に発布された廃城令においても
姫路城は存城の扱いとなり、維新後も内曲輪内はほとんどの建物が残された。しかし城地には陸軍の
大阪鎮台姫路営所が置かれ、歩兵第10連隊が入渠してござる。これに伴い外郭部の建造物は破却され
主郭部の建造物も不要と判断されたものは順次競売にかけられる。その中には天守も含まれており
城下の米田町に住む金物商が23円50銭で落札した。しかしこの頃から城郭の文化財としての価値を見出した
有識者や、郷土の誇りとして城の存続を望む民衆の声も上がり始め、実際には天守が取り壊されずに済んだ。
さらに全国各地の城を所管する事となった陸軍においても、中村重遠(しげとお)工兵大佐が貴重な建築物の
保全を訴え、また駐日ドイツ公司・マックス=フォン=ブラントも同様の意見を政府に具申した。これを受け
明治政府は姫路城と名古屋城(愛知県名古屋市)の修復・保護を決定。富国強兵を志す明治初期の政府財政では
満足な保護費用は捻出されなかったが、これが姫路城保全の第一歩となり、中村大佐は姫路城の大功労者として
現在、城内に顕彰碑が置かれている。陸軍用地であった城域も次第に開放されるようになり、1928年(昭和3年)
9月20日、国の史跡に指定された。天守群建造物は1931年(昭和6年)1月19日に旧国宝の指定を受け、その他の
現存建造物も同年12月14日に指定を受けている。太平洋戦争の戦局が悪化すると、姫路も空襲が懸念され
上空から目標とされやすい真っ白な建築物を偽装する為、黒い網が城内随所に掛けられた。こうした中の
1945年(昭和20年)7月3日の夜、恐れていたB29による空襲が姫路を襲う。城下の町は焼き尽くされ、城内では
西ノ丸に2発の焼夷弾が落ちたが、片方は不発、もう片方はすぐに消火されて事なきを得た。また、翌朝に
点検した所、大天守内部にも焼夷弾が入り込んでいたが、やはり奇跡的に不発であった。この弾は窓から中に
飛び込んだ物と考えられる。現代の感覚では爆弾のような大きな塊が城の細い窓枠から入り込むなどあり得ないと
考えがちだが、実際の焼夷弾(米軍が用いたE46など)は収束焼夷弾であり、落下途中の上空で小型の弾頭が
散らばって落ちてくるのでこのような事例もあるのである。小型の弾頭(M69焼夷弾)は直径8cm・長さ50cm程度の
筒状になっている。要するに「卒業証書を仕舞うケース」のような棒だ。とは言え、これを放置したままでは
いつ爆発し城を燃やすかわからない。危険を覚悟の上、大天守を守る為に市民らはこの弾を城外へ
搬出したと言う。彼らもまた、名もなき姫路城保護の功労者であった。いくつもの幸運が重なり、
城は極めて良好な保存状態が保たれた。戦後の文化財保護法により、1952年(昭和27年)3月29日
国の史跡に再指定。中濠以内は1956年(昭和31年)11月26日に特別史跡へと昇格したのでござる。
さて築城以降、数度の修理が施されてきた姫路城。特に江戸幕府の崩壊後は朽ちるに任せられ、中村大佐ら
先見の明ある有志らが応急的修復を為したが、それも限界に達した1956年(昭和31年)から1964年(昭和38年)に
かけて「昭和の大修理」が行われた。この工事では天守の全解体が行われ、腐食した部材の交換など
さながら新規築城に匹敵する大掛かりなものでござった。斯くして姫路城は再び生き返る。その大修理から
およそ半世紀を経た2009年(平成21年)から2015年(平成27年)の間に再度の大修理が行われる。これは
「平成の大修理」と呼ばれ、主に壁面の塗り替えや屋根瓦の吹き替え、それに耐震補強が目的とされた。
広大な領域を有する姫路城は、天守の修理が終わった後も城内随所を順番に補修し続けている。
こうしている今も、どこかで何かしらの修繕が行われているのである。
白壁で輝く大天守は誰もが見たことのある巨大な後期望楼型天守。8建造物から構成される天守群は1951年
(昭和26年)6月9日、改めて国宝に指定。現存する櫓27基、門15棟や塀も国指定重文とされている。
「播州皿屋敷」の怪談で有名なお菊井戸や点茶に用いられた鷺清水井戸、水を満々と湛えた堀、
外郭建造物基台の石垣なども残されており見所は多数!1993年(平成5年)12月10日には奈良法隆寺と共に
日本初の国連世界文化遺産に登録された。天守までの登閣路はつづら折りなどの巧妙な縄張りを
そのままに残しており戦国時代の城郭遺構を存分に堪能できる。
日本が世界に誇る文化財としてぜひ一度訪れてみるのをお奨めいたす!


現存する遺構

天守群(大天守・東小天守・西小天守・乾小天守)
天守渡櫓(イ、ロ、ハ、ニ の二重渡櫓)《以上国宝》
化粧櫓・井郭櫓・帯の櫓・帯郭櫓・折廻櫓・太鼓櫓
イ、ロ、ハ、ニ、ヘ、カ、ヨ、タ、レ、リの一、リの二 の渡櫓
ロ、ニ、ホ、ト、チ、ヌ、ル、ヲ、ワ、カ の櫓
水の一、水の二、との一、との二、との四 門
い、ろ、は、に、へ、ち、り、ぬ の門
菱の門・備前門・塀延べ1000m《以上国指定重文》
水の三、水の四、水の五 門・ほの門
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定特別史跡
国連世界文化遺産登録








播磨国 男山構

男山構跡 男山配水池公園

所在地:兵庫県姫路市山野井町・南八代町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★■■■■



姫路城からほぼ真西、標高57.5mを数える独立小丘陵が男山(おとこやま)でござる。この山はかつて筥丘(はこおか)と
呼ばれ、いにしえの説話に度々登場する。奈良時代の713年(和銅6年)に編纂された「播磨国風土記」によると、神代の昔
大汝命(おおなむちのみこと)は子・火明命(ほあかりのみこと)の乱暴に耐えかね、火明命を因達神山(いだてのかみやま)に
置き去りにして船出してしまう。それに怒った火明命は嵐を起こして船を難破させ、積荷の箱が流れ着いたのが筥丘であったと
される。また、同じく積荷の蚕子(ひめこ)が漂着したのが日女道丘(ひめじおか)つまり姫路城のある姫山で、これが
「姫路」と言う地名の元になったと言う。加えて、1762年(宝暦12年)に記された「播磨鑑」には「飾磨(しかま)の褐染め」なる
伝承が残されている。これには長者屋敷(現在の陸上自衛隊姫路駐屯地あたり)から逃れてきた旅の男が辿り着いた山が男山、
一緒に逃げた女が着いたのが姫山だとされており、いずれの話でも男山と姫山が非常に近しい関係にある様子を窺わせる。
要するに、姫路城の出城として築かれたのが男山構(おとこやまがまえ)という事でござる。詳しい来歴は不明であるが、
創建は室町時代と見られ、1440年(永享12年)関東で起きた結城合戦に出陣しようとした播磨守護・赤松満祐が周辺豪族に
出兵を命じたところ、男山構の主・山野新藤次成明なる者が従わず兵の供出を拒否した為、追放されたと言う。成明の後、
時を経て畑七十郎という者が入ったとも伝わるがそれ以上の事は分からない。
姫路平野の中、ただ一つだけ孤立した山は確かに砦を構えるに適した場所と言えよう。が、経歴も分からぬ上に遺構らしい
遺構も風化して全く判別できない。よってこの山は出城と言うよりも姫路城を望む景勝地として有名になっている。さらに
山頂には姫路市の上水道配水池が置かれ、それを整備した公園になっている為、市民の憩いの場でもある。山に登るには
急峻な階段をひたすら駆け上がるのみである故、その急傾斜が城らしさを感じさせる唯一のよすがでござろうか?
ところで男山と言えば中腹にある名社・男山八幡宮が有名だ。その起源は1345年(興国6年・貞和元年)赤松貞範が姫路城の
守護神として京都の岩清水八幡宮から分祀し、この地に社を構えた事に始まる。歴代城主により手厚く祀られ、
1679年(延宝7年)松平直矩が社殿を修理、1716年(正徳6年)には榊原政邦が社殿を新築再建した記録が残る。
加えて1623年(元和9年)3月に創建された千姫天満宮も名所。本多家に嫁いだ千姫は前夫・豊臣秀頼の菩提を弔う為、また
本多家の家内安全を願う社を求めた。彼女は城内西ノ丸に居住していたので、そこから見える男山に神社を築き、毎日
城内に居ながらにして拝礼できるようにしたのだ。現在、千姫にあやからんとする女性の観光客に人気でござれば
砦跡とは知らずとも、男山は姫路城と一体不可分な霊験の地として良く知られている。







播磨国 御着城

御着城跡 御着城跡公園

所在地:兵庫県姫路市御国野町御着

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★■■■■



「ごちゃくじょう」と読む。別名で茶臼山城、天川城とも。上記・姫路城の項の冒頭に登場した小寺氏歴代の城。
戦国期においては三木城(兵庫県三木市)・英賀(あが)城(兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)と共に“播磨三大城”と
数えられた程の大きさを誇った。それと言うのも、かつて播磨守護所が置かれていたのがここ御着の地であると伝わり
嘉吉年間(1441年〜1444年)には何かしらの構築物が、明応年間(1492年〜1501年)頃に守護所として用いられる
城館に相当する施設が守護・赤松氏によって作られたとされている。御着のすぐ傍には旧山陽道が走っており、播磨の
要衝という場所であった訳だ。しかし、本格的な城郭の構築となるともう少し後の時代となり、1519年(永正16年)
小寺政隆が茶臼山と呼ばれる小丘陵に城を築いた。これが御着城としての創始となる。政隆は赤松氏の被官であったが
姫路城代を任じられる程の実力者であり、既に没落し名目的な守護でしかなかった赤松氏から独立志向を見せており
守護所を上書きする形て小寺氏の城を築いたのには、独自の権力基盤を固める狙いがあったと考えられる。勿論、
この頃に隠居しようとしていた政隆の隠居城という意図や、赤松氏に対抗して播磨征服を目論んでいた隣国の
浦上(うらがみ)氏に対する備えという目的もあったようだが、この城の成立によって小寺氏は播磨国内で群を抜く
実力者に成長していく。
赤松・浦上の間で揺れ動く播磨国内情勢において、小寺氏の去就は大きな鍵を握った訳だが、浦上村宗(むらむね)は
赤松氏への攻勢を強め、時の管領(室町幕府において将軍を補佐する最高権力者)・細川高国(たかくに)と連携。
この過程において、御着城主・小寺政隆は赤松氏に従って浦上軍と戦っていた為、村宗は1530年(享禄3年)御着城を
攻撃。城は落ち、政隆は自刃に追い込まれた。しかし翌1531年(享禄4年)畿内で細川高国軍が敗北、この戦いに
参加していた村宗も討死してござる。斯くして浦上氏は急転直下勢力を失い、この年に政隆の子で姫路城主であった
小寺則職(のりもと)が御着城を取り返し、そのまま城主になったのである。以後、姫路城は家老の黒田氏に任せ
小寺氏は御着城を本城とした統治体制を確立していく。父・政隆は赤松家臣としての体裁を一応は見せていたが、
則職はもはや赤松氏に従って右往左往するのを良しとせず、1538年(天文7年)山陰の太守・尼子(あまご)氏が
播磨へ侵攻した際には尼子方に加わって赤松氏を攻撃している。赤松氏は辛くもこの難を逃れたが、この戦いにより
小寺氏を取り込む必要性を痛感。その結果、赤松氏は小寺氏の補佐なくして成り立たぬ程に弱体化した事となり
逆に言えば、小寺氏こそが実質的な播磨支配者に成りあがった訳である。播磨守護所たる御着の地に城を持った
小寺氏の意図は、こうして成し遂げられたのでござる。1545年(天文14年)則職は城を子の政職に譲って隠居。
加賀守政職の頃になると小寺氏はほぼ独立勢力のようになっており、もはや赤松氏の威勢など関係なく自領を治め
黒田職隆・孝高父子らを配下に播磨国内の地固めを行っていた。黒田父子には自身の姓である“小寺”を与え、
「主君」としての存在感を高めている。しかし一方、この頃になると東からは織田、西からは毛利という巨大勢力が
播磨を挟んで対峙してきた。如何に守護・赤松氏を凌駕した勢力とは言え、一地方豪族に過ぎない小寺氏がこれらの
大勢力に拮抗する事などは不可能。小寺氏が生き残る道はいずれかの勢力に与する事しかなかった。政職としては
ここが思案の為所で、どちらに従うかでその後の命運が変わってくる。どちらかに付けば、もう一方に敵対するからだ。
思いあぐねる政職は家臣の大勢に従い毛利氏を選ぼうとするが、そこに異論を唱えたのが切れ者・黒田孝高であった。
既に畿内を制圧した織田信長こそ「天下に最も近い勢力である」と進言したのだ。結果、これに従って小寺家は織田家に
接近、1575年(天正3年)播磨には信長家臣である羽柴秀吉が進軍してきた。孝高は自分の城である姫路城を秀吉に
献上し旗色を鮮明にする。政職は孝高の橋渡しによって秀吉に従う道筋が付けられたが、しかし信長に反対する勢力も
根強く、例えば有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木摂津守村重や三木城の別所一族などが織田家に翻したため、遂に政職も
「信長の統治は盤石に非ず」と思い、織田家の支配から離脱する。この結果、秀吉は小寺氏の討伐に動き1578年(天正6年)
(1579年(天正7年)や1580年(天正8年)説もあり)御着城は秀吉軍1万もの大軍勢に攻められた。政職は城を抜け出し
逃亡、留守になった城を守った岡本秀治が降伏した事で落城の憂き目を見た。その後、御着城は秀吉配下の蜂須賀
小六正勝の預かるものとなったが、程なく廃城になり申した。一方、終始一貫として織田家への服属を貫いた
黒田孝高は秀吉の下で取り立てられ、後に天下人となる豊臣秀吉随一の軍師にまで出世。名軍師・黒田官兵衛の
千里眼によってその居城であった姫路城は、御着城の支城という立場から今や世界遺産にまでなった訳だが、本城で
あった筈の御着城は政職が思案の為所を間違え廃絶したのである。江戸時代、城跡の隅には本陣が置かれたと云うが
現在は僅かに土塁の一部が残るのみで跡地は御国野公民館(写真)や御着城跡公園の敷地になっている。公民館は
かつての巨城に倣って天守風の建物になっているものの、言わずもがな当時の御着城は典型的な中世城郭であり、
このような天守は存在しなかった。
御着城はすぐ西側を蛇行して流れる天川を天然の濠とし守りを固めていたようで、詳細な縄張は不明だが江戸時代の
1755年(宝暦5年)に記された「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼城地絵図」には中心に本丸と二ノ丸を置き、西〜南は
天川を利用した二重の堀で守り、北と東は4重もの堀を掘削、外郭部に家臣団屋敷や町屋の記載があり、当時としては
先進的な惣構えを備えた城の姿が描かれている。なるほど確かに播磨三大城の異名は伊達ではないようだ。
姫路市埋蔵文化財センターが行った1977年(昭和52年)〜1979年(昭和54年)の発掘調査により、この城が14世紀の
後半から16世紀後半まで存在し、特に16世紀中期から大型・中型の堀や土塁が構築されて本格的な城郭開発を行った
様態を検出した。さらに当時の生活に深く関わる土器・陶磁器・木製品・石製品・将棋の駒・碁石などが出土、
御着城に関する伝承がほぼ事実と見て間違いない状況を物語ってござる。


現存する遺構

土塁・郭群





丹波篠山城  明石城・船上城・舞子台場