摂津国 茨木城

茨木城跡 茨木小学校模擬城門

所在地:大阪府茨木市片桐町・本町・上泉町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



茨木市街地の中、茨木小学校を中心として周囲の宅地一帯が城跡と伝わる。
城地の東側に安威川(あいがわ)、西側に旧茨木川がそれぞれ北から南へ流れ
2つの川に挟まれた南北に細長い敷地を利用していた。なお、茨木川の流路は近代になって
付け替えられ、現在は川の跡地が緑地帯公園になっている。河川改修が必要であった事から
分かるように、茨木川は昔から水量の多い大河で、城の西側を防備するに適した
要害地形だったと考えられる。茨木城自体は水田地帯の中にある平城であった事から、
こうした河川の防御力は城の存亡を決する重要なものでござった。城の縄張りは
茨木小学校の北東隅〜片桐町12丁目の南端あたりを方形の本丸(主郭)とし
そこから北側へと二ノ丸〜四ノ丸と曲輪が連なる連郭式の構造。もっとも、東西河川の
流路に挟まれている為、北側の(すなわち前衛の)曲輪になるにつれて敷地面積は
狭くなる。さらにこうした曲輪群全体を囲む外曲輪があり、城の外周は水田つまり
低湿地が広がっていた訳でござる。よって、城の大きさは比較的小規模だった筈だ。
典型的な水郷地帯の平城と言えるが、このような城は往々にして明治以降の近代化で
全て宅地化されてしまうのが常。茨木城も御多分に漏れずそうした運命を辿り、今や
城跡としての遺構は全く残らず、街路が所々で筋交いになっているような部分、あるいは
暗渠となった水路の跡に当時の城としての構えを推測するに留まる。そもそも茨木城跡
周辺の宅地は密集し車がすれ違えない程(しかも一方通行が多い)の路地ばかりなので
それらの“隠れた痕跡”すらじっくりと見つけるのは困難を極めるのが惜しい所。
その一方、廃城時期が早かった事もあり移築建築はいくつか残されている。
搦手門とされる高麗門が茨木神社の東門として、また旧櫓門の1棟が奈良県大和郡山市の
慈光院(じこういん)なる寺に移築され茨木門と称され、それぞれ現存してござる。茨木門は
かつての楼閣形式門を改変し茅葺の山門となっているが、その旧態を復元した門が
茨木小学校の校門(写真)になっている。現存建築として残る門の復元建築とは何とも
ややこしい話であるが、教育現場に“地元の歴史”を物語る建物が作られているのならば
今は完全に消え去った茨木城も、少しは浮かばれるのではなかろうか。この他、脇門が
近隣にある妙徳寺の表門に移築されており、石垣遺構の石材も茨木神社内に移設。また、
現存はしないが、総門が片桐貞隆(最後の城主)の江戸屋敷表門として移されたと伝わる。
城の起源は諸説あって定かではない。南北朝争乱期の建武年間(1334年〜1338年)
南朝方の英傑・楠木正成が築城したと言うのが最も古いものだが、その他にも
室町幕府管領(将軍を補佐し政務を統括する最重要役職)の細川氏に仕えていた
安富(やすとみ)氏が築いたとか、福富氏のものであるとか言われて不明でござるが
いずれにせよ室町中期には在地の国人・茨木氏の城となっていたようである。茨木氏は
室町幕府に奉公しており、応仁・文明の乱において東軍に属した野田泰忠なる将が
1467年(応仁元年)5月20日の記録として「摂州茨木之城」に陣を構えたと記したものが
この城の文献上における初出である事から、茨木城は幕府御番衆の城として重要だった。
しかし一方で国人領主としての側面を併せ持つ茨木氏は、1482年(文明14年)に起きた
摂津国人一揆で時の管領・細川政元と対立。一揆を鎮圧せんとする政元は国人衆の城を
次々と攻め滅ぼしていき、この年の6月に三宅城(茨木市内)を落城せしめ、次いで7月
茨木三郎が守る茨木城も攻略され申した。いったんは勢力を弱めた茨木氏であったが
後に細川氏へと帰順、復権を果たしていく。茨木伊賀守長隆(ながたか)は細川晴元
政権内で重臣に数えられ、茨木氏の権勢を比類なきものにした。が、時代が下り
下克上の嵐ふき荒れる中で細川氏の実権は臣下の三好氏が奪取、さらに織田信長が
足利義昭を奉じて入京するに及び、茨木氏もそれに従うようになる。茨木佐渡守
重親(しげちか、重朝(しげとも)とも)は1568年(永禄11年)信長に服属し茨木城の
安堵を受け申した。以後、信長配下の和田惟政(わだこれまさ)の属将となり各地を転戦。
ところが1571年(元亀2年)池田城(大阪府池田市)主・池田知正(ともまさ)が惟政と対立、
戦端を開く。佐渡守を従えた惟政は応戦するが、逆に池田側の将・荒木村重(むらしげ)に
敗北を喫してしまう。8月28日に行われたこの戦いを白井河原の戦いと言い
惟政・佐渡守共々討死。勢いに乗る村重は主を失った茨木城の攻略を9月1日から開始、
城を守る茨木勢は果敢に抵抗するも300もの兵を失う大損害を被って開城に至る。
ここに茨木氏は滅亡に至り、城は村重の子・村次(むらつぐ)に接収された後、その家臣
中川清秀に与えられた。村重、そして清秀は次第に摂津国内の実質的統治者となり
織田信長にも一目置かれるが、1578年(天正6年)村重は居城の有岡城(大阪府伊丹市)で
信長に謀反を起こす。清秀は当初、村重に同調するも織田の大軍が追討に及ぶと態度を翻し
織田方に従って有岡城の攻撃に回ったのでござる。結果、村重は一族郎党を見捨てて
城から逃亡した一方、清秀はより一層立場を確固たるものにした。信長が本能寺に斃れると
清秀は羽柴秀吉に従い、中国大返しの途上にある茨木城も秀吉軍の支援拠点となった。
ところが清秀は1583年(天正11年)信長没後の主導権争いである賤ヶ岳の戦いで
秀吉方の一翼を担いながら戦死してしまう。息子の中川秀政が跡を継ぎ、武勲を重ね
1586年(天正14年)秀吉の命により播磨国三木(兵庫県三木市)6万5000石へ
移封されたのでござる。この為、茨木の地は秀吉の直轄地となり城には城代が
代わる代わる入るようになる。茨木城代を務めた人物は安威城(あいじょう、茨木市内)主
安威了佐(あいりょうさ)や苗木城(岐阜県中津川市)主・河尻肥前守秀長などであった。
秀吉は天下を統べた後、遺児・秀頼を残して1598年(慶長3年)に病没。その秀頼は
まだ幼く、政務の主導権をめぐり石田三成と対立した徳川家康が1600年(慶長5年)9月15日
美濃国関ヶ原での大戦で勝利し、天下の主となる。家康の戦後処理により1601年(慶長6年)
新たな茨木城主とされたのは片桐且元(かたぎりかつもと)であった。且元はかつて
賤ヶ岳の戦いで著しい武功を挙げ“賤ヶ岳七本槍”に数えられた巧将でござる。
賤ヶ岳で戦死した中川清秀の城が、巡り巡って賤ヶ岳七本槍の将に与えられたのも
何かの偶然であろうが、且元はその実直な性格を買われて秀吉没後から秀頼の家老を
務めていた。この為、彼は豊臣方と徳川方の板ばさみに遭う運命を辿る事になる。
旧来の所領であった大和国竜田(奈良県生駒郡斑鳩町)に加え家康からの茨木領
1万石(1万2000石とも)を得、2万8000石と言われる封を持つ事になった且元であるが
大坂城での忠勤に励んでいた為、実質的に茨木城を預かっていたのは弟の貞隆だったと
見られている。貞隆もまた、兄と共に斜陽の豊臣家を支えた臣であり、日に日に
険悪となる徳川・豊臣間の対立に片桐兄弟は必死の調整工作を行った。が、自らが
天下の主であると妄信して疑わない秀頼の生母・淀殿からは「徳川に通じる裏切者」の
汚名を着せられ、遂に進退窮まった彼らは1614年(慶長19年)10月1日に大坂城を
退去する。同日、血気盛んな豊臣方の過激派が大坂の且元邸を襲撃。且元は
難を逃れる為に茨木城へと閉塞する事となったが、これを見た徳川方は
“大坂の争乱許し難し”とする大義名分の下、即日中に開戦を決定した。斯くして
大坂冬の陣が勃発する訳だが、大坂城中で最後の良識派であった且元が淀殿らに
放逐された事は徳川方に“もはや豊臣家に難事を処理できる頭脳なし”と判断される
決定打になったのだ。豊臣方は自ら忠臣を棄てて自滅への途を歩んだ事になるが
茨木城主・片桐且元という人物は、それだけ“歴史を左右する人物”だったと言えよう。
とかく且元と言えば「徳川に振り回され、豊臣に見限られた凡将」と酷評されてしまうが
実際はそうではなく、徳川・豊臣両家の“最終安全弁”の重責を担っていたのだ。
それだけに、豊臣家が彼を切り捨てた事は「幕府に開戦の口実を与えた」事になろう。
大坂の戦、もはや豊臣家に利在らずと判断した且元は以後徳川方へ積極的に臣従。
翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣でも戦闘に参加、5月7日に大坂城は落城し
翌8日、秀頼と淀殿は自刃して果てる。ここに且元の旧主・豊臣家は滅亡した。
ところがその僅か20日後、5月28日に且元も没する。前年から肺を患っていたのが原因だが
巷説では滅びた豊臣家への義を立て、殉死したと噂される。大坂の陣後、片桐家は
功労により加増され4万石の石高となっていたが、且元が亡くなった事で遺領が整理され
且元の2男・孝利(たかとし)は竜田へ移り、貞隆は大和国小泉(奈良県大和郡山市)に
1万6000石を得て独立大名となり申した。結果として茨木城は主を失い、幕府から
一国一城令が発布された事もあって廃城とされる。茨木は代官の間宮三郎が支配、
1616年(元和2年)間宮に城忠兵衛を立会人として破却が行われ、戦国の世を乗り切った
茨木城は平和な時代の到来と共に運命を終えたのでござった。以来、城跡は
完全な水田耕作地帯となったが、近代に入るまで旧曲輪や在郷武士の名を冠した
地名が残されていたと言う。今やそうした小字名すら消え去った時代であるが
最後に残されたのは主郭部跡の町名となった「片桐町」。言わずもがな、
最終城主だった片桐且元・貞隆兄弟に由来する名前でござる。


現存する遺構

移築された遺構として
茨木神社東門(搦手高麗門)・慈光院山門(櫓門)
妙徳寺表門(脇門)・茨木神社石垣(石垣)




岸和田城  丹波篠山城