和泉国 岸和田城

岸和田城跡

所在地:大阪府岸和田市岸城町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★☆■■



別名で蟄亀利城・千亀利城・縢城(いずれも読み方は「ちきりじょう」)・岸ノ和田城。
現在の城が築かれた微高地は「猪伏山(いぶせやま)」と呼ばれるので猪伏山縢城とも。
縢とは機織の機械で縦糸をまとめるもので、二ノ丸と本丸の連結具合がその形に
似ていた事から岸和田城の別名に用いられていると言う。
荒々しい「地車(だんじり)祭」で有名な岸和田の町も古くからの城下町。南北朝時代に
城が築かれ(岸和田古城)、室町中期に現在の場所で築き直されたとされてござる。
鎌倉幕府が滅亡した翌年である1334年(建武元年)、後醍醐天皇の功臣にして
和泉国守護とされていた名将・楠木正成が甥の和田高家(にぎたたかいえ)を
この地に配して城を築かせた。元来、当地の地名は「岸」とされ、堺に本家を置く
和田氏が入った事で「岸ノ和田(きしのわだ)」と転化し、それが「岸和田」という
地名になったとされている。ただし、この時に築かれた城は岸和田古城の方で
現在の城から東へ600mほど、市内野田町あたりに作られたと伝わる。
しかし南北朝動乱を経て楠木氏は没落、南朝勢力も衰退し、畿内の大半は室町幕府の
管領(将軍に代わり政務を統括する事実上の政権首班)を襲する名門・細川家や
それに拮抗する勢力を持つ山名氏の支配下に入る。1382年(弘和2年・永徳2年)時の
和泉国守護・山名氏清(うじきよ)は配下の将である信濃泰義を岸和田に入れた。泰義は
城を改修し、この時現在地に移ったとされている(異説あり)。さらに1408年(応永15年)
細川頼長が和泉半国の守護となり岸和田城に入城、以来7代が岸和田細川家となった。
(余談だが江戸時代まで細川家を繋いだ細川藤孝(幽斎)も元々は岸和田細川家の血筋)
和泉上守護家(細川刑部家)とも称される岸和田細川家であるが、1500年(明応9年)
9月2日、時の当主・細川元有(もとあり)が岸和田城で討死して以後は勢力を衰退させ
守護代であった松浦肥前守が事実上の城主になっている。のちに管領・細川本家もまた
下克上の風潮により勢力を落とし、この頃になると四国から進出した細川家の陪臣
三好長慶(ちょうけい、ながよしとも)が畿内全域の指導権を掌握したが、松浦氏は
三好氏へと従う事で領国を維持しようと図る。ところが松浦氏の代替わりに伴い
三好氏は「松浦氏の後見」という名目で侵食、岸和田城に三好一門が入るようになった。
1548年(天文17年)または1558年(永禄元年)頃、三好義賢(よしかた、長慶2弟)や
安宅冬康(あたぎふゆやす、長慶3弟)・十河一存(そごうかずまさ、長慶4弟)らが
岸和田城に在城していたと言われる。三好勢は1560年(永禄3年)頃に城の改修を行い
政界の中心である京都と、三好氏の本拠である四国を繋ぐ要衝として重視された。
発掘調査によれば、現在の二ノ丸の地下に埋もれた石垣遺構が検出されており、これが
三好期岸和田城の構えであったと推測されてござる。もしそれが正しいのであれば、
当時の岸和田城は今の二ノ丸付近を中心とした縄張りだったという事になろう。
現在はすっかり埋め立てられているが、往時の岸和田城二ノ丸(三好期主郭部)はそのまま
海に面しており、堀に水を満々と湛えた海城にして海上交通路を扼する重要城郭であった。
しかし1562年(永禄5年)3月5日、久米田の戦いで義賢が戦死、大敗を喫して以来
三好氏の勢力にも蔭りが見え始め申した。これを契機に松浦氏が岸和田城の奪回を試み、
松浦肥前守(上記の肥前守の次代か?)とその家臣である寺田又右衛門・安太夫兄弟らが
城を占拠してござる。が、松浦一族は内紛を抱えてこれまた没落、そうこうしている間に
織田信長が上洛し畿内を制圧してしまう。結果的に岸和田城を守っていたのは寺田安太夫
改め松浦宗清(むねきよ)であったが(下克上で松浦氏を乗っ取ったようだ)、彼は信長に
臣従する事で勢力を安堵された為、宗清や又右衛門の他、織田家から遣わされた堀久太郎秀政
桑山修理大夫重晴らが岸和田城の守将として入ってござる。織田家の支配期、大坂湾岸では
石山本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が交戦する木津川河口戦が発生しているが
寺田・松浦勢は織田水軍の一翼を担って出陣している。しかし第一次木津川海戦では
織田勢が大敗を喫しており、寺田・松浦水軍も大きく戦力を減じてしまった。
信長が本能寺に散ると天下の趨勢は羽柴秀吉のものとなる。畿内を掌握した秀吉は
当然、岸和田城も勢力下に収めており1583年(天正11年)賤ヶ岳合戦の功労として配下の
中村一氏を城主に据え3万石を与えた。秀吉の狙いは紀州に勢力を張る根来(ねごろ)衆への
備えにあり、実際、翌1584年(天正12年)小牧・長久手合戦に連動して根来衆が大坂方面へ
攻勢を仕掛けた際、一氏が守る岸和田城で攻防戦を展開している。一氏は見事に城を守りきり
根来衆の大坂攻撃は阻まれた。この功で1585年(天正13年)一氏は近江国
水口(みなくち)岡山城(滋賀県甲賀市水口町)主に加増転封、6万石を領するようになる。
代わって岸和田城主となったのは小出秀政、4000石。根来勢による攻撃で焼亡した
岸和田城下を復興させた秀政は次第に加増され、1587年(天正15年)に6000石、さらに
1594年(文禄3年)に1万石、1595年(文禄4年)には3万石となっていく。この間、城の改修も
行われ、3万石となった1595年には天守の造営に取りかかった。この天守は5層で、
1597年(慶長2年)に竣工。この直後、秀吉が没し天下分け目の関ヶ原へ。小出家は
秀政が西軍に属し大坂城に在城、東軍・細川幽斎が籠もる丹後国田辺城(京都府舞鶴市)へと
嫡男(長男)・吉政率いる軍勢を派遣した。しかし一方で秀政2男・秀家は徳川家康に従い
東軍として関ヶ原本戦に参戦、戦後処理で西軍・長宗我部勢を撃退する勇戦を果たす。
秀家の軍功は抜群なものと評価され、秀政・吉政父子は改易を免れた。
また、秀家の家系が旗本として存続する事が江戸幕府によって認められている。
ただ、皮肉にも功労の将である秀家は父・秀政に先立って没してしまった。その秀政も
1604年(慶長9年)3月22日に亡くなり、小出家の家督は吉政が相続。吉政も1613年(慶長18年)
2月29日に病没し、その嫡男である吉英(よしひで、よしふさとも)が城主を継承する。
同時に5万石へと加増されたが、大坂の陣が終わった後の1619年(元和5年)但馬国
出石(兵庫県豊岡市)へと移されてござる。代わって岸和田城主となったのは松井松平周防守
康重、丹波国篠山(兵庫県篠山市)からの移封で5万石。康重は1623年(元和9年)頃から
岸和田城の改修工事を手掛けており3重櫓などを構築、併せてこの頃廃城となった京都の
伏見城からいくつかの建物を移築している。城下町の再整備なども行い、岸和田の町はこの時に
体裁を整えたのでござる。もともと岸和田城下は年貢の収穫量が高い地で、5万石という
表高も1631年(寛永8年)高直しで6万石に改定され申した。その康重は1640年(寛永17年)
6月27日に没し、跡を2男の康映(やすてる)が継ぐも、彼は同年中に播磨国
山崎(兵庫県宍粟市)へ移されている。斯くして摂津国高槻(大阪府高槻市)5万1000石から
岸和田へ入城したのが岡部美濃守宣勝(のぶかつ)でござる。宣勝は知勇兼備の名将で
松井松平時代、城と町の整備で必要な費用を捻出する為に重税が課せられていた岸和田城下に
一揆を企てんとする不穏な情勢があるのを知るや、領民の訴えを良く聞き善政を施し
その救済を成しえたのでござる。また、時の将軍・徳川家光からの信任厚く、岸和田へ
配されたのは南に控える紀州徳川家への牽制であったと言われる。紀州徳川家と言えば
徳川御三家で将軍家縁戚なのだが、当時の当主・紀伊徳川頼宣(よりのぶ)は血気に猛る
人物にして、何かと“将軍家に対する反抗”の噂が絶えなかったのである。無論、大半は
根も葉もない風評ではあるが、徳川将軍家の基礎を磐石にせんとする家光は警戒を怠らず
和歌山と目と鼻の先にある岸和田に宣勝を入れたとされる。当然、頼宣は宣勝の動向が
気が気でなく、ある時江戸城中で2人が出会った際「貴殿が岸和田に入ったは我らの目付と
なる目的と聞き及んだが、如何にして抑えるつもりか?」と凄んだと言う。これに対し宣勝は
「我らの如き小藩が大身の貴殿を抑えるなど無理な話、せいぜい足の裏の米粒が如く」と
謙遜して見せたそうだ。さりとて、足の裏に付いた米粒は妙に気色の悪いもの。宣勝は
当たり障りの無い返答でかわしつつ、巧妙に武士に意気地を貫き通したのでござる。
宣勝以降、明治維新まで岡部家13代が岸和田城主を継承している。以下に列記すると
内膳正行隆(ゆきたか)―美濃守長泰(ながやす)―内膳正長敬(ながたか)―美濃守
長著(ながあきら)―内膳正長住(ながすみ)―美濃守長修(ながなお)―美濃守長備(ながとも)
美濃守長慎(ながちか)―内膳正長和(ながより)―美濃守長発(ながゆき)―筑前守
長寛(ながひろ)―美濃守長職(ながもと)の順であるが、このうち2代目の行隆は
1661年(寛文元年)10月27日の家督相続時に弟たちへ都合7000石を分知したため、以後
岸和田藩の石高は5万3000石となっている。また、長慎が藩主(城主)在任中の1827年(文政10年)
11月20日、天守に落雷し炎上焼失、幕府に再建願いは出し受理されたものの結局は建てられず
天守の無いまま岸和田城は幕藩体制の終焉を迎えている。
余談ではあるが、岸和田の代名詞である地車祭は、3代・長泰が1703年(元禄16年)に京都の
伏見稲荷神社を岸和田城三ノ丸に勧進し五穀豊穣を祈願した稲荷祭がその発祥とされる。
これが長備城主時代の1785年(天明5年)、大きな地車を用意して挙行された事により
現在の様式になったそうでござる。ちなみに、大き過ぎる地車が城の大手門を通れなかった為
わざわざ柱を取り替える改良を施したとの事!祭りに懸ける岸和田っ子の熱気が感じられ申す。
さて、版籍奉還・廃藩置県を経て城主・岡部氏は東京へ移住。廃城令で岸和田城も廃城とされた。
城内諸建築は悉く解体・破却され、城域の大半も宅地化されて現代に至っている。
元来、城の縄張りは本丸を中心としその周囲をいくつかの曲輪群で取り囲む輪郭式の
構造でござった。本丸の北西側に長方形の二ノ丸。約8000uの二ノ丸には御殿建築と
伏見城から移築されたと伝わる伏見櫓が建てられていた。二ノ丸の南側に御菜園曲輪が連なり
御菜園曲輪から二ノ丸へ至る(反時計回り)間は御茶屋曲輪・向屋敷で連結している。
これを更に外周で三ノ丸武家屋敷群が取り囲む。二ノ丸と御菜園曲輪はそれぞれ馬出状の
構えとなっており、南西側から本丸へ至る経路はさながら二重馬出の様相を呈する。
二ノ丸の北側虎口(御菜園曲輪とは反対側の出入口)は二重枡形になっていたようで
こちら側も突破するのは困難な経路でござる。城外部でも寺町を構成して
一定の防御陣地を構えるようになっており、岸和田城は輪郭式平城の特性を活かした
広域防御の曲輪群を為していた訳だが、惜しくも維新後こうした敷地は殆ど
失なわれてしまったのでござる。しかし残された本丸・二ノ丸部分は1930年(昭和5年)に
千亀利公園として整備され、1943年(昭和18年)には大阪府指定史跡になり申した。
太平洋戦争でも岸和田は大規模な空襲を受けなかった為、古い町並みや城跡はそのまま
維持されてござる。ところが高度成長期になるや、大阪市の郊外住宅地の位置付けとなった
岸和田市は経済成長の証として城の天守を揚げる事を企画する。これは市立図書館として
計画されたものであるが、戦後建築らしく鉄筋コンクリート造り、予算の関係から旧来の
5層天守ではなく3層天守として設計されている。大阪府土木部計画課は府史跡に建てるならば
史料に基づく厳密復元で無い限り許可しないとしたが、旧城主家・岡部氏の後援や
市民の熱狂、建築会社からの要望に後押しされ、岸和田市はこの計画を実行に移した。
1954年(昭和29年)1月6日起工、同年11月13日竣工した天守は総工費3460万円(当時の金額)。
基礎部分は潜函工法(予め作った箱状のコンクリートを埋め、そこに生コンを流し込む)、
3層5階建本瓦葺、石垣高5m+建物高22mとなってござった。もっとも、往時の天守は5層であり
史料に基づけばあと10mは高い建築物であった。そもそも、5層用の天守台に3層天守を
揚げた為、写真にあるようにかなり「寸胴」で重苦しい建物になってしまっている。
もしこれが史実に忠実な5層天守を揚げていたならば、大坂城天守にも劣らぬ流麗で
スマートな建物になっていたと想像できる。およそ18m四方、336uもある天守台を
持て余してしまった新造模擬天守であるが、予定通り翌1955年(昭和30年)に
岸和田市立図書館児童閲覧室が開室してござる。また、これに先立つ1953年(昭和28年)
天守前広場が「八陣の庭」と称する砂庭式枯山水庭園として開園。これは三国志の名軍師
諸葛亮孔明が用いた八陣法と呼ばれる陣形を題材にしたもの。もっとも、これも特別
岸和田城と関係がある話題と言う訳でもない。模擬天守も庭園も、あくまで
“城は城らしく”という当時の風潮に乗ったものでござろう。1969年(昭和44年)には
城門や櫓といった建築物も建てられ、本丸内に限ってはまさに“城らしい”景観を
取り戻している。その模擬天守も建造から半世紀近くを経て、1991年(平成3年)8月〜
1992年(平成4年)8月にかけて修復工事が行われた。この工事で屋根の葺き替えや
外壁の塗り直し、装飾金具の交換や内部改装を達成。改めて白壁や装飾の輝きを取り戻し
岸和田市民にその勇姿を轟かせている。鈍重な反面、威厳ある風格を備えた復興天守は
この改装で一段と冴え渡り、今では(史実に基づかない模擬建築とは言え)すっかり
馴染んでおり、岸和田城天守は元々こういう形だと思っている方も多いのではなかろうか?
兎角、城マニアからは嫌悪される模擬天守であるが、ここまで来ればむしろ立派なもので
城下の住民が受け入れるようなモノであれば、目くじらを立てる方が無粋なのかもしれない。
何はともあれ、本丸周囲の堀や石垣、それに犬走り等は見事なもの。この石垣は1999年
(平成11年)6月28日の豪雨で一部崩落した為、補修が入っている。元々の石垣は
和泉国周辺で調達できる泉州砂岩で作られていたが、これは耐久性で劣る石質である為
補修箇所は強度の高い花崗岩で組み直され申した、泉州砂岩と花崗岩は色合いが違うので
(花崗岩は赤っぽい)修復部分は一目瞭然。それを見比べてみるのもなかなか面白うござろう。
城が海に面する部分の防潮石垣や堺口門跡・藩校跡・薬草園跡は1956年(昭和31年)8月、
市の指定史跡になっている。今後も「泉州一の城下町」として風情を保って頂きたいものだ。


現存する遺構

堀・石垣・郭群
城域内は府指定史跡




大坂城(石山本願寺)・三津寺砦・天保山台場  茨木城