摂津国 大坂城(石山本願寺)

大坂城復興模擬天守 石山本願寺推定地の石碑

所在地:大阪府大阪市中央区大阪城 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★★★



摂津国の中心を為す巨城、大坂城。もともとは1496年(明応5年)本願寺8世法主・蓮如(れんにょ)が
石山本願寺を築いた場所。この時既に蓮如は隠居し、9世法主・実如(じつにょ)の代になっていたが、
蓮如は精力的に布教活動を行っていた。この一環で地域の豪士・森氏から寄進された土地に坊舎を
建立し摂津地方布教の拠点としたのが石山本願寺(石山御坊とも)でござる。
(正式名称は大坂本願寺であるが、通称である石山本願寺の名が有名となっている)
「石山」の名の由来は、寺堂建築工事の際に地中から建物の礎石に使える巨石が次々と出てきた事に
よると言う。当時の礎石建物と言うのは朝廷関係や寺社仏閣などの高級建築に限られた訳だが、本願寺の
建築現場にこうした石材が出土したというのは、まさに寺を建てるにうってつけでござった。この年の9月に
起工された工事は翌1497年(明応6年)4月に一応の完成を見たが、敷地内には寺内町も整備され、一向宗
(浄土真宗)の一大拠点となる。一向門徒は戦国争乱の荒んだ時勢によって爆発的に増加、10世法主
証如(しょうにょ)は多くの信者を従え、中央政界への介入・軍事力行使も辞さない態度を見せていく。
政教分離など無縁の中世、宗教勢力もまた“信徒の総意を叶えるため”積極的に政治的活動を行い、
他勢力(対立宗教のみならず、朝廷や諸大名など政治・軍事勢力も)との軍事的衝突も当然のように
行われていたのでござる。戦国初期、このように政治介入を盛んに行っていたのが興福寺・延暦寺など
旧来の宗派と、そこから派生した法華宗であったが、これらの勢力に対抗せんとし室町幕府管領
(将軍を補佐して政務を統括する最高役職)・細川氏が一向宗を味方に引き込んで参戦させた事から、
本願寺勢力もこのような武力闘争宗派になっていったのだ。
特に強力な敵対勢力であった法華宗により従前の本拠地であった山科本願寺(京都府京都市山科区)を
焼かれる事態にもなったが、これにより一向宗は1533年(天文2年)7月25日からここ石山本願寺が新たな
本拠地となり、いよいよ石山は武装拠点化していくのでござる。この日付は一向宗の本尊となる祖像が
石山本願寺に鎮座した日であり、これを以って当寺の創立という事にされているそうだ。
戦国時代も中盤になり中央政界は有名無実化、全国各地の戦国大名が割拠するようになると現世利益を
求める本願寺門徒は一向一揆を展開、各地の寺堂は城塞化していくが、総本山である石山本願寺はその
最たるものでござった。一方、こうした戦国大名の中から頭角を現したのが尾張国(現在の愛知県西部)の
織田信長である。信長は敵対大名を次々と撃破し、遂に1568年(永禄11年)京の都に旗を立てた。この時、
信長は畿内の有力勢力に臣従を求め、石山本願寺にも矢銭(軍資金)5000貫を要求している。本願寺
11世法主・顕如(けんにょ)はそれで一向宗の安泰が図れるならばとこれに応じたが、信長が独裁政権を
打ち立てるにつれ次第に反感を強めていく。信長が強固な城砦として機能する石山の地にも目をつけ
1570年(元亀元年)正月、土地の明け渡しまで迫るに至り、顕如はとうとう決起。ここに織田家対
一向宗の戦いが勃発する。石山合戦と呼ばれるこの戦いは、中断も含め1570年〜1580年(天正8年)の
10年という長期に渡り一揆衆が立て籠もり信長の討伐軍と激しい戦闘を行ったが、結局、信長が正親町
天皇の勅命を奉じて1580年閏3月5日に講和、4月9日に法主・顕如が退去する事態に至った。一向門徒は
顕如が降伏した後も散発的に抵抗を展開、この渦中で石山本願寺は焼亡する。焼失の理由は諸説あり、
本願寺側が自焼した、織田軍が焼いた、或いは失火とも伝わる。
ともあれ、信長は跡地に新城を築く計画を立てたというが本能寺の変で沙汰止みとなる。信長横死後、
天下の主導権を握った羽柴秀吉が石山本願寺跡地に注目、自身の本拠とすべく1583年(天正11年)9月
1日から築城を開始した。これが豊臣期大坂城でござる。豊臣期大坂城は天才軍師にして築城の名手である
黒田官兵衛孝高(よしたか)が縄張り、秀吉子飼の将・浅野弥兵衛長政が工事の指揮を採り作られた。
約2km四方の領域に河内・播磨(大阪府・兵庫県)から切り出した石を使った野面積みの石垣を巡らし、
楕円形の敷地をした本丸を中心に、その西側に西ノ丸、南側〜東側〜北側を囲って二ノ丸が置かれ、
これらを全て囲う三ノ丸が展開。城の北端は大川(淀川)と寝屋川が合流する地点で、そこから東西両側に
濠を引き、南面を除く全周を周囲の平地と切り離す大工事である。本丸には望楼型天守や御殿などが
建てられ、当時天下一の巨城として威容を誇っていた。この天守は下見黒板貼りで外観5層、内部6階+
地下2階で秀吉の寝所なども設けられていたとみられている。軒瓦には金箔を施した装飾で、天守台からの
高さは約30m、最上階外壁に虎の模様絵を飾り信長の安土城に続く天下人の城郭として大坂城の名は
全国に轟いた。豊臣恩顧の大名は秀吉の大坂城天守を手本とした天守を自らの城に建てた例が多く、
岡山城(宇喜多秀家)・広島城(毛利輝元)・熊本城(加藤清正)等はこういった意匠である。
秀吉の大坂城は1585年(天正13年)頃に一応の完成をみるが、以後も数回の拡張工事が行われた。
自分の死期を悟った秀吉が遺児・秀頼を守る為に磐石を期すつもりであった。実際、秀吉自ら
「大坂城を落とすには堀を埋めるしか方法はない」と豪語した程である。最晩年の秀吉は隠居城として
伏見城(京都府京都市伏見区)を築きそちらへ移り“政権首府の城”として用いたため、大坂城は
秀頼の城となったが、一方でこれは大坂城を“政権担当者の居城”と位置付ける事になり、次第に
「大坂城の主=天下の主」という認識が醸成されたのでござる。秀吉の死後、豊臣政権五大老筆頭として
徳川家康が大坂城西ノ丸に入って政務を行ったのはこうした事情によるものだ。家康は西ノ丸に巨大な
4重櫓(実質上の新天守)を建てさせ、真の大坂城主=天下の主は自分である事を暗示する。然るに
家康は政権の敵対者を一掃すべく熟慮を重ね、1600年(慶長5年)に関ヶ原合戦が勃発。そして天下は
将軍家となった徳川氏の手に渡る。
これで“政権の城”は幕府本拠の江戸城(東京都千代田区)や家康隠居城の駿府城(静岡県静岡市)へと
移っていくが、しかし大坂城とそこに居を構える豊臣秀頼の権勢は簡単に払拭できるものではなく徳川
幕府による豊臣氏包囲網が敷かれ、遂に1614年(慶長19年)大坂冬の陣が起こった。されど天下の
堅城である大坂城は容易に落ちない。大坂城本体はもとより、兵乱に備え城の南側に真田信繁(幸村)が
築いた真田出丸が鉄壁の防御を示したのでござった。従前、真田丸は半円形をした巨大な丸馬出で、
真田家の父祖が仕えた甲斐武田家の築城術を活用したものだと考えられていたが、近年の新資料発見や
発掘調査の成果により再検証され、背後の大空堀や周辺起伏を上手く活用し出城として機能する
複合曲輪群から構成されるものだったと考えられるようになった。信繁はここに幕府軍を誘引し火砲での
殲滅攻撃を展開、攻城側に痛撃を与えたのである。大坂城は唯一南側だけが堀を掘らず弱点と
されていたが、真田丸はそれを見事に克服したのだった。
一方の幕府軍は力攻めは無謀と見、最新式の大砲を用いて籠城軍の防衛圏外から砲撃を行う。
現代風に言えば戦略ミサイルによるアウトレンジ攻撃である。これには城方も手も足も出ないまま
戦況は膠着、12月16日には天守へ直撃弾が命中したこともあり、12月22日講和に至った。しかし
この講和で大坂城は堀をすべて埋め立てられてしまった。秀吉の遺した「大坂城攻略法」は家康により
実行されてしまったのでござる。
堀を埋められた大坂城はもはや防衛施設として機能せず、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では
あっけなく落城。城は燃え崩れ、豊臣方武将の真田左衛門佐信繁・後藤又兵衛基次(もとつぐ)
木村長門守重成・薄田隼人正兼相(すすきだかねすけ)らは討死、豊臣秀頼・淀殿・大野修理大夫治長
大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)らは自害、豊臣国松(秀頼の子)は斬首され、ここに豊臣氏は
滅亡した。幕府の論功で松平下総守忠明(ただあきら、家康の外孫)が10万石の大名として焦土と化した
大坂城主に任じられる。豊臣氏の滅亡で徳川幕府に敵対する者は居なくなり、天下は統一され申した。
これを機に慶長20年は改元され元和元年となり、元和偃武(げんなえんぶ)とされた。偃武とは、
武器を伏(偃)せる=戦乱終結という意味で、元和の時代は平和の時代との意思表示でござる。
豊臣期大坂城の落城は、天下泰平の始まりであった。
以後、大坂城は幕府が西国大名を監視する拠点に生まれ変わる。忠明は大坂の戦後復興を行った事で
1619年(元和5年)大和郡山(奈良県大和郡山市)12万石へ加増転封。これを機として豊臣期大坂城は
完全に埋め立てられ、その上に新たな大坂城が築かれる事になり申した。西国諸大名64藩に命じ
1620年(元和6年)に工事開始。これが現在に残る徳川期大坂城でござる。秀吉時代には不可能だった
最新技術をふんだんに用いた工法で、工期は約10年に及んだ。それまでは一二三(ひふみ)段だった
石垣が15間の高石垣一段となり石狭間も設置され、堀の深さと石垣高は秀吉期の2倍、他の城では天守と
なり得る巨大な3重櫓が11基も建てられた。1626年(寛永3年)には天守も再建されたが、これもまた秀吉の
天守の2倍に当たる大きさで5重5階+地下1階、白漆喰塗込の独立式層塔型天守で徳川幕府の威光を
西国に知らしめるものでござった。
しかし基本的な縄張りは豊臣期大坂城をほぼ踏襲している。理由としては工事を地区毎に分割して
行った事情があるだけでなく、旧来の縄張りの完成度が高かった事による。大手門の隣には千貫櫓
(せんがんやぐら)が置かれて横矢を掛けているが、これは石山本願寺時代からの同一構造である程だ。
そもそも千貫櫓の名前自体、本願寺を攻めあぐねた信長が「あの櫓を落とした者に千貫の褒賞を与える」と
した事から名付けられたものだと言われるので、以前から堅固な構造だったのでござろう。そもそも
大坂城は上町台地の北端、台地最頂点に築かれた平山城。大きな町の中にある広大な城である事から
平城と認識されがちでござるが、現在も天守台の東隣に大阪上水道の給水施設が置かれており、
この場所が「大坂市街での最高所」である事を証明している。通常、上水道の給水池は高所に設置し
自然の力で低所へ水を流すようにしポンプの動力を極力省く事になっているからだ。上町台地は大阪市を
南北に縦貫して壁のような地形を作り出しているが、その中でも大坂城の位置は最高所、しかも北端で
背後を無数の河川で防備している“後堅固の城”なのである。信長が10年かけて欲し、秀吉が天下統一の
城とするに相応しい地で、徳川幕府も鎮西の拠点にしたのだ。ただし、徳川期大坂城が豊臣期を
完全踏襲した訳ではなく、例えば天守はそれまでより西側へ移った場所に建てられているなど、細かく
随所に変更点があるのを注意されたい。再建以後、大坂城は幕府直轄の城となり明治維新まで
城代制になる。譜代有力大名から選出される事が慣例化、歴代大坂城代は合計70名を数えた。
さて、新造成った大坂城であるが数次の火災や天災で被害と復興を繰り返していく。特に城内への落雷は
3度もあり、1度目は1660年(万治3年)青屋口の火薬庫に被雷、大爆発を起こした。この教訓から火薬庫は
石造の焔硝蔵として再建される事になる。2度目は1665年(寛文5年)天守に落雷し焼失してしまい、以後は
再建されなかった。豊臣期天守は30年ほど、徳川期天守は39年で焼亡した事になり、江戸時代を通じて
大坂城は天守のない時代がほとんどでござる。3度目の雷は1783年(天明3年)大手多聞櫓を滅失させており
難攻不落を誇る名城と言えど自然災害には勝てない事を表していよう。幕府は1843年(天保14年)
畿内一帯に御用金を課して155万両を調達、大坂城の大修復を行っている。この他、主な建物も幕末の
混乱期である1868年(明治元年)大坂を退去する幕府軍により自焼してしまったが、維新後も存城の
扱いとされ城域は保存された。城地は陸軍によって接収され1885年(明治18年)本丸に和歌山城
(和歌山県和歌山市)二ノ丸御殿の一部が移築され「紀州御殿」と命名、大阪鎮台の司令部庁舎として
利用される。さらに1888年(明治21年)大阪鎮台の手によって本丸表門にあたる桜門が復元され申した。
軍施設として使われる一方、大坂城跡地は都市公園として活用される機運も盛り上がり、1924年
(大正13年)大手前広場2.3haが大手門公園の名で開園。1928年(昭和3年)には当時の大阪市長
関一(せきはじめ)氏が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案、昭和天皇の即位記念事業として
整備が進められる。これに基づき1930年(昭和5年)から天守再建工事が始まり翌1931年(昭和6年)
11月7日、秀吉の大坂城天守を模したという鉄筋コンクリート製の昭和復興模擬天守が徳川期天守台の
上に完成したのでござる。天守落成にあわせ、大阪城公園が開園したが、この当時の敷地面積は
9.6haであった。もちろん、大坂城址の敷地はもっと広大である。つまり残りの部分は引き続き陸軍
用地であり、特に大阪環状線沿いの一帯は陸軍大阪砲兵工廠が占めていたのでござった。
1933年(昭和8年)紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した後、戦時体制の推進により
陸軍用地の機密保持が強化されていき、1942年(昭和17年)には城内へ一般人が立ち入る事が
禁止されるようになってしまった。しかも1945年(昭和20年)度重なるアメリカ軍の空襲で
(陸軍用地であった事から大坂城址そのものが攻撃対象になった)
明治維新時の焼失を免れていた二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、青屋門も
甚大な被害を受けたのでござる。この時、鉄筋建築の再建天守は焼失を免れたが天守台北東部に
爆弾が直撃、石垣が損傷している(現在もその跡が残る)。戦後も受難は続き、陸軍用地であった為
城跡は進駐軍に接収された上、1947年(昭和22年)には米軍の失火により紀州御殿を焼亡してしまう。
翌1948年(昭和23年)接収は解除されたが、1950年(昭和25年)ジェーン台風により城内各所で
被害続出。これを契機として大坂城址の史跡整備が本格的に行われるようになり、学術調査も
進められていく。1953年(昭和28年)8月31日、国の特別史跡に指定され1959年(昭和34年)には
地下から豊臣期の石垣を検出。1970年(昭和45年)空襲被害を受けていた青屋門を古材利用で
修復している。1996年(平成8年)には桜門と太鼓櫓跡の石垣が修復され、大正時代に埋め立てられた
東外堀も掘削復元。また、1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて昭和復興天守の
平成大改修が行われ、耐震補強が為されている。この天守は1997年9月3日、国の登録有形文化財に
なっており、2007年(平成19年)に外壁の塗り直しも行われてござる。
2003年(平成15年)には大手前にある大阪府警察本部庁舎の建て替え工事に伴い三ノ丸外縁部の
発掘調査が行われた。その際、豊臣期の堀と見られる遺構が検出され障子堀構造となっていた事が
確認され申した。障子堀とは、空堀の底部をさらに小さな土塁で分割し、障子の目のような障害
構造としたもの。小田原後北条氏の城郭に多用された技術であるが、それを攻略した秀吉が
自らの城にも取り入れたものと考えられ大坂冬の陣の折に幕府軍を撃退する切り札となったようだ。
しかし和睦の約定で全て埋め立てられた為、地中に消えてしまい発掘されるまで知られずにいたので
ある。大坂城と言えば大阪を代表する観光名所、誰もが知っている城ではあるが、その実、目には
見えない旧態はまだまだ謎に包まれているという好例であろう。
では逆に現存する遺構は何かと言えば、石垣・堀の他には大手門(高麗門・多聞櫓門・続塀)・千貫櫓
乾櫓・一番櫓・六番櫓・金蔵・焔硝蔵・金明水井戸屋形・青屋門の諸建築。これらはいずれも徳川期の
ものであり、当然ながら豊臣期の建物は現存しない。しかし琵琶湖に浮かぶ竹生(ちくぶ)島にある
宝厳(ほうごん)寺の唐門は、豊臣期大坂城の極楽橋渡櫓を移築改変した可能性が指摘されており、
事実だとすれば貴重なものである。青屋門を除く城内諸建築は全て国の重要文化財、宝厳寺唐門は
国宝となってござる。
古建築について触れておくと、まず大手門でござるが高麗門が1628年(寛永5年)のもの。1848年
(嘉永元年)に屋根部分を修復しており1956年(昭和31年)に解体修理。多聞櫓門は同じく1628年
創建だが1783年の落雷で焼失した為1848年に再建、1956年に修理されている。この両者を繋ぐ塀
(高麗門の南北と多聞櫓の北側、合計3箇所)も江戸期からのものでござる。高麗門の柱間は5.26m
多聞櫓門の総高は14.7mといずれも国内城郭門遺構としては最大級のもの。
次に千貫櫓であるが、現存(徳川期)のものは1620年の創建。1961年(昭和36年)の解体修理時に
「元和六年九月十三日御柱立」との墨書が見つかり上棟の日付が明らかになった。2重2階本瓦葺き
初階床面積199u・2階床面積143.32u。乾櫓は2重2階、初重・2重が同大の重箱櫓でL字型の床面を
有し、内部は1階・2階とも4室に分割され、外堀側に廊下が(建物外縁に沿ってL字型で)走る。
こちらは1958年(昭和33年)の解体修理で「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ 作十郎」と刻まれた
瓦が発見されている。千貫櫓・乾櫓とも1620年の建築という事になり、この2基の櫓が現存する
大坂城建築物の中では最古のものという事が確定的になっている。
一番櫓と六番櫓は同規模の2重2階本瓦葺き、共に1628年の完成。意匠もほぼ同じだが、破風の
数が異なる。両櫓とも天保年間(1830年〜1844年)に修復を受けた記録がある。1階床面積217.21u
2階は138.68u(六番櫓)、大坂城二ノ丸外縁部にはこれと同じ大きさの2重櫓が合計7基も林立
していたが、現存するのはこの2基だけでござる。米軍の空襲で大被害を受けたが生き残り、
一番櫓は1964年(昭和39年)に大修理を行う。六番櫓はジェーン台風被害もあったが、1966年
(昭和41年)に大幅な部材取替えを経て復活を果たした。
金蔵は本丸内にあり、外壁がなまこ壁になっている独特の意匠。1625年(寛永2年)築当初は
2階建てだったとされるが、1837年(天保8年)平屋造りへと改造されたと言われる。内部は
板張りで大小2室を構成、床板の下は厚い石敷きとし、入口は2重の土戸と鉄格子の3重構造、
床下の換気窓は鉄の2重戸で小窓にも土戸と鉄格子を組み、防火・防湿・盗難防止の仕掛けに
している。敷地面積81.14u、1960年(昭和35年)に解体修理工事を行ってござる。
そして焔硝蔵は外壁だけでなく内部の壁・床・天井も全て花崗岩の切石造りで、現存唯一の
石造火薬庫だと言う。青屋口にあった旧火薬庫が落雷爆発した後の1685年(貞享2年)の構築。
そして特筆すべきなのが金明水井戸屋形。天守前にある井戸の釣瓶を支える屋根で、井戸櫓は
姫路城(兵庫県姫路市)などにもあるが、井戸屋形そのものが残る例は全国的にも稀。1969年
(昭和44年)の改修工事で棟木に「寛永三年十月吉日」の墨書が発見され、1626年の遺構である
事が確認されたが、天守の落雷焼失(1665年)や幕末の本丸炎上(1868年)にも耐えた事になり
非常に貴重な建築物と言えよう。江戸時代に「黄金水」と呼ばれていた金明水井戸は深さ33mにも
達し、地表面から7m下までは切込ハギの石垣、さらに下も粗目の石垣で穴壁を固めている。
伝説では秀吉が井戸底に黄金を投げ入れて水質の浄化を祈願したと言われていたが、詳細
調査の結果、徳川期の構築で新造されたものと判明している。
以上の諸建築につけ加えて明治の再建である桜門がいずれも1953年(昭和28年)6月13日、
国重文に指定され申した。文化財指定を受けていないのが青屋門。二ノ丸の北東側、搦手
方面の門で、この門の前には算盤橋が架かっていた。
以上が城内建造物であるが、何と言っても大坂城最大の見所は石垣と堀でござろう。銃撃戦を
意識した堀は場所によって幅100m近くに達し、もはや堀というより人口の川。その上にそびえる
石垣も見事で、高さ約30mに及び城郭石垣では日本で最も高いとされている。
(詳細調査がされていないので、伊賀上野城の石垣と一二を争っている)
巨石をふんだんに用いているのも特徴で、城内最大の石とされる桜門枡形内側の蛸石(たこいし)は
大きさ36畳分(60u)、推定重量130tもある。この他、肥後石・振袖石・見付石など、城内各所に
巨石が配置されているのでそれらを探すのも大坂城散策の楽しみでござろう。また、天守前広場の
地下には豊臣期の石垣が埋設保存されている他、近隣の大阪府立男女共同参画・青少年センター
(ドーンセンター)や追手門学院小学校内にも発掘された豊臣期石垣が移設保存されてござれば、
かつての「太閤さんの城」の一端に触れる事が出来申そう。逆に言えば、現在の大坂城は全て
秀吉構築ではなく徳川幕府の作り直した城という事になるのだが…w
何より、現在の城址は全て大阪城公園として(ごく一部の立入禁止区域があるが)一般に
開放されている。その敷地面積は106.7ha、旧軍時代からは考えられない程の広範囲だ。
当然、日本城郭協会の日本百名城に選定。別名で錦城・金城(いずれも「きんじょう」)。


現存する遺構(徳川期遺構)

一番櫓・六番櫓・千貫櫓・乾櫓・金明水井戸屋形・焔硝蔵・金蔵
桜門・大手高麗門・大手多聞櫓門及び続多聞櫓
大手門北塀・大手門南塀・多聞櫓北塀《以上国指定重文》
青屋門・井戸跡・堀・石垣・郭群
《再建天守は国登録有形文化財》
城域内は国指定特別史跡

移築された遺構として
宝厳寺唐門(伝豊臣期大坂城極楽橋廊下櫓部分)《国宝》
ドーンセンター前石垣(豊臣期石垣遺構)








摂津国 三津寺砦

三津寺砦跡 七宝山大福院三津寺

所在地:大阪府大阪市中央区心斎橋筋

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



三津寺は「みってら」と読むのが慣例。山号まで含めると七宝山大福院三津寺は真言宗御室(おむろ)派
準別格本山、摂津国八十八ヶ所の第2番霊場とされている。大坂三十三観音札所第30番札所にも。
この寺の起源を遡ると、東大寺(奈良県奈良市)創建の大功労者である高僧・行基が744年(天平16年)
聖武天皇の発願により創建したとされ、元来この場所は応神天皇の葬礼を行った墓所であったと寺の
由緒には伝わっている。これが戦国時代になると、石山本願寺の項で記した「石山合戦」における本願寺
宗徒の前線基地となっていった。それが三津寺砦でござる。
信長に反抗した石山本願寺は、寺内町に立て籠もり織田軍と交戦。法主・顕如は全国各地の一向宗徒に
檄を飛ばし、広範囲に一向一揆を起こして信長政権に打撃を与えた。業を煮やした信長は、顕如の
本拠・石山を攻め立てるが、堅固な城構えとなっていた本願寺は全く落とせない。このため包囲戦とし
兵糧攻めを目論むが、背後に大坂湾を抱えた石山の地は水運で繋がり、本願寺を支援する勢力が
船で武器や兵糧を運び込み続けたのである。結局、織田軍は力攻めに戻さざるを得ず、それでいて
大阪湾の交易も封殺せねばならない多方面作戦を余儀なくされたのだ。
こうした中の1576年(天正4年)本願寺攻めの最前線基地として天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)を
築いた織田方は、そこを拠点に明智日向守光秀・佐久間駿河守信栄・長岡(細川)兵部大輔藤孝・荒木
摂津守村重・塙備中守直政(ばんなおまさ)ら精強の将を展開。5月3日、このうち塙(原田とも)直政と
その与力になっていた三好山城守康長が一軍を率いて三津寺砦への攻撃を開始した。大坂湾から石山
本願寺へと至る補給路を分断する為、三津寺砦を攻略しようとしたのだ。三津寺の「三津」とは、旧来
「御津」の字を当てたとされ、つまり“津”=湊(港)を意味したものである。中世の大坂湾岸は
現代よりも入り組んだ海岸線を成し、今よりも深く内陸まで航路が達していた訳だが、三津寺砦は
こうした航路や陸揚げ路を確保する重要拠点だったと推測できよう。織田軍の重鎮であった直政の出陣に
三津寺砦では巧みに防戦、さらに本願寺側は1万もの援兵を発し、原田・三好勢を包囲した。そして
本願寺側の雑賀衆(さいかしゅう、当時最強と言われた鉄砲傭兵軍団)が銃撃を開始した事で攻砦軍は
大混乱に陥ったのでござる。斯くして原田直政は戦死、三好康長は這う這うの体で脱出する有様で
あった。勢いに乗った本願寺側は逆襲に転じ天王寺砦を包囲、明智光秀や佐久間信栄らは閉じ込められ
進退に窮する危機に陥るのである。この後、織田信長が自ら軍を率いて天王寺砦を救援したものの、
当時、織田政権下で大和国(奈良県)を統括する地位にあった原田直政が討死したのは痛恨事であった。
周辺諸寺を荒廃させ石山合戦は閉幕していくが、御多分に漏れず三津寺も荒れ果てたようで、信長も
顕如も没した後の文禄年間(1592年〜1596年)に、僧・賢愚が復興した。尤も、既に天下泰平の時代で
宗教勢力による武力闘争は消え失せた時代の再建である為、砦として用いられる事のない純然たる
「寺」としての再生である。1791年(寛政3年)の火災で寺堂は焼失したが、1808年(文化5年)に本堂が
再建され、現在に至っている。
場所は大阪市中央区心斎橋筋2-7、大阪の町を南北に縦断するメインストリート・御堂筋(国道25号線)に
面した位置にある。目の前にある国道の交差点は「御堂筋三津寺町」という名前で、三津寺町というのは
江戸時代から1989年(平成元年)までこの辺りの町名として用いられていた住所表示であった。大阪一の
繁華街にある為、砦としての遺構は全く残されていない。御堂筋拡幅による土地収公で境内地の約4割が
接収されたため1933年(昭和8年)に新築された庫裡は、一見すると近世城郭の櫓風になっているが
石山戦争の頃に用いられた“中世の城砦”にこのような建物は無かった筈なので、あくまでも雰囲気を
味わう程度のものと心得るべし(笑)
なお巷談ではあるが、石山合戦で戦死した塙直政の縁者が大坂の陣での豊臣方勇将として高名を馳せた
塙団右衛門(ばんだんえもん)こと塙直之(なおゆき)だとする説がある。直之は冬の陣で幕府方に夜襲を
掛けて散々に引っ掻き回し、夏の陣では一番槍の功名を目指して突撃を敢行、壮絶な戦死を遂げたと言う。
もしこれが真実ならば、塙一族は石山合戦で攻撃側、大坂の陣で籠城側として命を賭したという事になろう。
果たして真実は―――?







摂津国 天保山台場

天保山台場跡

所在地:大阪府大阪市港区築港

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



大阪港湾地区、安治川の河口に位置する極低山・天保山。国土地理院の二等三角点があり
(過去、記載が消滅した時期もあったが)“日本一低い山”とされている。その起源は江戸後期の
天保年間(1830年〜1844年)安治川の浚渫工事によって発生した残土を積み上げた事によるが
幕末には大坂湾に突き出した格好の場所を利用し異国船の襲撃を防ぐ台場とされてござった。
以下、天保山の経歴について記す。
安治川は旧淀川の河口部だ。戦国時代まで淀川は蛇行を繰り返す天然の川で、畿内水運の要で
あったものの、航路が制限され氾濫の危険も伴ってござった。これに対し江戸時代前期の1684年
(貞享元年)豪商の河村瑞賢(かわむらずいけん)が治水工事を行い流路を直線状に改めた。
この工事で大坂商業地の運河が整備され氾濫の危険も減り、何より淀川水運は以前に増して
活性化したのである。水都としての大坂はこの時、真に誕生したと言え申そう。それから
150年あまりが過ぎ、江戸時代後期になると安治川には上流から堆積する土砂で河床が浅くなり
大型船の入渠が難しくなっていた。蛇行する川の場合、土砂は屈曲部を中心に堆積するが、
直線の川の場合、河床全体に沈殿する事となるのは自然の摂理である。瑞賢の運河工事以来、
再びの大工事となる安治川浚渫が行われたのは1831年(天保2年)〜1833年(天保4年)の事。
動員された人員は延べ1万3000人にも及んだと言われ、500隻もの舟が用いられたと伝わる。
「天保の大川浚」と称されるこの工事で発生した大量の土砂は河口部に積み上げられ、その高さは
20mにも達したと言う。この山はいつしか大坂湾へと入る舟の航路標識となった為「目印山」とも
呼ばれるようになる。これが天保山の起源でござる。目印山という名の通り、海岸には高灯籠
つまり灯台が1836年(天保7年)に置かれ、山には桜や松などが植樹された為、その風致から
現代のウォーターフロントよろしく当時の一大観光地として賑わったと言う。
ところが時代は西洋列強が続々と日本沿岸へと到達していた頃である。ペリーが浦賀へ来航した
直後の1854年(安政元年)、プチャーチン率いるロシア軍艦ディアナ号が大坂湾へと姿を現した。
ペリー同様、日露国交交渉をする目的である。大坂では外交交渉が行えないと指示されディアナ号は
下田へ回航されたが、時の大坂城代・土屋采女正寅直(ともなお)並びに大坂町奉行らは大坂湾岸の
防備が急務とし、沿岸部に台場を築造させたのでござる。こうして築かれた台場群の中の一つが
天保山台場である。この工事には鳥取藩や松江藩の人員が動員され申した。構築当初、安治川口
台場あるいは目標(目印)山台場と呼ばれたもので土屋家に残る最初期の台場見取図ではやや
角みを帯びた楕円形(アサリの貝殻のような形)をしていたようであるが、後に突起部を多数構えた
稜堡式城郭の体を成すように改造された。(稜堡式への改変は勝海舟の手によるとする説がある)
おそらく土屋寅直による最初の構築が1855年(安政2年)頃、改造が1864年(元治元年)か?
台場造成工事に伴い、積み上げられていた天保山の土砂は切り崩され、標高を減じている。
ところが1867年(慶応3年)外交上の懸案であった兵庫(神戸)開港が勅許された事により
大坂湾内まで侵入してくる異国船の脅威は回避されるようになった。この為、天保山台場は
1度も実戦使用される事はなかった。一方、国内海軍の動向には深く関わるようになり
幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗れた直後、大坂を離脱した15代将軍・徳川慶喜は1868年1月8日
ここ天保山から軍艦「開陽丸」に乗船して江戸へと脱出している(12日江戸着)。また、その後に
明治新政府軍が明治天皇を仰いで軍艦叡覧(観艦式)を行ったのも天保山での事であった。
同年3月26日に挙行されたこの観艦式では300tコルベット艦「電流丸」(佐賀藩艦)を旗艦に
「万里丸(熊本藩艦)」・「千歳丸(久留米藩艦)」・「華陽丸(長州藩艦)」・「万年丸(広島藩艦)」
「三邦丸(薩摩藩艦)」それにフランス海軍艦「デュープレックス」が参加。しかし、日本艦6隻のうち
戦闘艦は電流丸と万里丸だけで、残る4隻は輸送艦であった。実はこの時、榎本武揚率いる
旧幕府艦隊が函館で蝦夷共和国艦隊として明治新政府軍と交戦状態にあり、新政府海軍の
主力艦は軒並み函館方面に回されていたのだ。この為、観艦式は戦闘艦を大きく欠く状態で
行われた訳だが、近代日本海軍の萌芽として天保山での式典は記念すべきものでござろう。
結局、旧幕府勢力の抵抗は鎮圧され明治政府が実働し始めると武士による合戦の時代から
近代軍隊による戦争の時代へと変わっていく。全国各地の城郭は廃城令によって大半が破却され、
僅かに残された城も陸軍駐屯地や官有地へと組み込まれた。江戸幕府による“台場”は近代兵制の
“砲台”へと再編されたが、これも廃城令に基づき殆どが廃棄される事に決定される。しかし、
外国海軍に対抗する沿岸防衛施設の必要性により一般の旧城郭とは一線を画し、実際の廃棄は
保留されそのまま砲台として活用される事になった。封建時代の遺物、刀や槍での戦いを前提にした
城と違い、砲撃戦を行う為の海上要塞は近代の戦闘でも第一線で有用なものと判断されたのだ。
斯くして天保山台場改め目標山砲台は陸軍により維持管理され、自然災害による破損の都度
改変修繕を受けている。また、砲台内の大砲も常に稼働状態を維持していたようで、必要に応じて
砲の入れ替えが行われた記録が残る。このうち最もよく知られているのが、現在は大阪城天守の
前に展示されている青銅砲で、1864年に幕府の命令で美作国津山(岡山県津山市)の鋳工・百済
清次郎らが製造し、全長348cm、砲口内径20cm、外径40cmの前装砲。幕府時代、天保山台場に
据え付けられ、1870年(明治3年)大阪城内へ移され大正時代まで号砲として用いられたと伝わる。
この他、1879年(明治12年)の陸軍省記録日誌には目標山砲台内に少なくとも12門の24ポンド砲が
あったとされ、1881年(明治14年)には神奈川台場(神奈川県横浜市神奈川区)の礼砲用
24ポンド砲が不良となった為、4月に目標山砲台から2門が移設される事になったという。
1886年(明治19年)、目標山砲台から天保山砲台へと呼称変更。この頃から全国各地に
明治政府が構築した新式砲台や海堡が登場しはじめ、大阪湾岸部でも新砲台が作られている。
これで幕藩時代から残されていた天保山砲台の重要性は薄れ、次第に補修が疎かになっていく。
砲台敷地周辺部も(有事には返還する条件で)外部へ貸与されていき、一例を挙げると1888年に
大阪府警の射撃訓練場が作られた事例がある。一方1894年(明治27年)日清戦争が開戦となるや
天保山砲台は大阪湾岸防備の主要地として再び戦闘配備に就く事となり申した。これにより
28センチ榴弾砲8門が緊急配備され、外部に貸与されていた敷地も軍に返還される。とは言え、
これが軍事要塞として天保山砲台が活躍した最後の事例となり、日清講和を過ぎた1896年
(明治29年)以降、装備砲門の他砲台への移転、更に敷地売却へと進んでいく事になって候。
明治30年代となると、天保山周辺を埋め立てし港湾整備が行われるようになった。従来、大阪の
港は安治川を遡った河川部を使っていたが、近代的な大型船の登場や外国航路の活性化に伴い
それでは不十分となり、大阪湾に突き出す位置にある天保山一帯が格好の用地に選ばれたのだ。
斯くして砲台敷地を包み込むように埋め立てが行われ(当然、天保山の土砂が用いられている)
旧砲台跡地は一時的に築港事務所として使われた。この間、日露戦争が勃発したが既に淡路島で
新式要塞(由良砲台)が稼働していた為、天保山砲台が復活使用される状況にはならなかった。
埋め立て事業がひと段落すると、今度は旧砲台敷地が大阪陸軍糧秣支廠となる。ここでは
外征や帰還に従事する兵員の食料や器具類を調達・保管し、帝国陸軍の補給事務を取仕切る
重要拠点となっていた。しかしそれも太平洋戦争の空襲で機能停止、終戦で御役御免となり、
戦後長らく荒廃したまま放置されていたと聞く。高度経済成長期になり大阪港の再整備が
行われるに従い埋立地がかつての繁栄を取り戻し、糧秣支廠跡すなわち天保山台場跡は
公園として生まれ変わる事となった。1957年(昭和32年)に公園整備事業が立ち上がり、
翌1958年(昭和33年)天保山公園が開園する。現在では周辺に水族館や大型商業施設が
建ち並んでおり、大阪湾岸での一大行楽地になってござる。
ちなみに天保山の標高であるが、1921年(大正10年)7.2mとされていたものが1967年
(昭和42年)に7.1m、1977年(昭和52年)に4.7m、1987年(昭和62年)に4.5mと激減している。
これは昭和の経済成長期に地下水を大量に汲み上げ工業用水としたため地盤沈下を起こしたと
推測され、1911年(明治44年)二等三角点設置以来の「山頂」表記は1993年(平成5年)とうとう
抹消される事態に至った。1996年(平成8年)表記が復活した事で「日本一低い山」を
名乗っているが、実際に現地へ行ってみると公園造成で作られた築山の方が
元来の天保山頂よりも遥かに高いので勘違いする(苦笑)
天保山頂はあくまでも「三角点のある場所」なので注意されたい。




京都守護職本陣・御土居・山科本願寺  岸和田城