山城国 京都守護職本陣

京都守護職本陣跡 金戒光明寺

所在地:京都府京都市左京区黒谷町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



幕末の京都、京都守護職を拝命した会津藩が屯所とした陣所。左京区黒谷町、「くろ谷(くろだに)」との通称を有する
浄土宗紫雲山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の境内がそれでござる。金戒光明寺は浄土宗最初の寺院と言われ
開祖・法然(ほうねん)上人が草庵を結んだ場所と伝承されており、浄土宗七大本山の1つである。
黒船来航、不平等条約締結、桜田門外の変と幕末の政治は混迷を極め、幕府の権威はすっかり失墜。それに伴って
天皇権威がにわかに浮揚し、攘夷や幕府打倒を唱える勢力は朝廷を取り込む政治的工作を行うようになった。そして
一部の過激派は反対派勢力の排除(要人暗殺)・活動資金の不当調達(商家強盗)・示威的破壊活動(放火)と言った
テロ活動に暗躍する。斯くして京の都は急激に治安が悪化、従来警察活動を担っていた京都所司代や京都奉行では
対応しきれなくなっていた。斯くして、文久の改革において京都市中の特別警察活動を執り行う役職が新設される。
これが京都守護職である。
1862年(文久2年)閏8月1日、その任に就いたのが会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)だった。尊王攘夷派の過激
志士を取り締まる役は、即ち一部の反幕府勢力雄藩(特に長州藩)を敵に回す事に等しい。また、時節はどう考えても
幕府衰退の一途を辿っており、京都守護の遠征を行ったとて得るものは殆ど無かった。それは容保も会津藩の面々も
重々承知しており、会津藩側は再三に渡って就任を固辞していたのだが、会津藩祖・保科左近衛権中将正之の遺訓
「会津藩は将軍家を守護する存在」を引き合いに出され、“会津を以って他に適任無し”と押し切られたものであった。
守護職拝命を決意した折、容保主従は「これで会津は滅びる」と君臣揃って慟哭したと言う。
京都を死に場所と覚悟した容保は、まず状況視察として家老の田中土佐守玄清(はるきよ)や会津藩軍事奉行・野村
左兵衛直臣らを先発させた。彼らが事前調整を行った後、同年12月24日の朝方に会津藩兵1000を率いた容保は京都
三条大橋を渡って入洛。所司代や町奉行の出迎えを受け、金戒光明寺へと入居した。この際、藩兵の行軍は1里にも
連なり、その威風堂々とした佇まいに洛中民衆は歓呼したと伝わっている。明けて1863年(文久3年)1月2日、容保は
御所へ参内し孝明天皇に拝謁。以後、政治的差異はあったものの帝からは絶大な信任を受け、会津藩は京都市中の
犯罪取締りに尽力する。所領の会津からは1000の兵を1年交代で入替えさせ、京都での大任に当たった。この屯所と
して金戒光明寺は用いられ続けたのだが、一方で大軍が駐屯した事で敷地が狭隘になり、守護職屋敷や練兵場が
洛中各所に構えられ申した。
新設された京都守護職の職制は、従前からあった京都所司代や京都町奉行を配下に収め、更に京都見廻役・京都
見廻組といった下部組織を設置して洛中全般の治安維持・政治的調整にあたった。しかし、ゲリラ的な過激派浪士の
活動にはそれだけで手が足らず、江戸から派遣された臨時の浪士組も会津藩隷下に加えられ手足となって働く事に
なる。こうして結成された浪士組を組織化したのが、あの新選組だった。1863年の3月10日、老中・板倉周防守勝静
(かつきよ)が壬生浪士組を会津藩差配と命じ、同月12日に会津守護職預かりとなる事が確定。以来、池田屋事件や
戊辰戦争における壮絶な戦歴を重ねていく新選組であるが、彼らが屯所とした壬生(みぶ、中京区)と金戒光明寺の
間では毎日のように連絡の使者が行きあっていたとの事。新選組誕生の場所となったのがこの地なのである。
さりとて時流は予想通りに幕府滅亡へと動き、15代将軍・徳川慶喜は1867年(慶応3年)10月14日に大政奉還を奏上。
この時点ではまだ京都守護職の職は残っていたが、12月9日に発せられた王政復古の大号令で幕府職制は全て廃止
解体が決定された。よって会津藩兵は金戒光明寺を退去、大坂城(大阪府大阪市中央区)へと移り、更に後には領国
会津で新政府軍と過酷な遺恨の戦いを繰り広げる事になっていく。御宸翰(ごしんかん、天皇自筆の手紙)まで賜り、
会津中将の忠勤天下第一と讃えた孝明天皇すでに亡く、朝廷が薩長勢力に総て塗替えられた後は先帝への忠節も
無かった事にされ、京都を争乱から守り続けた松平容保は一転して尊攘派浪士を追捕した恨みから“朝敵”の汚名を
着せられ、悲劇の終末へ突き進んだ。洛中警護の期間、そして戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)に於いて会津藩士からは
多数の病死者・戦死者を出しているが、彼らは金戒光明寺の墓所に葬られ「会津藩殉難者墓地」として現在も保たれて
いる。その中には京都守護職創設時に働いた野村左兵衛も含まれている。
西に嵐山〜高雄、北に貴船・鞍馬、東に比叡山〜清水山の東山連山が取り囲む京都盆地の中は総じて平坦な地形と
思われがちであるが、妙心寺の裏山にあたる雙ヶ岡(ならびがおか)山塊(右京区御室双岡町)、応仁の乱の主戦場と
なった船岡山(北区紫野北舟岡町)と、東山連山の前衛となる吉田山(左京区吉田神楽岡町)だけは標高100m超えの
独立丘陵として市街地の中に屹立している。それに次いで、金戒光明寺境内となっている黒谷山は海抜97mと僅かに
及ばぬ高さの小山で、洛中にもこの4つの山だけは存在している訳だ。比高40m程、実際に黒谷山へと登ってみれば
坂は急峻、山中も起伏に富み、それでいて寺の境内は広く、何より洛中を一望できる視界が開ける。城目線で見れば
平山城として考えるにうってつけな状態と言え、しかも京都御所までは直線で約2.4km。人が走れば15分ほど、馬なら
5分くらいで行ける距離だったそうな。まさに城を構える必然性を持った山にして、小督(おごう)の方(徳川秀忠正室)
供養塔や春日局(徳川3代将軍・家光の乳母)の墓なども金戒光明寺境内にあり、徳川幕府との関係性も高い要所。
京都守護職にとっては、本陣とすべき天命の場所だったのかもしれない。そんな事に思いを馳せながら金戒光明寺を
参拝すれば、間違いなく「ここは城だ!」と確信すること請け合いでござる。境内には豊臣秀頼が建立した阿弥陀堂や
源平合戦の猛将・熊谷次郎直実(くまがいなおざね)所縁の松の木などもあり、歴史好きには色々とオススメの場所。
2019年(令和元年)には会津藩殉難者墓地の一角に松平容保の石像も建立され、6月9日に除幕式が行われている。
ちなみに、現在の京都府庁となっている場所は容保が京都守護職上屋敷を構えた場所。守護職の役宅が、維新後も
京都を治める重要な役所と認識されたのならば―――朝敵となった容保の汚名も少しは雪げると云うものだろうか。


現存する遺構

郭群








山城国 御土居

御土居 土塁断面(北区大宮土居町)

所在地:京都府京都市北区大宮土居町・鷹峯旧土居町 ほか

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★■■■■



「土居」とは即ち土塁の事。城郭用語で言う“土を盛った堤防状の障壁”を指す一般名詞だが、それに「御」の字を付け
「御土居(おどい)」と尊称する事で固有名詞化したこの構造物は、豊臣秀吉が京都の町全体を囲って、外敵の襲来や
川の洪水から内部を守る為に築いた城郭、つまり京都外城を意味する。天下人となった秀吉が築かせた土塁なので、
貴人の作らせた土居「御土居」な訳だ。
織田信長亡き後、天下統一の覇業を継承した秀吉は1590年(天正18年)関東の後北条氏討伐でそれを完遂させた。
後北条氏が本拠とした小田原城(神奈川県小田原市)は難攻不落の堅城として知られ、かの上杉謙信や武田信玄も
城内へ攻め込めなかった歴史を持つ。秀吉の攻略でも同様で、豊臣軍は城を包囲する兵糧攻めの持久戦を採って、
城方が自壊するのを待ち開城させ申した。それと言うのも、小田原は町ごと土塁で囲う「総構え」という構造物を有し、
内では戦闘中でも市が立って町民もろとも平穏な生活を継続できたからである。20万を越える大兵力を以ってしても
この総構えを突破するのは容易ならず豊臣軍は力攻めを忌避した訳だが、その防御力に圧倒された秀吉は自身が
治める重要都市にも同じような総構えを欲するようになった。斯くして1591年(天正19年)初頭から都を囲む大土塁の
構築が始まる。これが御土居だ。秀吉は他に大坂城でも総構えの構築を行っている。
御土居の北端は堀川通りが賀茂川に接する地点(京都市立加茂川中学校の裏手)、東側はそのまま鴨川に沿って
河原町通りまで、南端は東寺(真言宗八幡山教王護国寺)の南縁、西側は概ね西土居通りに一致だがJR山陰本線
円町(えんまち)駅の部分だけは更に西へと突出。天神川〜紙屋川と並行し、日蓮宗大虚山光悦寺の南東550m程の
地点で北東へ折り返して北端地点へと至る。御土居跡地だけは後の都市造成で宅地化された為、地図を目で追うと
帯状の区画が延々と続いており、西面〜北面においては比較的簡単にその形状が判別できる。最大で東西3.5km×
南北約8.5km程度の範囲を土塁で囲い、総延長は約22.5kmにも及んでおり、秀吉はその内部を洛中、外部は洛外と
定めた。本来、平安京の「碁盤の目」になっている内部が洛中で(左京部分だけを指すとする説もある)、その形状は
方形を成している筈であったが、時代が進むにつれて都市構造が変化し、或いは戦乱や災害で荒廃した部分もあり
戦国時代に於いて「洛中/洛外」の区分は曖昧になっていた。秀吉は総構え構築によって京都防備を固めると同時に
京の都市改造、更に市街地区分の明瞭化を図る為に御土居を構築したのでござれば、この区分において「洛中」は
京都御所を中心とした縦長の楕円形内に再定義された事になる。土塁の外側(一部では内側)には堀が掘られ、また
鴨川や天神川などはその代用ともされ、洛中と洛外はハッキリと区分されるようになった。故に、主な通りが御土居と
交差する地点には開口部が設けられたが、一方で主要幹線以外の通りは塞がれる事にもなり申した。土塁の断面は
基底部で約20m×高さ約5m、上面は5mの幅をした台形となっており、外縁の堀は幅10m以上、深さは5m程だと言う。
自然地形を利用した小田原城の総構えほどの規模ではないものの、平野部に構築した土塁としては破格の巨大さで
秀吉が大土木工事を行って京の内外を取り締まろうとした様子は良く解ろう。なお、冒頭記載の通り御土居は鴨川や
紙屋川の洪水対策も兼ねたものであった。中世まで京都市街地はこれらの河川による洪水被害が頻発し、為政者に
治水事業も求められていた為、秀吉は諸問題を御土居構築で一挙に解決しようと図ったのだろう。
さりとて、秀吉は天下を統一したからこその権力者である。平和になった筈の京都で、防備に供する囲いを作るのは
本末転倒な行いであった。平和と繁栄を享受するようになった京都の商人にとって、往来を阻害する土手は邪魔で、
秀吉が没すると、早々に通路の開削が行われるようになる。また、治水事業の発展で川沿いに御土居が存在する
必要性も無くなって、江戸時代には大半の土塁が撤去されていく。しかし全滅した訳ではなく、残存していた部分は
幕府が山林として収公し、京都の政商・角倉(すみのくら)家が管理していたのだが、それも明治期になると殆どが
耕作地化・宅地化されていき、切り崩されてしまった。先に「御土居跡地は地図で追える」と書いたのはこのためで、
周辺部から取り残されていた御土居跡地が後発で街区整備された事によりそこだけ新たな町域区画になった訳だ。
最終的に、近代まで残存する御土居は断片的なものでしかない。だが、歴史的経緯の重要性から8箇所が1930年
(昭和5年)7月8日に国の史跡と指定される。更に1965年(昭和40年)10月27日には北野天満宮境内の西辺部が
追加指定された。この追加指定部は内部からの排水石樋施設が現存する唯一の御土居残存遺構とされている。
史跡指定を受けていない残存部は京都市立北野中学校の校庭内(中京区西ノ京中保町)と、大宮交通公園の中
(北区大宮西脇台町)でござる。また、東寺西門通りにあるバス停の名に「御土居」が、京都府立鳥羽高等学校の
北側にある国道171号線の交差点名には「九条御土居」(ここから北へ延びる道が「御土居通り」)とある。


現存する遺構

土塁
一部残存部は国指定史跡








山城国 山科本願寺

山科本願寺跡 土塁遺構

所在地:京都府京都市山科区西野阿芸沢町・西野様子見町 ほか

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



塀で囲まれた境内には、数々の堂宇や鐘楼が建並ぶ。寺と言うものは、実は城と共通する点が多く、境内は曲輪、
堂宇や鐘楼は即ち御殿や櫓に相当する。況や戦国時代の寺院は自衛の為に堀で周囲を囲い、政治的要求実現や
他の宗派との争論に備える為に僧兵と言う軍事的組織も持ち合わせており、そのまま城構えと戦国大名さながらの
実力集団と言えた。特に本願寺教団(一向宗)は“現世利益の追求”を教義の根幹として、幕府や大名勢力からの
支配脱却や他教団との対立を先鋭化させていき、武力闘争の度合を高めている。それでいて“死ねば極楽”とする
分かり易い教えは、信者に死をも恐れぬ戦意を与え、宗徒全てが戦闘員と化す程の影響力を有するようになった。
現代人の感覚で言うと「宗教は心の安寧をもたらすもの」「平和的な思想集団」と思いがちだが、中世までの教団は
独立自衛を保つためには抗争も辞さない武闘派組織だったのである。と同時に、それだけ攻撃的であるが故に敵も
多く、幕府や大名や他宗教の反感も増える事になり、拠点防衛の為に寺の城塞化も加速していた。
鎌倉時代に親鸞(しんらん)が開いた浄土真宗は、京都東山の地にある大谷本願寺を本拠地として勢力を拡大して
いた。しかし1465年(寛正6年)本願寺8世宗主・蓮如(れんにょ)の頃に比叡山延暦寺の天台宗と対立。加えて真宗
内部でも騒動が起き、これらの敵が一斉に動いて大谷本願寺を襲撃、破却した。難を逃れた蓮如は都を落ち延び、
越前国吉崎御坊(福井県あわら市)にて宗勢の回復を目論んだ。そして1478年(文明10年)1月29日、洛中を目前に
控える山科(やましな)の地に新たな本願寺を起工する。これが山科本願寺である。記録上では1483年(文明15年)
8月22日に落成となってござる。浄土真宗中興の祖とされる蓮如はこの寺を中心に畿内一円で勢力を拡大。1489年
(延徳元年)には隠居して宗主の座を5男の実如(じつにょ)に譲っており、それに伴って山科本願寺の東側に南殿
(なんでん)と呼ばれる隠居所を構築している。隠居したとは言え蓮如の意気はまだまだ衰えず、1496年(明応5年)
9月には大坂御堂(おおさかみどう)と呼ばれる新坊舎を摂津国東成郡(大阪府大阪市中央区)に建立する。蓮如は
1499年(明応8年)3月25日に山科本願寺で没するが、この時85歳という大往生でござった。然る後、一向宗は実如
さらに証如(しょうにょ)へと宗主を継いでいく時代になるが、畿内の政治的混乱が加速する中で、一向宗の関与も
いよいよ深まるようになり、山科本願寺の備えも重防備なものへと変わったと見られている。
日本の都市形態にはいくつかの分類が挙げられ、例えば街道沿いに発展した「宿場町」、港湾を中心に発展した
「湊町」、城郭に関連するならば、城の周囲を取り囲むように作られた「城下町」などがある。寺や神社に於いては
寺社の参道を中心に開拓された「門前町」という事になろう。そう、城下町にせよ門前町にせよ、町屋は城や寺の
外部に広がっていき、中心となる城・寺を守るための“迷路”“トラップ”として使われる事が多く、もし戦時となれば
捨て石とされるのが常であった。ところが本願寺(山科本願寺だけでなく他の類例でも)は堀や土塁で囲繞された
境内地(曲輪内)の中に町屋を構えた「寺内町(じないちょう)」を成立させたのである。山科本願寺は、中心となる
堂宇を建てた敷地「御本寺」があり、その外部を僧侶の暮らす僧坊で固めた敷地「内寺内」が囲み、更にその外に
一般門徒の居住区域「外寺内」が広がって、全体を堀や土塁が取り囲んでいる。無論、御本寺・内寺内・外寺内の
区画を分ける為にも堀や土塁が構築され、各所で防備に必要な屈曲や出入口が備えられていた。即ち、城主の
御座所となる「本丸」、重臣屋敷群の「二ノ丸」、足軽屋敷がひしめく「三ノ丸」という城郭での重層構造がそのまま
展開され、そこには横矢掛かりや虎口といった“城砦では必須の防衛構造”が備えられていた訳でござる。しかも、
山科本願寺は山科川の北岸に沿った立地で、その支流である安祥寺川と挟まれる形で敷地を構えていた。つまり
城(寺)の外辺は天然の水濠となっており、迫り来る敵の攻勢を局限する事が可能となっていたのだ。要するに、
山科本願寺は平地の中に築かれた多重防備の「平城」として成立していた。当時の坊官の記録である経厚法印
日記(きょうこうほういんにっき)では「山科本願寺ノ城」と明記されており、その頃から「ここは城だ」と認識されて
いた事が分かる。発掘調査で確認された場所において、土塁は基底部が12m×高さ6mの規模を有した本格的な
構造で、曲輪内部では蔵や工房の痕跡も検出。本願寺寺内町は自活できる生活水準を維持し、自治独立を勝ち
得ていた事が諸史料から分かってござる。
しかし一方で、城郭の発展史において平城が主流になるのは近世になってからの事である。戦国争乱の時代に
終わりが見え、大勢力による集約が進み、戦の為の城よりも統治の為の城が必要になってからが平城の時代と
なるのだが、山科本願寺が構築されたのは戦国時代の前半。しかも山科の地は要害と言えるような地形でなく、
むしろ周りを山に囲まれた盆地の中、守るに不利な場所と言えるくらいだ。そこに防備を固めた寺を築くならば、
必然的に平城と同様の形状にならざるを得ないだろうが、どうやら本願寺教団は城造りに特化した専門職集団を
抱え、このような構造を作り上げる術に長けていたようだ。逆に言えば、それを前提として寺(城)を築くバリバリの
武力教団だった事が垣間見える。山科本願寺の敷地は東西800m×南北1kmにも及ぶ広大なものだったと思われ
土塁内部には排水用の石組暗渠が仕込まれていた事が発掘によって確認されている。このような構造は専門の
職工技能者が居なくては作れないもので、武士階層である大名権力よりも先進的な思想・技術を一向宗が有して
いたのである。山科は大津から洛中に至る東海道と宇治方面へ抜ける宇治街道の結節点にあり、物流・情報が
集約する戦略的拠点であった。要害の地ならずとも、ここを押さえる事は都への大きな影響力を保持する意味が
あり、一向宗としては必須の場所だったと言える。地形に頼れなくとも、優れた築城技術により弱点を補いながら
本願寺教団は中央政界への圧力を強めていった。なお、こうした傾向が顕著になるのは実如や証如の世代に
なってからの事と言われ、蓮如没後も山科本願寺の増強(「築城」と言うべきか)は進められていたようだ。
さて山科本願寺の終焉は1532年(天文元年)8月24日の事だった。まずはそれに先立つ経緯から説明していくと
河内(大阪府南部)守護・畠山右衛門督義堯(よしたか、義宣とも)が重臣の木沢左京亮長政(きざわながまさ)と
対立した事が始まりだ。長政は戦に常勝、政事にも切れ者ぶりを発揮した謀将であるが、主君・義堯とは意見の
相違を招き、両者の関係は1531年(享禄4年)夏頃から急激に悪化していた。互いに支援者を必要とした両者は、
長政が管領(かんれい、室町幕府の実質的統括者)・細川右京大夫晴元(はるもと)に援助を求め、義堯は三好
筑前守元長(みよしもとなが)に接近していく。元長は晴元の家臣であり、当時は細川家中でも対立関係が醸成
されていた事からこのような連合関係が成立したのだ。いよいよ開戦という段となり、当初は長政が自身の居城
飯盛山城(大阪府大東市・四条畷市)へ攻め込まれる不利な状況であったのだが、ここで晴元が証如に援軍を
依頼、一向宗の力で逆転を図ろうとした。この策略は見事に当たり、死をも恐れぬ一向門徒は飯盛山城を開放
しただけでなく、畠山義堯と三好元長の両者を敗死に追い込んでいる。細川晴元は自ら援軍を頼んでおきながら
一向一揆のあまりの強さに恐れをなし、今度は京都の法華宗や近江の戦国大名・六角氏と手を組んで一向宗の
排除に転じた。それと言うのも、一揆勢は畠山・三好勢を倒したのみならず、そのまま大和国(奈良県)へと乱入、
一度火の点いた一向門徒は止められなくなっていたからである。
京では「一向宗が都に乱入して法華宗を攻撃する」と噂が流れ、法華宗は行き掛かりから直ちに決起。敗死した
三好元長は熱心な法華宗信者であり、弔い合戦の意味もあったとされる。斯くして京都を囲う各所で法華一揆と
一向一揆の合戦が始まり、一進一退の攻防が続けられたが、次第に一向宗側は劣勢となり1532年8月下旬には
本拠地・山科本願寺が取り囲まれる事態となった。それでも城構えの寺内町は堅牢で、寄せ手は攻めあぐねて
両軍の間には和議の話も持ち上がった。が、この和議は偽りのもので、本願寺の油断を誘う計略であった。8月
24日早朝、御本寺曲輪脇の土塁の切れ目「水落(みつおち)」と言う箇所(名前の通り堀の開口部であろう)から
攻城軍が侵入、一気に寺内町内部を蹂躙したのである。こうして内部崩壊へ至った寺内町は焼亡してしまい、
宗主・証如ら一向宗幹部は大坂御堂へ退避、京都を失陥した。以来、山科本願寺は廃絶し、一向宗の本拠は
大坂御堂あらため石山本願寺になっていく。言わずもがな、後に織田信長と10年戦争を繰り広げる石山の地は
秀吉の時代、大坂城となる要害堅固の巨大要塞でござる。なお、山科本願寺南殿の跡地には1536年(天文5年)
粟津元昌(あわづもとまさ)によって光称寺が開かれた。元昌は一向宗の重鎮にして、後に東本願寺の家老職に
就く人物。この光称寺は浄土真宗泉水山光照寺として現在に至っている。また、山科本願寺跡地だった各所にも
現在では本願寺山科別院や東本願寺別院が建てられている。
現代に於いて、山科の地は京都郊外の住宅地としてすっかり市街地化しており、往時の本願寺遺構は土塁が
断片的に残るのみ。切れ切れになった土塁は繋ぎ合わせて往時の規模を推測する事も難しいくらいに分散した
配置であり、山科本願寺の全容を掴むのは困難と言える。蓮如の隠居所として池泉庭園や築山、山水亭などを
構えた風雅の寺ながら、山科本願寺の出城として堅固な堀・土塁も構えた南殿も同様の状況だ。ただ、残存する
土塁遺構はしっかりとした規模を維持しており、特に山科中央公園の中にある土塁(写真)は史跡標柱も置かれ
誰でも見学できる状態になっており申す。この土塁は山科区の西野阿芸沢(にしのあげさわ)町から西野様子見
(にしのようすみ)町へと跨った位置にあるが(山科本願寺全域はもっと広大な町区に及ぶ)、この「様子見」の
町名は、この土塁が物見として本願寺の要衝となっていた故事に由来するそうだ。寺内町として、中世の稀有な
遺構が評価され、山科本願寺の残存土塁および南殿敷地は2002年(平成14年)12月19日に国史跡として指定。
また、2016年(平成28年)3月1日には中心部にあった土塁も追加指定されてござる。
ちなみに、祖父・実如の遺言「諸国の武士を敵とせず」に反して一向門徒を戦斗に動員した証如の諱(いみな)は
光教(こうきょう、みつのりとも)。その息子で本願寺宗主11世となり、泥沼の石山戦争を戦った顕如(けんにょ)の
諱は光佐(こうさ)。本願寺光教・本願寺光佐という親子の名は…某歴史シミュレーションゲーム(の初期作)でも
御馴染みかと。山科本願寺の隆盛〜消滅はその時代の話である、と言えば少しは身近に感じられるかも?


現存する遺構

土塁
城域内(部分)は国指定史跡




勝龍寺城  大坂城(石山本願寺)・三津寺砦・天保山台場