山城国 勝龍寺城

勝龍寺城跡 勝竜寺城公園

所在地:京都府長岡京市勝竜寺・東神足

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★☆■■



しょうりゅうじじょう、と読む。青龍寺城・小龍寺城の字を充てる事も。近隣には真言宗恵解山勝龍寺があり、
これが城名の由来になってござる。この寺は806年(大同元年)宗派開祖である空海自らが開基したとされ、
京都洛西観音霊場第十四番札所という古刹。無論、城の創建はそれより時代を下る事になろう。伝承では
南北朝時代の1339年(延元4年/暦応2年)北朝方の細川刑部大輔頼春(よりはる)が南朝軍の京都侵攻を
阻止するべく築城したものだと言われてござる。しかし、これには確たる裏付けが無く、史料上での初見は
「東寺百合文章ひ」1457年(長禄元年)1月19日の項に「来る二月(中略)晦日勝竜寺へ早々越さるべく候」と
記載があるもの。即ち、当時の山城国(現在の京都府主要地)守護・畠山右衛門佐義就(よしなり)によって
乙訓郡(おとくにぐん)郡代役所として築かれた城館と考えられる。この地は西国街道(当時の幹線街道)と
久我畷(こがなわて、京都から淀へ至る鳥羽街道の分枝)を同時に押さえる交通の要衝で、京都市街地の
南西を塞ぐ重要拠点となっていた。義就は応仁・文明の乱において西軍首脳の一角を為した重要人物で、
この城も乱時は幾度かの戦闘に遭遇してござる。一例を挙げると1470年(文明2年)4月14日、勝龍寺搦手
北ノ口にて交戦があり、周囲に焼失地域が発生したと「野田泰忠軍忠状」に記されている。郡代役所たる
規模であった城は、戦乱の機運に伴って軍事要塞化した事が窺えよう。しかし乱の収束と共に、この城に
関する史料上の記載はいったん消えていく。
その一方、当城の近隣に1504年(永正元年)神足(こうたり)城が築かれた。これは「九条家文書」に記録が
残るもので在地武士・神足友春の城館と云うが、神足氏は既に14世紀頃から小塩荘(神足周辺の荘村)に
土着していたと考えられる為、築城年代はある程度の前後を考慮すべきかもしれない。ともあれ、勝龍寺城
主郭から神足城までは直線距離で北東の方角へ300m足らずの距離であった。神足城もまた、室町体制の
崩壊により在地領主間の自力救済戦闘を経験し、幾度かの戦いに直面している。既に将軍家は権勢なく、
京都の御膝元である当地ですら治安が維持できていなかった事の証だろう。応仁の乱の勃発から1世紀を
過ぎた頃、権力の座は将軍から移り管領(室町体制における将軍補佐役職)細川家へ、さらにその陪臣に
過ぎない三好三人衆(三好日向守長逸(ながやす)・三好右衛門大輔政康・岩成主税助友通(ともみち))や
畿内の梟雄・松永弾正少弼久秀の手に落ちていた。勝龍寺城の名が再び登場するのはこの頃で、畿内を
押さえていた三好・松永の属城だったとされてござる。
三好三人衆と久秀は時の将軍・足利義輝を謀殺、傀儡将軍の義栄(よしひで)を擁した上、なお権力闘争に
明け暮れ、終いには仲違いをするようになっていた。この状況下、満を持して上洛してきたのが織田信長だ。
信長は義輝の弟・義昭(よしあき)こそ正当な将軍継承者であるとの大義名分をかざし、畿内制圧に駒を進め
1568年(永禄11年)9月26日、柴田権六勝家・森三左衛門可成(よしなり)・坂井右近将監政尚(まさひさ)・蜂屋
兵庫頭頼隆(はちやよりたか)が率いる織田軍は勝龍寺城の総攻撃を行う。城を守る岩成友通は応戦するも
敗退、開城した。斯くして三好三人衆は織田軍に敵わず逃亡、松永久秀は信長に臣従する途を選ぶ。
この戦果によって勝龍寺城は織田家の統治下に置かれ、1571年(元亀2年)細川兵部大輔藤孝(ふじたか)へ
山城西岡一帯の支配拠点として与えられ申した。義昭の臣から信長に取り立てられていた藤孝は、細川家の
正統な後継者である。細川頼春が当城を築城したという伝承は、その後裔である藤孝が城主となった事から
創作された逸話と見る向きもある訳だが、ともあれ山城国南部における織田家の重要拠点となったこの城は
今般に大改修を受ける事となった。中世の武家居館に典型的な単郭方形館(東西100m×南北60m程度)で
あった旧来の縄張りが拡張され、その西側に沼田郭を追加、更に城地の東を流れる小畑川を外堀に見立て
外郭部が構築される。それに伴い、神足屋敷と称される神足城も勝龍寺城の敷地に組み込まれるようになり
広大な外郭やその辺縁部を固める土塁・堀が構えられた。
元来この地は低湿地で、要害と云うよりむしろ築城不適地と考えられていたようだが、藤孝は地盤改良の上
外郭を広げる事で城の防御力を向上させたのでござる。上記の通り、ここは主要街道の交錯点であるため、
大土木工事を行ってでも城を構えるべき要所だったのであろう。京都を包囲する織田軍の城郭群はいずれも
街道管制の要地にあり、特に平野部が広がる山城国南部においては、勝龍寺城を措いて他に代える地なき
最重要拠点だった事がこの工事から垣間見える。改修工事は信長から直々に印判状が発給され、桂川より
西にある家は全て3日間の労働に出て城の作事を行えと命令が出され、3重の堀が穿たれる大城になった。
史料「東山文庫記」では1574年(天正2年)の時点で「御主」があったとされて、勝龍寺城に天守級の大櫓が
存在していた記録として注目されている。曲輪の出入口は枡形虎口となっていた上、1979年(昭和54年)の
発掘調査で石垣の痕跡が発見されており、この城が“織豊系城郭”としての体裁を整えていた事は確実だ。
入京した信長は程なく義昭との関係が破綻。実質的権力者として君臨する信長に対し、形ばかりの飾り物と
された義昭は様々な謀略を画策、遂に1573年(天正元年)自ら起ち反旗を翻す。槙島城(京都府宇治市)に
拠った義昭を討つべく、速やかに鎮撫に赴いた藤孝が出陣したのは、ここ勝龍寺城であったと言うのだから
やはり交通の要衝だったのだ。細川家の城として機能した勝龍寺城では1578年(天正6年)8月、藤孝嫡男
越中守忠興(ただおき)と明智日向守光秀の娘・玉子の婚儀が行われている。玉子とは即ち、悲劇の戦国
女性として有名な細川ガラシャの事でござる。なお、藤孝・忠興父子は一時期「長岡」姓を名乗っているが、
これは勝龍寺城の所在地である長岡(長岡京があった故地である為)の地名に由来する。
1581年(天正9年)細川家は加増され丹後国(京都府の若狭湾岸地域)へと移封、代わって勝龍寺城主は
村井民部少輔貞勝(織田家の京都所司代)の家臣である矢部善七郎家定(やべいえさだ)と猪子兵助高就
(いのこたかなり)の両名が任じられた。が、翌1582年(天正10年)6月2日に明智光秀が謀反、京都本能寺で
主君・織田信長を討つ事件が発生した。世に言う本能寺の変である。矢部・猪子とも洛中におり、この事変で
落命。光秀は即座に勝龍寺城を接収し、山城国内の拠点としている。明智方は坂本城(滋賀県大津市)を
中心として近江国を手中にし、勝龍寺城の確保で山城国も制圧、朝廷工作も万全に行い、この時点までは
ほぼ予定通りに畿内掌握を行っていた事になる。ところが頼みとしていた玉子の嫁ぎ先・細川家が味方に
付かず絶縁状態となり、次の一手を詰まらせていた所に遠征先の備中国(現在の岡山県南部)から急遽
帰還してきた羽柴筑前守秀吉の大軍勢が摂津国(大阪府北部)まで接近してきた。
これを迎え撃たねばならなくなった光秀は同月10日に勝龍寺城の防備増強普請を行う一方、摂津・山城
国境付近の天王山麓で13日、戦闘に挑んだ。山崎の合戦と呼ばれるこの戦いで光秀は惨敗を喫し、止む
無く勝龍寺城に逃げ込む。この日の夜、籠城しても勝機が見込めない事を悟った光秀は本拠の坂本城を
目指して脱出した。夜陰に紛れてひた走る光秀であったが、以後の消息を絶つ。伝承では土民に襲われて
落命したとされるが、自刃したとの説もある。光秀の家臣・三宅綱朝が守ったとされる勝龍寺城も落とされ
翌14日に秀吉が占拠した。事態を制圧した秀吉が天下の覇者になっていくのは周知の事実だが、これに
伴って勝龍寺城は役割を終える事となり、後年に廃城となっている。秀吉は山城南部の拠点として新たに
淀城(この時点では淀古城の事、京都府京都市伏見区)を選定しており、その普請において、廃城となった
勝龍寺城の石材を転用している。これにより当城は完全に破却され、戦国乱世の終焉を迎えた。
江戸時代に入ると、1633年(寛永10年)永井日向守直清(なおきよ)が大名になった事で旧勝龍寺城近辺に
陣屋を構える事になった。それまで8000石の旗本であった直清は、3月25日に紀伊国(現在の和歌山県)や
摂津国・山城国に1万2000石を加増され(合計2万石)従来の所領だった上総国・下総国(共に千葉県)から
勝龍寺に本拠を移したのである。ここに始まる山城長岡藩と呼ばれる直清創始の大名家は、一説には城を
復興し近世城郭化させたと言われてきたが、近年の研究や発掘調査の成果により否定されつつある。当初
旧勝龍寺城地へと入った直清に対して、幕府からは「堀は触らず城の北に屋敷を取れ」と命が下り、それに
従ったものとみられる(城跡の荒廃が酷かったという理由も)。
これにより構えられたのが勝龍寺陣屋で、旧勝龍寺城主郭の真北500m超の所、現在のJR長岡京駅東口の
あたりがその場所であった。発掘調査に拠れば、山城長岡藩の記録に合致する遺構が検出されたとの事。
譜代大名である直清はこの陣屋に居を構え、徳川幕府の西国監視に大きな役割を果たしている。幕府内で
要職を歴任した彼は1649年(慶安2年)7月4日、更に1万6000石を加増され(合計3万6000石)、改めて摂津国
高槻(大阪府高槻市)へと移る。この為、勝龍寺陣屋は短い役割を終えて廃された。
城跡ならびに陣屋跡は大半が市街地化され、大正時代には残されていたと言う堀もほとんどは整地されて
消失した。僅かに確認される城跡のよすがは、主郭部が1992年(平成4年)勝竜寺城公園として都市公園化
されながら土塁・堀跡を残すのと、神足神社裏手に神足屋敷の土塁が散見される程度。なお、神足屋敷の
遺構は細川藤孝が勝龍寺城拡張後に築いたものであるため、旧神足城時代の土塁ではないので注意。
沼田郭跡地は勝竜寺城公園の附属駐車場・自由広場になってござる。
勝竜寺城公園は2007年(平成19年)2月、都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会から日本の歴史
公園100選に選ばれた名園ではあるが、櫓や塀はすべて模擬建築である上、かつての勝龍寺城建築物を
再現した訳ではなく、あくまで“雰囲気を楽しむ”だけのものだ。土塁は旧来の遺構に沿ったものなのだが、
やはり公園整備に伴って盛り直されており、これまた全部が全部当時のものとは言えない。付け加えると、
勝竜寺城公園は無料だが開園時間が決まっており(休園日もある)、入城に制限があるので注意。公園を
取り巻く堀に溜まる水も洛西浄化センターで終末処理した下水を配水したものなので、堀も同様に模擬の
ものと見るべきか?(模擬堀…という表現はあまり耳にした事がないがwww)
否定的な事ばかりを書いても何なのでこれ以上は止めておくが、とりあえずは歴史公園として整備された
櫓や門(写真)は立派なもの。現地へ赴き、山崎合戦の舞台になった天王山との距離感に当城の重要性を
体感すると共に、何より明智光秀が最期の夜を過ごした現場の情景に思いを馳せるのが良ろしいかと。


現存する遺構

堀・土塁・郭群




山家陣屋  京都守護職本陣・御土居・山科本願寺