山城国 淀古城

淀古城址石碑

所在地:京都府京都市伏見区納所北城堀

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



豊臣秀吉の側室にして鶴松・秀頼の母である淀殿(浅井三姉妹長女・茶々姫)に関連して
有名な淀城だが、その歴史は築城・廃城の繰り返しでござる。最初の城は
応仁の乱後、時の管領(室町体制における将軍補佐役職)・細川政元と戦った
薬師寺与一元一(よいちもとかず)が立て籠もったものであり、
以後は細川氏や三好氏も度々利用したもの。
次は豊臣政権において、細川時代の城を改修して用いたもの。淀殿の城とはこれ。
時代的にここまでを「淀古城」と呼ぶ。政権の変化により淀古城は廃され、
江戸幕藩体制が確立した後、場所をやや移して新たにまた淀の城が築かれる。
これが現在に石垣遺構を残す(一般的な)「淀城」でござる。
まずは時系列に沿って淀古城を説明する。
地勢を大きく見れば、淀の地は京洛と難波湊の中間にあり、桂川・宇治川・木津川の3川が
合流し淀川へと下る水運の鍵を握る交通の要衝でござった。往時はこの傍に巨大な湖の
小椋(おぐら)池があり、淀(古)城下は船舶物流集積点になっていた。ここに城を築けば
河川を背にした堅固なものとなる上、商業活動の掌握や水運管制を図れる事になる。
淀古城は、桂川と宇治川の間に挟まれた地点に築城された。
正確な築城年代は不明であるが、室町時代中期に山城国(現在の京都府主要部)守護所として
畠山政長が築いたとされている。政長は応仁・文明の乱における東軍の中心人物。
畠山氏の家督を争った西軍方の義就(よしなり)は、同様に乙訓郡(おとくにぐん)郡代役所として
勝龍寺(しょうりゅうじ)城(京都府長岡京市)を近隣に築いており、桂川を挟んで
東西両軍が睨みあっていた事になろう。文献上における淀古城の初出は1478年(文明10年)
「東院年中行事」8月1日の項に、山城守護代・遊佐(ゆさ)弾正の臣である神保(じんぼ(う))
与三佐衛門が淀へ入ったとある。遊佐氏は畠山家累代の家宰であり、神保氏も
その有力被官として長く仕えていた家系。家系を分流させた畠山氏は、応仁の乱収束後
主な領地を紀伊国(和歌山県)・大和国(奈良県)・河内国(大阪府の一部)周辺と、
能登国(石川県北部)・越中国(富山県)方面に2分させた為、遊佐氏も2分
神保氏は越中国に土着していく。これにより淀古城を含む山城国一帯は
1493年(明応2年)頃から細川氏が勢力下に置いた。細川家総領・細川政元は
管領として独裁を敷いており、当時は並ぶ者なき権力者であったが
それ故、対立する者も多く内外に敵を抱えていた。1504年(永正元年)配下にあった
赤沢朝経(あかざわともつね)が政元に反抗、これを好機と捉えた紀伊・河内・大和守護
畠山尚順(ひさのぶ、政長の子)が淀古城を攻める。政長と細川氏は応仁の乱において
共に東軍として戦った間柄であるが、乱の終結後は対立し政元の手により政長が自刃。
父の仇怨を晴らすべく、尚順は政元に挑んだのでござる。神保与三佐衛門が城主であった
淀古城に、政元は配下の薬師寺元一・長忠(ながただ)兄弟や香西元長らを派遣し
防備を固めた。しかしこの局面で元一が離反、朝経と共に尚順へ与する。結局、
薬師寺元一・赤沢朝経らが籠もる淀古城を薬師寺長忠・香西元長が攻める形になり
(薬師寺兄弟は敵味方として袂を分かった)攻防戦の末、城は落ちたのでござる。
9月4日〜20日にかけて行われたこの城攻めを第1次淀城攻防戦と言う。
辛くも戦いを制した細川氏がその後も淀古城を持ち続けたが、程なく政元は暗殺され
徐々に権勢は凋落。16世紀中盤にもなると、畿内の実権は細川氏の家臣であった
三好氏に移り、その三好氏も内紛に揉まれる事となる。1559年(永禄2年)
三好政権の傀儡であった細川氏綱が淀古城主となり、彼が没した1563年(永禄6年)以後
三好義継(よしつぐ)が新たな城主になった。その後、主家の簒奪を図る三好家臣
松永弾正久秀が城を受け継ぐも、1566年(永禄9年)7月には三好家中の実力者であった
三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好政康・岩成友通)が松永から奪取すべく攻略、
長逸家臣の金子某なる者が城主になる。こうした間隙を突いて織田信長が
1568年(永禄10年)に上洛した為、淀古城は織田軍の兵火に遭い落城したのでござる。
信長は足利義昭を室町幕府15代将軍に据え畿内の実権を掌握したが、その義昭は
自らが飾り物に過ぎない事で不満を募らせ、次第に信長と対立。様々な陰謀を巡らせ
遂に1573年(天正元年)反信長の兵を挙げた。これにかつての三人衆が同調、淀古城では
岩成友通の軍が籠城したのである。ここに第2次淀城攻防戦が勃発、織田方は
木下藤吉郎が城を囲って調略を行い、さらに勝龍寺城から細川藤孝(ふじたか)が
援軍に訪れる。友通は城を出て織田軍へ討って出るが、勇戦敵わず藤孝の家臣
下津権内に首を取られてしまった。斯くして淀古城は落城、義昭も惨敗し
室町幕府は滅亡、淀古城も打ち棄てられる有様となった。ちなみに、木下藤吉郎とは
誰あろう、後の豊臣秀吉であるのは周知の通りでござる。一方、信長は天下統一に向け
邁進していくが、その途上の1582年(天正10年)6月2日早暁、京都本能寺において
重臣・明智光秀の謀反で遭えない最期を遂げる。世に言う本能寺の変であるが、
畿内一帯の制圧を急務とした光秀は廃城同然となっていた淀古城にも改修を加え
防御拠点の一角を成さんとした。ところが遠征先の備中(岡山県の一部)から
軍を大返しした秀吉が光秀を誅し、変後の事態はたちまち沈静化していく。
ここに秀吉の天下統一事業継承が確定的となり、淀古城も1589年(天正17年)3月から
秀吉の弟・羽柴小一郎秀長によって大規模な改修工事が執り行われたのでござる。
その目的は冒頭に記した通り、側室・茶々姫が出産する為の場所とするものである。
こうして、世にも稀な“出産城”として使われるようになった淀古城。これにより
茶々は“淀殿”と呼ばれるようになったのである。しかし、産まれた男児・鶴松は夭折し
城を出た淀殿に代わり、豊臣秀次(秀吉の甥、直系男子を亡くした秀吉の後継者)の家老
木村常陸介重茲(しげこれ)が1592年(文禄元年)から18万石で淀古城主となった。
ところが程なくして淀殿が再び懐妊、拾丸(後の秀頼)を産んだ。実子誕生に喜ぶ秀吉は
急に秀次が邪魔者となり、言いがかりに近い罪を着せて排除を目論むようになる。
これに対し重茲が秀次擁護の言を発した為、秀吉は重茲までも切腹させたのである。
重茲は一族郎党殆どが粛清され、秀次も自害に追い込まれた。斯くして主を失った
淀古城は破却されてしまった。1595年(文禄4年)の事であるが、これには異説もあり
鶴松が没した時点で秀吉が“不吉な城”として廃城にしたとも言われる。いずれにせよ
その古材は新たに建築された伏見城(京都府京都市伏見区)に転用されたとの事。
秀吉は3年後の1598年(慶長3年)に病没、支柱を失った豊臣政権は間もなく瓦解していくが
茶々に与え、後継者選定の紛糾に消えた淀古城はまさに豊臣家の興亡を象徴しているかの
存在であった。兎にも角にも、これで淀「古城」としての歴史は終焉する。
淀古城は現在の淀城址から真北へおよそ500mほど、納所(のうそ)の地にあったとされ、
最末期(豊臣期)には天守が存在していたとの記録が残る。しかし現在は跡形もなく
当時の縄張りなどは殆ど分からない。中心部と思しき大圓山妙教寺境内に
石碑(写真)があるのみでござる。なお、この一帯は江戸時代末期の戊辰戦役でも
激戦が行われ、妙教寺にはその時の着弾痕が残されている。
別名で藤岡城とも。







山城国 淀城

淀城跡石垣

所在地:京都府京都市伏見区淀本町・淀池上町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★■■■



続いては江戸時代に入ってからの淀城について。淀古城に代わって洛南の押さえとなった
伏見城は秀吉の隠居城から徳川政権誕生の城へと歴史を紡いだが、天下の屋台骨が
固まった後、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の治世下において不要なものと判断され
1619年(元和5年)から廃城工事開始、1623年(元和9年)頃には完全に破却された。
これに代わる山城国南部の統治拠点として再興されたのが淀城でござる。
伏見城はほぼ幕府直轄の城、淀城は親藩・譜代大名の城として用いられた差異はあるが
新生淀城の築城工事にも幕府の支援が入っている。1623年8月に久松松平越中守
定綱(さだつな)が遠江国掛川(静岡県掛川市)3万石から加増転封、3万5000石で
淀の地を拝領する。それに伴い築城整備されたのが淀城で、かつての淀古城址から
南に遷移して城地が定められた。秀吉時代に小椋池は干拓されており、従前の
淀古城周辺は既に水運の要衝ではなくなっていた。よって、防備により適し
水利を巧みに取り込んだ新地を選んでの築城だったと考えられる。ここは木津川など
3川の合流地点であり(現在とは流路が異なる)、城の縄張りは川に曲輪が浮かぶ
“浮城”としての利点を利用したものでござった。本丸の北に二ノ丸が連結、
それを水濠が囲い、あとは多重の堀が輪郭式に取り巻くもので、東曲輪は巨大な
角馬出の体を為す。そもそも築城地は3川の中州だったため、家臣団屋敷群や
城下町までも川の中に構えられていた。この中州の中央に街道が貫通、大手口は
京街道に向かって開かれている。淀城の曲輪はほぼ全て石垣で固められており、
水城の弱点である浸食にも備えは万全となっていた。
淀城の建築には伏見城の古材が用いられたと言われ、淀古城→伏見城→淀城という変遷
そのままに建物が移築された訳である。ただし、天守は二条城(京都府京都市中京区)から
移されたと記録されている。正確に言えば、伏見城の天守を移築する予定であったが
この当時幕府は同時に(後水尾天皇の行幸に備え)二条城の改修も行っていた。その為
豪放壮大な伏見城天守は幕府の威信を誇示すべく二条城に回され、それより小さい
旧来の二条城天守が淀城に移されたのだ。伏見の天守が移ってくる予定であった淀城は
それに合わせた天守台を築いていたが、実際には二条城の旧天守が移築された事により
天守台と天守の大きさに差が生じてしまう。この空き地を解消する為、天守の周囲4隅に
2重櫓を構築、これらを多聞櫓(塀とも)で連結したのでござる。この2重櫓は
姫路城から移築されたとも伝承されており、これが為に姫路櫓と呼ばれていた。
その姿は古絵図に残されており、密集した4つの櫓の中から天守が突き出す姿は
少々奇怪というか、滑稽な風体である。しかし姫路櫓の詳細は不明であるし、そもそも
姫路城からの移築というのにどこまで信憑性があるのか分からない。それどころか
こうした形状・寸法の建築物が実際に建てられるのかどうかすら疑問を覚える。
一方、天守本体については指図(設計図)が残されている。5重5階+地下穴倉、
望楼型天守で3重目に大入母屋屋根が切られていた。外壁は白漆喰総塗籠。
この天守を筆頭として城内には櫓が林立、本丸内には3重櫓4基をはじめ
2重櫓5基・平櫓6基という大量さ。二ノ丸以遠の曲輪にも2重櫓・平櫓が多数建つ。
一説に拠れば城内の櫓は全部で38基もあったと言い、門の数も21棟を数えた。
まさに幕府の威信を示す大城郭、山城国内唯一の大名家正規城郭に相応しい規模だ。
城内への揚水施設として、城の北と西に直径9間(約16m)もの大水車が置かれたのが
特徴的で、人々から「淀の川瀬の水ぐるま、誰を待つやらくるくると」と囃されている。
築城工事は2年の歳月を経て1625年(寛永2年)に完了、翌1626年(寛永3年)6月には
大御所・徳川秀忠が、同年8月には将軍・徳川家光が城の出来栄えを巡察しに
来訪したと言う。1633年(寛永10年)には上洛した家光が宿館とした。伏見城御殿の
一部を再利用した本丸御殿は、以来将軍家の御成御殿とされ、新たに城主の館が二ノ丸に
築かれ申した。一方でこの年の3月、城主・松平定綱は美濃国大垣(岐阜県大垣市)へ
6万石で加増転封。代わって下総国古河(茨城県古河市)7万2000石より永井信濃守
尚政(なおまさ)が10万石で淀に入る。尚政は幕府の中枢を担っていた人物で
寛永飢饉時の救民・島原の乱時における京都守備など重要政策を引き受け、
淀の治世でも城下町の整備拡張や侍屋敷の造営などを行っている。彼の隠居に際し
子供らに分知が成された為、淀城主を継承した右近大夫尚征(なおゆき)の知行は
7万3000石となり申した。この後、1669年(寛文9年)2月25日に永井家は丹後国
宮津(京都府舞鶴市)に同石高で移封、伊勢国亀山(三重県亀山市)5万石から石川
主殿頭憲之(のりゆき)が6万石で淀城主とされる。石川家は主殿頭義孝(よしたか)
主殿頭総慶(ふさよし)と代を重ねたが、1711年(宝永8年)2月15日に備中国
松山(岡山県高梁市)へ移された。新たに淀城主となったのは戸田松平丹波守
光煕(みつひろ)、前任地は美濃国加納(岐阜県岐阜市)7万石。1717年(享保2年)11月1日
光煕死没により跡を継いだ丹波守光慈(みつちか)はそのまま志摩国鳥羽(三重県鳥羽市)
7万石に移封となり、伊勢国亀山より大給(おぎゅう)松平和泉守乗邑(のりさと)が
6万石で入った。乗邑は8代将軍・徳川吉宗の享保改革を強力に推進した人物で
松平家傍流として幕政に大きく関与していた。その為、譜代大名の宿命で国替えも多く
1723年(享保8年)4月21日に老中へ昇進するや、5月1日には下総国佐倉(千葉県佐倉市)に
転封となったのでござる。淀城主の在任期間は5年半ほどであったが、この間
大坂城代を勤め上げている。乗邑に代わって淀に入ったのは佐倉から入れ替わりの
稲葉長門守正知(まさとも)、石高は10万2000石。歴代淀城主の中では最高石高であるが
実際には多数の飛地を抱えての数値であるので、財政状態は芳しくなかったと言う。
ともあれ、以後は稲葉家が明治まで城主を継承する。正知の後、美濃守正任(まさとう)
正恒(まさつね)―佐渡守正親(まさちか)―丹後守正益(まさよし)と継承。この正益の代、
1756年(宝暦6年)に落雷で天守をはじめ御殿や櫓など城内諸建築が大量に焼失してしまう。
復興が急務となった淀藩では、幕府からの貸付金1万両を得て再建を行ったが
天守や本丸御殿は建てられず終いでござった。正益に続く城主は美濃守正弘、さらに
佐渡守正ェ(まさのぶ)―丹後守正備(まさなり)―対馬守正発(まさのり)―丹後守
正守(まさもり)―丹後守正誼(まさよし)―長門守正邦(まさくに)と継承される。
稲葉家は150年弱の淀城主期間において12人も代替わりしているが、これは半数近くが
短命な人物だったからである。そうした中、最後の城主である正邦は幕府老中の地位にあり
江戸で幕政を執る反面、京都の目の前にある領地では朝廷側に立たざるを得なくなると言う
微妙な舵取りを要求される事になった。結局、時勢に従って朝廷へ恭順、老中を辞し
淀城で謹慎した為、明治維新後も淀知藩事に任じられ廃藩置県を迎えたのであるが
戊辰戦争緒戦の鳥羽・伏見の戦い(この時、正邦は老中としてまだ江戸に居た)では
“幕府の西国鎮定の城”である筈の淀城がいち早く朝廷側に寝返り幕府軍を締め出した為
江戸幕府瓦解の決定的打撃となり申した。老中の城が幕府方を
見限る(しかも城主抜きで決定)のであるから、いかにこの時代が混迷していたかが
窺えよう。なお、この戦役時に城の一部や城下町で焼損の被害が出てござる。
淀城に入れなかった幕府軍が城下に居座り、それを薩長軍が攻撃した為だ。
こうした経歴がある為、淀城は廃藩置県や廃城令を前にして破却が始まり
明治初頭にして既に城内建築物の撤去や城地の開放が為されている。
現在に残るのは本丸跡地のみで、二ノ丸以遠の敷地は全て市街地化されてしまった。
また、河川の流路改修もあって往時の堀跡等も殆ど発見できる状態ではない。
ただ、残された本丸敷地内は比較的良好な状況にあり、石垣や土塁痕などが明瞭に
確認できる。特異な建物があったという天守台も(内部立入禁止だが)完存する。
本丸跡は淀城跡公園として整備され、1968年(昭和43年)に開園。1987年(昭和62年)には
天守台の解体修理が行われ、これに併せて発掘調査も実現した。それによれば
石蔵(天守地階)の基部に大小の礎石が検出され、天守建築の一端を
垣間見せるものであった。なお、この公園を掠めるようにして京阪電鉄の線路が通過。
天守台付近からは、淀駅が望める位置でござる。また、城跡公園の裏手には
淀城主稲葉家の祖である稲葉内匠頭正成を祭神とする稲葉神社も置かれている。
ちなみに、正成の継室がかの有名な春日局。淀城主稲葉家は正成と春日局の間に生まれた
丹後守正勝の後継である。幕府で老中を務めたというのも納得の家系でござるな。


現存する遺構

堀・石垣・郭群




田辺城  山家陣屋