都を逃れた貴人が隠れ住む里■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近江の西部は山深き地だが、安曇川(あどがわ)に沿って街道が貫通している。“若狭街道”と呼ばれる道で、現在の国道367号線に
相当するが、若狭国から京へ一直線に延びるその道は朽木谷(くつきだに)と呼ばれる山間の集落を通り抜けて行く。この朽木谷は
京都に近くもあり、しかし山を越える険阻な地でもあり、古代から都落ちした貴人が隠れ住む定番の土地であった。そんな朽木の地を
代々治めたのが朽木氏である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉幕府草創期の武将・佐々木四郎左衛門尉信綱(ささきのぶつな)は承久の乱にて功を挙げ、佐々木氏の本貫地である佐々木荘
(現在の滋賀県近江八幡市〜東近江市一帯)の他、高島朽木荘などを与えられた。信綱の子孫によって所領は分知され、その中で
各地に分家を作り出すのだが、最終的に彼の曾孫・高島左衛門尉義綱が朽木荘を相続する事になり、朽木氏を称した。こうして朽木
出羽守義綱を名乗った彼の系譜が、近世まで朽木谷を支配していく。義綱の後、左兵衛尉時経(ときつね)―出羽四郎義氏―出羽守
経氏(つねうじ)―出羽三郎氏秀(うじひで)―左衛門尉氏綱―出羽守能綱(よしつな)―左衛門尉時綱(ときつな)―信濃守貞高
(さだたか)―刑部大輔貞綱(さだつな)―弥五郎材秀(きひで)―信濃守稙綱(たねつな)―宮内大輔晴綱(はるつな)―河内守元綱と
続いていく。なお、貞綱は1471年(文明3年)4月に京都を追放された伊勢伊勢守貞親(いせさだちか)を朽木に迎え入れ遇している。
貞親は室町幕府8代将軍・足利義政の側近中の側近だが、諸大名を手駒として振り回した(これが応仁の乱の一因となった)辛辣な
遣り口が嫌われ、政権を追われたものだった。都を逃れた人物が朽木を頼る好例でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
応仁の乱ですっかり権威を落とした足利将軍家も、そうした例に加えられよう。そもそも応仁の乱の一因は将軍後嗣を足利義政の弟・
義視(よしみ)と義政の実子・義尚(よしひさ)が争ったものだが、それが過ぎた後も10代将軍・義稙(よしたね、義視の子)と11代将軍・
義澄(よしずみ、義稙の従兄弟)が、更には12代将軍・義晴(よしはる、義澄の子)とその弟(兄とも)の義維(よしつな、義稙の養子)が
将軍の座を巡って権力闘争を繰り広げている。こうした中で都落ちした義晴や、その跡を継いだ13代将軍・義輝は度々朽木に逃れた。
(ちなみに、義稙も諸国放浪し朽木に立ち寄った事がある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国名勝の庭園、その由来は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
順を追って記していくと、1527年(大永7年)2月13日に義維方の軍勢が義晴勢を破った事で足利義晴は京都から遁走する。近江坂本
(滋賀県大津市)を経て一旦は京へ帰るも、義維との戦いは決着せず翌1528年(享禄元年)5月に再び都を落ち、9月に朽木へ入った。
当時の朽木氏当主・稙綱は幕府奉公衆の1人であり、一応は将軍職にある義晴を歓待したのである。この時、義晴の御所として用い
られたのが朽木氏の岩神館であった。義晴は「京都を逃げてきた」と言うよりは「朽木を新拠点とする」感じだったようで、幕府の奉行・
奉公衆も共に朽木へ移り、幕府機能は岩神館に移転したかの如くであった。結果、義晴は朽木に2年半も滞在。この折、義晴の為に
写真にある庭園も作られた。義晴方の管領(室町幕府で政務を統括する役職)・細川右京大夫高国(たかくに)が作庭したとか、越前
守護・朝倉弾正左衛門尉孝景(たかかげ)の協力を得て稙綱が作ったとか、はたまた義晴自身の指示で築かれたなど諸説あるものの
いずれにせよ足利将軍の為の庭園なので「足利庭園」の雅称が付けられており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、和睦の障害となっていた高国が敗死、また義維も没落したので義晴は京都へ復帰する。高国に代わる新たな管領として細川
右京大夫晴元が就任した。しかし晴元は元々義維に与する側だったので、程なく義晴と晴元が対立する事になる。結局、義晴は再び
流浪するようになって、その過程で将軍職は義輝に譲られた。この義輝も晴元との抗争を繰り広げ、さらには晴元が下剋上を受けて
三好筑前守長慶(みよしながよし、ちょうけいとも)が台頭し、義輝の対立は長慶に向けて行われるようになる。されども実効支配力は
長慶に分があり、義輝は京都を逃れる事が多々。遂に1551年(天文20年)2月10日、義輝は朽木へと落ち延びるのである。■■■■
翌1552年(天文21年)1月、南近江を治める六角氏の仲介で義輝と長慶の間では和睦が成立。この時、両者の関係に邪魔となっていた
細川晴元は切り捨てられる形になった。ところが晴元の介入は以後も続き、それが元となり義輝と長慶の和議も破談になる。結果的に
1553年(天文22年)8月30日、義輝はまたもや朽木に動座し、この時も岩神館が仮御所となった。将軍とは言えど、実力は三好長慶の
方が上。武家の棟梁として世に平穏をもたらし都を奪還せんと考えるが、それを成し得ず朽木で悶々たる日々を過ごす義輝の苦渋は、
2020年(令和2年)の大河ドラマ「麒麟がくる」で端正に描かれていた。また、1973年(昭和48年)の大河ドラマ「国盗り物語」でも同様の
場面があるとか。その現場となったのが岩神館なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最終的に義輝は“三好包囲網”と呼べる同盟関係を築いて軍事圧力を長慶にかけ1558年(永禄元年)3月に朽木で挙兵。その兵力は
6月に京都を取り囲む。他方、三好長慶も大軍を率いて防衛に努め、両軍は拮抗する。長期戦になった事で和睦の途を探るようになり
12月に和議が成立。同月3日、義輝は洛中に還り、ようやく将軍が京都に復帰する事となった。以後も義輝の苦闘は続くのだが、朽木
岩神館との関わりはここまでなので、その話は別の所で。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
朽木家の館から、一族供養の寺へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このような来歴を見ると、朽木岩神館は足利義晴が来訪した事により築かれたとするのが通説であった。しかしながら、朽木氏の館と
してはそれ以前からあったと考える向きもある。その場合、朽木氏初代・義綱の頃(つまり鎌倉時代)にまで創建が遡るとも。果たして
正確な築城年代は不明だが、その後の岩神館について記す事にする。天下への覇業を掲げる織田弾正忠信長は1570年(元亀元年)
越前攻めを目指すが義弟・浅井備前守長政の裏切りに遭って撤退を余儀なくされる。世に云う「金ヶ崎の退き口」であるが、この折に
京都へ引き返す道を朽木谷に求め、信長は朽木氏の館で休息を摂ったとされる。これが岩神館の事だとか。そのため、朽木元綱は
織田家、更には豊臣家に従い近世大名への転換期を乗り越えた。関ヶ原合戦では西軍から東軍へと寝返った武将に元綱が含まれ、
一応は徳川家康からも本領安堵を受けている。ただ、朽木家は石高が減少し交代寄合旗本として存続する事になり、岩神館を廃して
新たな統治陣屋となる朽木陣屋(下記)を築く事になった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、元綱の嫡子・兵部少輔宣綱(のぶつな)の妻は2人の子を産んだ後、1606年(慶長11年)に亡くなった。宣綱は彼女を弔うために
岩神館の址に曹洞宗万松山秀隣寺(当初は周林院と呼んだ)を創建し、そこに墓を建てる。実は宣綱の妻は「マグダレナ」の洗礼名を
持つキリシタンだったが、徳川幕府の禁教令が厳しくなってきた頃なので仏教徒であった事にして“寺に葬った”のだ。更に時代が下り
秀隣寺は1729年(享保14年)それまでは上柏(かみかし)村指月谷(安曇川の対岸)にあった曹洞宗高巌山興聖寺(こうしょうじ)と入れ
替えられた。この後、秀隣寺は2度の火災を受けて更なる移転を行い、現在では朽木野尻(朽木谷の北端部)に置かれている。一方の
興聖寺は、もともとは鎌倉時代に佐々木信綱が道元禅師(曹洞宗の開祖)を招いて開いた寺で、佐々木一族の供養寺として尊ばれて
いた。この興聖寺が現在も岩神館跡に鎮座しているのだが、それ以前の秀隣寺や岩神館の遺構もある程度引き継いでおり、現地を
訪れれば足利庭園の他、土塁やマグダレナの墓などを目にする事ができ申す。なお、こうした由来から足利庭園は「旧秀隣寺庭園」と
呼ばれるのが一般的なのだが、元を辿れば「岩神館庭園」とするのが正しいのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
庭園や土塁、空堀も残る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
興聖寺と呼ぶべきか、旧秀隣寺と呼ぶべきか、とにかく朽木岩神館跡は安曇川の河岸段丘上に所在しており、川原からは15m程高い
比高差を有している。概ね南北に流れる川と並行する敷地には西側の山の小彦谷から水が引かれ、その水で旧秀隣寺庭園の池泉を
賄っている。築山の脇に滝石組(たきいわぐみ)を配し、そこから水が池へ注ぎ込む風流な仕掛けが作られていて、石組で模した滝は
「鼓(つづみ)の滝」と称されている。池泉回遊式庭園として池が蓄えられ、その中には鶴島と亀島という2つの島が浮かぶ姿は蓬莱山
そして鶴亀という吉祥を担いだもの。室町時代の武家庭園を代表する作品として貴重で、この庭園は1935年(昭和10年)12月24日、国
名勝に指定されている。その庭園を囲うように、敷地の南〜西〜北へと「コ」の字形に巨大な土塁が囲繞(東側は安曇川への断崖)し
これが往時の岩神館を囲う防御施設だった事が窺えよう。この土塁の中央部内側に、マグダレナの墓石も置かれている。土塁の形と
規模から推測するに、館は東面を川へ落ちる段丘とし、それ以外の面を土塁で囲ったおよそ100m四方の方形居館を成していたようだ。
但し、土塁で囲った範囲の“外”にある興聖寺の伽藍も、石垣で囲われた敷地を有している。この石垣も伝承では庭園の築造と同時に
築かれたそうなので、だとすれば土塁の範囲外にも副郭のような敷地割りが行われていたのかもしれない。また、土塁の外側には深く
明瞭な堀跡も残存。寺の境内なのであまりウロウロする訳にもいかないが、じっくり見ればそこかしこに往時の構造物が残されている。
館が廃絶し、更に寺が2度も建てられた(改変を受けた)割にはしっかりとした残存物があるのに驚かされる。特に庭園は当時のままで
これを守り伝えて下さった先人たち、そして今もそれを維持して下さっている現地の方々に感謝でござろう。■■■■■■■■■■■
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