近江国 朽木岩神館

朽木岩神館跡 庭園遺構

 所在地:滋賀県高島市朽木岩瀬
  (旧 滋賀県高島郡朽木村岩瀬)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



都を逃れた貴人が隠れ住む里■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近江の西部は山深き地だが、安曇川(あどがわ)に沿って街道が貫通している。“若狭街道”と呼ばれる道で、現在の国道367号線に
相当するが、若狭国から京へ一直線に延びるその道は朽木谷(くつきだに)と呼ばれる山間の集落を通り抜けて行く。この朽木谷は
京都に近くもあり、しかし山を越える険阻な地でもあり、古代から都落ちした貴人が隠れ住む定番の土地であった。そんな朽木の地を
代々治めたのが朽木氏である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉幕府草創期の武将・佐々木四郎左衛門尉信綱(ささきのぶつな)は承久の乱にて功を挙げ、佐々木氏の本貫地である佐々木荘
(現在の滋賀県近江八幡市〜東近江市一帯)の他、高島朽木荘などを与えられた。信綱の子孫によって所領は分知され、その中で
各地に分家を作り出すのだが、最終的に彼の曾孫・高島左衛門尉義綱が朽木荘を相続する事になり、朽木氏を称した。こうして朽木
出羽守義綱を名乗った彼の系譜が、近世まで朽木谷を支配していく。義綱の後、左兵衛尉時経(ときつね)―出羽四郎義氏―出羽守
経氏(つねうじ)―出羽三郎氏秀(うじひで)―左衛門尉氏綱―出羽守能綱(よしつな)―左衛門尉時綱(ときつな)―信濃守貞高
(さだたか)―刑部大輔貞綱(さだつな)―弥五郎材秀(きひで)―信濃守稙綱(たねつな)―宮内大輔晴綱(はるつな)―河内守元綱と
続いていく。なお、貞綱は1471年(文明3年)4月に京都を追放された伊勢伊勢守貞親(いせさだちか)を朽木に迎え入れ遇している。
貞親は室町幕府8代将軍・足利義政の側近中の側近だが、諸大名を手駒として振り回した(これが応仁の乱の一因となった)辛辣な
遣り口が嫌われ、政権を追われたものだった。都を逃れた人物が朽木を頼る好例でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
応仁の乱ですっかり権威を落とした足利将軍家も、そうした例に加えられよう。そもそも応仁の乱の一因は将軍後嗣を足利義政の弟・
義視(よしみ)と義政の実子・義尚(よしひさ)が争ったものだが、それが過ぎた後も10代将軍・義稙(よしたね、義視の子)と11代将軍・
義澄(よしずみ、義稙の従兄弟)が、更には12代将軍・義晴(よしはる、義澄の子)とその弟(兄とも)の義維(よしつな、義稙の養子)が
将軍の座を巡って権力闘争を繰り広げている。こうした中で都落ちした義晴や、その跡を継いだ13代将軍・義輝は度々朽木に逃れた。
(ちなみに、義稙も諸国放浪し朽木に立ち寄った事がある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国名勝の庭園、その由来は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
順を追って記していくと、1527年(大永7年)2月13日に義維方の軍勢が義晴勢を破った事で足利義晴は京都から遁走する。近江坂本
(滋賀県大津市)を経て一旦は京へ帰るも、義維との戦いは決着せず翌1528年(享禄元年)5月に再び都を落ち、9月に朽木へ入った。
当時の朽木氏当主・稙綱は幕府奉公衆の1人であり、一応は将軍職にある義晴を歓待したのである。この時、義晴の御所として用い
られたのが朽木氏の岩神館であった。義晴は「京都を逃げてきた」と言うよりは「朽木を新拠点とする」感じだったようで、幕府の奉行・
奉公衆も共に朽木へ移り、幕府機能は岩神館に移転したかの如くであった。結果、義晴は朽木に2年半も滞在。この折、義晴の為に
写真にある庭園も作られた。義晴方の管領(室町幕府で政務を統括する役職)・細川右京大夫高国(たかくに)が作庭したとか、越前
守護・朝倉弾正左衛門尉孝景(たかかげ)の協力を得て稙綱が作ったとか、はたまた義晴自身の指示で築かれたなど諸説あるものの
いずれにせよ足利将軍の為の庭園なので「足利庭園」の雅称が付けられており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、和睦の障害となっていた高国が敗死、また義維も没落したので義晴は京都へ復帰する。高国に代わる新たな管領として細川
右京大夫晴元が就任した。しかし晴元は元々義維に与する側だったので、程なく義晴と晴元が対立する事になる。結局、義晴は再び
流浪するようになって、その過程で将軍職は義輝に譲られた。この義輝も晴元との抗争を繰り広げ、さらには晴元が下剋上を受けて
三好筑前守長慶(みよしながよし、ちょうけいとも)が台頭し、義輝の対立は長慶に向けて行われるようになる。されども実効支配力は
長慶に分があり、義輝は京都を逃れる事が多々。遂に1551年(天文20年)2月10日、義輝は朽木へと落ち延びるのである。■■■■
翌1552年(天文21年)1月、南近江を治める六角氏の仲介で義輝と長慶の間では和睦が成立。この時、両者の関係に邪魔となっていた
細川晴元は切り捨てられる形になった。ところが晴元の介入は以後も続き、それが元となり義輝と長慶の和議も破談になる。結果的に
1553年(天文22年)8月30日、義輝はまたもや朽木に動座し、この時も岩神館が仮御所となった。将軍とは言えど、実力は三好長慶の
方が上。武家の棟梁として世に平穏をもたらし都を奪還せんと考えるが、それを成し得ず朽木で悶々たる日々を過ごす義輝の苦渋は、
2020年(令和2年)の大河ドラマ「麒麟がくる」で端正に描かれていた。また、1973年(昭和48年)の大河ドラマ「国盗り物語」でも同様の
場面があるとか。その現場となったのが岩神館なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最終的に義輝は“三好包囲網”と呼べる同盟関係を築いて軍事圧力を長慶にかけ1558年(永禄元年)3月に朽木で挙兵。その兵力は
6月に京都を取り囲む。他方、三好長慶も大軍を率いて防衛に努め、両軍は拮抗する。長期戦になった事で和睦の途を探るようになり
12月に和議が成立。同月3日、義輝は洛中に還り、ようやく将軍が京都に復帰する事となった。以後も義輝の苦闘は続くのだが、朽木
岩神館との関わりはここまでなので、その話は別の所で。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

朽木家の館から、一族供養の寺へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このような来歴を見ると、朽木岩神館は足利義晴が来訪した事により築かれたとするのが通説であった。しかしながら、朽木氏の館と
してはそれ以前からあったと考える向きもある。その場合、朽木氏初代・義綱の頃(つまり鎌倉時代)にまで創建が遡るとも。果たして
正確な築城年代は不明だが、その後の岩神館について記す事にする。天下への覇業を掲げる織田弾正忠信長は1570年(元亀元年)
越前攻めを目指すが義弟・浅井備前守長政の裏切りに遭って撤退を余儀なくされる。世に云う「金ヶ崎の退き口」であるが、この折に
京都へ引き返す道を朽木谷に求め、信長は朽木氏の館で休息を摂ったとされる。これが岩神館の事だとか。そのため、朽木元綱は
織田家、更には豊臣家に従い近世大名への転換期を乗り越えた。関ヶ原合戦では西軍から東軍へと寝返った武将に元綱が含まれ、
一応は徳川家康からも本領安堵を受けている。ただ、朽木家は石高が減少し交代寄合旗本として存続する事になり、岩神館を廃して
新たな統治陣屋となる朽木陣屋(下記)を築く事になった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、元綱の嫡子・兵部少輔宣綱(のぶつな)の妻は2人の子を産んだ後、1606年(慶長11年)に亡くなった。宣綱は彼女を弔うために
岩神館の址に曹洞宗万松山秀隣寺(当初は周林院と呼んだ)を創建し、そこに墓を建てる。実は宣綱の妻は「マグダレナ」の洗礼名を
持つキリシタンだったが、徳川幕府の禁教令が厳しくなってきた頃なので仏教徒であった事にして“寺に葬った”のだ。更に時代が下り
秀隣寺は1729年(享保14年)それまでは上柏(かみかし)村指月谷(安曇川の対岸)にあった曹洞宗高巌山興聖寺(こうしょうじ)と入れ
替えられた。この後、秀隣寺は2度の火災を受けて更なる移転を行い、現在では朽木野尻(朽木谷の北端部)に置かれている。一方の
興聖寺は、もともとは鎌倉時代に佐々木信綱が道元禅師(曹洞宗の開祖)を招いて開いた寺で、佐々木一族の供養寺として尊ばれて
いた。この興聖寺が現在も岩神館跡に鎮座しているのだが、それ以前の秀隣寺や岩神館の遺構もある程度引き継いでおり、現地を
訪れれば足利庭園の他、土塁やマグダレナの墓などを目にする事ができ申す。なお、こうした由来から足利庭園は「旧秀隣寺庭園」と
呼ばれるのが一般的なのだが、元を辿れば「岩神館庭園」とするのが正しいのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

庭園や土塁、空堀も残る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
興聖寺と呼ぶべきか、旧秀隣寺と呼ぶべきか、とにかく朽木岩神館跡は安曇川の河岸段丘上に所在しており、川原からは15m程高い
比高差を有している。概ね南北に流れる川と並行する敷地には西側の山の小彦谷から水が引かれ、その水で旧秀隣寺庭園の池泉を
賄っている。築山の脇に滝石組(たきいわぐみ)を配し、そこから水が池へ注ぎ込む風流な仕掛けが作られていて、石組で模した滝は
「鼓(つづみ)の滝」と称されている。池泉回遊式庭園として池が蓄えられ、その中には鶴島と亀島という2つの島が浮かぶ姿は蓬莱山
そして鶴亀という吉祥を担いだもの。室町時代の武家庭園を代表する作品として貴重で、この庭園は1935年(昭和10年)12月24日、国
名勝に指定されている。その庭園を囲うように、敷地の南〜西〜北へと「コ」の字形に巨大な土塁が囲繞(東側は安曇川への断崖)し
これが往時の岩神館を囲う防御施設だった事が窺えよう。この土塁の中央部内側に、マグダレナの墓石も置かれている。土塁の形と
規模から推測するに、館は東面を川へ落ちる段丘とし、それ以外の面を土塁で囲ったおよそ100m四方の方形居館を成していたようだ。
但し、土塁で囲った範囲の“外”にある興聖寺の伽藍も、石垣で囲われた敷地を有している。この石垣も伝承では庭園の築造と同時に
築かれたそうなので、だとすれば土塁の範囲外にも副郭のような敷地割りが行われていたのかもしれない。また、土塁の外側には深く
明瞭な堀跡も残存。寺の境内なのであまりウロウロする訳にもいかないが、じっくり見ればそこかしこに往時の構造物が残されている。
館が廃絶し、更に寺が2度も建てられた(改変を受けた)割にはしっかりとした残存物があるのに驚かされる。特に庭園は当時のままで
これを守り伝えて下さった先人たち、そして今もそれを維持して下さっている現地の方々に感謝でござろう。■■■■■■■■■■■



現存する遺構

庭園《国名勝》・堀・石垣・土塁・郭群等








近江国 朽木陣屋

朽木陣屋跡

 所在地:滋賀県高島市朽木野尻字野街道
  (旧 滋賀県高島郡朽木村大字野尻字野街道)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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近世朽木谷の統治陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1983年(昭和58年)3月28日、滋賀県指定史跡。指定面積は2万5706u。往時は9万3000u(推定)の規模があったとか。朽木城とも
称されるが、江戸時代になってからの陣屋なので「城」と言うほど堅固な構えではない。どうやら陣屋が構えられる以前にも朽木氏の
城館があったらしく(発掘調査が行われて判明)その時代を指して「朽木城」と区別したらしいが、近世陣屋として造成された事により
大規模な改変・拡張を受けたようで、旧来の城館はもっと小さな規模だったようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記の如く、鎌倉時代から朽木谷の主であった朽木氏は元綱が関ヶ原合戦の荒波を(何とか)乗り越えて本領安堵を受けた。江戸
幕府から認められた石高は9590石。1万石に満たないために大名ではなく、しかも参勤交代を必要とする家格であったので交代寄合
旗本とされたが、元綱が1632年(寛永9年)8月29日に没した事で長男の宣綱へ6470石、2男の与五郎友綱(ともつな)へ2015石、3男・
民部少輔稙綱(たねつな)へは1100石が与えられ、朽木家の所領は分割されている。友綱と稙綱の家系はそれぞれ別家となっており
朽木本家(宣綱の後継)は更に代替わりで分知を行った為、朽木陣屋の統治知行は4770石程度となっている。■■■■■■■■■
宣綱以降、谷朽木(友綱や稙綱との家系と区別するためこう呼ばれる)は智綱(ともつな)―定朝(さだとも)―周綱(ちかつな)―衆綱
(もろつな)―朝綱(ともつな)―道綱(みちつな)―泰綱(ひろつな)―大綱(おおつな)―之綱(のぶつな)と続いて明治を迎えた。ただ、
1662年(寛文2年)5月1日に大地震が発生して(寛文近江・若狭地震)陣屋の建物は倒壊したと言い、当時隠居していた朽木宣綱は
それに潰されて圧死した。必然的に、陣屋はこの後に再建されて明治に至る訳なのだが、それも維新後は不要なものとなり廃された。
この時期、既に陣屋機能は停止し他の寺が政庁になっていたとする説もある。廃された陣屋では建物が撤去され、現状では堀・石垣・
土塁の一部と井戸が残るのみとなってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の所在地は安曇川と北川の合流地点、滋賀県道23号線「小浜朽木高島線」が北川を渡る山神(さんじん)橋の東側一帯。橋の
袂で23号線は北側へ入る道と分かれる三叉路になるが、この2つの道に挟まれた範囲が当時の陣屋敷地跡である。長細い五角形を
した敷地(野球の本塁板のような形)は土塁で囲まれ、その周りを堀で囲繞。堀は南東側が水濠で、他は空堀だったとされる。敷地内
東端に御殿や道場が置かれ、西に向かって侍部屋・馬屋・稲荷社・雑穀倉が並び、西御殿と呼ばれるもう一つの殿舎があった先には
米倉・鉄砲場・牢屋敷・馬場が控えた。陣屋大手口は西端で、そこは枡形虎口になっていたそうだが、他にも北面に裏門、南面には
大門と通用門という2つの門が置かれていたそうだ。敷地の規模は東西約290m×南北およそ180m。■■■■■■■■■■■■■
現在、陣屋の跡地(の一角)には1981年(昭和56年)に建てられた朽木資料館がある。その建設に先立って発掘調査が行われ、室町
時代の遺物包含層(これが「朽木城」時代の遺構であろう)と江戸時代になってからの建物跡が検出された。信長が金ヶ崎の退き口で
休息を摂ったというのは、或いはこの朽木城だったかもしれないが、いずれにせよ陣屋敷地は中世から使い続けられた様子は確認
できよう。発掘調査は2000年(平成12年)の県道改修工事時や2008年(平成20年度)にも行われており、言い伝えにある各種建物の
跡が明瞭に確認できたと云う。陣屋が廃絶し建物は取り壊されたが、地下にはその痕跡がしっかりと残されているそうだ。このように
地下遺構が充実している状況が、県史跡指定となっている理由でもあるのでござろう。なお、写真にある茅葺の古民家は朽木資料館
展示物として移築されてきた豪農農家なので陣屋の建築物ではない。その手前にある井戸は陣屋の井戸を再現したものだ。■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等








近江国 井ノ口館(本堂谷遺跡)

井ノ口館(本堂谷遺跡) 土塁

 所在地:滋賀県高島市新旭町安井川
  (旧 滋賀県高島郡新旭町安井川)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
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清水山城館群の居館部?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR湖西線の新旭駅から西へ2km弱の所に大荒比古神社がある。この神社の東側一帯、西ノ谷川との間にある空間が「本堂谷遺跡」と
呼ばれる井ノ口館跡地だ。大荒比古神社の北北東にある標高204mの山は清水山(しみずやま)城(下記)と云う山城で、その南東側に
広がる山麓部は清水山遺跡(清水寺(せいすいじ)屋敷地)と呼ばれ、山麓居館部とされている(清水山城遺跡・清水山遺跡の詳細は
次項にて)が、この井ノ口館も清水山城の居館部(出城)と見られている。清水山は西ノ谷川の東にあるが、井ノ口館は谷の西側なので
大宝寺山という山の南麓谷戸に包有されている。大荒比古神社の西面と、西ノ谷川に沿った段丘部が、谷戸を包み込むように山裾の
延伸部となっている為、その間にある平地(ここが井ノ口館跡)が半円状の塁壁に囲まれたような自然地形になっている訳でござる。
縄張図を見ると、神社の東側に方形館を思わせるような四角い土塁の区画が囲い込まれている。恐らく、当時も居館構造になっていた
事だろう。ただ、この四角い区画の中は更に土塁で細分化されており、単なる単郭方形館ではなくきちんとした曲輪に分割されていた。
いや、それだけでなく土塁が二重の塁となっていたりしていて、防御性の高い(そして求心性の高い)縄張りになっていたようだ。しかし
話はそれだけで終わらない。方形館部の東は現在住宅街となっているが、その更に東側(西ノ谷川の傍)にも土塁で囲まれた複数の
曲輪跡が見られるのだ。即ち、住宅街となっ(てしまっ)た部分も実は館の敷地内だった訳で、そこは旧来「ジョウロウグチ」「ハコヤマ」
「エンショグラ」と云う小字名で呼ばれていたそうである。「ジョウロウグチ」とはつまり上臈口、身分の高い僧侶の出入口を示すもので、
「ハコヤマ」も箱山、方形曲輪を指すもの、「エンショグラ」はそのまま焔硝蔵であろう。これらは総じて城郭に由来する地形・地名であり
この部分も井ノ口館の敷地内だった証拠である。となれば、井ノ口館は単に方形館ではなく、広大な面積を有する平城と呼べる構造を
備えたもので、敷地は東西およそ270m×南北180mほどを数えたと推測される。上臈口の地名、そして遺跡名称に「本堂」谷遺跡とある
事は寺にも深い関わりがありそうであるが、住宅地となった区画にはかつて大宝寺という寺があったそうで(だから山の名が大宝寺山)
この平城は寺をも内包した見事な城跡だった様子を推測させてくれる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、宅地となった箇所を除けば堀や土塁・曲輪跡と思しき地形(写真)が随所に残っていて見事な残存状況である。縄張図と照らして
雑木林に入れば、なるほど確かにその通りの構造が確認できて散策するのに飽きない城跡だ。美麗な土塁や堀を有する為、清水山城
遺跡や清水山遺跡と共に本堂谷遺跡は2004年(平成16年)2月27日に「清水山城館跡」の名で国の史跡に指定された。こうなると宅地
造成されてしまった「ジョウロウグチ」「エンショグラ」と言った部分がつくづく惜しい…とも思うが、まぁそれは今更言っても仕方がない話。
今後は文化財と住宅地が上手く共存していく道を探って頂きたいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
車は大荒比古神社の駐車場に停められる。近隣住民の方々に迷惑をかけないよう気を付けて見学したい城跡だ。■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
館域内は国指定史跡








近江国 清水山城

清水山城 主郭跡

 所在地:滋賀県高島市新旭町熊野本
  (旧 滋賀県高島郡新旭町熊野本)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★☆
★☆■■■



高島七頭・佐々木越中家の城塞■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
冒頭にある朽木岩神館の項で記した通り、鎌倉初期の武将・佐々木信綱は高島郡に領地を得た事で彼の子孫がこの地に分派していく。
信綱の長男・左衛門尉重綱(しげつな)は坂田郡大原荘(現在の滋賀県米原市の一部)の地頭となり大原氏を興し、2男・隠岐守高信は
高島郡を領有、3男の壱岐守泰綱(やすつな)は佐々木宗家を継承してそれが後に六角氏となる。泰綱の同母弟である4男・近江守氏信
(うじのぶ)は京極氏の祖だ。高島郡を領有する高信は高島を名乗る事となり、その高島氏の中から更に分家が多く起こるのであるが、
嫡流の高島氏の他、朽木(朽木谷を領す朽木家である)・横山・田中・永田・平井(能登)の6家、それに山崎氏(この家だけ愛智氏系)を
加えた有力7家を「高島七頭(しちがしら)」と云う。高島七頭は「西佐々木七人」「高島河上七頭」「七佐々木」など様々な呼び名がある。
その中での筆頭となるのが当然ながら嫡流高島家になる訳だが、この佐々木高島家は越中守を代々の官途名として受け継いだため、
佐々木越中家(高島越中家)と呼ばれるようになっていく。清水山城はこの越中家の本拠となる城塞として築かれた山城で、その創建は
1235年(嘉禎元年)高島氏初代・高島次郎左衛門高信の手に拠るものだとされてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、高島氏(越中氏)は戦国時代まで血脈を繋ぎ、高信―左衛門尉泰信―越中守泰氏―四郎範綱―越中守信顕―左衛門尉高顕―
左衛門尉高頼―越中守高泰―越中守高兼―近江守高俊―越中守頼高―■(八郎)―越中守高賢と続く(系譜には諸説あり)。その間、
室町時代には高島七頭が幕府奉公衆として名を連ね、戦国時代になると近江は北近江の浅井氏と南近江の六角氏が覇を競うが、その
挟間を渡り歩いてしぶとく生き残っていた。言わば“叩き上げの在地豪族”と言った感じで、同時に北近江各所にあった関所の支配権も
有していた事から、交通監視(物流支配)やそこから上がる利潤(当時の関所は通行料を取る「料金所」のようなものだった)も確保する
“経済強者”でもあった。上記のように、城の山麓居館部(清水山遺跡)は清水寺屋敷地と呼ばれて、その名の由来となった天台寺院の
清水寺なる寺がかつてそこにあった訳だが、その寺は越中氏の家臣団によって領地を侵食されたと言われている事から、寺を排除して
山麓屋敷地が造成された可能性もあろう。となると、越中氏の権勢は寺社勢力をも上回っていた事が推測できる。湖西に勢力を広げて
高島七頭の盟主となっていた越中氏は独自の勢力圏を築いていたらしい。だが戦国時代末期、小谷城(滋賀県長浜市)の浅井氏と協同
路線を採っていた越中氏は、それ故に織田信長から攻められ1573年(天正元年)滅亡、清水山城も落とされ廃城となったようだ。信長の
伝記「信長公記(しんちょうこうき)」には織田軍が1573年7月に高島郡へ大船と大軍勢で攻め込んで、木戸城と田中城(高島市内)を降参
させたとあるが、この「木戸城」と言うのが清水山城を指すと言われている。ちなみに「清水山」の名が文献上に初めて出るのは豊臣政権
時代の1595年(文禄4年)の事である為、本来の城名は木戸城とするのが正しいのかもしれない。なお、豊臣政権は清水山周辺の地籍を
詳細に調査しており(それが「清水山」の表記に使われている)廃城後もこの地域の掌握に神経を使っていた様子が見え申そう。■■■

見事な遺構を残す山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では城の縄張りを。清水山の山頂は標高210m、山麓との比高差は110m程にもなる。この山頂部が綺麗に削平され、概ね「L」の字形と
言える敷地を作り出している。ここが主郭だ。山頂からは北・南東・南西の3方向に尾根が延びており、南西側の尾根は数箇所を堀切で
分断、その間に2郭・3郭・4郭と言った主曲輪群を並べている。北側の尾根には主郭と向かい合うように北郭を配置。この曲輪は内部で
数段の段差を作っており、この曲輪自体が1つの出城的な構造を持っている。南東側は山麓居館部へ至る尾根で、道沿いにいくつかの
小曲輪を並べた「南東尾根曲輪群」と云った構えを作り出す。主郭を取り囲むように放射状の畝状竪堀が確認され、北郭の北面にも同じ
ような畝状竪堀が並ぶ上、尾根と尾根の間にある谷戸部にも多数の腰曲輪が造成され、全山が要塞化されていた。北郭の更に北では
大堀切で城域を分断、南西尾根はそのまま西ノ谷川まで落ちるので川が天然の濠となっていた。この西ノ谷川と南西尾根が接する所は
「城ノ口」と呼ばれているので、屋敷地から南東尾根を登る大手口とは別の登城路があった可能性も指摘されている。主郭は東西およそ
60m×南北55m程の広さがあって(写真)、現在はその隅に送電鉄塔が立っているのでそれを目標に山を登れば分かり易い。登山道も
鉄塔から延びる送電線に沿って整備されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方の山麓居館部(清水山遺跡)は、大きく分けて東西に二分された敷地。東屋敷は越中殿(の居館址)と言われる事から、城主・高島
越中氏が平時の居館とした場所であろう。対する西屋敷は加賀殿と呼ばれるので、加賀守を称した有力家臣(或いは一門衆)の屋敷が
置かれていたのだろう。東西の屋敷地は「地蔵谷」と言う沢により分断されているが、両者共に内部は細かく敷地分けされていた痕跡が
土塁や堀の名残りから推測できる。これは井ノ口館跡と同様の構造で、かつて清水寺と塔頭が並んでいた区画を転用し、もともと寺に
よって分割を行っていた跡地を上手く再活用したものなのだろう。屋敷地の郊外には「犬馬場」「御屋敷」と言った城郭に因んだ地名や、
「大日道(堂)」「御坊山」など寺に由来する地名が残り、これまた井ノ口館跡と同じように現場の歴史を物語っている。■■■■■■■
主郭跡では1996年(平成8年)に発掘調査が行われ、曲輪のほぼ中央から石段やかまど状遺構を伴う礎石建物跡が検出された。これは
東西5間×南北5間半(若しくは6間)の大きさで、南北に破風を見せる切妻あるいは入母屋屋根を有していた。瓦は発見されていない為
檜皮葺だったと見られている。建物の中は上段の間・次の間・納戸・遠侍で成り、上段の間は広縁で囲まれる。これに竈を備えた台所が
附属し、その台所から裏口の出入りがされていた。なお、上段の間は2間×2間の8畳間で、床の間と棚があり、武家居館としての格式を
持つ。この他、主郭では焼土層(落城時に焼け落ちたものだろう)やそれ以前に使われていた越前焼などの国産陶磁器・輸入磁器、更に
金属器や硯などが出ている。一方、2001年(平成13年)からは南東尾根曲輪群で発掘調査があり、そこでも礎石建物跡を確認。建物の
規模や構造は不明だが、その礎石は五輪塔の古材を転用したものだった。また、庭園遺構とも考えられる痕跡があり、南東尾根からは
琵琶湖を臨む事ができる風光明媚な立地からこの曲輪を山里曲輪と想定する説も出された。同じく西屋敷(加賀殿)跡でも礎石建物や
井戸跡、墳墓痕(これは清水寺時代のものか)等を確認している。このように廃城寸前の清水山城は各所で立派な建物を有し生活痕が
明瞭に残されており、恐らくは浅井氏との協調関係の中で壮大な城郭を築くだけの技術力が提供されていた事が分かるのである。■■
このような状況から2004年2月27日に清水山城・清水山遺跡と本堂谷遺跡を合わせて「清水山城館跡」として国史跡に指定されたのだが
2014年(平成26年)3月18日に史跡範囲が追加指定されてござる。ただ、広大な史跡範囲を全て整備する状態には至らず、山頂の主郭部
付近は綺麗に整えられ、城内各所に案内板などは設置されているものの、居館部や支尾根の曲輪などは手付かずの状況にある。また、
民家も近くに建てられている上、清水山へ登る為の駐車場も無い(近隣にある公園施設には停められる)ので、来訪には注意が必要だ。
清水山を囲って獣除けの金網が巡っており、山に登るにはそのゲートを開け閉めして入る点にも要注意。とは言え、さすが国の史跡だけ
あって遺構の残り具合は抜群。城郭愛好家ならば是非訪れて欲しい名城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で日高山城・比叡谷城などと呼ばれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








近江国 新庄城

新庄城跡 案内板

 所在地:滋賀県高島市新旭町新庄
 (旧 滋賀県高島郡新旭町新庄)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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支城から高島郡の中心に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧新旭町の天台真盛(しんせい)宗放光山大善寺〜高島市立新旭南小学校〜綾羽工業株式会社高島工場(の敷地一部)辺りにかけて
存在した平城。この城域内を国道161号線高島バイパスが貫通しているが、その道路建設に先立って1980年(昭和55年)(試掘調査)〜
1982年(昭和57年)にかけて発掘調査が行われた。この発掘は地下水位が想定よりも高く、排水ポンプを予定より増強し行うなど様々に
難儀したそうだが、城の二ノ丸と推定された地点で上下二層の遺構面を検出し、堀跡と思われる構造物も確認され、当城の伝承・存在が
断片的ながら証明されている。また、他の発掘地点では古墳時代〜平安時代の各種遺物も確認。この場所が古代から生活の場であった
様子も垣間見えよう。城の遺物として出土したのは皿など土師質土器製品、各種陶器・磁器、石臼などの石製品、銭貨、瓦片など。堀の
断面はU字形をした毛抜堀で、この他に土塁・石列遺構・集石遺構・土坑・井戸跡・土塀の基礎などを確認している。■■■■■■■■■
城の創始はあまりハッキリと分からないが、清水山城(上記)の支城として築かれたと考えるのが一般的。越中氏の家臣である多胡上野、
もしくは越中氏一族の新庄伊賀守実秀なる者の手に拠るとする説がある。多胡上野というのは不詳の人物であるが、新庄実秀は1542年
(天文11年)9月の甲賀郡蟹ヶ坂の戦い(滋賀県甲賀市土山町)で戦功を挙げた記録がある。ともあれ、これ以後は新庄城の守将として
浅見対馬守俊孝(永正年間(1504年〜1521年))や、多胡上野介久秀・但馬守定信(永禄年間(1558年〜1570年))と言った名が挙がって
おり申す。織田家が浅井家を滅ぼす戦いに伴ってこの城も落とされたようだが、織田信長は1573年に多胡宗右衛門に本知を安堵したと
伝わる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし程なく、信長は高島郡を磯野丹波守員昌(いそのかずまさ)に与えた。員昌は浅井家の有力家臣で、姉川の戦いでは織田軍本陣に
迫る猛攻を見せた剛の者だが、浅井家が衰退するに及んで織田家へ服属したのだ。それまで佐和山城(滋賀県彦根市)主だった員昌は
佐和山城こそ没収されたものの、それに代わって高島郡に封じられる破格の厚遇で召し抱えられた。佐和山城を退去した彼は、高島郡
小川(こがわ)村(現在の滋賀県高島市朽木小川)で閑居していた為にこうした処遇が行われたとか。また、員昌の養子として信長の甥・
信重(後の津田七兵衛尉信澄)が与えられている。これにより員昌は新庄城へ入り、高島郡統治の拠点として用いるようになった。従前、
清水山城の支城であった小城は、高島郡を統べる大掛かりな城へ生まれ変わった。発掘にて確認された上下二層の遺構面と言うのは、
支城時代(創始期)の下面と、員昌の改造後の造成面(上面)と言う事になろう。信澄も高島郡に居住していた事が確実視されているので
新庄城は員昌・信澄の父子2代が居城にしていたと考えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1578年(天正6年)2月3日、員昌は突如出奔する(信長による追放とも)。この逐電により高島郡は信澄のものとなり、その信澄は
新たな統治拠点として大溝城(高島市内)を築いた。それに伴って新庄城は廃された。明治時代までは城地に2つの小丘(櫓台か?)が
残っていたそうだが、1904年(明治37年)の大洪水や1906年(明治39年)の耕地整理などによりそれも崩されてしまったそうだ。■■■■
現状では目立った遺構が見当たらないが、大善寺の脇に「コ」の字型をした土塁が僅かに残る。どうやらこの方形区画が新庄城主郭部
(中心部)と推定されており、この他に小字名として「西手」「東町」「二ノ丸」「三ノ丸」「城ノ内」「馬カケ道」等の城に由来する地名が残され
新庄城の領域を指し示している。但し、大善寺の遺構は「大善寺遺跡」として新庄城の本体とは別のものだと考える向きもあり、この方形
区画は城ではなく家臣の屋敷地だったとも。いずれにしても現在は城跡らしい明瞭な痕跡はなく、新旭南小学校の南側に写真の看板が
風雨に朽ちた状態で立てられているのみでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁




大津市北部諸城館  (新・旧)二条城