近江国 坂本城

坂本城址 石碑

 所在地:滋賀県大津市下阪本

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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明智光秀、湖上の要塞を築く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
惟任日向守こと明智光秀が琵琶湖の水辺に築いた城郭として有名。坂本(現在の地名表示では「坂本」と「阪本」が混在する)の地は
鎮護国家の大道場・比叡山延暦寺の麓に開け、琵琶湖の水運を握る港湾都市であると共に琵琶湖西岸を縦貫する街道・西近江路を
扼する要衝であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
坂本築城の少し前に時を遡ると、尾張・美濃を制して日の出の勢いを得た織田上総介信長は、足利義昭を新たな将軍に擁立し中央
政界にも食い込むようになる。ところが越前の朝倉左衛門督義景はそれに対立、信長の妹婿であった筈の浅井備前守長政も朝倉に
味方し、浅井・朝倉連合軍と信長は1570年(元亀元年)から泥沼の抗争を繰り広げるようになった。徳川家康の援軍を得た織田軍と、
浅井・朝倉連合軍はこの年の6月28日、姉川の合戦で激突。この戦いで信長は勝利を収めるも、それだけで決着がついた訳ではなく
むしろ朝倉軍は積極的に琵琶湖西岸へ進出、現在の大津市北部まではその勢力圏に置いていたのである。これに対し信長は、朝倉
支配地域の直近に宇佐山城(大津市内)を築いて牽制、西近江路から洛中へ抜ける街道も付け替えてそれ以上の南進を阻止しようと
試みた。されど、この局面で比叡山延暦寺が浅井・朝倉方に同調し信長を追い詰める。延暦寺の介入に激怒した信長は、光秀を含め
配下武将に命じて1571年(元亀2年)9月12日、比叡山を焼き討ちし僧兵戦力を壊滅させた。これで寺社勢力の支援を失った朝倉家は
勢力を弱め、次第に南進戦略が採れなくなり敗退していく事になるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした前置きがあった上で、明智光秀の坂本築城が開始される。比叡山を壊滅させた信長は、光秀を勲功第一と賞して坂本に城を
築かせ、その城主に任じたのである。比叡山勢力の復活を阻止し、朝倉勢の南進を防ぐために智謀の士である光秀を坂本へと配した
訳だ。この時の様子は「永禄以来年代記」に「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取」とあり、比叡山の山領を
押さえた光秀が坂本築城を大々的に行った事が見て取れる。また、その翌年(1572年(元亀3年))末に神道家・吉田兼見(かねみ)の
記した日記「兼見卿記」では「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」と
あり、坂本城では天守が工事中だった事も確認できる。一般的に近世城郭の天守は、信長の安土城(滋賀県近江八幡市)に作られた
“天主”が最初だとされるが、坂本城はそれに先行するものなので、なかなか興味深い記録であろう。「兼見卿記」ではこの他に坂本城
天守が大天守と小天守の2棟から成っていた様子も描かれてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信長が近江全域を支配するようになり、安土城をはじめとする織田家の他の城郭も築かれていくが、坂本城はそれらの城とも連携し
信長の“琵琶湖ネットワーク”の一角を成すようになる。水辺に浮かんだ壮麗な姿は、当時来日していた宣教師・ルイス=フロイスが
「それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほど」と
史書「日本史」に記録している。光秀は後に丹波攻略などで坂本を離れるが、城主としての地位はそのまま有していたようだ。1580年
(天正8年)には改修工事も行われた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

本能寺の変と坂本城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1582年(天正10年)6月2日、光秀は突如として主君に謀反を起こし、京都・本能寺に信長を襲撃した。本能寺の変である。当日、
光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を出発して信長を攻め滅ぼしたのだが、以後は坂本城との連絡を密に取ろうとしていた。どうやら、
光秀の家族は亀山ではなく坂本に在住していたようだ。その為、事後の根拠地を坂本に求めたらしい。ところが畿内の制圧はなかなか
進まず、そうこうしている間に羽柴筑前守秀吉が遠征先の中国地方から大返しを敢行し“逆臣討伐”に向かってきた。結果、6月13日に
山崎の戦いで光秀は大敗、その日は戦場の近隣にあった勝龍寺(しょうりゅうじ)城(京都府長岡京市)に逃げ込んだが、夜陰に乗じて
城を抜け出し、逃亡する途中で落武者狩りに遭い討ち取られている。恐らくは勝龍寺城から坂本城を目指して落ち延びるつもりだった
ようだが、それは果たせなかった。他方、坂本城に居た明智一族は光秀敗死の報を聞いて翌14日に自害し、城は自焼した。坂本城の
留守を預かっていた明智左馬助秀満(ひでみつ)がこうした手配を行ったと言われている。秀満は光秀の娘婿とも、従弟とも言われるが
正確な所は不明。いずれにせよ光秀の重臣であった事は間違いない。秀満は城を焼くにあたって、城内の名物を敵に引き渡してから
整然と自決したそうで、その律義さは武士の鑑と賞された。また、光秀敗死を知って占拠していた安土城を引き払い坂本城へ戻ったと
いう秀満は、この時に琵琶湖の上を馬で渡ったという「左馬助湖水渡り」の伝説が残されており申す。■■■■■■■■■■■■■■
謀反人の城、という事でこれにて坂本城は廃されたと思われがちだが、秀吉は織田家旧臣・丹羽五郎左衛門尉長秀らに指示して城を
再興させている。この再建坂本城は翌1583年(天正11年)に完成。長秀の他、秀吉親族の杉原伯耆守家次(すぎはらいえつぐ)次いで
浅野弾正少弼長政が城主を歴任している。賤ヶ岳合戦の折など、湖西の守りを固めるのに重要な役割を担ったと推測されよう。ただ、
秀吉が豊臣姓を下賜され関白となり、天下の安泰を大坂・伏見に求めるようになると、坂本城は廃される事になる。1586年(天正14年)
秀吉は浅野長政に大津城(大津市内)の築城を命じ、坂本城の建材・石材を転用して新たな城を築いていく。大坂〜伏見を繋いだ淀川
舟運を延長すると、琵琶湖に辿り着く訳だが、その水運掌握を図るに瀬田川(淀川の琵琶湖流出部)起点に近い大津城を求めた訳だ。
坂本では瀬田川と距離がある上、既に比叡山勢力が政権に敵対する姿勢を薄れさせていた為、坂本よりも経済拠点となる大津に豊臣
政権の新たな統治城郭を作ったのだが、これによって坂本城は全く原型を残さない程の破却が行われた。そのため、現状では城址に
目立った遺構は残らない。ごく僅か、琵琶湖に水没した位置に石垣の基礎石が波に洗われている程度なので、渇水時以外はなかなか
それも目にする事が出来ないのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

ほぼ遺構は壊滅…だが新発見が!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1979年(昭和54年)城域各所で発掘調査が行われた。それにより10cm〜30cm程度の焼土層が検出され(秀満による自焼時のもの)て、
それより下部(光秀時代の坂本城遺構)には礎石建物や柵列、井戸・石組溝跡を確認。焼土層より上(丹羽長秀時代)にも礎石建物跡・
掘立柱建物跡・石組溝・貯水升遺構と言ったものが発見されている。他に出土物は瓦・壺・甕・鉢・茶碗・擂鉢・青磁・白磁・鏡・刀装具・
銭貨など。瓦は赤瓦と黒瓦の両方を確認している。推定される縄張りは、湖に面したほぼ正方形(元地形に伴い多少変形したもの)を
した本丸の手前に二ノ丸を置き、その二ノ丸を更に三ノ丸を囲う。湖に突出する状態だった本丸は現在、某計測機器企業の研究所が
建つあたりで(但し、近年この研究所は閉鎖されたらしい)私有地なので無断で立ち入る事は出来ない。二ノ丸はその西側の浄土真宗
西栄山蓮端寺〜天台宗東南寺があった一帯。この辺りにある細かい川(用水路)は往時の濠の名残だとか。なお、琵琶湖の湖岸線は
当時と比べてかなり変化しているので本丸跡地は二ノ丸以内にある他の干拓地と一体化し、島のようにはなっていない。そして広大な
三ノ丸は、酒井神社〜両社神社〜浄土真宗霊雲山順照寺までの空間。その外側に坂本城址公園(都市公園湖岸緑地北大津地区)が
あり、駐車場が数台分あるので車はそこに停められる。御手洗も同様。余談だが、ここには明智光秀の石像があって彼の遺徳を讃えて
いるのだが…この像はどうみても日本の戦国武将と言うより、三国志か何かに出てきそうな中華風の武人像?と言った感じで、イマイチ
明智光秀の容貌には思えない(苦笑) 制作者の方には申し訳ないのですが、素直な感想と云う事で (^ ^;■■■■■■■■■■■■
と言う事で、「光秀の城」として名前だけは有名な坂本城なのだが、もともと平城な上に遺構が殆んど残らないという状態なので現地へ
行ってみても“これ”と言うような見どころはない―――と言うのがこれまでの状況だったのだが、2023年(令和5年)になってから新しい
展開を見せるようになった。三ノ丸跡地と考えられる空き地が宅地造成される事となり、それに先立ち10月から発掘調査が行われた。
すると高さ約1m×およそ30mの長さに亘って石垣が発見されたのだ。従来、ここに石垣や堀は無いと考えられていた位置だが、これで
坂本城三ノ丸の規模や構造が解明される端緒になると想像され、翌2024年(令和6年)2月の10日と11日に現地説明会が行われると
全国から2000人以上の見学者が殺到して「無いと思われていたモノがあった」事に大きな衝撃が走ったのである。城郭愛好家からは
貴重な遺構の保存を望む声が上がり、大津市でも発掘結果公表前の2023年12月の時点で、宅地開発の見直しを事業者側へ要請。
反響の大きさに、開発事業者は2024年2月19日、大津市長へ工事中止要請の受託を伝達した。これにより、発見された石垣は保護・
活用される方向に舵が切られた訳である。今後は遺構が適切に保全され、常時一般公開されるよう望むと同時に、宅地開発の中止を
即決して下さった開発事業者にも最大限の敬意を表したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな感じで流動的な坂本城の現状であるが、城址碑だけはそこかしこにあり、上記の城址公園や本丸跡地前などに散在するものの
本丸跡地の石碑は「某計測機器企業の研究所の案内」に間違えそうな趣きなので写真映えしないのが残念である。とりあえず当頁では
二ノ丸跡で見つけた“ちょっとオシャレな”?案内板と石碑を御紹介しておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃絶したと見られる坂本城の建築だが、移築門と伝わるものが2棟残存。どちらも大津市内、坂本城跡に近い寺に残されているもので、
一つ目は天台真盛宗戒光山兼法勝西教寺の総門。西教寺は坂本時代の明智家墓所となっており、光秀の正室・熙子(ひろこ)の墓も。
彼女は山崎の戦いで光秀が敗れた後、夫に殉じて自害したとも伝わるが、近年の研究ではそれ以前に亡くなっていたようなので、夫が
逆臣となった事は知らぬまま葬られた、と思いたい。もう一つの移築門は天台宗紫雲山聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)山門(表門)で
こちらは2014年(平成26年)9月18日に国の重要文化財に指定されている。この他、来歴からすると大津城へ移築・転用された古材が
ある筈だが、大津城も廃城になっているのでその行く末はどうなったか分からない。大津城の古材も更に他の城へ転用されているので、
もしかしたら、元は坂本城の建材がどこかに生き残っているのかも―――?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石垣

移築された遺構として
来迎寺表門《国指定重文》・西教寺総門








近江国 多田満仲(源満仲)館

多田満仲(源満仲)館跡 御所山

 所在地:滋賀県大津市仰木

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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多田源氏始祖の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、ここからは坂本地区の近辺にあった城館をいくつか紹介。まずは大津市の仰木地域、「仰木の山」こと御所之山と言う小さな山が
かつての源満仲(みなもとのみつなか)館跡とされている。場所は奥比叡ドライブウェイの北端、仰木郵便局のすぐ北側に観光施設の
仰木太鼓会館があり、その隣にある小高い丘が館跡。太鼓会館の駐車場が利用でき、御手洗もドライブウェイに併設されている。但し
太鼓会館へ入るには、ドライブウェイからではなく細い街路を北側へぐるりと回り込む必要があるので注意。■■■■■■■■■■■
満仲は多田源氏の始祖として知られる人物。平将門との争いで知られる“六孫王”源経基(つねもと)の嫡男が満仲で、経基の祖父は
清和天皇なので、れっきとした清和源氏嫡流という由緒を持つ。彼の子孫が後に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝になり、またその傍流から
室町幕府将軍の足利家、更に江戸幕府将軍の徳川(得川)家へも繋がる(と云う事になっている)のだが、そうした武人の家祖とされる
満仲も、武官貴族として武勇伝に彩られている。都を荒らす強盗団退治、鎮守府将軍への任官、986年(寛和2年)花山天皇が密かに
御所を抜け出して出家した事件においてもその警護役を果たすなど、表に裏に彼の活躍(暗躍?)があったとされている。■■■■■
満仲の本貫地は摂津国多田荘(現在の兵庫県川西市〜宝塚市あたり)であったため、その系統は多田源氏と呼ばれ、満仲自身も多田
満仲と称された。そんな多田満仲は971年(天禄2年)摂津多田からここ仰木に転居、それから十余年程をこの館で過ごしたと云う。また
彼は987年(永延元年)一族郎党と共に出家しているが、その折に館を寺(紫雲山来迎院満慶寺)にしたそうだ。満慶と言うのは満仲の
法号である。満仲が念持仏とした薬師如来像は、近隣にある天台宗光明山眞迎寺に今も祀られており、また満仲の遺徳を讃える祭り
「お火焚き」も、御所之山で行われているそうでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安時代の居館址ゆえ、現状では特に遺構らしきものは見当らないが、現地には写真にある満仲の顕彰碑が立っており、その由来は
地元で守り続けられているようだ。周囲は長閑な田園風景が広がり、のんびりと過ごせる場所なのが良い。■■■■■■■■■■■







近江国 衣川城

衣川城址碑

 所在地:滋賀県大津市衣川

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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室町時代に落城した城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
衣川は「きぬがわ」と読む。平安時代の武家居館に続いて、こちらは中世の城郭跡。JR湖西線の線路が天神川を渡る付近の西側に
大規模な宅地開発がされ整然と街区割りされた住宅街が現れる。この宅地の中に西羅古墳や衣川廃寺跡などの史跡があるのだが
その街区の片隅に、写真の城址碑がある。ここが衣川城跡だとされている。この住宅街は概ね湖に向かって下る傾斜地となっており
往時はそうした地形を防備に活かした城だったと想像させるが、なにぶん全て宅地化されているので、もはやそれを証明する遺構は
全く見受けられない。この城址碑がある事だけが、城が存在したと言う証拠でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地案内板によれば鎌倉時代の1234年(文暦元年)正月に粟津合戦で山内義重が功を挙げ、その恩賞としてこの地を賜り築城した
事が衣川城の起源とされる。以後、山内氏が城を守り11代・駿河守宗綱の頃になると1508年(永正5年)〜1511年(永正8年)にかけ
浅井公政(備前守直政の事か?)・京極飛騨守高清らと共に坂本や石山の合戦に参加、朝倉弾正左衛門尉貞景(越前守護)・村上
山城守・河野通直(伊予守護・弾正少弼通直の事か?)・大内左京大夫義興・細川右京大夫高国らを相手に勝利したと云う。恐らくは
室町幕府10代将軍・足利義稙(よしたね)と11代将軍・足利義澄(よしずみ)の権力争いに関連した戦いだったのだろう。■■■■■
しかしその後、細川高国は管領(室町将軍を補佐し政務を統轄する役職)として権勢を振るい、1526年(大永6年)8月3日の夜に衣川
城を急襲する。北から島村弾正貴則、南からは香東山城守が挟撃し、山内一族は奮戦するも落城したとか。辛うじて落ち延びた山内
重清(宗綱の甥)らは伊予国宇摩郡近井郷鏑崎村(愛媛県西条市)まで逃れ、彼の地に土着したと云う。以後の来歴は詳らかでなく、
恐らくはこれで廃城になったと考えられる。1968年(昭和43年)滋賀県教育委員会によって発掘調査が行われ、溝跡や建物跡が確認
され、明の青磁・白磁や炊事用具の破片、壺・甕・擂鉢・硯なども出土したそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







近江国 堅田陣屋

堅田陣屋跡 舟入遺構

 所在地:滋賀県大津市本堅田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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中世の「水運都市」が近世になると■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堅田は「かたた」と読む。琵琶湖大橋の1.6kmほど南、本堅田町域には湖に突き出した「浮御堂」と言うお堂があり、琵琶湖周辺で屈指の
景勝地となっている。この浮御堂は臨済宗海門山満月寺(これまた風流な名前)のお堂で、近江八景「堅田落雁(かたたのらくがん)」の
題材とされ、江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれてもいる。そんな満月寺の北側には伊豆神社があり、神社に隣接した
北〜東の敷地が堅田陣屋の跡地。古代の武家居館、中世の城跡に続いて、こちらは江戸時代の統治陣屋跡でござる。■■■■■■■
中世、堅田の集落は坂本と並ぶような水運都市が形成されていた。堅田の有力者(特に商工業者)は一向宗徒が多かった為、天台宗の
比叡山延暦寺とは対立・競合を繰り返す歴史を経て一種の自治都市を作り上げていく。これは豊臣政権下でも簡単に手が出せなかった
ようで、坂本城主となった浅野長政も堅田には特権を認める施策を採っていた。それ故、江戸幕府が成立した後も統治に難題を多く抱え
堅田は天領(幕府直轄領)として大津代官所の支配下に置かれていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
太平の世が続き、ようやく世情が安定した頃になってやっと堅田支配に転機が訪れる。1698年(元禄11年)3月7日、それまで下野国佐野
(栃木県佐野市)を領していた堀田備後守正高(ほったまさたか)が1万石で堅田に封を与えられたのだ。彼の父は5代将軍・徳川綱吉の
右腕として活躍した大老・堀田備中守正俊(まさとし)である。正俊の嫡男(長男)は下総守正仲(まさなか)で父の遺領を継ぎ、3男だった
正高には分知として佐野1万石が与えられていたが、それが堅田へ移封となったのである。これに伴い築かれたのが堅田陣屋だ。ただし
堅田藩の領地は、堅田の全域(中世「堅田四方」と呼ばれた領域)ではなかったそうで、本堅田村と衣川村は堅田藩領だが、今堅田村は
三上(みかみ)藩(滋賀県野洲市)の飛地であった。この「堅田四方」と言うのは自治制だった頃に4つの惣組織によって運営が行われた
地域の事を指す。堅田衆は琵琶湖の最狭部(故に琵琶湖大橋が近いのである)を押さえる海賊衆で、「堅田湖族」とも称されて琵琶湖の
水運に於いて上乗り(水先案内をして通行料を取る行為)などを行い莫大な収益を得ていた。こうした権益が、比叡山とも競合し、歴代の
政権も一目置かざるを得ない経済力を作り出したのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正高の後、信濃守正峯(まさみね)―大和守正永(まさなが)―若狭守正賓(まさざね)―左京亮正富(まさとみ)―摂津守正敦(まさあつ)と
続くが、正敦は1806年(文化3年)3000石を加増され1万3000石となり、更に1826年(文政9年)10月10日に堀田家の旧領・佐野へ国替えを
命じられた。これにより堀田家の本拠は佐野へと戻るが、引き続き堅田の領有も認められたそうで、堅田陣屋は采地陣屋として使われて
いく。実際の統治は在地の役人(郷士)によって行われたらしい。また、対外的な折衝は大津代官所(幕府直轄)の差配を受けた。■■■
ところで、陣屋を構築するにあたってはその場所にあった民家を80両の代償で立ち退かせたと現地案内板に記されている。陣屋は伊豆
神社の隣にあると記したが、それは湖に面した位置であった。その為、現在は宅地化されて目立った遺構は残らないものの、写真にある
舟入遺構は当時の名残だとされる。その一方、大津市歴史博物館の研究によれば1713年(正徳3年)の陣屋地収公図が検証され、同年
閏5月に堅田町域で大火が発生し、その焼失地域を使って陣屋敷地の拡張が行われたとする説が提議された。これが事実であるならば
陣屋は段階的に発展・拡充した事になろう。今後の研究に期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣




大溝城・大溝陣屋・小川城・船木城  朽木谷・清水山城館群