近江国 大溝城

大溝城跡 天守台石垣

 所在地:滋賀県高島市勝野
(旧 滋賀県高島郡高島町勝野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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湖上の古城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2005年(平成17年)1月1日に市町村合併で誕生した滋賀県高島市の中でも旧高島町の中心部、JR湖西線の近江高島駅前に
高島市民病院がある。この病院の目の前には緑広がる公園があり、その中に写真の石垣がひっそりと現れる。これが大溝城
天守台だ。公園は乙女ヶ池という琵琶湖の内湖に接しているが、城が現役であった当時は洞海と呼ばれるもっと大きな湖で、
天守台をぐるりと水辺が取り囲むようになっていた。即ち、大溝城は湖を利用した水城だった訳だ。天守があるのが本丸、概ね
正方形の敷地で東西30間(約54m)×南北32間(約58m)と推測され、敷地の南東隅に天守、他の3隅にも櫓が置かれていた。
本丸の南側には二ノ丸。これは浮島状になっていた本丸と本土を繋ぐ通路のような形状を成し、北に口を開けた「コ」の字型。
二ノ丸の南東隅には涼台と呼ばれる小さな建物があった。その二ノ丸を通って接続するのが三ノ丸で、現在の分部(わけべ)
神社境内や市民病院の広大な駐車場となっているあたりを敷地としていた。城主の居館はこの三ノ丸に置かれていたようだ。
本丸を取り囲む内堀は三ノ丸側まで入り組んでおり、陸続きで通れるのは三ノ丸西面にあった正門のみ。そこから北へ延びる
道(正確にはやや東へ傾いている)が大手道。この道は現在も路地として残されているが、東隣に滋賀県道300号線の新しくて
広い道が出来てしまったので、完全に裏道のような雰囲気になってしまった。この大手道を東の際として、そこから西へ向かい
短冊状の城下町が広がっている。西の果ては現在の高島市立高島小学校前と推測され、東西およそ400m×南北200mほど。
街路の北限は県道300号線「大溝港口」交差点から西に延びる道路、南限は近江高島駅ホーム北端の直近を立体交差で潜る
道で、この長方形をした町割りは現在でも同じ区画として残されている。城はその城下町も縄張として取込んでおり、町を囲う
堀や塀が構えられていた。城下町区画の北面・西面・南面にはそれぞれ総門・西門・南門が建つ。また、城下町区画の東側に
(三ノ丸と濠越に向かい合わせの場所)年貢米の管理所が置かれ、更にその東隣は大溝港(勝野津)となっていた。勝野津は
古代より琵琶湖水運の中継港で、特に若狭国(福井県の若狭湾沿岸、琵琶湖から山を越えたすぐ北側の令制国)からの品を
大津港(ここから京都方面へ荷揚げされる)へ回漕する重要な寄港地になっていた。大溝城は勝野津を取り込み、他国からの
物資を中継ぎすると共に自国の兵糧を出し入れし収益を上げるに適した地勢となっていた訳だ。言わずもがな、湖上水運は
物流だけでなく軍事力の輸送にも大きな働きを為していた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

謀反人の子、信長の寵臣■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城者は津田七兵衛尉信澄(つだのぶずみ)。当時、天下人への道を駆け上がっていた織田右近衛大将信長の甥にあたる。
信長の甥…と言う事は、信澄の父は織田武蔵守信勝(信行という名で知られる)即ち、若き日の信長に謀反を企て誅殺された
信長の同母弟だ。信勝が粛清された時、信澄はまだ幼く(生年不明だが、2歳とも4歳だったとも)助命され、織田家筆頭家老の
柴田権六勝家によって養育された。“謀反人の子”として疎まれたと言うよりは、むしろ実父の所業は知らぬまま信長に忠実な
一門衆として育てられたのではなかろうか。そのため信長との関係は良好で、むしろ厚遇されていたそうだ。信長が北近江の
浅井家を滅ぼし、その遺領を手にした際に彼は浅井家旧臣・磯野丹波守員昌(いそのかずまさ)の養子にされている。員昌に
実子が無く、織田家への臣従の証として信長から嗣子を宛がわれた訳だが、これは事実上磯野家を乗っ取る策だった。故に
員昌は高島郡を与えられ、浅井家臣の生き残りとしては破格の待遇を受ける事になった。とは言え、いずれその領地は信澄
(つまり織田家)が継承する事になる。結局、居場所の無くなった員昌は1578年(天正6年)2月3日に出奔し、予定通りに信澄が
高島郡を統治する事になった。これによって新しく築かれた城が大溝城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
当時、琵琶湖を取り囲むように信長の安土城(滋賀県近江八幡市)、羽柴筑前守秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)、明智日向守
光秀の坂本城(滋賀県大津城)と、織田家の“琵琶湖ネットワーク”と言える城郭網が形成されており、信澄の大溝城も琵琶湖
北西部を掌握する為の城としてその一端を担った。織田家は琵琶湖を「自身の内海」として最大限利用しようとした訳だ。特に
坂本城は大溝城と同じく湖と直結した構造になっていたのだが、それもその筈、大溝城を縄張りしたのは誰あろう光秀だった。
実は、信澄の妻は光秀の娘。信澄は岳父の協力を得てこの城を築いたのであり、信長の甥にして織田家最上位の重臣と血縁
関係を有する信澄がどれだけ織田家中で重要な地位を占めていたのかが、こうした点から垣間見えよう。信長が四国遠征を
企図した際には、主将・神戸三七郎信孝(かんべのぶたか、信長の3男)の副将として丹羽五郎左衛門尉長秀(織田家宿老)と
共に信澄が据えられており、実質的に四国征伐の重責を取り仕切る立場になっていた事が分かる。■■■■■■■■■

次々と替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが四国への渡海直前、信澄の運命は義父・光秀の行動で暗転する。1582年(天正10年)6月2日、光秀が京都本能寺で主君
信長を急襲した本能寺の変である。信澄はこの企てに全く関わっていなかったようだが、義理の息子という関係から真っ先に
同調者と疑われ、3日後の6月5日に大坂で信孝や長秀に討ち取られてしまう。この時、信澄の首を取ったのは長秀家臣だった
上田左太郎重安(うえだしげやす)であるが、彼は千利休や古田織部助重然(しげなり)に茶の湯を学んだ茶人大名でもある。
重安は後年、宗箇(そうこ)と号して利休や織部亡き後の茶の湯における第一人者となった。侘び寂びに通暁する中で造園にも
造詣が深まった総合芸術家となり、文武両道な彼の茶道は上田宗箇流として現代にまで繋がっている。それは兎も角、不慮の
事件で(そして生まれの不幸で)歴史に名を“残せなかった”信澄は、琵琶湖城郭網を作る信長・秀吉・光秀に比べて如何せん
地味な存在になってしまい、それは安土城・長浜城・坂本城よりも大溝城の知名度が上がらない事にも繋がっている。■■■
さて、謀反人となった光秀は秀吉によって討ち取られ、信長没後の方針を定めた清須会議が同月27日に開かれた。その結果
近江高島郡は長秀の所領として再分配され、大溝の代官として件の上田重安が入る事になる。ところがこの後、織田家中は
光秀討伐に功を挙げた秀吉と、重臣筆頭である勝家が激しく対立。両者の関係は1583年(天正11年)4月に賤ヶ岳の戦いへと
帰結し、勝家を討ち滅ぼした秀吉が事実上の天下人へと躍り出た。それにより長秀は越前へ国替えとなり、大溝城は2万石で
秀吉家臣の加藤権兵衛光泰(みつやす)に与えられる。さりとてそれもすぐに交代となって、1585年(天正13年)光泰は美濃国
大垣(岐阜県大垣市)4万石に加増され移封、大溝城主は2万3500石で生駒雅楽頭親正(いこまちかまさ)に挿げ替えられた。
更に親正も翌1586年(天正14年)伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)4万1000石へと異動。神戸城はかつて神戸信孝が城主となって
大改修した城である。この後、一時的だが大溝は秀吉の蔵入地(直轄領)となり、支配の代官として天台宗大慈山芦浦観音寺
(滋賀県草津市)の住持・詮舜(せんしゅん)が務めたそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で、高島郡のうち2500石は1584年(天正12年)に京極若狭守高次(きょうごくたかつぐ)へと与えられていた。彼の所領は
1586年に5000石へ加増され、更に1587年(天正15年)には九州征伐の武功で1万石とされた。この時に高次は大溝城主として
大名になった。高次はその後も加増を重ね、1590年(天正18年)八幡山城(滋賀県近江八幡市)へ移る。その後は様々な説が
取り沙汰されて大溝は織田三四郎なる者(織田氏の縁者か?)が城主になったとか、再び豊臣家の直轄地に戻され吉田修理
(関白・秀次家臣の吉田好寛(よしひろ)か?)が大溝代官を務めたとか、はたまた1595年(文禄4年)には岩崎掃部佐が城主に
なったとも言われ、落ち着かない時期が続く。関ヶ原合戦後には徳川家の支配地になったとされ、結局は城としての大溝城は
廃城される運命を辿った。その時期は1603年(慶長8年)と言い、建築物の部材は水口(みなくち)岡山城(滋賀県甲賀市)へ
転用されたと伝わるが、廃城・転用の時代には1585年や1595年とする異説もある。また、元和偃武により発布された1615年
(元和元年)の一国一城令を受けての廃城と考える向きもござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

水辺の風景■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高島郡にあるので高島城(と言うと諏訪の高島城(長野県諏訪市)と紛らわしいのだが)、水辺の城と言う事で鴻溝(こうこう)
城、或いは鴻湖(こうこ)城との別名もある。高島市では「大溝の水辺景観」が2015年(平成27年)1月26日に国の重要文化的
景観に選定されたが、大溝城跡や城下町はその構成要素に含まれている。さらに、この重要文化的景観「大溝の水辺景観」
自体が2015年4月24日「琵琶湖とその水辺景観 〜祈りと暮らしの水遺産〜」の構成文化財として日本遺産に認定された。が、
冒頭に記した通り本来は湖城であった大溝城は大半の敷地を埋め立てられ、また市街地化され、明瞭な遺構は天守台しか
残らないのが現状(他は掘割が僅かに水路として踏襲されるくらい)。辛うじて残る本丸は1996年(平成8年)3月に旧高島町
指定文化財となっているが、遡れば昭和40年代に高島市民病院建設に先立ち発掘調査が行われ、1983年(昭和58年)には
本丸跡から安土城と同型の軒丸瓦が出土、二ノ丸跡(南東隅部)でも石垣の基底部が確認されるなど、地下には確かに城の
遺物が眠っているようだ。2018年(平成30年)3月に本丸各所からも石垣痕跡が確認されており、他にも土橋跡、船着場など
色々と興味深いものが検出されたそうである。そもそも目に見える形で残る天守台石垣は、神戸信孝の神戸城にある天守台
石垣と瓜二つ。この当時の織豊系(と言うか織田家定型の)城郭に何かしら規格のようなものがあったのか?と想像するのは
行き過ぎであろうか?半分崩れた天守台を見るにつれ、色々と考えさせられる史跡でござる。■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・郭群等
城域内は市指定史跡








近江国 大溝陣屋

大溝陣屋 現存総門

 所在地:滋賀県高島市勝野
(旧 滋賀県高島郡高島町勝野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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分部氏の入部■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大溝城が廃された後の1619年(元和5年)8月27日、分部左京亮光信(わけべみつのぶ)はそれまで伊勢国上野(三重県津市)
2万石であった所領を近江国高島郡・野洲郡内に移され、大溝を居所とした。分部氏はもともと伊勢国安濃郡分部村に土着した
藤原南家為憲流工藤氏の庶流と言い、戦国時代までは同地の有力国人・長野氏の被官であったが、豊臣秀吉の大名統制にて
長野家は改易され、その家臣であった分部氏が取り立てられ大名の地位を得たものである。光信の父(養父)である左京亮光嘉
(みつよし)は関ヶ原合戦において東軍に与し伊勢国内の防衛戦に奮戦、後にその戦いでの傷が元で亡くなるが、そうした経緯で
後嗣の光信は徳川幕府から重用されるようになる。元は1万石であった所領が1万石加増され2万石となり、大坂の陣においても
戦功を挙げ(紀伊徳川家成立に伴う領地再編とも言われる)、伊勢上野から大溝へ転封されたとか。以後、大溝は明治維新まで
分部家の所領として維持されるが、分部家は城主格大名ではなかった上に城は廃された後であったため、旧城の三ノ丸付近に
統治陣屋が置かれる事となった。これが大溝陣屋の始まりでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
光信から後、伊賀守嘉治(よしはる)―若狭守嘉高(よしたか)―隼人正信政(のぶまさ)―左京亮光忠(みつただ)―和泉守光命
(みつなが)―隼人正光庸(みつつね)―左京亮光実(みつざね)―若狭守光邦(みつくに)―左京亮光寧(みつやす)―若狭守光貞
(みつさだ)と家督を継承。この間、大溝藩領には近江聖人こと中江与右衛門藤樹(なかえとうじゅ)や、探検家の近藤重蔵守重、
陽明学者の大塩平八郎正高らが(理由は様々だが)訪れている。大溝は京都近傍の“学府”の如き活況を呈するも、その一方で
地震や火災などの様々な災害にも襲われる事が多く、藩の財政は破綻寸前であったと云う。当然、陣屋の施設も荒廃する事が
多かったと想像され、写真にある現存建築である総門も1755年(宝暦5年)に大修理されたものだ。■■■■■■■■■■■
11代藩主・分部光貞は版籍奉還で知藩事となるも、病により2男の光謙(みつのり)がその座を継ぐ。しかし大溝藩は廃藩を願い
出ていた為、相続直後の1871年(明治4年)6月23日に免職となった。これによって大溝藩は大津県に編入されているが、一般の
廃藩置県はその後の7月14日に行われているので、光謙の免職はそれに先行する形であった。その光謙は1944年(昭和19年)
11月29日に没したが、これは「知藩事まで含めると」最も後まで生き残った大名という事になるそうだ。享年82歳。■■■■
旧城三ノ丸を転用した陣屋敷地は東西46間(約82.8m)×南北60間(約108m)の大きさであったが、上記の如く現在は市街地化し
分部神社などが入っている。この分部神社は大溝藩祖・分部光信を祭神としており、分部氏の治世は形を変え今に受け継がれて
いる事になろう。現在まで残存する遺構は総門。大溝城下町の北を守る長屋門であったが、陣屋の構造物としても継続して利用
されたものだ。桁行およそ17.8m×梁間が約3.9m、入母屋造り桟瓦葺きで、分部家の家紋である「丸の内に三つ引」の棟飾瓦が
葺かれている。調査では小屋束(こやづか、棟木などの下に入る垂直材)等に転用材が見られ、1755年の補修作業を裏付ける。
高島市の指定文化財になっているものの、しかし後世の改変も大きく現在では門扉が使われていない。現状では大溝まち並み
案内処(観光案内所)として利用されているので、城や陣屋の情報提供場所として活かされているようだ。まぁ、この展示部屋も
本来は出格子窓を構えた監視室だったので、開放されるものでは無かった訳だが(爆)■■■■■■■■■■■■■■■
なお余談だが、5代藩主・光忠の3女は広島藩家老である上田主馬義敷(よしのぶ)に嫁いでいるのだが、この義敷はかつて大溝
城代を務めた上田宗箇の子孫。何やら不思議な縁を感じずにはいられない。繋がる所は繋がると云う事なのだろう。■■■



現存する遺構

総門《市指定文化財》・堀








近江国 小川城

小川城跡

 所在地:滋賀県高島市安曇川町上小川
 (旧 滋賀県高島郡安曇川町上小川)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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小川氏の居館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城年代や詳しい来歴は不明。一説には佐々木定頼(南近江の守護・六角弾正少弼定頼の事か)の2男とされる小川義実なる者が
築いたとか。六角定頼の存命期間は16世紀前半なので、これが正しいならば小川城の築城時期もそのあたりとなろうが、そもそも
系図上に「義実」という人物の存在は確認できない。ともあれ、戦国期の領主居館として小川主膳正秀康が在城したとされるものの
1572年(元亀3年)織田家の近江制圧によって攻め落とされたそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所はJR湖西線の安曇川(あどがわ)駅から南東へ960mほど…と言うか、史跡として有名な藤樹(とうじゅ)書院跡の西200mにある
民家を囲んで、方形居館土塁の北半分が残存している。このお宅は小川氏の御子孫なんだとか。現在も城主一家がお住いの場所
なので、無暗に踏み荒らすような事は厳禁。写真にある高い木が3本立っている土盛りがその土塁跡なのだが、この写真の撮影後
木は切り払われてしまったようである。そして藤樹書院は江戸時代前期の陽明学者・中江藤樹が開いた私塾なのだが、それは城と
関係ないので(以下略)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁








近江国 船木城

船木城跡 願船寺

 所在地:滋賀県高島市安曇川町北船木
 (旧 滋賀県高島郡安曇川町北船木字輪ノ内)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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高島七頭・能登氏の城館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
舟木城とも。高島市の安曇川町北船木地区、旧安曇川町の頃は字名も附され北船木字輪ノ内と呼ばれた場所にある浄土宗引接山
弘誓院願船寺の境内一帯が城跡とされる。丹波高地を水源として琵琶湖へと注ぐ安曇川は、琵琶湖へ流れ込む河川の中では最も
水量が多い大河で、その最下流部で流路が本流と北流に分かれ、間に三角州を形成する。北船木はまるまるその三角州に当たり、
つまりは大河に囲まれた天然の濠の中にある訳だが、その三角州の中で僅かに高い微高地が願船寺の境内だ。写真でも、田圃に
浮かぶ島のような土台の上に建物が建っている様子が窺えよう。寺の敷地は東西60m×南北65mのほぼ正方形で、即ち方形居館を
田圃(水濠)が囲んでいた事になる。願船寺の北東には諏訪神社が鎮座しているが、これは当時の城の鬼門除けとして建立された
ものの名残だそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城は、鎌倉時代末期に佐々木能登守師綱(もろつな)により築かれた。佐々木氏は近江に勢力を築き、後に六角氏や京極氏と
いった守護大名家にも繋がるのだが、他にも近江各地に根付いていき、その中で高島郡に入った一族は高島氏を名乗るようになる。
高島越中守泰氏の2男である師綱は、初め高島郡平井村(高島市内、新旭町熊野本の辺り)に在住していた事から平井姓を称した。
この平井師綱の系譜は高島郡の有力武家「高島七頭(しちがしら)」の1つに数えられ、更に平井家と官途名「能登守」を代々名乗る
能登家に分かれたが、船木城を受け継いだのは能登家であったと云う。師綱の後、五郎時綱―頼泰―長綱―高勝―定持―持国と
能登家は続く(代数・名前には諸説あり)。なお、平井村の旧領は師綱の次代にあたる平井九郎左衛門尉師信(時綱の弟)が1368年
(正平23年/応安元年)の12月と翌1369年(正平24年/応安2年)11月に饗庭(あいば)氏(摂津源氏後裔)へ売却している事が史料に
残されており、南北朝時代には平井一門が湖港に近い北船木へ本拠を移している様子が確認できよう。北船木地区の南端、安曇川
本流の川沿いにある若宮神社は1497年(明応6年)能登守長綱が造営しており、この地域の支配が着実に能登家によって行われた
状況を証明している(中世、公共施設と言うべき寺社の整備は為政者の徳を示すものだった)。なお、戦国期に六角氏の重臣として
平井氏の名があるが(娘を浅井賢政(かたまさ、後に改名し備前守長政に)の正室に送り込んだ平井加賀守定武(さだたけ)が有名)
こちらは佐々木支流愛智(えち)氏系(近江国愛知(えち)郡を本拠とした一族)の流れに属し、栗太郡平井(現在の滋賀県草津市)を
本領とした事から発生したものなので、高島七頭の平井氏とは血縁が異なる(同じものとする説もある)。■■■■■■■■■■■
その浅井長政を倒す戦いの中、1572年に織田信長がこの地域に侵攻し船木城は落城。これにより廃城となり申したが、翌1573年
(天正元年)平井氏の子孫が城跡に願船寺を創建し現在に至っている。城の遺構と呼べる程の物は残っていないが、寺の周囲は
田圃に囲まれ、これが濠であった事は明瞭に分かり(特に航空写真で見ると歴然)浮城の如き防備を施した情景が想像できる。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等





鎌刃城  大津市北部諸城館