隠れた名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それまでは“一部熱心な城郭愛好家にだけ知られる”“地元では有名な”城だった(のか?)鎌刃(かまは)城の存在を一躍全国区へと
押し上げたのは、学研刊「歴史群像」2002年12月号の特集記事だったと思われる。連載記事「戦国の堅城」で紹介され、香川元太郎
先生が描いた城の復元想像図では、まさしく「鎌の刃」の如き細く薄い稜線上にいくつもの曲輪が区切られ、何より城域の南北両端に
天守の原初と形容される(いや、この山城ならば既に天守級と呼んで差し支えない)立派な2重大櫓(南櫓と北櫓)が鎮座する情景は
さながら「双頭の龍」はたまた「砲塔で威圧する近代要塞」のようで衝撃的だった。見た瞬間「この城を見たい!いや、行かねば!」と
決意させられた見事な復元図に感激しきりだったのだが、爾来、鎌刃城の知名度は鰻登りとなり2005年(平成17年)3月2日には国の
史跡に指定され、2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城にも選定された。思うに「戦国の堅城」で
取り上げられた城は軒並み百名城や続百名城に選ばれており、記事の秀逸さが際立つのだが…と、個人的な感想は兎も角としても
鎌刃城の見事な作りは異論を挟む余地が無いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名神高速と北陸自動車道が分岐する米原JCTから南南東へ約2.4km地点、米原市に彦根市の突出部が食い込む所に標高601mの
八葉山(はちようさん)がある。山頂から南に向かって尾根が伸び、それは次第に西へ曲がり(この部分が竜宮山)、更に北側へ進む
時計回りの稜線を描くのだが、時計盤で指す所の7時半〜8時半あたりの部分に相当する付近、南南東から北北西への方向で山を
下る箇所が鎌刃城の領域となっている。この領域のほぼ中心に標高384mを示す小ピークがあり、そこが主郭。主郭の南には比較的
広い副郭を有し、それは南郭(南北2つに分かれており、南T郭と南U郭)とされている。竜宮山との結節部、城域の始まりとなる所に
大きな堀切があり、そこから南U郭の下までは本当に細い尾根が一筋の道となって繋がっている状態(曲輪にならぬ程の細さ)だが
ここにも数箇所の堀切が掘削され、随所で侵入者を阻害するようになっている。勿論、南U郭の真下にも大堀切がある。この南側の
細尾根だけで約250mの長さが。反対に主郭から北西へ続く尾根にはいくつもの階段状になった曲輪が作られ、これらは北曲輪群と
称されている。北曲輪の最先端部と南U郭の南端(つまり主城域の両端)には上記の通り2重大櫓が建てられ、それぞれの方向から
接近する敵をハチの巣にする縄張だ。「戦国の堅城」に拠れば、これらの櫓は周囲に作られた堀切・切岸との高さや角度を計算して
櫓からの射撃散布界を確保。2重櫓として多重の火網を形成し、尾根を伝ってくる敵軍を寄せ付けない濃密な防御力を発揮していた
筈である、と。確かに、この稜線上にある城ならば崖を駆け上がって来る事は不可能なので尾根の両端で敵を防げば十分に守りが
成立するのであろう。麓から城へ入るには、尾根を伝って北櫓の下を回り北曲輪群の中へ至るしかなく、城内への入口として北櫓の
裏側に虎口が開かれている。そこから各曲輪を上がると、主郭の北辺にも同様の虎口が。この2つの虎口(写真は主郭虎口)は枡形
空間となっていて敵を封殺する構造だが、そもそもそこへ入るのが困難な環境として作り上げられている訳だ。北櫓の直下にも城内
最大の大堀切があり、しかもここは4重堀切となっていて、ここを突破して北櫓からの射撃を掻い潜り虎口へ回り込むなど至難の業。
驚くべきは、こうした城内の要所がほぼ全域に亘って石垣で固められている事だ。虎口は言うまでも無く、櫓台や曲輪の法面、また
北曲輪群の基礎に当たる斜面にも“大石垣”と呼ばれる石垣が作り上げられている。大櫓しかり、石垣しかり、当城は“国人の城”と
される来歴だけでは解決できない先進性に満ちている。北曲輪群の延長は200mを越え、南端の堀切から北櫓下の4重大堀切まで
城域全体の長さで言えば700mにも達する大きさ。この他、南郭からは西方向への支尾根もあり、そちらにも多重の堀切が穿たれて
(しかも西曲輪群斜面には畝状竪堀も存在している)万全の備えが出来ていた。なお、城内に湧水点は無いのだが、すぐ隣を流れる
菜種川の源流から尾根に沿った水路を導引し、北櫓の所まで城内各地点で水が確保し得るようになっていた。この点、城の地勢が
竜宮山から「ひたすら下る」という尾根にある事を上手く利用している。菜種川の源流部(つまり水路の始点)は城域より高い地点に
あるので、簡単に水を引く事が出来たのである。ちなみに、菜種川源流部(導水地点の近く)には観光名所の青龍滝があり、これが
地図上では鎌刃城の目印として分かり易くなってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古くから街道の要衝■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蒲葉城(かまのはじょう、かばがはじょうとも)とも呼ばれるこの城の所在地は米原市の番場(ばんば)地区。飛鳥時代以来、東山道
(中山道)番場宿があった地である。城は宿場町から少し離れた険峻な山の中にあるが、街道制圧の為に築かれた城だという事は
明らかだ。番場宿の東側の宿は醒井(醒ヶ井)宿、柏原宿、その先は美濃国に入る。逆に番場宿の西側は鳥居本(とりいもと)宿で
その向こうで近江国は坂田郡から犬上郡に切り替わる。坂田郡と犬上郡の境目は、即ち北近江と南近江の境界である。つまりは、
番場宿を中心として前後僅かな距離でいくつもの国境が犇めいているのだ。鎌刃城は国境監視の任に当たる“境目の城”でもあり、
実際、鎌刃城跡から望めば周辺にある数々の(当然、国境に瀕した)城を確認する事が出来る。鳥居本宿と番場宿の間には難所の
摺針(すりはり)峠があり、隘路の坂道を越えて疲弊した敵を待ち伏せするのに適した位置に鎌刃城は存在しているのだ。ちなみに
現代では国道8号線・JR東海道本線などの幹線経路は琵琶湖岸に近い平野部を通っていて想像し難いが、当時の中山道は山中を
抜けるようになっており、山間部を切り通して縦貫している名神高速道路に近いルートを辿っていた。鎌刃城は名神高速の真上に
存在しており、摺針峠から現れる敵に上から襲い掛かる様子が思い浮かぶのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな番場宿では、鎌倉時代末期に一つの歴史的事件が起きた。滅亡しつつある幕府の京都出先機関・六波羅探題の任にあった
北条越後守仲時(なかとき)は、倒幕に動いた足利高氏(後の尊氏)に攻め立てられ都を落ち、光厳天皇らを伴い番場宿までやって
来たものの、高氏に同調する近江の地頭・佐々木四郎左衛門尉高氏の手勢に行く手を阻まれ、当地にある法相宗(現在は浄土宗)
八葉山蓮華寺で一族郎党と共に自害。天皇らは京都へ戻されたが、南北朝争乱における悲惨な事件として記憶される事になった。
鎌刃城の創建に関して最も古いものと考える説は、このような鎌倉時代の箕浦庄(米原市内、箕浦周辺にあった後鳥羽院御影領)
地頭としてこの地に居た土肥(どい)氏が築いたとするもの。仲時自刃の場となった蓮華寺は、飛鳥時代の創建であったが1276年
(建治2年)落雷で焼失。1284年(弘安7年)に再興されたと伝承され、それを行ったのが「鎌刃城主」土肥三郎元頼(もとより)だとか。
この土肥元頼、居館としては番場宿内にある「殿屋敷」遺跡が比定され、発掘調査では掘立柱建物3棟・井戸跡9基(!)を検出し、
土師器・瓦質土器・陶磁器・木製品・金属製品・石製品などが出土している。年代としては13世紀〜15世紀初頭のものとされ、概ね
鎌倉時代〜室町前期という土肥氏の活動年代とも一致する。よって、鎌刃城というのは土肥氏の“詰めの城”として用いられていた
当時としては砦程度の城だったのかもしれないが、そもそも本当にその時代から鎌刃城が存在したのか?存在したとしても現在と
同じ場所だったのか?など甚だ疑問点が多く、必ずしも土肥氏創建という説には頷けないものがある。なお、江戸時代末期に編纂
された米原近郷の歴史名鑑「近江国阪田郡郷士在名蝶(原文ママ)」では、番場城(殿屋敷の事か?)主として土肥左京進為朝の
名前も登場する。序列からすると元頼の先代?という事でござろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
境目の城、その苦難■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
確証が持てる鎌刃城の創建説としては、室町時代中期に現地の国人・堀氏が築いたとするものだ。土肥氏は室町幕府の成立後も
幕府奉公衆となっていたものの、北近江半国守護・京極氏による領地侵食を受けて没落。その間隙を縫って南近江守護・六角氏が
番場周辺に伸張し、六角家臣として当地を支配するようになったのが堀氏である。ちなみに六角氏は佐々木高氏の後裔、京極氏も
佐々木氏一族なので同族であるが、それ故に覇権争いを演じ両家は総じて仲が悪かった。堀氏による鎌刃築城については、応仁・
文明の乱の頃には既に行われていたとされ、1472年(文明4年)8月11日に堀次郎(二郎)左衛門尉が城主を務める鎌刃城に対して
京極家臣の今井備中守秀遠が攻めかかり落城、堀二郎は討死したと「今井軍記(今井家の武功録)」にある。この戦いは、もちろん
応仁の乱による一連の争乱の中で行われたのだが、以後も六角氏と京極氏の戦いは続き、南近江と北近江の“境目”にある番場
周辺では目まぐるしく情勢が変わっていく。当然、国人衆もその状況に振り回され、寝返りに次ぐ寝返りなども茶飯事であった。故に
堀氏も、今井氏も六角方と京極方を入れ替わり、また戻るという事を繰り返している。そうした中で天文年間(1532年〜1555年)には
南北近江の領土争いは激化して、鎌刃城を巡る戦いも続発。1535年(天文4年)今度は六角氏方であった今井備中守定清が堀氏の
守る鎌刃城を落とし家臣の島秀安を城代として入れるが、1538年(天文7年)堀氏が六角方に服従した事で城を回復している。■■■
1551年(天文20年)には堀石見守が再び京極方に寝返ったとも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし戦国時代も半ばになると守護権力は没落し、下剋上の時代となる。京極氏は内紛を繰り返し自滅の道を辿り、代わって浅井
(あざい)氏が北近江で台頭。家督相続したばかりで一大攻勢をかける浅井備前守長政を見て、1559年(永禄2年)堀氏は浅井方に
鞍替えするのである。父祖以来の宿願として、そして旧主・京極家と同じように南近江・六角氏との対決を志す長政は鎌刃城の他、
磯山城(米原市内)・佐和山城(滋賀県彦根市)まで手中に収めた。佐和山は六角領内に楔として打ち込まれた突出部となり、西の
磯山城と東の鎌刃城がそれを補強するという形となったのである。鎌刃城が中山道の通行を確保した事で、浅井氏は佐和山城が
危機に瀕しても迅速に援軍を送り込める態勢を構築したのだ。この後、長政は尾張の織田上総介信長とも同盟を結び、より強固な
軍事力を保持。上洛を臨む信長も邪魔者となる六角氏の排除を決意しており、両者の思惑が一致し六角家は衰退した。■■■■■
織田家による増強?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1570年(元亀元年)越前朝倉氏を巡る対応で信長と長政の同盟が破綻するのは皆様御存知の通り。近江では浅井家の本拠・
小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)を中心に浅井家の所領が維持される一方、その周囲から織田方が包囲網を築き上げる状況へと
急展開していく。この時に鎌刃城主だった堀石見守秀村(ひでむら)はまだ幼く、実務は家老の樋口三郎左衛門直房(なおふさ)が
取り仕切っていた。この直房なる人物、その当時“近江随一の智将”として名を馳せた切れ者だったらしく、織田・浅井同盟の決裂に
主家・堀家を織田方へ就くよう舵を切ったのである。それと言うのも、直房は羽柴秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛重治と旧知の
仲だったそうで、重治の降誘に従ったとの事。実は、堀家というのは近江国のみならず美濃国まで勢力を有し、後に関ヶ原の戦いで
金吾中納言こと小早川秀秋が陣を置いた松尾山城(岐阜県不破郡関ケ原町)を築いたのは元々堀家だった。美濃国での繋がりが
あれば、直房と重治の面識も当然の話であろう(旧主・斎藤家を追われ岐阜を逐電した重治を庇護したのが直房だったそうな)。■
以降、堀秀村と樋口直房は秀吉麾下として働く事になる。鎌刃城が織田方に就いた事は、織田の本国である尾張・美濃から江北へ
往来を容易にし、織田軍が小谷城の攻略に総力を発揮できるようになる訳だ。堀家の裏切りに、浅井長政は鎌刃城を奪還するべく
攻撃をかけ攻め落とし百々越前守を城代としたが、程なく姉川の戦いが起き浅井軍は敗退、再び堀・樋口両名が城に復帰。1571年
(元亀2年)5月6日にも浅井七郎井規(いのり)率いる浅井勢5000が鎌刃城を攻めるも、この時は秀吉が後詰めに来援して撃退した。
実際の所、秀吉の率いる援軍は500〜600程度しかいなかったようだが、浅井勢は為す術なく撤退。浅井方の動揺が見て取れる。
ここまでの経緯を見れば分かるが、鎌刃城はまさに“境目の城”として京極氏・六角氏・浅井氏・織田氏という大大名の勢力圏争いに
深く関わり、そうした動向の中で“代理戦争”のように堀氏や今井氏が振り回されていたのである。しかし、現地の国人である堀氏は
ひとえに自分の領土を守るのが目的であり、どんな大名であろうと所領安堵してくれるのならそれに従うのみであった。逆に、そんな
堀氏を繋ぎ止める為に大名らは新鋭の築城技術を提供し「我々に従えばこれだけの堅城が維持できる」という“餌”を与えた。それが
一国人に過ぎない堀氏の城である鎌刃城に、石垣や巨大な櫓を建設する契機となったのだ。石垣や大櫓の構築は、浅井家もしくは
織田家が技術支援したものと考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして1573年(天正元年)9月1日、小谷城は落城して浅井家は滅亡。これで一応は近江国に平穏が訪れる。信長の矛先はその先の
越前国へ向けられ、朝倉氏滅亡後に蟠踞する一向一揆平定が課題となった。越前の木ノ芽城(福井県敦賀市・南条郡南越前町)で
守備を命じられた樋口直房に対し一揆勢が攻めかかるが、1574年(天正2年)何と彼は秀吉や信長の許しを得ずして勝手に講和を
結ぶ。それだけではなく、戦線を放棄し逐電してしまうのである。この離反行為に秀吉は激怒、直房は逃亡先で捕らわれ斬首となり
連座として主君・堀秀村も所領没収の憂目を見た。信長が戦線離脱など認める訳がなく、直房の独断専行は“智謀の将”らしからぬ
軽挙妄動であったが、それを口実とした堀家の取り潰しはむしろ信長の狙い通りだったのだろう。先に記した通り、近江の要衝から
美濃にまで勢力圏を維持する有力国人が、自分の所領の為ならば平然と主家を鞍替えするなど、天下布武(即ち統一政権樹立)を
目標に掲げる織田家の中では不安定要素でしかない。いつ裏切るか分からない国人を切り捨てる機会を信長は待ち望んでいたが
それは浅井家滅亡の翌年と言う、意外に早いタイミングでやって来た訳だ。斯くして秀村は浪人に身をやつし、鎌刃城は信長直轄の
城となるのだが、歴史の上では翌1575年(天正3年)鎌刃城内に備蓄されていた米2000俵が信長の同盟者・徳川家に下賜されると
言う記録を最後に消える事になる。発掘調査で当城では破城(城を意図的に壊す事)の痕跡が確認されており、恐らく早々に廃城と
なったと推測されている。これがこの城の終焉であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
眠りから覚めた名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来400年、沈黙して眠りに就いた城は冒頭に記した如く“一部熱心な城郭愛好家にだけ知られる”“地元では有名な”城となる。が、
滋賀県で「地元の熱心な城郭愛好家」と言えば中井均先生や木戸雅寿先生など最強メンバーである。彼らの熱意は行政を動かし、
遂に1998年(平成10年)から米原町(当時)による発掘調査が開始された。以降、毎年のように調査が行われ、城内からは礎石建物
(例の大櫓ほか、主郭の建造物など)や土師器・白磁・青磁・瀬戸焼などの焼物、大量の鉄釘(櫓の床を貼る部材と考えられる)、更に
海の貝殻が出土。貝殻は食用のみならず儀式に用いる物だったと推定されている。そして石垣とその破壊痕跡(破城痕)も確認され
従前から伝えられてきた鎌刃城の文献的来歴を裏付けるものとなった。これと前後するように、1997年(平成9年)5月15日に米原町
史跡に指定、それが2002年(平成14年)3月20日には滋賀県史跡になり、更に国史跡、そして続百名城…と、トントン拍子の出世を
果たしたのである。考えてみればこの城は“早過ぎた近世城郭の萌芽”と呼べる城であり、大名権力の地域浸透を体現する石垣や
天守の構築を先取りした城なのだから、それを評価するのは“むしろようやく時代が追い付いた”という事なのか?(笑)■■■■■
地域振興として毎年6月の第1日曜日に「鎌刃城まつり」も開かれるようになり(日時変更あり)、また史跡整備事業計画も策定されて
この城では年々新たな進展が見受けられる。今後も発掘による新展開、地元での盛り上がりがある事を期待したい。■■■■■■
ともあれ、現在では城をかじる者に大人気となった鎌刃城であるが、険峻な山である事は昔も今も変わらない。来訪するには麓から
地道に上がるか、通行に難儀な(と言っても、個人的にはそれほど苦難とは思わなんだが)林道から山中に分け入るかという路筋を
往く事になろう。城内、特に南側尾根は本当に「鎌の刃の上を歩くような」細道で滑落に注意というのは勿論の事だが(残念ながら、
2023年(令和5年)3月に滑落事故が発生、死者が出てしまった)この山の大敵は蜂・山蛭やマダニと言った害虫の類である。それまで
あまりこういう生き物に危機を感じた事が無かった拙者でも鎌刃城では諸々辟易した事を鮮明に覚えている。蛭除けやダニ除けの
装備をキッチり用意しての登城をお薦め致す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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