近江国・越前国 玄蕃尾城

玄蕃尾城跡 虎口

 所在地:
滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬
福井県敦賀市刀根
(柳ケ瀬地域:
旧 滋賀県伊香郡余呉町柳ケ瀬)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
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国境上の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
滋賀・福井県境上(近江・越前国境)に所在する山城。現状では北陸自動車道ならびに県道140号線が柳ヶ瀬トンネルとして貫通する
標高452mの柳ヶ瀬山、その北側尾根にあるピークを利用して城が築かれていた。城跡の東側直下にこれらの幹線道路が走っており
山麓と城址主郭部との比高差は220mにもなるが、当時も北国街道を眼下に監視する陸路の要衝だったのだろう。柳ヶ瀬山の別名は
中尾山で、そのため玄蕃尾(げんばお)城の別名も内中尾山(うちなかおやま)城と言われる。なお、城の主郭および史跡指定範囲の
大半が滋賀県側に位置するので、当頁ではこの城を滋賀県の城として掲載している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
賤ヶ岳合戦における陣城群の1つとして用いられたというのが定説だが、そもそもの創始には諸説あって判然としない。一番古い説は
当地の豪族・柳ヶ瀬丹後守秀行なる者が15世紀に築いたと言うもので、これは応仁・文明の乱の頃の話らしい。柳ヶ瀬氏は古代豪族
平群(へぐり)氏(大和国平群郷(奈良県生駒郡平群町)を出自とする)の末裔を称し、壬申の乱における逸話で椿井氏を名乗るように
なったが(出陣の戦勝祈願として神前井戸に椿の木を供えたと言う)平安時代中期に伊香郡を領するようになり、室町期、柳ケ瀬にて
拠点を構えた事で柳ヶ瀬氏となったそうだ。但し、この来歴には多分に粉飾があるそうで正確な事は分からない。斯くて柳ヶ瀬秀行は
一連の応仁の乱に繋がる戦役で1489年(延徳元年)7月22日に戦死したそうだが、それも詳しい状況は不明である。■■■■■■■
続いての築城説は越前の大名・朝倉氏に従う疋壇(疋田)対馬守久保、或いは朝倉玄蕃助景連(かげつら)が構築したとする説。疋壇
久保は柳ヶ瀬山を越える倉坂峠(刀根越)を日本海側へ下った所にある疋壇城(福井県敦賀市)主で、こちらも応仁の乱の頃の人物。
朝倉景連は朝倉姓を与えられた家臣の1家、若しくは朝倉宗家から枝分かれした一門衆の1人と言われるが判然とせず。但し、生存の
年代は疋壇久保より100年ほど後、戦国時代の最盛期と言える頃なので、こちらの説を採るなら玄蕃尾城の築城期がかなり後の事に
なろう。景連の没年は1566年(永禄9年)頃と考えられており、それから7年後には織田家によって朝倉家が滅ぼされ、越前には織田家
筆頭家老・柴田修理亮勝家が封じられる事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その勝家が1578年(天正6年)頃に北国街道整備の一環として玄蕃尾城を築いたとの説も。また、本能寺の変により主君・織田信長が
横死した後、天下の形勢を争い勝家と羽柴筑前守秀吉が対立を深めていく中で1582年(天正10年)〜1583年(天正11年)勝家配下の
武将・佐久間玄蕃允盛政(もりまさ)が畿内を押さえる秀吉勢に対する備えとして築城したとも言われている。玄蕃尾城の「玄蕃」とは、
朝倉玄蕃助景連か、この佐久間玄蕃允盛政の官位名を由来とするのが一般的な認識でござる。■■■■■■■■■■■■■■■
こうした経緯を経て、いよいよ勝家と秀吉の対決が惹起する。冬の雪に封じられていた勝家は1583年の春、満を持して近江方面へと
駒を進める。対する秀吉も、北国街道を封鎖する形で陣を整えた。余呉湖周辺にて両軍は無数の陣城を構築し、有力部将を各所に
入れて睨み合いを開始した。賤ヶ岳の戦いが開戦したのである。一連の陣城群の中で最も北側にあった玄蕃尾城は勝家本陣とされ
その南に前進する諸将を統制した。そうした中、秀吉は大垣城(岐阜県大垣市)へ一時的に転戦。敵の総大将が現場を離れた様子に
好機到来と佐久間盛政は攻勢を主張するが、慎重な勝家はこれを良しとしなかった。が、敵陣を攻略したらすぐ帰陣する事を条件に
盛政が食い下がり、勝家も渋々承諾する。こうして猛将・盛政は秀吉方の中川瀬兵衛清秀を討取る大戦果を挙げるのだが、秀吉は
大垣から一夜にして取って返す“美濃大返し”を演じ、逆に盛政が敵中に孤立する事態に陥った。結果的に盛政の攻撃は“勇み足”と
なってしまい、美濃大返しはそれを誘う秀吉の策略だったとする説さえある。前線の一角が崩れた事を契機に勝家方は総崩れとなり
盛政は孤軍奮闘の末に捕らわれ、他の諸将は軒並み退却。勝家も敗北を悟り玄蕃尾城を放棄、居城の北ノ庄城(福井県福井市)へ
引き上げたが、そこで自害する運命を辿る。時に1583年4月の事であった。これにて玄蕃尾城は廃絶している。■■■■■■■■■

今でも使える遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城址は国の史跡として非常に良好な状態が保たれている。城全体で堀や土塁が綺麗に残り、柵列や小屋掛けを行えば今すぐ
現役の城郭として使える位の見事さだ。南北に細長い尾根を利用し、中心に方形をした主郭を置き、その北西側に北曲輪、南西側に
南曲輪が連結。各曲輪の間にはいくつかの馬出や帯曲輪(迷路状の通路を成す)が多重配置されて、屈曲を多用した厳重な守りだ。
主郭の南東側を取り巻いてやや大きめの帯曲輪も付属しており、さながら東曲輪と呼んでも良いような構造。主郭を中心として北・南
東に曲輪が連結する形態は、個人的な感想だが埼玉県比企郡嵐山(らんざん)町にある杉山城と共通する構造や規模を連想させて
実に感心させられる。玄蕃尾城も杉山城も南側が戦闘正面(大手)、北側を搦手とする縄張の“土の城”で、それぞれ土造りの城として
東の横綱・西の横綱と格付けしたい名城だ。なお、玄蕃尾城の主郭に於いては北東隅部に一段高い土堤があり、そこでは礎石が検出
されているので、櫓台だったのは間違いないだろう。先述の通り、城の東側の谷底が街道だったので、東向きを重点とし物見を行った
様子が良く分かる。城の規模は東西およそ150m×南北300m強を数え、これも杉山城とほぼ同規模。陣城として用いられる城の、何か
“典型例”という規格があるようにも思わせられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1999年(平成11年)7月13日に国史跡として指定、さらに2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の
1つに選出されている。これまた杉山城と同様の指定内容。国史跡指定範囲は158.772u。「続百名城にハズレ無し」と言われる中で
勿論この城も見事な城なのは当然なのだが、そこへ至る道のりは実に険しい。公共交通機関での来訪は絶望的、自家用車でも大変
通行困難な道を登って行く事になるのである。先に記した県道140号線の柳ヶ瀬トンネルが目印だが、このトンネルは1車線路なので
上下線が交互通行しなければならない(信号で通行制御されている)細い道で、隧道長は1352mもあるのに、これをひたすら進むのは
何か黄泉の国へと向かっていくような空恐ろしさだ。そのトンネルの福井県側出口のすぐ脇に北側へ折れる林道があり、その林道を
延々と登って行くと城址用駐車場へ出る。とは言え、この林道もなかなかに通行が厳しい細道だ。更に駐車場から山頂までは30分程
徒歩登山する事でようやく玄蕃尾城内に入る訳だが、これまた野生動物が自由気侭に行動している山中なので注意が必要。拙者が
訪れた際にはカモシカと蛇に遭遇したが、話によれば熊も平然と出没するとか。安全を十分確保した上で来訪して欲しい。■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡





大森陣屋・後藤氏館  鎌刃城