「出羽最上氏の」陣屋が近江に…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東近江市の大森町、滋賀県道46号線と同170号線が交わる「大森町」交差点に写真の石碑がある。その隣には東近江市立
玉緒(たまお)小学校が。この小学校敷地一帯が江戸時代の大森陣屋跡だと言われている。陣屋の主は最上(もがみ)氏。
最上氏と言うと「あの山形の?」と思われるだろうが、その最上氏である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世最上氏の先史となる戦国期までの話は省くが(山形城の項を参照)、江戸幕府成立時に最上出羽守義光(よしあき)が
57万石もの大封を得ていながら、彼の晩年に長男・修理大夫義康(よしやす)が急死した為、2男・駿河守家親(いえちか)が
なし崩し的に家督を相続。これを家臣団が快く思わぬ状況の中、その家親も早世したので家親の嫡男・源五郎家信が継承。
反抗的な家臣らは義光の4男である山野辺光茂(やまのべみつしげ、後に義忠(よしただ)と改名)を主君として奉戴、対する
家信は「父(家親)は家臣らに毒殺された」と幕府に訴え、最上家は御家騒動の状態となった。藩祖・最上義光が徳川家康と
盟友関係にあったことを鑑み、幕府はこの騒動を穏便に収めようとするが両者とも譲らず、遂に1622年(元和8年)8月21日、
最上家は幕府から改易処分を受け57万石の領土を失う事になる。斯くして家信は山形を去り近江国蒲生郡・愛知(えち)郡
甲賀(こうか)郡と三河国内に合計1万石という極小な石高を与えられる。その拠点となったのが大森の地だった。■■■■
改易の後、家信は義俊(よしとし)と改名。家信の「家」の字は徳川家康から片諱を与えられたらしく、改易を憚っての改名と
見られる。改易当時は18歳(数え年)と若く、壮年に成長した暁には改めて6万石に加増するとの話もあった義俊であったが
結局1631年(寛永8年)11月22日、僅か27歳で病没したのでそれも叶わなかった。それどころか、跡を継いだ長男の駿河守
義智(よしとも)は生まれたばかりだったため、領地を蒲生郡周辺のみに減らされ、5000石の交代寄合旗本とされてしまう。
1655年(明暦元年)義智は大森に陣屋を構築。以来、大名格を失った最上家は幕末まで旗本のまま続き、大森陣屋は旗本
陣屋として存在した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
義智の後、義雅―義如―義章―義隆―義郷―郷倍―義溥―義実―義昶―義x―義連と続いて明治維新を迎える。版籍
奉還を経て陣屋は廃され、諸建築は軒並み破却・解体された。移築されたものは会所の建物が旧玉緒村役場の庁舎として
1930年(昭和5年)まで使用され、陣屋表門が天台宗阿育王山(あしょかおうざん)石塔寺(東近江市内)山門に転用。また、
陣屋の玄関建築が天台宗玉尾山長福寺に移築されているとか。この長福寺は陣屋跡のすぐ傍にある寺。石塔寺の山門や
長福寺堂宇は現存している。陣屋敷地跡は1922年(大正11年)から上記の通り玉緒小学校の敷地になり申した。■■■■
ところで、改易された出羽山形の最上家が近江の大森へ移されたのは、最上義光が文禄の役の際に秣場(まぐさば)として
豊臣政権から与えられた経緯があっての事とか。その当時、大森の地を治めていたのは布施大学友次(ふせともつぐ)なる
地侍で、彼は最上家臣に加えられた。布施氏が戦時に拠ったのは大森町域の南端にある布引山腹に築かれた大森城だが
平時には大森集落の中に館を構え、そこに居住していた。1983年(昭和58年)県道工事で大森陣屋跡が埋没する事になり
それに伴って発掘調査を行ったところ、陣屋遺構としての遺物のみならず、それよりも下の層、恐らくは布施氏居館であった
頃の遺構も確認された。よって、大森陣屋は最上氏が新造したと云うよりも旧来の居館を転用したものと考えられよう。■■
現状での痕跡は何も見受けられない陣屋だが、最上氏や布施氏が連綿と使い続けてきた気風は感じられる史跡でござる。
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