サービスエリア直結の城!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名神高速道路の多賀SA(上り線)内に保存されている史跡。多賀SAは上下線の連絡通路がある為、下り線側からも
見学しに行ける。また、多賀SAは一般道側からも立ち入る事が可能なので高速道路に乗らなくても遺構が見学でき
便利(自動車は一般道側にも来場者用駐車場あり)だ。この外部来場者用通路は城址遺構のすぐ脇を通っている。
SA内のガソリンスタンド手前に広がる、遊歩道の設けられた公園になっている空間が、良く見れば土塁で囲われた
曲輪になっているのに気づく。これが敏満寺(びんまんじ)城の遺構で、敷地の脇には金属板で鋳造された敏満寺
遺跡の解説板が置かれている。史跡名称としては「敏満寺遺跡」となっているのがミソで、敏満寺「城」とされる空間は
この地域に絶大な勢力を築いた敏満寺宗教勢力が防衛拠点として構築した砦、つまり敏満寺遺跡群の中の一部分を
構成するものと言う事になる。よって、まずはこの敏満寺についての歴史を紐解いていこう。■■■■■■■■■■
天台宗寺院として隆盛を極めた敏満寺は、平安前期の9世紀頃には成立していたとされる。近江国(現在の滋賀県)
東部にある場所柄、伊吹山(滋賀・岐阜県境にそびえる霊峰)系の山岳信仰に深く関係しており、敏満寺の開基は
伊吹山寺(弥高寺)を創建した高僧・三修上人の弟子である敏満童子とされていて、彼の名が寺名の由来でもある。
多賀の主峰である青龍山(標高333m)から北西に延びる斜面とその先端台地を利用し多数の僧坊が築かれていた。
本堂が建つ寺院中心部は現在の胡宮(このみや)神社付近(多賀SAの南側)と考えられ、天皇や皇族の崇敬で隆盛し
鎌倉時代になると東大寺再建を指揮した重源(ちょうげん)上人がその再建事業の成功を祈願して敏満寺に銅製の
五輪塔を寄進したともある。この銅製五輪塔は胡宮神社に現存し、国の重要文化財になってござる。同時代の文書
「一山目録」には本堂周辺に40余りの塔堂が建ち並んでいた事が記されていて、室町時代に入ってからは室町幕府の
保護も受けていたが、それだけの巨大宗教勢力となった畿内の寺院は当然のように僧兵らを抱えた強大な軍事組織と
しても活動していく。敏満寺は次第に近江守護・佐々木氏との対立が激化、たびたび兵火に遭っており申す。更に、
この頃には比叡山延暦寺の末寺となって守護大名に対抗していた。そのような状況によって、敏満寺は寺内町や
堂宇を守るための防衛構造を取り入れるようになったと推測され、これが敏満寺城を築く流れを作ったのだろう。
応仁の乱以後は特に軍事化が加速し、畿内の山門勢力として要塞化していったようでござる。■■■■■■■■■
戦国争乱の果てに■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると京極氏が守護であった筈の近江北部は浅井(あざい)氏が取って替わって戦国大名化。敏満寺の
近隣にあった久徳(きゅうとく)城(下記)主・久徳左近太夫実時は、逡巡の末に南近江の大名・六角氏へと通じる。
これに激怒した浅井備前守長政は1562年(永禄5年)に久徳城を攻撃。敏満寺の公文職ならびに胡宮神社神官職の
新谷(しんがい)伊豆守勝経は縁戚である久徳氏を助けるべく浅井軍と対決したが、日の出の勢いであった長政は
久徳城を落とし、返す刀で敏満寺城をも攻め落とし申した。この時、120もあったと言う寺堂は悉く劫火に焼かれ、新谷
一族と僧侶800人が戦死した(勝経は自害)とされている。(久徳氏を敏満寺城主とする説もある)■■■■■■■■
翌1563年(永禄6年)一部の坊舎は再建されたものの、今度は織田信長と対立するようになった。比叡山延暦寺が
信長と対決姿勢を見せた事により、末寺であった敏満寺もそれに従ったのでござる。そして1571年(元亀2年)信長は
延暦寺を焼き討ちし壊滅させたが、それに次いで敏満寺へは2万3000石の寺領を削減するよう命令。寺側は当然
これを拒否した為、翌1572年(元亀3年)敏満寺も信長軍の焼き討ちに遭い申した。斯くして寺は衰退、寺領は悉く
信長に没収され、遂に再建される事なく廃寺となったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
慶長年間(1596年〜1615年)には彦根城(滋賀県彦根市)の築城に際して敏満寺跡地の礎石が石垣の建材として
転用され、持ち去られた。斯くして隆盛を極めた湖東の大伽藍は跡形もなく消え去ったのでござる。■■■■■■■
発掘調査の結果■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本堂などの中心施設があった胡宮神社周辺を基点とし、その南側(南谷)には石仏谷墓所があった敏満寺。墓所の
後ろに控える青龍山は山岳信仰の主祭神そのものであった。対して、本堂の北側平面一帯に寺内町が広がっており
多賀SAあたりは寺内の最西端部という事になろう。敏満寺城は敏満寺寺内町の最前衛を守る砦だった訳だが、しかし
そこを突破されれば町屋〜本堂境内あたりまでは容易に進撃する(或いは焼き払う)事が可能だったのかもしれない。
奇しくもそこは現代になって高速道路の建設地となった訳だが、敏満寺城跡に於いては1986年(昭和61年)5月から
1987年(昭和62年)3月まで発掘調査が行われ、土塁・堀の跡の他に建物・門・井戸等の痕跡や土器類が検出された。
また、多賀SAの外縁部(胡宮神社との中間部)でも発掘が為され、井戸跡や寺堂跡の他、鍛冶場などの生活痕跡や
寺らしく集石墓・火葬墓も確認されてござる。寺敷地の北東隅、敏満寺城とは高速道路を挟んで反対側にあたる東側
地区では1994年(平成6年)〜2000年(平成12年)に発掘調査が行われ、台地北東側に溝で区画された建物群や
埋甕施設を発見。敏満寺本堂を中心とした都市空間が広がっていたと考えられるようになった。中心地、胡宮神社
境内にも土塁遺構が残るという。そして最も明瞭な遺跡が石仏谷墓所で、1995年(平成7年)度〜2004年(平成16年)
多賀町教育委員会が測量や内容確認の為の発掘調査を行った。墓所は埋葬の為の墳墓域とその下方の付属施設で
構成され、一辺80m〜90m程度の大きさ。墳墓の分布は約60m四方の範囲に及び、一面に大量の礫のほか石仏や
石塔が数多く露頭しており、その数は凡そ1600にもなると云う。こうした分布範囲の北端付近に約30m間隔で3つの
巨石があり、墓地の境界を示す“結界石”だと推定されてござる。この石仏谷墓所は2005年(平成17年)7月14日
国指定史跡となっている。また、胡宮神社の社務所庭園は1934年(昭和9年)12月28日に国の名勝となり申した。■■
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