近江国 敏満寺城

敏満寺城跡土塁

 所在地:滋賀県犬上郡多賀町敏満寺

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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サービスエリア直結の城!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名神高速道路の多賀SA(上り線)内に保存されている史跡。多賀SAは上下線の連絡通路がある為、下り線側からも
見学しに行ける。また、多賀SAは一般道側からも立ち入る事が可能なので高速道路に乗らなくても遺構が見学でき
便利(自動車は一般道側にも来場者用駐車場あり)だ。この外部来場者用通路は城址遺構のすぐ脇を通っている。
SA内のガソリンスタンド手前に広がる、遊歩道の設けられた公園になっている空間が、良く見れば土塁で囲われた
曲輪になっているのに気づく。これが敏満寺(びんまんじ)城の遺構で、敷地の脇には金属板で鋳造された敏満寺
遺跡の解説板が置かれている。史跡名称としては「敏満寺遺跡」となっているのがミソで、敏満寺「城」とされる空間は
この地域に絶大な勢力を築いた敏満寺宗教勢力が防衛拠点として構築した砦、つまり敏満寺遺跡群の中の一部分を
構成するものと言う事になる。よって、まずはこの敏満寺についての歴史を紐解いていこう。■■■■■■■■■■
天台宗寺院として隆盛を極めた敏満寺は、平安前期の9世紀頃には成立していたとされる。近江国(現在の滋賀県)
東部にある場所柄、伊吹山(滋賀・岐阜県境にそびえる霊峰)系の山岳信仰に深く関係しており、敏満寺の開基は
伊吹山寺(弥高寺)を創建した高僧・三修上人の弟子である敏満童子とされていて、彼の名が寺名の由来でもある。
多賀の主峰である青龍山(標高333m)から北西に延びる斜面とその先端台地を利用し多数の僧坊が築かれていた。
本堂が建つ寺院中心部は現在の胡宮(このみや)神社付近(多賀SAの南側)と考えられ、天皇や皇族の崇敬で隆盛し
鎌倉時代になると東大寺再建を指揮した重源(ちょうげん)上人がその再建事業の成功を祈願して敏満寺に銅製の
五輪塔を寄進したともある。この銅製五輪塔は胡宮神社に現存し、国の重要文化財になってござる。同時代の文書
「一山目録」には本堂周辺に40余りの塔堂が建ち並んでいた事が記されていて、室町時代に入ってからは室町幕府の
保護も受けていたが、それだけの巨大宗教勢力となった畿内の寺院は当然のように僧兵らを抱えた強大な軍事組織と
しても活動していく。敏満寺は次第に近江守護・佐々木氏との対立が激化、たびたび兵火に遭っており申す。更に、
この頃には比叡山延暦寺の末寺となって守護大名に対抗していた。そのような状況によって、敏満寺は寺内町や
堂宇を守るための防衛構造を取り入れるようになったと推測され、これが敏満寺城を築く流れを作ったのだろう。
応仁の乱以後は特に軍事化が加速し、畿内の山門勢力として要塞化していったようでござる。■■■■■■■■■

戦国争乱の果てに■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると京極氏が守護であった筈の近江北部は浅井(あざい)氏が取って替わって戦国大名化。敏満寺の
近隣にあった久徳(きゅうとく)城(下記)主・久徳左近太夫実時は、逡巡の末に南近江の大名・六角氏へと通じる。
これに激怒した浅井備前守長政は1562年(永禄5年)に久徳城を攻撃。敏満寺の公文職ならびに胡宮神社神官職の
新谷(しんがい)伊豆守勝経は縁戚である久徳氏を助けるべく浅井軍と対決したが、日の出の勢いであった長政は
久徳城を落とし、返す刀で敏満寺城をも攻め落とし申した。この時、120もあったと言う寺堂は悉く劫火に焼かれ、新谷
一族と僧侶800人が戦死した(勝経は自害)とされている。(久徳氏を敏満寺城主とする説もある)■■■■■■■■
翌1563年(永禄6年)一部の坊舎は再建されたものの、今度は織田信長と対立するようになった。比叡山延暦寺が
信長と対決姿勢を見せた事により、末寺であった敏満寺もそれに従ったのでござる。そして1571年(元亀2年)信長は
延暦寺を焼き討ちし壊滅させたが、それに次いで敏満寺へは2万3000石の寺領を削減するよう命令。寺側は当然
これを拒否した為、翌1572年(元亀3年)敏満寺も信長軍の焼き討ちに遭い申した。斯くして寺は衰退、寺領は悉く
信長に没収され、遂に再建される事なく廃寺となったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
慶長年間(1596年〜1615年)には彦根城(滋賀県彦根市)の築城に際して敏満寺跡地の礎石が石垣の建材として
転用され、持ち去られた。斯くして隆盛を極めた湖東の大伽藍は跡形もなく消え去ったのでござる。■■■■■■■

発掘調査の結果■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本堂などの中心施設があった胡宮神社周辺を基点とし、その南側(南谷)には石仏谷墓所があった敏満寺。墓所の
後ろに控える青龍山は山岳信仰の主祭神そのものであった。対して、本堂の北側平面一帯に寺内町が広がっており
多賀SAあたりは寺内の最西端部という事になろう。敏満寺城は敏満寺寺内町の最前衛を守る砦だった訳だが、しかし
そこを突破されれば町屋〜本堂境内あたりまでは容易に進撃する(或いは焼き払う)事が可能だったのかもしれない。
奇しくもそこは現代になって高速道路の建設地となった訳だが、敏満寺城跡に於いては1986年(昭和61年)5月から
1987年(昭和62年)3月まで発掘調査が行われ、土塁・堀の跡の他に建物・門・井戸等の痕跡や土器類が検出された。
また、多賀SAの外縁部(胡宮神社との中間部)でも発掘が為され、井戸跡や寺堂跡の他、鍛冶場などの生活痕跡や
寺らしく集石墓・火葬墓も確認されてござる。寺敷地の北東隅、敏満寺城とは高速道路を挟んで反対側にあたる東側
地区では1994年(平成6年)〜2000年(平成12年)に発掘調査が行われ、台地北東側に溝で区画された建物群や
埋甕施設を発見。敏満寺本堂を中心とした都市空間が広がっていたと考えられるようになった。中心地、胡宮神社
境内にも土塁遺構が残るという。そして最も明瞭な遺跡が石仏谷墓所で、1995年(平成7年)度〜2004年(平成16年)
多賀町教育委員会が測量や内容確認の為の発掘調査を行った。墓所は埋葬の為の墳墓域とその下方の付属施設で
構成され、一辺80m〜90m程度の大きさ。墳墓の分布は約60m四方の範囲に及び、一面に大量の礫のほか石仏や
石塔が数多く露頭しており、その数は凡そ1600にもなると云う。こうした分布範囲の北端付近に約30m間隔で3つの
巨石があり、墓地の境界を示す“結界石”だと推定されてござる。この石仏谷墓所は2005年(平成17年)7月14日
国指定史跡となっている。また、胡宮神社の社務所庭園は1934年(昭和9年)12月28日に国の名勝となり申した。■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








近江国 久徳城

久徳城址

 所在地:滋賀県犬上郡多賀町大字久徳

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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近江国人の悲哀■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
久徳氏が室町時代から戦国時代末期にかけて維持した城。久徳氏は多賀豊後守家(詳細は下記・下之郷城の項に)
兵庫介高信の子・二郎定高が、ここ久徳の地を与えられた事が発祥だ。久徳姓を称するようになった定高がこの城を
築いたらしく、年代的には文明年間(1469年〜1487年)末期頃(1485年(文明17年)か1486年(文明18年)?)だろうと
言われているが、詳細は不明。多賀氏、そして久徳氏は北近江守護である京極氏の被官として代を重ね、定高以降
中兵衛定房―忠二郎定重―主馬允定武と続いている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近江国は室町幕府の成立によって佐々木氏が守護となり、その佐々木氏は北半分に京極氏、南半分に六角氏として
分立するが、久徳氏が使えた京極氏は内訌を経て次第に没落、遂に浅井氏が下克上を行って事実上の君主になる。
名うての驍将・浅井備前守亮政(すけまさ)は一代にして湖北を制圧、しかも旧主である京極氏を懐柔して骨抜きにし
瞬く間に他の国人衆も配下に組み込んだ。ところが亮政が没し、嫡子・下野守久政が後を継ぐと浅井氏の勢いは落ち
事もあろうに一番の敵と言える六角氏に対して従属する姿勢を見せるようになった。浅井家の雲行きが怪しくなるに
つれて国人衆らが動揺する一方、六角氏は独自の分国法を制定するなど戦国大名化して権力基盤を固めていった。
六角氏優位という情勢の中で浅井久政が隠居しその嫡子・賢政(かたまさ)が当主になる訳だが、この「賢」の一字は
時の六角氏当主・六角左京大夫義賢(よしかた)の片諱を宛がわれたものである。だが浅井氏の復権を志す賢政は
この名を捨て、新九郎長政と名乗り六角勢力からの独立を図った。斯くして浅井家の独立戦争が始まり、長政は配下
国人衆から臣従の証として人質を取り立てる。その為、久徳氏5代目・左近大夫実時は母を浅井氏へ差し出している。
だが、犬上郡は六角氏勢力圏との境目に位置する。一土豪に過ぎない実時は浅井家に頼るだけでなく、娘を近隣の
豪族である高宮氏や敏満寺城(上記)の新谷氏、縁続きの多賀氏(犬上氏)などに嫁がせて独自の安全保障体制を
練っていた。そこへ強大な六角氏が調略の手を伸ばした。浅井長政は新進気鋭とは言え、まだ実力は未知数である。
それに比べて旧来からの権勢がある六角氏は眼前の大きな脅威であり、むしろ鞍替えするのも得策と言えただろう。
こうして1559年(永禄2年)久徳氏は六角方へと寝返り、高宮氏の高宮城(滋賀県彦根市)を攻撃している。■■■■■
当然、久徳氏の背信を浅井長政は怒り、人質であった実時の母は処刑されてしまった。また、翌1560年(永禄3年)に
浅井長政・高宮頼勝らの軍勢が久徳城を攻撃(1562年との説もあり)。城は援軍を期待して籠城したものの、遂に間に
合わず陥落。落城した久徳城の兵は討死し、実時も戦死。そのまま浅井軍が敏満寺城も落としたのは先述の通りだ。
この後、生き残った久徳一族は雌伏しつつ六角氏に臣従。その六角氏が1568年(永禄11年)上洛してきた織田信長に
国を追われると、信長に仕えた。信長と長政の同盟が破綻すると、1570年(元亀元年)姉川の合戦で久徳勢は信長に
従って浅井軍を攻撃、その功を以て当主・久徳左近兵衛尉宗重(実時の弟)は所領3000石と久徳城を回復している。
宗重の他、新助宗頼・左馬助郷時・左近右衛門秀政ら(いずれも実時の弟)も姉川の戦いで功を挙げたようだ。姉川
合戦は久徳一族にとって報仇雪恨の戦いだったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1571年、浅井方であった高宮軍の攻撃を受けた久徳城であったが、それを撃退。程なく浅井氏は滅亡してしまい、
天下の形勢は信長ついで豊臣秀吉へ移るのだが、久徳氏はこれに従い所領を安堵されていた。ところが秀吉没後の
関ヶ原合戦に於いては西軍に与したため、領土は没収され一族四散したと言う。以後、他家に仕えたり帰農した者が
後継となっていくが、独立領主としての久徳氏は滅亡し城も廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
多賀町内、久徳地区の一角にある市杵島姫神社を中心に、その周辺住宅地も含めた一帯がかつての城跡だと言う。
現状では目立った遺構に乏しく、断片的に堀や土塁の跡が残るというも民家敷地内なので見学するのも難しい。神社
境内の隅部に「外側を向いて」写真の城址碑が立っており、それが城跡のよすがとなってござる。なお、神社の周囲は
水路が流れ、もしかして濠跡なのか?と考えさせられる(写真下隅)一方、久徳地区そのものが芹川の河畔に面して
いるので、これが南〜東側に対する天険の防御構造になっていた事は想像できよう。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








近江国 尼子館

尼子館址 殿池

 所在地:滋賀県犬上郡甲良町大字尼子

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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山陰太守・尼子氏発祥の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近江鉄道・尼子(あまご)駅のすぐ北側には滋賀県道227号線「敏満寺野口線」が走っている。この道路を駅から東へ
進み、「尼子」交差点を越えても道なりに真っ直ぐに行くと(敏満寺野口線は交差点から南へ曲がって行ってしまう)、
尼子の集落に入る。「尼子」という地名は、古く天武天皇の時代にその長男・高市皇子(たけちのみこ)を産んだ生母
尼子姫(あまこのいらつめ)が閑居した場所だと云う事を由来とするそうで、奈良時代以降は尼子荘が成立し有力な
寺社領荘園として肥沃な農業生産地(即ち年貢米収益地)になっていった。そして尼子の名は戦国期に山陰地方の
太守となる尼子氏の発祥した地。即ち、尼子館(尼子城)は尼子氏の初期居館として構築されたものでござる。■■
尼子氏の成立を遡ると南北朝期の婆沙羅(バサラ)大名として有名な佐々木道誉(ささきどうよ)こと佐々木佐渡判官
高氏(たかうじ)に着き当る。佐々木氏は宇多天皇から派生した近江源氏の嫡流で、つまり尼子氏も近江源氏一党と
いう事になろう。佐々木氏は近江に根付き六角氏と京極氏に分流し、後に足利将軍から六角氏が南近江を与えられ
京極氏は北近江を支配するようになるが、高氏は京極氏の中に産まれた人物だった。斯くして高氏の後は彼の3男
京極大膳大夫高秀(たかひで)が継承(長男・2男は早世)、室町幕府の重鎮として諸々に働いた。京極家の家督は
紆余曲折あるも高秀の長男・治部少輔高詮(たかのり)が継ぎ、高秀・高詮父子は畿内の暗闘に振り回されていくが
一方、京極氏支配地の中にある尼子荘は高秀の2男(4男とも)である五郎左衛門尉高久(たかひさ)へ与えられた。
高久が尼子荘を拝領したのが1398年(応永5年)6月と言われ、この時に尼子館が築かれたとされる。ただ、これには
異説もあり、祖父の高氏が孫の高久に尼子荘を与えたとの説、或いは高氏の死没時に彼の後妻・留阿(りゅうあ)へ
尼子荘を分与したともされている為(高氏による尼子荘相続の書状が残る。但しこれが誰宛なのか議論の余地あり)
彼女から高氏へ承継されたものと考える向きもある。実際、尼子館の構築を1347年(正平2年/貞和3年)とする説が
あるのだが、この年だとまだ高久は生まれていないのである(高久の生年は1363年(正平18年/貞治2年)。となると
尼子館は留阿の居館として築かれたとも想像されよう。「尼子郷は亡き夫・佐渡大夫判官入道道誉(佐々木高氏)が
譲与した旨に従って後家尼の留阿が領掌するに相違あるべからざる事」と証した3代将軍・足利義満の所領安堵状も
発給されており、一時期留阿が所有していた事は間違いないようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ、尼子荘を支配する事になった高久は改姓し尼子備前守高久と名乗る。これが尼子氏の創始だ。その
高久の死後、嫡男の出羽守詮久(のりひさ)が家督を継承し尼子館の主となっている。一方、高久の2男・上野介持久
(もちひさ)は宗家である京極高詮に命じられ、京極家が守護を務めていた出雲国の守護代として彼の地に赴いた。
よって、詮久の後裔は江州尼子氏とされ、持久の系譜は雲州尼子氏と区別されるようになる。山陰太守として最盛期
200万石にもなる所領を得たのは雲州尼子氏なのは御想像の通りだが、一方で尼子館を受け継いだ江州尼子氏は
その後どのようになったのだろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗家・京極氏は中央政界の虚々実々な駆引きに神経をすり減らし(故に遠国支配に手が回らず出雲守護代を派遣)
しかも隣国・南近江の六角氏とは同族でありながら犬猿の仲で、周囲は敵だらけ。所領防衛で躍起になる状況の中
一門衆である尼子氏が築いた尼子館は、京極家本拠である勝楽寺(しょうらくじ)城(甲良町内)の前衛拠点としての
役割を期待され、大掛かりな平城に拡張されていったと考えられている。こうした歴史を経過の後、詮久の跡を継いだ
尼子氏3代・氏宗の時代にあたる1428年(永享元年)頃、敵の攻勢にあって城は落とされたと云う。以後、館は廃絶し
江州尼子氏は没落。一族は四散し、京極家臣に組み込まれた者や、縁故を頼って雲州尼子氏の元へ流れていった
者など、様々な運命を辿っている。されど、実は江州尼子氏の家督は細々と継承され現代にまで続いているそうな。
隆盛を誇った雲州尼子氏は毛利氏に滅ぼされ、残った血脈も昭和初期に絶えてしまったのとは対照的である。■■

風情豊かな水郷・尼子集落にあって■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状の尼子館跡は、尼子集落の住宅街になってしまって往時の姿を望むべくもない。家々が建ち並ぶ状態の一帯は
当時の敷地がどの程度まで広がっていたのか、どのような形態だったのか全く分からない。その反面、尼子集落は
昔ながらの街道集落のような風情を漂わせ、これはこれで素晴らしい景観を見せてくれるのが嬉しい。通り沿いには
水路が張り巡らされ、この地が水利に豊かな水郷の地であった様子を物語る。きっとこうした水の手は、館が現役で
あった頃には防備に一役買っていた事だろう。そうした住宅街の一角に「殿城池」と呼ばれる小さな池があり(写真)
これが尼子館の濠跡だと伝わる。昭和前期まではここから西さらに北へと濠が延びていたらしいのだが、戦後の宅地
開発で埋められてしまった。池には小さな祠が置かれ、落城時に濠へ身を投げた姫(八千姫)を祀っていて、毎年1月
15日に祭事を行っており申す。また、八千姫の後を追ってお園と言う侍女も入水した事から、殿城池は「お園堀」との
別名なんだとか。この他に、尼子集落の東端にある浄土宗来應山住泉寺の脇には館の土塁と堀跡を発掘・整備した
土塁公園がある。ここは長らく竹藪になっていた場所だが、1988年(昭和63年)滋賀県教育委員会が発掘調査を行い
尼子館の土塁・堀の遺構と確認されたもの。竹が根を張る事で土塁が風雨によって崩壊するのを防いだようだ。町は
1996年(平成8年)に尼子集落のむらづくり事業として堀や土塁の保存復元を行い、敷地およそ1300uの土塁公園を
開設したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
あの“梟雄・尼子経久”へと繋がる尼子氏を生み出した史跡としては些か寂しい感があるものの、尼子集落の情緒は
訪れる者を癒してくれる景色を見せてくれるので、近くを通り掛かった際には見学してみるのも良い。但し、殿城池も
土塁公園も民家の軒先にあるので騒いだり荒らしたりしないように。駐車場も無いので、注意すべし。■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁








近江国 在士館

在士館跡 藤堂高虎像・出生地石碑

 所在地:滋賀県犬上郡甲良町大字在士

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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“築城の神様”藤堂高虎公生誕地!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
先に記した、尼子交差点から尼子集落へ至る道をそのまま更に直進すれば、土塁公園を過ぎた所から在士(ざいじ)
集落に入る(途中、幅員が狭くなるので車の通行は要注意)。そこからは「高虎の道」と称されるこの道が、滋賀県道
330号線と交差する直前に水辺の公園があって、そこには写真(左)の騎馬武者の銅像が置かれている。尼子集落が
戦国大名・尼子氏の故郷であるように、この在士集落はかつて藤堂村と呼ばれた場所で、銅像の騎馬武者は築城の
神様と讃えられる藤堂和泉守高虎公、即ち藤堂村こそ高虎生誕の故地なのだ。在士館とは藤堂家勃興の館である。
江戸時代になるとこの地域は彦根藩井伊家の所領となり、その際に有力大名となっていた藤堂高虎の名を軽々しく
使う事を憚った井伊左近衛中将直孝が藤堂村の村名を在士村に改めた。藤堂家の家譜「宗国史(そうこくし)」及び
「宗国史外篇」にはそのような事情が記されており、「元の名は藤堂村、井伊侯が在士村に改称す。蓋し恭しくも我が
 宗国なり。地面東西に百歩所、南北百四五十歩、北陲(ほとり)に八幡社祠あり。古藤樹は蔓を纏いて喬木となる。
 土人は藤堂の祠と称す。村の西に細い濠を穿ち、永源寺道(村内を抜ける道)より西に二百歩、北に回り、また東に
 反る処に塹壕を環らし『城之内』と呼んで、是処に『白雲公(藤堂家祖先)』の築いた所蹟跡歴々と見受けられる」との
記述がある。現在も八幡神社は在士郷内に鎮座し、その位置にこれらの記載を当てはめれば、在士公民館の北西
約120mあたりの位置が居館跡だったと推測できる。今そこは小さな公園になっていて「藤堂高虎公出生地」の石碑
(写真右)が立てられており、在士館の中心部だったと考えられよう。ただし、現状ではそれ以外に目ぼしい痕跡や
遺構は残存していない。在士八幡神社にある藤の古樹「紫藤樹」が当時から生き残っているのみである。■■■■

藤堂家の系譜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、「宗国史外篇」に拠れば藤堂家の遠祖は天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)だとしているが、これは
地方武士が自身の出自を粉飾する為に用いる方便であろう。もっとも、尼子の地名が尼子姫から来ているのだから
あながち藤堂村と舎人親王の関係も全く無い訳ではないのかもしれないが、やはり信用に足る話ではないだろう。
一方、江戸幕府が編纂した諸大名の家譜「寛政重修諸家譜」では藤堂家を藤原摂関家の分流としているが、これも
藤堂高虎が当時の関白・近衛信尋(このえのぶひろ)に近侍していた事から結び付けたもので、事実とは言えない。
戦国時代の叙任記録簿「歴名土代(りゃくみょうどだい)」にある中原氏出自説が一番信頼できるものだろうか。この
中原氏というのは、平安時代の学者・中原治部卿有象(なかはらのありかた)を祖先とする一族で、室町時代に足利
将軍家から犬上郡へ配された三河守景盛が藤堂姓を名乗った事が藤堂氏の創始と言われている。在士館の創建
年代は不明だが、先述した紫藤樹は景盛が植えたものとされている事から、館の構築も彼の手に拠ると考えるなら
応永年間(1394年〜1428年)のものと云う事になる(在士八幡神社の創建は1395年(応永2年)の事)。■■■■■
初代・景盛の後、2代・豊後守景冨―3代・豊後守景持―4代・兵庫介景兼―5代・因幡守景高―6代・兵庫助高信―
7代・越前守忠高と続く。ところが忠高には子が無かった為、遠戚である多賀大社(多賀町にある大社)神官の多賀
新介良氏(たがよしうじ)娘・とらを養女にし、彼女に婿を取らせて家督を譲った。とらの婿となったのは、近隣にある
鯰江(なまずえ)城(滋賀県東近江市)主・三井出羽守乗緝(みついのりたけ)の2男・源助虎高(とらたか)であった。
虎高は若い頃に諸国を渡り歩き、一時期は甲斐武田家に寄宿し取り立てられたと伝わる。虎高の「虎」の字は、時の
武田家当主である武田陸奥守信虎(武田信玄の父)から与えられたものだとか。信虎の寵愛著しく、それが故に武田
譜代家臣から嫉まれて武田家を辞したそうだ。帰郷して藤堂家を継ぎ、とらとの間に数人の子を生しており、長男に
源七郎高則、2男として与吉を儲けた(他に側室の子あり)。この与吉が長じて高虎になる。■■■■■■■■■■
ある日、近隣の村に賊が押し入り民家に立て籠もっていると知らせが入った。当時の藤堂家は、没落し農民同然の
生活をしていたが、それでも近郷住民を守るため虎高と高則は刀を取って賊退治に出ると云う。与吉も連れて行って
欲しいと申し出るが、子供は連れていけないと虎高は家に留まるよう命じた。だが与吉は密かに後を追い、賊が潜む
家の裏手で待ち伏せした。父と兄が表から踏み込めば、必ず裏口から逃げ出すと読んだのだ。果たしてその通りに
なり、裏口から出て来た賊を一刀両断に斬り伏せ、与吉は功を挙げたのである。敵の裏を読む機転、そして武芸の
見事さに父と兄は驚き、また喜んだそうだ。そんな兄・高則は1570年9月に21歳で戦死してしまった為、与吉あらため
高虎が藤堂家の家督を相続。その後の栄達は言うに及ばず、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人の懐刀になって
最終的に安濃津城(津城、三重県津市)主32万石の太守となるのであるが、出世に伴って藤堂村(在士村)を離れ
在士館は廃されたのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談だが、藤堂虎高の実家である三井家は、血縁を辿ると江戸時代に豪商として大成した三井家に繋がるそうだ。
虎高の子・高虎は国持大名にまで昇進し、その実家の縁者は現代の日本経済にも大きく関わる財閥にまで成長した
三井高利。揃いも揃ってこの一族、只者では無い才覚を持っているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■







近江国 下之郷城

下之郷城跡

 所在地:滋賀県犬上郡甲良町大字下之郷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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多賀大社神官が武士団化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
先に話の出た尼子の殿城池から真南へ500mほど、下之郷集落の東半分くらいがかつての下之郷城であったとか。
今や完全に宅地や農地となり、往時の遺構は全く無く、桂城神社(何せ「城」と名の付く社である)の敷地内に僅かな
土塁の痕跡があると言われるが、それも良く分からない。ただし、下之郷集落の中には大道川を始めとする細かい
水路が縦横に張巡らされており、これらが当時は城の濠や水利として用いられていたであろう事は十分良く分かる。
また、集落各所には下之郷城を題材にした短歌を刻んだ石碑がいくつも設置され、しかも水路には人工ながら滝や
水車があり、風情満点。水郷の町、そして文化の町という景観は心を豊かにしてくれて、城の遺構は分からなくとも
古き良き伝統を守っている意識が感じられ良うござる。写真は水車小屋前の城址碑。■■■■■■■■■■■■
この城は歴代多賀氏の城と言われる。藤堂高虎の母として紹介したとらの実家、多賀大社神官の家系だが、一部は
鎌倉時代頃から武士団化しており、その一族である。この多賀氏も中原氏の末裔で、元は近江国愛知(えち)郡の
長野郷(現在の滋賀県愛知郡愛荘町)に土着していたため長野氏を名乗っていたが、後に犬上郡へも勢力を広げ
多賀孫三郎秀定の時に多賀氏へと改称。多賀大社神官の家となる一方、鎌倉幕府執権(事実上の最高権力者)の
北条氏に接近し、幕府の御家人となっている。その後、佐々木京極氏の被官となって基盤を確固たるものにした。
室町時代中期になると、坂田郡に根付く多賀出雲守家と、犬上郡の多賀豊後守家に分かれ申した。下之郷城を
居城としたのは豊後守家の方で、当初は根田村(律令制の「墾田」が由来か)と呼ばれていた下之郷村に入封し
秀定から後、又四郎信定―信三郎信光―与市性忠―(ここから豊後守家)高信―高長―高亮と続く。■■■■■
下之郷城の築城主や時期は不明とされるものの、一説には1397年(応永4年)に京極左衛門尉高数(たかかず)が
築いたとされている。高数は高詮の2男、京極家の家督を継いで幕政に辣腕を振るうも、室町幕府6代将軍・足利
義教が暗殺された事件「嘉吉の乱」において、壮絶な奮戦をして義教に殉じ斬り死にした人物。この高数の2男が
新左衛門高忠(たかただ)で、多賀豊後守家に養子入りして家督を継いでいる。下之郷城主となった高忠は、宗家
京極氏の重臣にして室町幕府侍所(軍事・警察を取り仕切る部署)所司代を務めており、応仁の乱直前という怪しい
雲行きの中、公平公正な政務を行って名所司代と呼ばれるようになっている。ところが、天下の大乱である応仁の
乱が勃発、京極宗家と共に高忠は東軍側として勇戦するも、次第に劣勢となり、遂に京都を落ちていく。領国にも
戻れず、越前国へと寄宿した。応仁の乱終結後、京都へは戻ったようだが、結局下之郷城は回復できずに洛中で
隠棲する事となったようだ。こうした経緯の中、恐らく下之郷城は消え去ったのであろう。織田信長が足利義昭を
奉じて上洛する際、攻撃を受けて落城したという説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、京極氏の中でも対立派であった飛騨守高清(たかきよ)や南近江の六角氏、それに多賀出雲守家は応仁の
乱で西軍方となって高忠と敵対。後に出雲守家は絶家して高忠の後裔である豊後守家に吸収されるが、それでも
失われた所領は回復できなかった。また、東西両派に分かれた宗家・京極氏も弱体化していき、湖北の浅井家や
出雲の尼子氏が下克上を行い、名門の実力を失った。結局、彼らは織豊政権や徳川幕府の成立に飲み込まれ、
歴史の彼方へ埋もれて行くのである。そんな中、異彩を放った人物が多賀家縁者に。高忠の2男は片岡次大夫と
名乗り、そのまた2男は刀剣の研ぎ士として知られる本阿弥光心の養子となって本阿弥光二となる。光二の長男、
つまり多賀高忠の曾孫として生まれたのが江戸時代初期の芸術家として名高い本阿弥光悦だ。書画・陶芸・茶人
ほか諸々の芸術に通じ、徳川家康にも一目置かれた光悦の活躍は計り知れない。国持大名の藤堂家、政商たる
三井家に加え、芸術で天下を獲った本阿弥光悦にまで繋がりがあるとは、多賀氏の実力恐るべしと言った所か。



現存する遺構

堀・土塁








近江国 藤堂虎高館

藤堂虎高館跡推定地

 所在地:滋賀県犬上郡甲良町大字下之郷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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藤堂「虎高」誤植ではありません(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下之郷には藤堂虎高の居館もあったと伝わる。集落のほぼ中心、下之郷農事集会所のあたりだったらしいのだが
現状で遺構らしきものは無い為、詳細は分からない。写真は集会所の南側にあった空地で、それっぽい雰囲気が
感じられたので撮影したが、恐らくもう少し北側の位置だったと考えられるため、正確な場所ではない。■■■■■
上記の通り、虎高は諸国流浪していたので下之郷の館は藤堂家へ入る前のものか、若しくは高虎に家督を譲り
隠居してからの居館という事になり申そう。となれば、その頃にはもう下之郷城は廃絶していたと考えられるので
信長が上洛戦で落としたという話は信憑性が薄いという事になろうが…兎に角、よく分からない(爆)■■■■■■





大津市南部諸城館  大森陣屋・後藤氏館