近江国 膳所城

膳所城本丸跡

 所在地:滋賀県大津市丸の内町・本丸町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★★■■■



膳所の水城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
琵琶湖のさざなみに浮かぶ水城として有名な膳所(ぜぜ)城。大津城・坂本城・瀬田城(いずれも大津市内)と並び評される
「琵琶湖の浮城」であると共に、松江城(島根県松江市)・高島城(長野県諏訪市)と合わせて「日本三大湖城」の一つに
数えられる風光明媚な城でござる。民謡にも「瀬田の唐橋唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と詠われる程。その別名は
望湖城。なるほど、湖を望む城そのものだ。石鹿(せきろく)城とも言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城は1601年(慶長6年)、戸田采女正一西(とだかずあき)によるものであるが、この地に城を築くように命じたのは前年に
関ヶ原で大勝し天下を掴んだばかりの徳川家康だ。それまで、大津には大津城が存在していたものの関ヶ原前哨戦で
大いに損害を受けていた上、大津城は背後にある長等(ながら)山から城内を見通せる欠点があった為、これを廃城とし
新たな城の構築を決定したのだ。選地にあたっては交通の要衝である瀬田の唐橋を押さえる地という点が重視され、他の
候補地を排し膳所での築城が行われる事になったと云う。今更言う事でもなかろうが、瀬田の唐橋と言うのは琵琶湖から
唯一流出する川である瀬田川(淀川上流域)に架かる東海道の橋で、古代の壬申の乱以来畿内の争乱において軍事的な
重要拠点となっていた橋。本能寺の変を起こした明智光秀も、瀬田の唐橋が信長遺臣によって焼き落とされた事によって
大きく行軍予定が狂い、結果的に羽柴秀吉への対応が遅れ敗死に繋がった訳だ(詳細下記)。自らも本能寺の変において
命からがらの逃避行を行った家康としては、光秀の惨敗を教訓とし、当時唯一瀬田川を渡る橋であった瀬田橋の重要性を
認識していたのだろう。なお、膳所城の築城は天下人となった家康が諸大名に命じて行わせた“天下普請”であったが、
これは家康による天下普請の第1号となった事例である。そして縄張りを行ったのは築城の神様と称された藤堂和泉守
高虎。高虎もこの後、徳川幕府による諸城築城に才を発揮していく事になる訳で、色々な意味で契機となる築城だった。
創建当初の膳所城は、琵琶湖に浮かぶ島となる本丸を最も奥に配し、その手前(西側)に同じく島となった二ノ丸を置き、
そこから馬出となっている大手口が陸地に繋がる連郭式の平城。本丸南には鍵の手状の出丸が連結し、二ノ丸を側面から
監視。また、二ノ丸の南にも築出曲輪が浮かんで城の南縁を塞ぐ一方、大手馬出の北には北ノ丸が湖に突き出して北側を
防備していた。これら主郭部を囲うように、三ノ丸となる侍屋敷群が城の前衛防御を担っていたが、この屋敷地の街路も
複雑に屈曲し侵入する者をそこかしこで足止めする工夫が凝らされていた。現在も大津市内の道路はこの街路を踏襲して
いる所が多く、地図上で不自然に折れ曲がったり道幅が変わったりしている箇所が見受けられ申す。■■■■■■■■■
城内各所には多数の重層櫓が建ち、琵琶湖側からも含めて周囲の監視を行っていた。天守は本丸北西隅に建てられたが
これは4重4階という少々変わった構造になっていた。「四層」は「死相」に繋がるものとして武家社会では忌み嫌われ、特に
関ヶ原合戦の直後、まだ時代が平穏とは言えない頃のもの故にこの時代の天守で4重天守というのはあまり例が無い。
だが戸田一西の子である左門氏鉄(うじかね)が後に移封されていく尼崎城(兵庫県尼崎市)や大垣城(岐阜県大垣市)は
どちらも4重天守(共に氏鉄が天守を構築)を有する城。4重天守は“戸田氏の定型”なのでござろうか?■■■■■■■■

入れ替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を膳所城に戻すと、1601年2月に3万石で入封した戸田一西は1604年(慶長9年)7月25日に死去し跡を氏鉄が継いだが、
大坂の陣における戦功で1617年(元和3年)に尼崎へ5万石で加増転封。三河国西尾(愛知県西尾市)2万石の大名で
実父は徳川四天王の筆頭・酒井忠次という本多縫殿助康俊が3万石に加増されて膳所城主となる。京都を目前に控え、
琵琶湖南端を押さえる水陸の要である膳所城主は徳川譜代家臣が歴任したが、徳川家の柱石たる本多家に養子入りし
酒井家の血も引くという康俊の存在は特に際立つものと言えよう。大坂夏の陣で首級を105も挙げたという豪傑は53歳で
1621年(元和7年)2月7日に死去。継嗣(長男)の下総守俊次(としつぐ)は同年7月に5000石を加増され三河国西尾へ
移封されたが、後に再び膳所へ帰って来る事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
替わって膳所城主になったのは菅沼織部正定芳(すがぬまさだよし)。前任地は伊勢国長島(三重県桑名市)2万石。
1万1000石を加増されて3万1000石での入部でござったが、1634年(寛永11年)更に1万石を加増された事で丹波国亀山
(京都府亀岡市)へ転任して行く。次いで下総国佐倉(千葉県佐倉市)7万石を領地としていた石川主殿頭忠総(ただふさ)が
膳所城主に任じられた。その忠総は1650年(慶安3年)12月24日に69歳で死去。彼の嫡男・弾正大弼廉勝(かどかつ)は
早世していた為、廉勝の長男(つまり忠総の嫡孫)である主殿頭憲之(のりゆき)が城主を継ぐも、翌1651年(慶安4年)
4月4日に彼は伊勢国亀山(三重県亀山市)5万石へと移封された。斯くして、亀山5万石から入れ替わりで膳所へ来たのが
30年ぶりの城主となった本多俊次でござる。以後、この本多家が明治維新まで城主を継承する。■■■■■■■■■■
俊次は1664年(寛文4年)9月12日、2男の兵部少輔康将(やすまさ)に家督を譲って隠居。4年後の1668年(寛文8年)8月
11日に膳所で死去した。享年74。跡を継いだ康将も長命で70歳まで生きたが、所業は芳しくなく愚君であったと言う。
彼によって藩の財政は傾く一方、俊次〜康将の継承期である1662年(寛文2年)大地震が発生、膳所城は大きな被害を
受けた。建造物は軒並み倒壊し、曲輪も崩れて旧来の縄張が維持できない状態に。そのため、大規模な改修が行われ
本丸と二ノ丸が結合し新たな本丸となり、築出曲輪が拡張されて二ノ丸に改編となった。さりとて、湖に浮かぶ城は地震
以後も常に波で浸食され、継続的に補修が必要とされている。これが益々藩財政を悪化させる事になった。■■■■■■
本多家は康将の後、隠岐守康慶(やすよし)―下総守康命(やすのぶ)―主膳正康敏(やすとし)―下総守康桓(やすたけ)
下総守康政―隠岐守康伴(やすとも)―主膳正康匡(やすただ)―隠岐守康完(やすさだ)―兵部大輔康禎(やすつぐ)―
隠岐守康融(やすあき)―主膳正康穣(やすしげ)と継がれる。この間、1808年(文化5年)9月には遵義堂(じゅんぎどう)と
いう藩校が開校し、膳所藩内で儒学や蘭学が広まった。幕末期には尊皇派と佐幕派が血みどろの主導権争いを繰り返し、
その都度、藩論が右に左に傾いたが最終的には新政府に味方。その影響で、1873年(明治6年)1月14日に明治政府が
廃城の太政官布告を発するや、早くも翌日から膳所城の破却が開始される事になる。実は膳所藩は城の維持に難儀し
まだ幕府存続中である1865年(慶応元年)4月の時点で廃城願いを出していた程だった。また、最後の藩主である康穣も
こうした事情から他藩に先駆けて版籍奉還を願い出ている。結果、膳所藩は膳所県を経て大津県そして滋賀県へ変わり
膳所城は建物を悉く売却・取り壊しを行い、堀は殆ど埋め立てられ、石垣の石材も琵琶湖疎水の建築時に持ち去られた。
本丸・二ノ丸共に陸続きとされ、その城地も全て市街地化されてしまっている。現在、本丸跡は膳所城址公園となって
一般開放されているが二ノ丸跡は膳所浄水場の敷地に、他の部分は全て宅地化・商業地化された状態になっており、
城址公園内のごく一部に堀跡と石垣が残るのみだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

移築門の宝庫■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で膳所城と言えば移築建造物の多さが有名でもある。廃城によって不要となった城郭建築は、市内外の各所に
売却・移築され、今なお残っているのでござる。以下、順に列挙していく。先ずは本丸大手門の薬医門は大津市内の
膳所1丁目にある膳所神社の表門になっている。脇に潜り戸が付いた本瓦葺切妻造の大きな門で、神社の表門としても
威厳抜群な姿。膳所神社の北門と南門も膳所城からの移築門だが、旧城ではどの門だったのか不詳との事。北門は
薬医門、水門であったとも伝わる南門は高麗門形式。続いて北大手門は大津市中庄町1丁目の篠津(しのつ)神社
表門に。対する南大手門は滋賀県草津市矢橋町にある鞭崎(むちざき)八幡宮の表門となっており、大手門・北大手門
南大手門の3棟は1924(大正13年)4月15日指定の国重要文化財(登録上、鞭崎八幡宮は鞭崎神社とされている)。
北大手門と南大手門は膳所城創建時(慶長期)の建築、大手門は1655年(明暦元年)の建立と推定されており申す。
本丸犬走門の伝承がある薬医門が若宮八幡神社表門(大津市杉浦町)、こちらは大津市指定文化財。同じく本丸の
黒門と伝承されるのが大津市鳥居川町の御霊神社本殿脇門。伝二ノ丸水門が滋賀県草津市野路町の新宮神社裏門、
米倉門だったのが大津市国分2丁目、近津尾(ちかつお)神社の表門だ。そして瀬田口総門こと南口総門だったのが
大阪府和泉大津市の細見邸(個人宅)門。その南口総門の番所(粟津番所)建物は大津市御殿浜の森本邸(個人宅)。
移築建築はまだまだある。藩校・遵義堂の表門が大津市木下町7丁目の和田神社表門となり、御碗倉と言われるのが
大津市昭和町4丁目の六体地蔵堂。但し、こちらはかなり改変された姿になってござる。他方、改築されつつも昔ながらの
威風を残しているのが本丸東隅櫓。大津市秋葉台、茶臼山公園の芭蕉会館となっている。更には瓦ヶ浜御殿の一部が
国指定史跡・草津宿本陣建築に転用されたと言う伝承が。これは草津市草津1丁目にある。しかし詳細調査に拠れば、
どうもこの伝承は正確ではなく、実際には移築建築物ではないとの結論が…?■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、直接の城郭建築ではないが侍屋敷地に建っていた家老・村松八郎右衛門の屋敷門も現存。こちらは真宗大谷派
春台山響忍寺(しゅんだいさんこうにんじ)の表門(長屋門)として草津市木下町にござる。響忍寺はもともと別の場所に
あったが、火災によって焼失してしまい1751年(宝暦元年)村松八郎右衛門の屋敷跡に移転して堂宇が建立された。
この時、元からあった村松家の長屋門をそのまま寺の表門に利用したと言う。つまりこの長屋門は寺へと移築したの
ではなく、その場所に寺が入居してきたと言う訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後に石鹿城という別名の由来を。築城された膳所城は石高に不相応なほど立派な城であったため、幕府から検分の
使者がやって来たと言う。膳所藩の侍が城へと案内する道の途中、どうやら鹿の死体らしき黒い塊が道を塞ぎ、辺りに
赤い血がまみれていた。侍は仕方なく別の道へと回って検使を案内し、その結果、城内の重要な部分を見せずに済み、
疑いは無事晴れたとの事。実はその鹿の死体、大きな石に犬の血を塗り付けて検使の眼を誤魔化すものであった―――。
石の鹿で城は救われ、これが元で石鹿の城という名が付いたのだとか。嘘か誠か、昔々の物語…。■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・郭群

移築された遺構として
膳所神社表門(旧本丸大手門)・篠津神社表門(旧北大手門)・鞭崎八幡宮表門(旧南大手門)《以上国指定重文》
若宮八幡神社表門(伝旧本丸犬走門)《市指定重文》・御霊神社本殿脇門(伝旧本丸黒門)
新宮神社参道脇門(伝旧二ノ丸水門)・近津尾神社表門(旧米倉門)・膳所神社北門(旧城門)
膳所神社南門(伝旧水門)・細見氏宅門(旧瀬田口総門)・森本氏宅(旧粟津番所)・和田神社表門(旧遵義堂表門)
六体地蔵堂(伝旧御碗倉)・芭蕉会館(旧本丸東隅櫓)・草津宿本陣(伝旧瓦ヶ浜御殿の一部)
琵琶湖疎水護岸石材は膳所城石垣転用材








近江国 瀬田城

瀬田城址 石碑

 所在地:滋賀県大津市瀬田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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「瀬田の唐橋」を守る城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬田と言えば瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」でござろう。瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川で、それを下れば宇治川、
淀川と名を変え大阪湾に至る水運の大動脈だ。また、この橋を渡る事で京の都から東国各地へ通じ、陸上交通においても
最要衝という場所。古来から、壬申の乱・藤原仲麻呂の乱・源平合戦(木曽義仲と源義経の戦い)・承久の乱など、この橋と
川を挟んだ戦いは数多く行われ、京都防衛にとって必要不可欠な地勢だった事が証明されよう。■■■■■■■■■■■
瀬田城は1429年(永享元年)山岡美作守資広(すけひろ、信濃守景房とも)の手に拠る築城だと言う。山岡氏はもともと古代
豪族・伴(とも)氏の末裔だと言う。平安時代の大事件「応天門の変」で黒幕とされた大納言・伴善男(とものよしお)の子孫だ。
近江国甲賀郡毛枚邑(もびらむら)に在住し、その地名から毛枚太郎景広と名乗った者に始まり、その玄孫・景通は近江国
栗太郡大鳥居(大津市内)に進出し大鳥居氏を名乗った。そして大鳥居式部少輔景通の子(孫とも)の資広が勢多(瀬田)へ
出て、この城を築いたのだと伝わる。城を築いた山は「山田岡」と呼ばれており、そこから「山岡」姓を名乗るようになった。
資広以後、信濃守景長―備前守景季―美作守景兼―信濃守景時―因幡守景澄―美作守景冬と(代数・名前には諸説あり)
続いたが、南近江の守護大名・佐々木六角氏に従属する家である。それに転機が訪れたのは美作守景隆の頃。山岡景隆は
六角氏、或いは室町13代将軍・足利義輝に仕え近江南部の旗頭として重きを為していた。これに対し、義輝没後に新将軍と
なるべく足利義昭(義輝の弟)が織田弾正忠信長の協力を得て上洛してきた。義昭の将軍擁立を良しとしない当時の六角氏
当主・左京大夫義賢(よしかた)は、信長勢の近江通過を妨害する策に出る。当然、六角家臣の景隆もそれに加わり、信長へ
服従する事を拒んだ。ところが実力は織田軍が圧倒的で、六角義賢は敗れ甲賀へと逃亡する。■■■■■■■■■■■■
結果、山岡氏は信長に攻められ、城を棄てて逃げた後に降伏した。信長も南近江に大きな影響力を有する景隆を許し、以後
景隆は信長の忠実な家臣となったのである。斯くして景隆は瀬田城への復帰を認められた。景隆の所領は、およそ3万石に
及んだと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「瀬田の唐橋」と本能寺の変■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“天下布武”の目標を掲げる信長は、経済活性の為に交通網の整備を行い(それまで、戦国大名は敵方の軍事利用を恐れ
街道を敢えて不便な状態にしておくのが通例であった)景隆に瀬田橋の架け替えを命じた。従前の“仮設橋”のような唐橋は
これを機に稀有壮大なものに改められ、京都と東国を結ぶ一大経済路になったのだ。当然、瀬田城はその監視・防衛に用い
られた訳でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが信長は天下統一を目前とした1582年(天正10年)6月2日、京都・本能寺で明智日向守光秀に襲われて横死する。
畿内一帯を早急に掌握し、事態の鎮静化を図りたい光秀は周辺領主に服属を求めた。だが、反逆者である光秀に加担する
者は少なく、山岡景隆も「信長公の御厚恩浅からず」と光秀への降誘を拒否し、甲賀へ引き籠ったのである。この時、景隆は
瀬田橋を焼き落として退去したと言う。従属を拒まれた上、主要街道である瀬田橋を損壊された光秀は大打撃である。この
事態に、明智軍は信長の居城であった安土城(滋賀県近江八幡市)の接収が出来なくなり、また橋の復旧に人員を割かれる
痛手を受けたのだ。これに時間や人員を費やす事になった光秀は、以後の計略を狂わせていき秀吉に討たれる事となった。
この事件により、瀬田城は廃城になったとする説がある。その一方で、光秀敗死後に織田家の行く末を決めた清洲会議にて
山岡景隆は織田家筆頭家老・柴田修理亮勝家の配下に定められ、後に勝家と秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いに関連して山岡
家は所領没収、その時に廃城になったとするものもある。いずれにせよ、信長薨去から程なく廃された事に違いは無い。■■
以来、城の由緒を伝えるものとして臨江庵と言う草庵が膳所藩士によって建てられ、近年まで料亭「臨湖庵」の名で残存した
ものの、再開発によって廃業、2008年(平成20年)取り壊され、マンションが建つのが現状。往時の縄張りや構造なども、今や
全く分からなくなってしまった。写真の石碑が立つのみで、他に何も無し。そもそも住宅地になってしまっているので、城址の
見学や散策なども憚られよう。駐車場も無し。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







近江国 大津城

大津城址 石碑と現存石垣

 所在地:滋賀県大津市浜大津・長等・中央

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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こちらは関ヶ原に貢献した城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬田城が本能寺の変における大功績を挙げた城ならば、こちら大津城は関ヶ原合戦において東軍勝利に大きく貢献した城だ。
築城は1586年(天正14年)〜1587年(天正15年)の頃と見られる。織田信長は琵琶湖を囲んで安土城・長浜城(滋賀県長浜市)・
大溝城(滋賀県高島市)・坂本城(大津市内)などの“琵琶湖ネットワーク”と言える城郭群を整備したが、そのうち坂本城は明智
光秀が築き、城主となっていた城であった。その光秀が本能寺の変以後の先行きを読み違えて山崎の合戦で敗死した後、丹羽
五郎左衛門尉長秀ら豊臣秀吉に与した武将によって管理されていたのだが、秀吉は坂本城に替えて新しい城を築くべきと考え、
それにより誕生したのが大津城である。坂本城の解体と同時並行的に築城工事が行われたので、この城の建材として坂本城の
解体木材が数多く転用されたとの事。坂本城は比叡山延暦寺の焼き討ち後、その地域を制圧しつつ琵琶湖水運を掌握する為
築かれたものだが、次第に寺社勢力の脅威は薄れた事で物流拠点を押さえる経済面に重きを置くようになったのが大津城への
移転目的ではないだろうか。この傾向は大津城から膳所城へ移る事でより加速され、琵琶湖の南端部、瀬田川(淀川)舟運との
連携が重視されたという計算が推し量れよう。坂本→大津→膳所と、徐々に南へ、川に近い位置へ城は移っていく。■■■■■
ともあれ、秀吉の命で大津城を築いたのは浅野弾正少弼長政。しかし秀吉の意向で城主は次々と代わり、1589年(天正17年)に
増田右衛門少尉長盛(ましたながもり)、1591年(天正19年)新庄駿河守直頼(しんじょうなおより)、1595年(文禄4年)からは参議
京極高次が6万石で任じられる事となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京極氏はもともと北近江を統治した守護大名である。されど下剋上が当たり前となった戦国時代、浅井(あざい)氏の勃興により
没落していく。紆余曲折を経た後、高次は織田信長の家臣として取立てられたが、本能寺の変では明智光秀に与した為、またも
御家存続の危機に瀕する。だが、高次の妹・竜子は豊臣秀吉の側室となっており、しかも高次の妻は浅井三姉妹の2女・初姫。
初姫の姉(三姉妹の長女)は言うまでも無く秀吉の寵愛を受けた茶々(淀殿)である。こうした血縁があって高次は豊臣政権の中
謀反人であった事は帳消しとなって大津城主に抜擢されたのだった。しかしながら、妹や妻の“七光り”で大名になった高次は、
“蛍大名”とも揶揄されていた。こうした渦中で、運命の1600年(慶長5年)関ヶ原戦役を迎えるのでござる。■■■■■■■■■

大津城攻防戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
会津の上杉討伐を名目に、自身に味方するであろう大名の軍を引き連れて大坂を発った徳川家康に対し、石田治部少輔三成が
西軍を形成し打倒の挙兵をしたと言うのは皆様御存知であろう。当初、高次は西軍に与していた。いや、正しく言えばそのように
見える行動をしていた。そして家康率いる東軍が会津征伐から反転し、三成の西軍もそれを迎え撃つべく動き、いよいよ決戦が
美濃あたりで起きようかとしていた9月2日、高次は突如大津城へ引き籠り、翌3日には東軍へ味方する旨を公言。よもや背後の
大津城が寝返ると思っていなかった三成は、慌てて脅威を排除すべく軍勢を差し向けた。実は東軍が上杉征伐へ向かう途上の
6月18日、家康は大津城に立ち寄り高次と会談、こうした筋書きを打ち合わせていたのである。■■■■■■■■■■■■■■
まんまと策に引っかかった西軍は、末次兵部大輔元康(西軍総大将・毛利輝元の叔父)を大津城攻めの総大将にして立花左近
将監宗茂・筑紫主水正広門(つくしひろかど)・小早川筑後守秀包(ひでかね、元康の弟)など総勢1万5000(4万との説も)近くの
兵が城を取り囲んだ。対する城方は自ら城下町一帯を9月6日に焼き払って焦土とし、敵勢が城に近づけば遮蔽物が無い状態を
作り出している。両軍が小競り合い、11日〜12日の夜に城方が討って出て西軍陣地を夜襲するものの、これは大した戦果が無く
逆に戦の達人・立花宗茂の陣では返り討ちを果たしている。そのため13日には西軍の総攻撃が始まり、濠は埋められて大砲も
撃ち込まれ、この砲弾は天守に命中して城内に大混乱をもたらした。三ノ丸〜二ノ丸まで占拠され、大津城は本丸を残すのみと
なったのである。翌14日は攻め手と高次の間で降伏の交渉が行われた。当初、高次は頑なに降伏を拒否していたのだが、立花
宗茂が命の保証をする矢文を撃ち込んだ事で高次も意を決し、遂に開城へと至った。15日、城を出た高次は剃髪し、高野山へ
隠棲する事になったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしその9月15日は関ヶ原本戦が行われた日である。即ち、城を囲んでいた西軍1万5000の軍勢は大津に足止めされ、関ヶ原
本戦には参加できなかった。特に、夜襲を読んで撃退する程の戦巧者である立花宗茂が参戦しなかった影響は大きく、東軍が
たった1日で大勝利を収める原因にもなったのである。当然、自軍の勝利に貢献した高次を家康は高野山から呼び戻している。
それまで“蛍大名”だった京極高次は、こうして江戸幕府成立の一助を果たす戦果を自ら現出してみせたのだ。この後、高次は
2万2000石の加増を受けて若狭一国の国持大名に栄転する。また、関ヶ原での勝利を収めた家康は大坂へと向かう途上の9月
20日に大津城へ入城、ここで数日逗留して戦後の差配を行っている。戦場付近の山中に潜んでいた三成が捕らえられ、家康の
面前に牽きたてられたのも、大津城での事であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現在、僅かに残る痕跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、高次が退去した後の大津城へは徳川家臣の戸田一西が封じられた。されども一連の攻防戦で荒廃した大津城は、もはや
再利用不可能な状態だったので、これを廃して膳所城(上記)が築かれる事になる。大津城には近隣の山から砲撃された事から
地形的に大砲の射程距離内に収まる事を忌避したという理由もあったのだろう。以降の歴史は膳所城の項で記した通りであるが
大津城の廃材は膳所城や彦根城(滋賀県彦根市)などの各城へ回されたと言う。特に、大砲による攻撃を受けながら持ち堪えた
天守は、それまで4重だったと言う建物を3重に縮小して彦根城天守とされている。“落ちなかった天守”の縁起を担ぎ、また、古材
再利用の為に4重→3重に“濃縮”された彦根城天守は、現存する天守の中で最も飾り破風の多い様態となっており、徳川政権の
威光を天下に知らしめる役割を担った。それが現代では国宝にもなっているのだから、今も威風は色褪せていない。■■■■■
城は現在の京阪線びわ湖浜大津駅周辺に築かれていた。駅の北口にはペデストリアンデッキがあり、そこから滋賀県道18号線を
渡った所にある公園に写真(左)の城址碑がある。この辺りが本丸跡で、当時は琵琶湖に突き出した島のように曲輪が作られて
いた。公園の先には大津港ターミナルがあるものの、そちらは当時湖の中で、後世になって埋め立てられた敷地である。■■■
本丸から橋を渡った南側、今の地名で言う浜大津1丁目〜中央1丁目〜長等(ながら)3丁目〜浜大津2丁目に跨る一帯が二ノ丸。
二ノ丸の中心部(現在の市立図書館付近)だけは更に独立した島のような敷地に切り離されており、そこは奥二ノ丸と呼ばれた。
奥二ノ丸を除いた、厳然たる二ノ丸の敷地だけを言うならば「凹」形をした形状となる。この二ノ丸を囲って、更に大きな「凹」形の
形をした三ノ丸がその外側に。この三ノ丸の西面には、舟入となる切り欠き状態の濠が入り込んでおり、大津城が如何に舟運の
管理を念頭に置いて築かれたかが判断できよう。三ノ丸の北西には、本丸同様に浮島の如く飛び出した伊予丸が置かれた。
城全体の敷地は概ね東西×南北それぞれ550m程を有しており、琵琶湖に直結する3重の濠で囲われた構造である。現在の市
中心街がそのまま城跡だった訳だが、当然それは現状で遺構がほぼ全て湮滅してしまった事を意味する。廃城後、大津の町は
東海道の宿場町として繁栄し、城とは無縁に発展を遂げたためだ。古地図と現在の町を見比べれてみれば、滋賀県道7号線の
浜町交差点から中央二丁目南交差点の道筋が湾曲していたり(外堀の跡地)、琵琶湖第一疎水の流路が街区に対して斜めに
入り込んでいる点(これも堀跡の形状)などに共通点が見られるものの、実際に何か遺構が見受けられる訳ではござらぬ。ただ、
市街地の各所では発掘調査も行われており、石垣遺構や各種の出土品を確認している。発見された石垣は、市内の数箇所で
見られる所がある。写真(右)は中央1丁目、大津祭曳山展示館の脇にある駐車場の壁面となっている石垣。■■■■■■■■
大津城の遺材は彦根城や膳所城へ移されたと記したが、その膳所城が廃城になった後に移築され現存する膳所神社の表門は、
元を辿れば大津城の建材だった可能性が指摘されている。これは木材加工の痕跡から、膳所神社→膳所城と遡り更にその前に
何かに使われていた状況が確認された為だ。そもそも大津城自体が坂本城から移された材料で作られている訳なので、こうした
“古材の遍歴”を考えてみると、なかなかに面白いと言うか、キリが無くて困惑すると言うか…どうしたものやら(苦笑)■■■■■



現存する遺構

石垣

移築された遺構として
彦根城天守(旧大津城天守古材再利用)《国宝》
膳所神社表門(大津城古材再利用)《国指定重文》








近江国 宇佐山城

宇佐山城址 石垣

 所在地:滋賀県大津市南滋賀町・錦織町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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信長包囲網を打開する城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここまで大津市内にある水辺の城を見てきたが、こちらは山城。諸々の史料に記された「志賀城」「志賀要害」と言うのがこの
宇佐山城の事を指すと考えられている。築かれたのは信長が上洛した後、浅井・朝倉・本願寺と言った勢力に囲まれ畿内の
掌握に難渋していた頃、1570年(元亀元年)とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
足利義昭を奉じて中央政界を握った信長は、敵対する朝倉左衛門督義景の討伐を掲げて越前へと出兵するも、妹婿である
浅井備前守長政の裏切りに遭い撤退。怒りに燃えた信長は、徳川家康の援軍を得て浅井・朝倉連合軍と対決した。姉川の
戦いである。この合戦に勝利した信長ではあったが浅井・朝倉の脅威は変わらず、この時点では琵琶湖北岸〜西岸一帯を
浅井・朝倉側が占拠する情勢であった。特に朝倉勢は現在の大津市北部域まで進出し、比叡山を囲む蜂ヶ峰城・青山城・
壺笠山城と言った城(全て大津市内)を押さえており、このままでは京都から東へ抜ける街道は朝倉家の手に落ちる事態が
考えられた。そうなれば、信長の本国である尾張・美濃と京都の往来は途絶し、信長は孤立する事になる。それを阻止すべく
姉川合戦に前後して、配下の森三左衛門可成(もりよしなり)に命じ信長が築かせた城が宇佐山城であった。■■■■■■
当時、琵琶湖西岸(西近江路)を通り京都市街へ抜ける主要道は白鳥越え(青山城と壺笠山城の間を通る道)か、山中越え
(京都北白川から山中町を経て壺笠山城の南側を抜ける道)のいずれかだった。どちらの道も朝倉家が支配する地域の中を
通る事になり、当然それは朝倉軍が容易く京都へ侵攻できる事を意味した。事実、連合軍は姉川合戦の3ヶ月後、1570年の
9月に3万もの軍勢を率いて坂本へと進出、信長を脅かしていた。これに呼応して本願寺勢力や六角氏残党、更には比叡山
延暦寺が信長に敵対して蜂起、織田家は四方八方から袋叩きの状態に陥る。朝倉勢がこれ以上南下するのを防ぐ為、また
織田軍が東西を自由に行き来する軍道を確保する為に築かれたのが宇佐山城だったのである。築城と同時進行で街道の
開削も行われ、織田家は山中町から宇佐山城の南を通り琵琶湖畔へ出る志賀越道(白川越新路)を敷設。それと共に、朝倉
軍の動きを制約する為、旧来の道を封鎖する処置を取っている。この様子は、奈良興福寺の僧・多聞院英俊(えいしゅん)が
記した「多聞院日記」1570年3月20日(姉川の戦いより3ヶ月も前の話である)の条に「今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、
 信長ノ内、森ノ山左衛門(森三左衛門)城用害、此ノフモト二新路ヲコシラヘ、是ヘ上下ヲトオス」と記されており、「今道北」や
「ワラ坂南」(山中越えや東海道など)を止めて(封鎖し)信長家中の森三左衛門可成が築いた要害(宇佐山城を指す)の麓に
新道(志賀越道)を拵えてそこを通らせようとした、と言う事である。しかも新道はまだ工事中だったのか通れず、結局英俊は
どこへも行けず引き返したそうだ。このように信長は宇佐山城を核として京都〜大津間の交通を管理し、朝倉勢がこれ以上
南進しないよう厳しい取り締まりを行っていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「志賀の陣」と「延暦寺焼き討ち」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1570年9月に坂本へ押し寄せた浅井・朝倉連合軍3万に対して、森可成は僅か1000の兵で戦いを挑んだ。16日の小競り
合いでは、それでも可成に分があって勝利を収める。だが19日、延暦寺の僧が朝倉方へ味方し、20日の戦いでは浅井長政
本隊も参戦。遂に可成は戦死してしまう。連合軍はその翌日から宇佐山城の攻略にも着手したが、これは城兵が激しく抵抗し
辛くも落城は免れた。以後、連合軍は周辺で狼藉を働き城方を揺さぶるが、城は落ちない。そうこうしている間に、信長本人は
それまで摂津(大阪府北部)へ出陣していたのだが、宇佐山城の危機に兵を返して後詰めにやって来た。結果、24日に信長
本隊が連合軍へ逆襲をかけ撃退、25日には宇佐山城へと入城している。この一連の戦いを「志賀の陣」と言うが、城主の森
可成こそ討ち死にしたものの、宇佐山城が戦線を維持した事で辛くも信長は京都失陥の危機を脱している。■■■■■■■
ただ、四面楚歌の状態にある信長としては、さすがに全部を相手に戦い続けるのは不可能であった。結局、同年12月14日に
勅命講和を引き出して浅井・朝倉と和議を結ぶ。この時、信長自身の手に拠って「陣払い小屋悉く放火」されて、宇佐山城は
破却されたと見られる。同時に朝倉方でも「青山以下小屋悉く陣払い放火」したそうで、青山城や壺笠山城などが廃城になり
互いにこの地域での撤収が和睦条件となっていたと考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、翌1571年(元亀2年)明智光秀が「志賀城」に在城していたとの記録がある。即ち、自落した筈の宇佐山城は早くも
明智光秀によって再興されていた訳だ。この城を根拠地に構え、光秀(つまり信長)は周辺の豪族を取り込んで浅井・朝倉や
比叡山勢力に対抗する情勢を構築した。琵琶湖水運を臨み、敵対する比叡山をすぐ隣で監視し得る宇佐山城はこの当時の
織田軍が展開するに必要不可欠な存在だったと言う意味である。その意味する通り、この年の9月12日に織田軍は比叡山を
焼き討ちし、延暦寺の勢力を壊滅させた。延暦寺の支援を受けられなくなった朝倉家も、琵琶湖南岸までの進出が難しくなり
次第に追い込まれていくようになるのである。斯くして光秀は坂本城を新たに築いて西近江路を扼し、この地域の織田家支配
領域を北へ押し上げた。これによりようやく宇佐山城は本当の廃城を迎える事となった。いずれにせよ、1570年に築かれ翌年
廃されるという、非常に短命だった城郭だ。しかしこの城があった事で信長は虎口の危難を回避した、非常に重要な城だった。

最初の「織豊系城郭」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城が置かれた、その名も宇佐山は標高336m、麓からの比高は何と230mを越す。それでいて琵琶湖畔とは僅かに2km弱しか
離れておらず(当時は湖岸線がもっと入り組んでおり、更に近かったと思われる)、延暦寺とも4kmの距離。朝倉方の城である
壺笠山城へは2.5kmしかない。湖上監視と敵を睨むに、これ以上ない“最前線”の城郭だった訳だ。■■■■■■■■■■■
宇佐山は南北に細長い山容をしており、その頂部が主郭、南に一段下がった部分が二郭である。主郭と二郭は真っ直ぐに
並んでいる訳では無く、やや折れ曲がった「く」の字のような連なり。主郭から二郭へと出る部分(主郭南端部)は枡形虎口が
東向きに開いており、発掘調査の結果その虎口に跨るような櫓門が建てられていたと推測されている。また、主郭南端面の
土塁(虎口が入り込む箇所)直下には窪地があり、土塁斜面に取り付かせない為の堀と考えられている。この堀がある事で、
敵は枡形虎口を通らざるを得なくなるのだ。但し、井戸代わりの貯水槽と考える説もある。他方、主郭の北側一面にも、法面
直下に堀のような溝が切られている。これは排水施設と見る向きもあれば、武者隠しとなる塹壕状の遮蔽物とする説もある。
そして主郭の北には山の鞍部を越えた対岸に三郭(出曲輪)が造成されていた。1570年9月に浅井・朝倉連合軍が攻め寄せ
「端城」までは落とされたとされるが、これはどうやらこの三郭を指すようだ。この他、山の斜面を分断する竪堀なども。■■■
現在、主郭跡にはTV放送の中継基地施設が建てられている。この建物を建設するにあたり、1968年(昭和43年)と1971年
(昭和46年)発掘調査が行われたが、その時に瓦が出土している。そしてこの城は、主に東面(琵琶湖側)一帯に大規模な
石垣が組み上げられている(写真)。当然、主郭虎口にあったと言う櫓門は礎石建物という事になる。織田信長〜豊臣秀吉が
中央政権を握った時代、彼等によって築かれた定型城郭を「織豊系(しょくほうけい)城郭」と呼ぶが、その構成要素となるのは
@石垣 A礎石建物 B瓦葺き建築 である。これらを組み合わせて敵兵の攻撃から強固に防衛し、逆に強力な火器を用いて
敵を撃退し得る構造が織豊系城郭の要諦であるが、宇佐山城は見事にその三要素を兼ね備えている。そして年代的に考えて
この城が史上初めてその三要素を取り入れて完成された城郭だと言える。即ち、宇佐山城は「最初の織豊系城郭」だったのだ。
宇佐山城が城主が亡くとも敵の攻撃を跳ね除けたと言うのは、こうした重防備の城郭だったからだろう。この城を端緒として、
後に安土城や大坂城(大阪府大阪市中央区)と言った名城が生まれるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、城山の東山腹に宇佐八幡神社があり、そこまでは車で登れる。駐車場?と言える程きれいに整備されたものではないが、
とりあえず車を停める余地も数台分ならある。ただ、そこへ至る道はかなり狭く荒れた道なので注意。大型車で入るのは止めた
方が良い。この神社からは徒歩で登山する事になり、九十九折の道を20分〜30分ほど登れば城域に達する。現在の登山道は
主郭へ直結するように繋がっているが、往時の大手道はどうやら二郭の南端部に回り込み、そこから梯子を使って二郭の中へ
入るようになっていたらしい。逆に、現在の二郭南端部は未整備な状態なので無理に立ち入らない方が無難。TV放送施設が
あって不粋、と言う声も聞かれるが(山城の山頂にそういう施設があるのは良くある話)、それらを除けても主郭〜二郭一帯に
広がる堀や石垣と言った遺構を見るだけで十分楽しめる城であろう。登山道には地元の方々が設置した案内標識が沢山あり
上り坂はキツくとも、道に迷うような事は無い筈だ。城山を整備して下さっている皆様に感謝でござる。■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等




近江八幡城  犬上郡内諸城郭