膳所の水城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
琵琶湖のさざなみに浮かぶ水城として有名な膳所(ぜぜ)城。大津城・坂本城・瀬田城(いずれも大津市内)と並び評される
「琵琶湖の浮城」であると共に、松江城(島根県松江市)・高島城(長野県諏訪市)と合わせて「日本三大湖城」の一つに
数えられる風光明媚な城でござる。民謡にも「瀬田の唐橋唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と詠われる程。その別名は
望湖城。なるほど、湖を望む城そのものだ。石鹿(せきろく)城とも言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城は1601年(慶長6年)、戸田采女正一西(とだかずあき)によるものであるが、この地に城を築くように命じたのは前年に
関ヶ原で大勝し天下を掴んだばかりの徳川家康だ。それまで、大津には大津城が存在していたものの関ヶ原前哨戦で
大いに損害を受けていた上、大津城は背後にある長等(ながら)山から城内を見通せる欠点があった為、これを廃城とし
新たな城の構築を決定したのだ。選地にあたっては交通の要衝である瀬田の唐橋を押さえる地という点が重視され、他の
候補地を排し膳所での築城が行われる事になったと云う。今更言う事でもなかろうが、瀬田の唐橋と言うのは琵琶湖から
唯一流出する川である瀬田川(淀川上流域)に架かる東海道の橋で、古代の壬申の乱以来畿内の争乱において軍事的な
重要拠点となっていた橋。本能寺の変を起こした明智光秀も、瀬田の唐橋が信長遺臣によって焼き落とされた事によって
大きく行軍予定が狂い、結果的に羽柴秀吉への対応が遅れ敗死に繋がった訳だ(詳細下記)。自らも本能寺の変において
命からがらの逃避行を行った家康としては、光秀の惨敗を教訓とし、当時唯一瀬田川を渡る橋であった瀬田橋の重要性を
認識していたのだろう。なお、膳所城の築城は天下人となった家康が諸大名に命じて行わせた“天下普請”であったが、
これは家康による天下普請の第1号となった事例である。そして縄張りを行ったのは築城の神様と称された藤堂和泉守
高虎。高虎もこの後、徳川幕府による諸城築城に才を発揮していく事になる訳で、色々な意味で契機となる築城だった。
創建当初の膳所城は、琵琶湖に浮かぶ島となる本丸を最も奥に配し、その手前(西側)に同じく島となった二ノ丸を置き、
そこから馬出となっている大手口が陸地に繋がる連郭式の平城。本丸南には鍵の手状の出丸が連結し、二ノ丸を側面から
監視。また、二ノ丸の南にも築出曲輪が浮かんで城の南縁を塞ぐ一方、大手馬出の北には北ノ丸が湖に突き出して北側を
防備していた。これら主郭部を囲うように、三ノ丸となる侍屋敷群が城の前衛防御を担っていたが、この屋敷地の街路も
複雑に屈曲し侵入する者をそこかしこで足止めする工夫が凝らされていた。現在も大津市内の道路はこの街路を踏襲して
いる所が多く、地図上で不自然に折れ曲がったり道幅が変わったりしている箇所が見受けられ申す。■■■■■■■■■
城内各所には多数の重層櫓が建ち、琵琶湖側からも含めて周囲の監視を行っていた。天守は本丸北西隅に建てられたが
これは4重4階という少々変わった構造になっていた。「四層」は「死相」に繋がるものとして武家社会では忌み嫌われ、特に
関ヶ原合戦の直後、まだ時代が平穏とは言えない頃のもの故にこの時代の天守で4重天守というのはあまり例が無い。
だが戸田一西の子である左門氏鉄(うじかね)が後に移封されていく尼崎城(兵庫県尼崎市)や大垣城(岐阜県大垣市)は
どちらも4重天守(共に氏鉄が天守を構築)を有する城。4重天守は“戸田氏の定型”なのでござろうか?■■■■■■■■
入れ替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を膳所城に戻すと、1601年2月に3万石で入封した戸田一西は1604年(慶長9年)7月25日に死去し跡を氏鉄が継いだが、
大坂の陣における戦功で1617年(元和3年)に尼崎へ5万石で加増転封。三河国西尾(愛知県西尾市)2万石の大名で
実父は徳川四天王の筆頭・酒井忠次という本多縫殿助康俊が3万石に加増されて膳所城主となる。京都を目前に控え、
琵琶湖南端を押さえる水陸の要である膳所城主は徳川譜代家臣が歴任したが、徳川家の柱石たる本多家に養子入りし
酒井家の血も引くという康俊の存在は特に際立つものと言えよう。大坂夏の陣で首級を105も挙げたという豪傑は53歳で
1621年(元和7年)2月7日に死去。継嗣(長男)の下総守俊次(としつぐ)は同年7月に5000石を加増され三河国西尾へ
移封されたが、後に再び膳所へ帰って来る事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
替わって膳所城主になったのは菅沼織部正定芳(すがぬまさだよし)。前任地は伊勢国長島(三重県桑名市)2万石。
1万1000石を加増されて3万1000石での入部でござったが、1634年(寛永11年)更に1万石を加増された事で丹波国亀山
(京都府亀岡市)へ転任して行く。次いで下総国佐倉(千葉県佐倉市)7万石を領地としていた石川主殿頭忠総(ただふさ)が
膳所城主に任じられた。その忠総は1650年(慶安3年)12月24日に69歳で死去。彼の嫡男・弾正大弼廉勝(かどかつ)は
早世していた為、廉勝の長男(つまり忠総の嫡孫)である主殿頭憲之(のりゆき)が城主を継ぐも、翌1651年(慶安4年)
4月4日に彼は伊勢国亀山(三重県亀山市)5万石へと移封された。斯くして、亀山5万石から入れ替わりで膳所へ来たのが
30年ぶりの城主となった本多俊次でござる。以後、この本多家が明治維新まで城主を継承する。■■■■■■■■■■
俊次は1664年(寛文4年)9月12日、2男の兵部少輔康将(やすまさ)に家督を譲って隠居。4年後の1668年(寛文8年)8月
11日に膳所で死去した。享年74。跡を継いだ康将も長命で70歳まで生きたが、所業は芳しくなく愚君であったと言う。
彼によって藩の財政は傾く一方、俊次〜康将の継承期である1662年(寛文2年)大地震が発生、膳所城は大きな被害を
受けた。建造物は軒並み倒壊し、曲輪も崩れて旧来の縄張が維持できない状態に。そのため、大規模な改修が行われ
本丸と二ノ丸が結合し新たな本丸となり、築出曲輪が拡張されて二ノ丸に改編となった。さりとて、湖に浮かぶ城は地震
以後も常に波で浸食され、継続的に補修が必要とされている。これが益々藩財政を悪化させる事になった。■■■■■■
本多家は康将の後、隠岐守康慶(やすよし)―下総守康命(やすのぶ)―主膳正康敏(やすとし)―下総守康桓(やすたけ)
下総守康政―隠岐守康伴(やすとも)―主膳正康匡(やすただ)―隠岐守康完(やすさだ)―兵部大輔康禎(やすつぐ)―
隠岐守康融(やすあき)―主膳正康穣(やすしげ)と継がれる。この間、1808年(文化5年)9月には遵義堂(じゅんぎどう)と
いう藩校が開校し、膳所藩内で儒学や蘭学が広まった。幕末期には尊皇派と佐幕派が血みどろの主導権争いを繰り返し、
その都度、藩論が右に左に傾いたが最終的には新政府に味方。その影響で、1873年(明治6年)1月14日に明治政府が
廃城の太政官布告を発するや、早くも翌日から膳所城の破却が開始される事になる。実は膳所藩は城の維持に難儀し
まだ幕府存続中である1865年(慶応元年)4月の時点で廃城願いを出していた程だった。また、最後の藩主である康穣も
こうした事情から他藩に先駆けて版籍奉還を願い出ている。結果、膳所藩は膳所県を経て大津県そして滋賀県へ変わり
膳所城は建物を悉く売却・取り壊しを行い、堀は殆ど埋め立てられ、石垣の石材も琵琶湖疎水の建築時に持ち去られた。
本丸・二ノ丸共に陸続きとされ、その城地も全て市街地化されてしまっている。現在、本丸跡は膳所城址公園となって
一般開放されているが二ノ丸跡は膳所浄水場の敷地に、他の部分は全て宅地化・商業地化された状態になっており、
城址公園内のごく一部に堀跡と石垣が残るのみだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築門の宝庫■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で膳所城と言えば移築建造物の多さが有名でもある。廃城によって不要となった城郭建築は、市内外の各所に
売却・移築され、今なお残っているのでござる。以下、順に列挙していく。先ずは本丸大手門の薬医門は大津市内の
膳所1丁目にある膳所神社の表門になっている。脇に潜り戸が付いた本瓦葺切妻造の大きな門で、神社の表門としても
威厳抜群な姿。膳所神社の北門と南門も膳所城からの移築門だが、旧城ではどの門だったのか不詳との事。北門は
薬医門、水門であったとも伝わる南門は高麗門形式。続いて北大手門は大津市中庄町1丁目の篠津(しのつ)神社
表門に。対する南大手門は滋賀県草津市矢橋町にある鞭崎(むちざき)八幡宮の表門となっており、大手門・北大手門
南大手門の3棟は1924(大正13年)4月15日指定の国重要文化財(登録上、鞭崎八幡宮は鞭崎神社とされている)。
北大手門と南大手門は膳所城創建時(慶長期)の建築、大手門は1655年(明暦元年)の建立と推定されており申す。
本丸犬走門の伝承がある薬医門が若宮八幡神社表門(大津市杉浦町)、こちらは大津市指定文化財。同じく本丸の
黒門と伝承されるのが大津市鳥居川町の御霊神社本殿脇門。伝二ノ丸水門が滋賀県草津市野路町の新宮神社裏門、
米倉門だったのが大津市国分2丁目、近津尾(ちかつお)神社の表門だ。そして瀬田口総門こと南口総門だったのが
大阪府和泉大津市の細見邸(個人宅)門。その南口総門の番所(粟津番所)建物は大津市御殿浜の森本邸(個人宅)。
移築建築はまだまだある。藩校・遵義堂の表門が大津市木下町7丁目の和田神社表門となり、御碗倉と言われるのが
大津市昭和町4丁目の六体地蔵堂。但し、こちらはかなり改変された姿になってござる。他方、改築されつつも昔ながらの
威風を残しているのが本丸東隅櫓。大津市秋葉台、茶臼山公園の芭蕉会館となっている。更には瓦ヶ浜御殿の一部が
国指定史跡・草津宿本陣建築に転用されたと言う伝承が。これは草津市草津1丁目にある。しかし詳細調査に拠れば、
どうもこの伝承は正確ではなく、実際には移築建築物ではないとの結論が…?■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、直接の城郭建築ではないが侍屋敷地に建っていた家老・村松八郎右衛門の屋敷門も現存。こちらは真宗大谷派
春台山響忍寺(しゅんだいさんこうにんじ)の表門(長屋門)として草津市木下町にござる。響忍寺はもともと別の場所に
あったが、火災によって焼失してしまい1751年(宝暦元年)村松八郎右衛門の屋敷跡に移転して堂宇が建立された。
この時、元からあった村松家の長屋門をそのまま寺の表門に利用したと言う。つまりこの長屋門は寺へと移築したの
ではなく、その場所に寺が入居してきたと言う訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後に石鹿城という別名の由来を。築城された膳所城は石高に不相応なほど立派な城であったため、幕府から検分の
使者がやって来たと言う。膳所藩の侍が城へと案内する道の途中、どうやら鹿の死体らしき黒い塊が道を塞ぎ、辺りに
赤い血がまみれていた。侍は仕方なく別の道へと回って検使を案内し、その結果、城内の重要な部分を見せずに済み、
疑いは無事晴れたとの事。実はその鹿の死体、大きな石に犬の血を塗り付けて検使の眼を誤魔化すものであった―――。
石の鹿で城は救われ、これが元で石鹿の城という名が付いたのだとか。嘘か誠か、昔々の物語…。■■■■■■■■■
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