豊臣政権の広告塔■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単に八幡城、或いは八幡山城とも。関白・豊臣秀吉の甥にしてその後継者と目された豊家関白2代・秀次の城として有名である。
遡れば、近江国には秀吉が初めて城持大名となった長浜城(滋賀県長浜市)や、彼の主君にして天下布武を標榜した織田信長の
居城・安土城(近江八幡市内)があるなど、近世城郭の嚆矢となる名城が並んでいた。信長亡き後、秀吉が天下人として勇躍する
日々の中、羽柴右近衛権少将秀次が1585年(天正13年)築城。秀次は秀吉の姉・とも(日秀尼)の子で、当時子のなかった秀吉の
後継者とされていた。この年、秀吉は弟の美濃守秀長と秀次に命じて四国征伐を行い支配地を広げ、その勲功に伴って8月23日
秀次に近江国43万石(うち秀次領20万石、秀次宿老領23万石)を与えた。こうして築城が始まったのが近江八幡城でござる。■■
秀吉が秀次にこの地を与えたのは、自らの跡継ぎに相応しいだけの格式や権威を持たせるためであり、それには信長以来天下
枢要の土地である近江を治めさせ、改めて羽柴(豊臣)家こそが天下の主である事を印象付ける目的があった。秀次は本能寺の
変で事実上廃城となった安土城の城下町を八幡へ移転させたうえ、城下には「八幡堀」と呼ばれる運河を掘削して水運の利便を
図った。八幡堀はそのまま琵琶湖へと通じ、陸路でも京へと繋がる街道も整備されたので、八幡城下町は物流の一大拠点として
名を馳せる事になる。秀次付きの宿老・田中筑後守吉政や山内対馬守一豊(やまうちかつとよ、やまのうち、かずとよとも)・中村
式部少輔一氏(なかむらかずうじ)・堀尾吉晴らの発案とも言われるが、この秀次の都市計画は見事に成功し、近江八幡は商人の
町として大発展した。現在も近江八幡は日本を代表する企業の本社(創業地)として有名だが、その起源は秀次にある訳だ。また
山内一豊は長浜城、中村一氏は水口岡山城(滋賀県甲賀市)、堀尾吉晴は佐和山城(滋賀県彦根市)に配されて、この八幡城を
中心に近江の広範囲に秀次(つまり豊臣政権)の影響力を浸透させている。これは即ち信長の時代が終わり、秀吉一族が日本の
中心部を押さえたという喧伝に他ならなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
八幡城は標高282mの鶴翼山(八幡山)に築かれ、山頂に天守を有する本丸を配置しその西側下段に西ノ丸と言う腰曲輪が付属。
山頂から北・南東・南西の3方向に尾根が伸びる山容だが、それぞれに北ノ丸・二ノ丸・出丸と呼ばれる曲輪を置き、それら全域が
打込ハギの石垣で固められている。これら頂部一帯からは見事な眺望が開け、山城ならではの堅固な守りとそれに必要な視界を
確保している。一方こうした主郭部は居住性に劣ったのか、南東〜南西尾根の間に挟まれた南麓の谷戸には居館部が設置され
城主の日常生活や家臣統制が営まれた。居館部の更に南側や東側には広大な町屋が確保される早期の近世城郭だった当城は
このような築城計画からも秀次の先進性が見受けられる。城内建築物には桐紋等の金箔瓦も使われていた事が確認されており
近江八幡城が豊臣政権の権威を示し、近江の経済権益を確保するものだったと想像できよう。■■■■■■■■■■■■■■
秀次の悲劇と共に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)秀吉は天下を統一。これに伴い秀次は尾張国を与えられ、清洲城(愛知県清須市)へ居城を移した。代わって
近江国大溝城(滋賀県高島市)1万石の主であった京極高次が2万8000石に加増されて八幡山城主に任じられた。さりとて、それ
以後も近江八幡城は秀次の動向に左右される運命を辿る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀次は1591年(天正19年)12月28日に秀吉の後を継いで関白に就任して、京都の聚楽第(じゅらくだい、京都府京都市上京区)を
政務の本拠とした。しかし1593年(文禄2年)8月3日、秀吉に実子・拾丸(後の秀頼)が産まれると状況が一変。それまで豊臣家の
継承が約束されていた立場から、実子可愛さに次第に秀吉から疎まれる存在となってしまい、とうとう1595年(文禄4年)7月15日に
秀吉に「殺生関白」の濡れ衣を着せられた秀次は自害するに至った。秀吉の妄執はは秀次にまつわる一切を消し去る徹底ぶりを
見せ、一族郎党の粛清は勿論、聚楽第も破却し、秀次が築城した近江八幡城も廃城となり取り壊されてしまったのである。それに
伴って京極高次は大津城(滋賀県大津市)へ居を移した。個人的に言えば、上記の通り近江八幡治世に卓越した才能を開花させ
秀次は決して愚鈍な君主ではなかった筈。この後、幼い秀頼を残して秀吉が没し、事実上の当主不在という状況を作り出した事が
徳川家に取って代わられ豊臣家の滅亡を招いたのだから、むしろ秀次を秀頼の後見人として残した方が、豊家の命脈を繋いだで
あろう。言ってみれば秀吉の“自滅”が始まったのが秀次粛清であり、それが無くば近江八幡城ももっと違った歴史を残したかと。
徳川家康が将軍家(徳川宗家)のバックアップとして御三家制度を作ったのは、秀次の轍を教訓にしたのかも?■■■■■■■
秀次の経済政策は今も■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城から僅か10年で廃絶した短命な近江八幡城。しかし、商人の町となった八幡城下町は廃されることなく江戸時代を通じ存続し
現在もそのまま商家町・近江八幡市として繁栄している。秀次の計画した碁盤の目のような町割りは今も健在。1991年(平成3年)
4月30日には国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。その一方で山上の主郭跡は風化が進んでいった。秀次の母
瑞龍院日秀は秀次の菩提を弔うため1596年(慶長元年)、京都嵯峨野に日蓮宗瑞龍尼寺村雲御所を建立。この寺は時の後陽成
天皇から下賜された土地に建てられたため日蓮宗唯一の門跡寺院とされ、代々皇族華族の姫によって継承されてきた。江戸時代
京都の洛中へと移転、それが1961年(昭和36年)八幡城跡へ移され現在に至っている。現状、本丸跡に建つ寺がそれ(写真)だが
それ以外に主郭部周辺で改変が行われた様子はない。それどころか、1953年(昭和28年)と1967年(昭和42年)台風や集中豪雨で
石垣が崩落したり土砂崩れが発生、山上部は荒廃していた訳だが、近江八幡市では史跡保護と修復にむけて発掘調査を開始し、
徐々に城跡の認知と理解が進んでいく。一方、村雲御所が鶴翼山に建立された翌年の1962年(昭和37年)11月23日、麓と山上を
結ぶ八幡山ロープウェーが開業、城址から琵琶湖などの眺望を楽しむ観光開発も始まった。荒廃もあった反面、このような昭和の
開発を受けるまで手付かずであった事が幸いし、近江八幡城の主郭部は(建物は破却されたものの)見事な石垣を残し、縄張りも
荒らされるような事が無かった。何より、山上に聳え立つ石垣の威容は圧巻。これが評価され、2017年(平成29年)4月6日に財団
法人日本城郭協会から続百名城の1つに選出された。続百名城に選ばれた事で、令和に入ってから急速に城址整備が進められ
石垣周辺の不要な樹木が伐採され、眺望が良くなったそうな。しかしその一方、近江八幡城址は国・県どころか市史跡にすら指定
されていない(2022年(令和4年)現在)。百名城・続百名城の選出には史跡指定の有無も選考基準とされたらしいので、八幡城の
入選は稀有な事例(但し、他にも史跡指定外の城が百名城・続百名城になっている例はある)だと言えよう。もっとも、史跡指定を
要件とするのは敷地の管理団体を明確にする目的なので近江八幡城についてはその心配が無いという事なのだろう。■■■■
鶴翼山の麓から山頂まではロープウェーで約5分。簡単に登山可能で、琵琶湖の眺望を楽しむにうってつけの観光地…だろうが
続百名城に選ばれた石垣の見事さこそ必見のポイント。また、山麓には名社・日牟禮八幡宮やヴォーリズ建築の洋館群、そして
国の伝建地区と、色々楽しめる環境が揃っている。近隣にある安土城や彦根城(滋賀県彦根市)に比べるとイマイチ地味?かも
しれないが、街歩きをするにはむしろこの近江八幡城こそがオススメであろう。場所は近江八幡駅から北西方向に約3km。町の
目抜き通りから必ず見える山が城跡なので迷う事は無いだろう。駐車場も市内各所(特に日牟禮八幡宮周辺)にあるので、車で
来訪するのも楽勝でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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