浅井家3代の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
湖北の驍将・浅井備前守亮政(あざいすけまさ)が築城した山城。築城年代には諸説あって、戦国近江の軍記物「浅井三代記」では
1516年(永正13年)の9月28日に着工し、10月20日には完成と記されているが(「十日計ヵ間ニハヤ掘土手総講出来スレバ」だとか)
さすがに軍記物語の内容に信憑性は乏しく、恐らくは1524年(大永4年)頃の構築と見られている。■■■■■■■■■■■■■■
近江国北半分はもともと京極氏が守護を務める国で、亮政はその一被官であった。京極氏は室町幕府侍所の所司(長官)を果たす
四職の一家であった名門だが、戦国時代には既に実力が伴わず、内紛もたびたびあった。この隙を突いて亮政が領国を横領。内輪
揉めを繰り返し家臣領民を顧みない守護家に反対する国人衆らを纏め上げ、北近江における盟主として成り上がる下剋上を達成し
京極氏の反抗に備えて難攻不落の城を築いた。これが天下に名を轟かした堅城、小谷(おだに)城でござる。■■■■■■■■■
国を追われた守護・京極飛騨守高清(たかきよ)は南近江守護の六角弾正少弼定頼(ろっかくさだより)の助力を頼み、それを侵略の
大義名分とした六角勢が1525年(大永5年)小谷城を攻めるが、これに対して亮政は越前の朝倉氏と同盟を結び対抗。京極方の追討
軍を退けると今度は懐柔に及び、小谷城の曲輪の一つに「京極丸」と名付けて当の京極高清・六郎高延父子をこれに招いて饗応し、
骨抜きにするという鬼神の如き謀略であった。こうして亮政は一代で江北を領有し、戦国大名に伸し上がる。■■■■■■■■■■
だが、その子・下野守久政(ひさまさ)は凡庸で当主の器がなく、六角氏の圧力に屈しこれに服従。久政の家督継承に関して亮政は
婿養子(娘・鶴千代の夫)である田屋新三郎明政(たやあきまさ)に跡を継がせようと考えていたとする説があって、久政は明政との
家督争い、復権を狙う京極氏の不穏な動き、それに外圧となる六角氏と、内憂外患の状況にあった。近年の再検証では、このような
多数の敵を相手にするのを避けるべく、六角氏と手を結び内政を充実させる点に久政の目的があったと評価されつつあるが、しかし
亮政の勝ち取った江北の地を守るのも危うい状況にあったのも事実で、これに危機感を募らせた浅井家臣団は1560年(永禄3年)に
久政の隠居を促し、その嫡子を新当主に推挙した。六角左京大夫義賢(よしかた、定頼の次代六角氏当主)の片諱を受けて、当初は
「賢政(かたまさ)」と名乗っていた彼はその名を捨て「長政」と改名。六角からの押しつけであった嫁も実家に送り帰し、六角氏従属を
跳ね除けて家督を継承した。小谷城3代目城主、この新当主こそが悲運の名将として名高い浅井備前守長政である。■■■■■■
長政は外敵に対抗するため尾張の織田氏と同盟、上総介信長の妹・市姫を娶り婚姻関係を結ぶ。織田氏という強力な後ろ盾を得て
長政は江北の支配権を回復、さらに六角氏との対決に及んだ。1568年(永禄11年)、足利義昭を奉じて上洛を狙う織田軍と連合して
六角義賢の軍勢と戦い、見事これを打ち破ったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
全山要塞の巨大山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではここで小谷城の構造について。この城があるのは標高494.6mの小谷山(伊部(いべ)山)。麓との比高は約400mに達する険阻な
山で、山頂部には大嶽(おおづく)と呼ばれる曲輪群が置かれていた。ただ、城の主城域はそこから南へ長く伸びる尾根の中にある。
(この他、小谷山には数方向に尾根が広がっている) この尾根には北(山頂側)から南(麓側)に向け標高398m・353m・300m・152mと
4箇所の小ピークがあって、それが山王丸(398m)・本丸(353m)・金吾丸(300m)・出丸(152m)という曲輪に造成されている。これらの
曲輪の間も数々の段曲輪で敷き詰められる梯郭式の構造を成し、名のある曲輪だけでも六坊〜山王丸〜小丸〜京極丸〜中の丸〜
本丸〜大広間〜御茶屋〜金吾丸と揃っている。本丸の東側には赤尾屋敷(家臣・赤尾氏の館があったとか)、西側には局屋敷と言う
腰曲輪も付随するが、それ以外は切り立った断崖に挟まれていて、攻め上がるには下の曲輪から順番に攻略するのが基本であろう。
京極丸は上記の通り京極氏を饗応(と言うか幽閉?)した曲輪、大広間と言うのはその名の通り城内で最も広い曲輪である。本丸の
裏(北側、中の丸方面)には幅15m×深さ10mという巨大な堀切を掘削しており、御茶屋〜本丸と中の丸〜山王丸で2つの区画割りが
行われていた。更に、これら曲輪の斜面は戦国期城郭として先進的な石垣を多用。本丸には2重天守も揚がっていたとの説がある。
写真は大広間から本丸を見た所で、法面下部に石垣が残存する様子が御確認頂けるかと。天守があったとすれば、この土壇の上に
建てられていたと言う事なのだろう。大広間曲輪への入口には黒金門(くろがねもん)と呼ばれる大掛かりな門が設けられ、名の如く
鉄板貼りで厳重な守りを固めていた。この他、御茶屋曲輪の脇には“馬洗池”と呼ばれる水源もあり、山城に必須の水利も確保されて
いる。金吾丸の射撃制圧下には大手となる堅固な虎口を構え、番所も設置して城内へ至る者を厳重に監視。現在、この番所までは
車道が整備され車で登る事が出来るのだが、出丸はそれより遥か下(麓側)にあるので気付かず通り過ぎそうである(苦笑)ちなみに
金吾丸の名は1525年の攻防戦において朝倉の援軍を率いた金吾宗滴(そうてき)こと朝倉太郎左衛門尉教景(のりかげ)が陣を構築
した事に由来するそうな。朝倉宗滴は朝倉氏5代を生き延びた長老にして常勝無敗の名将だ。■■■■■■■■■■■■■■■■
小谷城はこれだけで終わらない。主郭群のある尾根に並行するように、西側にもう1本の尾根があり、そこにも同じように段曲輪状の
曲輪群が並ぶ。ここには北から福寿丸・山崎丸という独立曲輪群があって、言わば本丸に対する出城のような役割を果たしていた。
2つの尾根は山頂の大嶽で結接。この大嶽は浅井亮政築城時の古本丸だとする説と、福寿丸・山崎丸と同様に本丸の出城だとする
考え方がある。また、大嶽の東に繋がる支尾根の頂部(標高385m)にも月所丸と言う出曲輪がある上、本城域の尾根と福寿丸・山崎
丸の尾根に挟まれた谷戸にも屋敷があったと言われており、小谷山は全域に防御施設が展開する大要塞になっていたようだ。なお、
六坊には6つの寺を集約(故に“六坊”の名がある)、山王丸には山王神社を祀ったと言われ、小谷城が城下の諸宗教権力も内包して
浅井氏による集権化を図ったと見る向きもある。当時、石垣の構築技術は宗教勢力の特権であったと言われており、それが小谷城に
使われているのは、このように寺社勢力の従属を成しえたからこそだとも考えられ申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
お市の方、無残■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後の小谷城は、皆様ご存知の通り悲運の落城を迎える。信長にとっては上洛の邪魔、長政にしてみれば父祖以来の宿敵である
六角氏を共同で屠ったまでは良いが、義兄・信長が次の攻略目標を越前の朝倉氏とした事で長政の状況は一変する。浅井と朝倉は
祖父・亮政以来の盟友であり、長らく友好関係を築いてきた間柄。しかも信長が朝倉攻略を長政に無断で始めたため、浅井家臣団は
信長に不信感を抱いてしまった。ここに来て隠居したはずの久政までもが介入するようになり、長政は苦境に立たされる。長政自身は
強大な信長に敵対するを良しとしなかったようだが、先の見えぬ父・久政や家臣は信長との断交を主張。様々なしがらみに縛られた
長政は止むを得ず信長との長く辛い戦いに流されていく。1570年(元亀元年)4月、越前出兵の信長に対して背後から浅井勢が攻め
かかった。この裏切りに信長は激怒、状況を見て一旦は撤兵したものの、すぐに態勢を立て直して浅井・朝倉との全面戦争に入る。■
同年6月21日、織田軍は小谷城下を焼き討ち。更に28日、朝倉の援軍を得た浅井軍と、徳川の援軍を率いた織田軍が姉川河川敷で
激突。これが姉川の合戦である。結果は徳川勢の奮闘によって織田軍の勝利となり、浅井・朝倉軍は敗走する。この戦いで浅井勢は
勇将・遠藤喜右衛門直経(なおつね)が戦死してしまった。直経は織田家との同盟成立当初から信長の暗殺を主張、徹底的に信長を
敵視していた人物。その読みは正しかったのか、結果的に長政は信長の手によって滅ぼされる訳だ。■■■■■■■■■■■■■
姉川の合戦後、信長はなおも小谷城に居座る長政を攻略するため木下藤吉郎秀吉に付城(敵城に対する攻略・監視の城)・横山城
(長浜市内)の城代を命じて小谷城の監視に当たらせた。横山城は姉川の南岸にあり、小谷城とは約9kmの距離。北国街道や中山道、
北陸脇往還などを封鎖して小谷城を南から締め上げる事が可能な位置に存在している。これを見た長政は防備を固めるべく小谷城を
拡張、援軍の朝倉軍も独自の陣地を構築した。福寿丸や山崎丸はこうした経緯で築かれたと考えられ、福寿丸の名は朝倉の将・木村
福寿庵から、山崎丸は同じく朝倉家の実力者・山崎長門守吉家が守備した事に由来するそうだ。大嶽にも朝倉勢の主力が入渠した。
秀吉側も負けてはおらず、大小の砦を築いて小谷城一帯の浅井・朝倉軍を包囲する。この包囲合戦は3年の長期に渡ったが、その間
浅井方の諸将が徐々に織田方へと寝返り、それに応じて秀吉の包囲網は小谷城に迫っていく。■■■■■■■■■■■■■■■■
1573年(天正元年)8月8日ついに信長本隊が岐阜城(岐阜県岐阜市、当時の信長居城)を出陣。小谷城の北側へ回りこんだ信長は
まず朝倉の援軍を叩き潰し、そのまま越前の朝倉本拠へ侵攻した。8月20日、朝倉の本城である一乗谷城(福井県福井市)が落ちて
朝倉氏は滅亡する。然る後、信長は小谷城へ取って返し総攻撃を開始。27日、秀吉率いる3000の兵が山中を直登し京極丸を占拠。
先に「攻め上がるには下の曲輪から順番に攻略するのが基本」と記したが、秀吉はその策を採らず、いきなり中間の曲輪を押さえて
しまったのである。恐らく、城内に内通者を募り手引きさせたのだろう。“人たらし”秀吉お得意の作戦だ。ともあれ、これにより久政が
陣取る小丸と、長政の居所である本丸の間は分断されてしまった。本丸の裏に大堀切がある事が災いして、長政は京極丸の秀吉を
撃退できず、連携の取れなくなった浅井勢は各個撃破の対象となる。追い詰められた久政は自害し、それを知った長政も9月1日に
自刃している。この時、秀吉は長政を降伏させようと「父の助命が条件」とする長政に「久政はまだ生きている」と方便を突くものの、
程なくその嘘がバレ、長政は赤尾屋敷で切腹したと言う。なお、従前この自害(小谷城落城)は8月28日の事とされてきたが、近年の
再検証で9月1日だったとの説に改められている。斯くして、江北に覇を唱えた浅井氏は3代で滅亡した。ちなみに、市姫と3人の娘は
長政自身の意向で信長の許へと送り返された。政略結婚と言えども仲睦まじかった長政夫妻は、せめて姫だけでも生き延びる事を
望んだのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城、沈黙の聖地に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして近江・越前は信長の勢力下に入り、江北は秀吉が領有する事となった。秀吉はいったん小谷城に居を構えたが、山中険しい
山城では領国経営に不便だとし新たに長浜城(長浜市内)を構築、それに伴い小谷城は廃城になった。これと前後して、自身の姓を
木下から羽柴に改める。これは織田家重臣・丹羽五郎左衛門尉長秀と柴田権六勝家から一文字ずつ頂戴し「羽」「柴」としたもので、
当時はまだ“成り上がり者”の端くれに過ぎなかった秀吉の政治工作(ゴマすり)だったのだが、いずれにせよ小谷城の落城が秀吉に
“一国一城の主”という地位を与え、「羽柴筑前守」さらに「関白・豊臣秀吉」としての立身出世を極める栄華の第一歩となった訳だ。■
廃城に伴い、小谷城からは建材や石垣石材などが長浜城へ流用され、それらの一部は更に他の城の資材に転用されている。中でも
有名なのが彦根城(滋賀県彦根市)西ノ丸三重櫓で、長浜城へ移された小谷城天守の古材が再利用されたと伝承されている。但し、
近年の科学的検証においては、この説には否定的見解が立てられている。真偽は兎も角、この櫓は1951年(昭和26年)9月22日に国
重要文化財となった。他に“長沢御坊”こと滋賀県米原市にある浄土真宗布施山福田(ふくでん)寺の書院は浅井長政から寄進された
小谷城居館部の建物が由来だとかで、浅井御殿と呼ばれている。桁行16.29m×梁間12.07m、茅葺入母屋造りで1961年(昭和36年)
4月26日に滋賀県指定有形文化財とされている。長浜市内にある曹洞宗小谷山(しょうこくさん)実宰院(じっさいいん)にも小谷城から
移されたと伝わる山門があり、極めつけは浅井歴史民族資料館で「小谷城落城を再現したジオラマ」の中に使われている門扉は長き
流浪の末にそこへ収蔵された本物の小谷城脇門の扉なんだとか。この移転歴には諸説賛否あるそうだが、果たして真実や如何に?
一方、秀吉の栄達と引き換えに長い眠りに就く事となった小谷城跡は風雪に埋もれ、自然の山林へと変貌していったが、手付かずの
遺構は1937年(昭和12年)4月17日に国史跡と指定され、2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の
1つに選出された。それまではひっそりした山の中に曲輪・堀の跡や石垣などが残っているだけだったのが、百名城選出以降は史跡
整備や観光振興が行われるようになり、現在では山麓に戦国歴史資料館などが建てられている。戦国大名の居城山城として貴重な
存在なのは勿論、その規模の大きさにも驚かされ、全域を回るとなれば1日がかりでも足りない位でござろう。2017年(平成29年)3月
25日には直近に北陸自動車道「小谷城SIC」も開業し、ますます交通の便が良くなったのも有り難い。熊出没注意!■■■■■■■
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