近江国 小谷城

小谷城天守台跡

 所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部 ほか
 (旧 滋賀県東浅井郡湖北町伊部 ほか)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★☆■■■



浅井家3代の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
湖北の驍将・浅井備前守亮政(あざいすけまさ)が築城した山城。築城年代には諸説あって、戦国近江の軍記物「浅井三代記」では
1516年(永正13年)の9月28日に着工し、10月20日には完成と記されているが(「十日計ヵ間ニハヤ掘土手総講出来スレバ」だとか)
さすがに軍記物語の内容に信憑性は乏しく、恐らくは1524年(大永4年)頃の構築と見られている。■■■■■■■■■■■■■■
近江国北半分はもともと京極氏が守護を務める国で、亮政はその一被官であった。京極氏は室町幕府侍所の所司(長官)を果たす
四職の一家であった名門だが、戦国時代には既に実力が伴わず、内紛もたびたびあった。この隙を突いて亮政が領国を横領。内輪
揉めを繰り返し家臣領民を顧みない守護家に反対する国人衆らを纏め上げ、北近江における盟主として成り上がる下剋上を達成し
京極氏の反抗に備えて難攻不落の城を築いた。これが天下に名を轟かした堅城、小谷(おだに)城でござる。■■■■■■■■■
国を追われた守護・京極飛騨守高清(たかきよ)は南近江守護の六角弾正少弼定頼(ろっかくさだより)の助力を頼み、それを侵略の
大義名分とした六角勢が1525年(大永5年)小谷城を攻めるが、これに対して亮政は越前の朝倉氏と同盟を結び対抗。京極方の追討
軍を退けると今度は懐柔に及び、小谷城の曲輪の一つに「京極丸」と名付けて当の京極高清・六郎高延父子をこれに招いて饗応し、
骨抜きにするという鬼神の如き謀略であった。こうして亮政は一代で江北を領有し、戦国大名に伸し上がる。■■■■■■■■■■
だが、その子・下野守久政(ひさまさ)は凡庸で当主の器がなく、六角氏の圧力に屈しこれに服従。久政の家督継承に関して亮政は
婿養子(娘・鶴千代の夫)である田屋新三郎明政(たやあきまさ)に跡を継がせようと考えていたとする説があって、久政は明政との
家督争い、復権を狙う京極氏の不穏な動き、それに外圧となる六角氏と、内憂外患の状況にあった。近年の再検証では、このような
多数の敵を相手にするのを避けるべく、六角氏と手を結び内政を充実させる点に久政の目的があったと評価されつつあるが、しかし
亮政の勝ち取った江北の地を守るのも危うい状況にあったのも事実で、これに危機感を募らせた浅井家臣団は1560年(永禄3年)に
久政の隠居を促し、その嫡子を新当主に推挙した。六角左京大夫義賢(よしかた、定頼の次代六角氏当主)の片諱を受けて、当初は
「賢政(かたまさ)」と名乗っていた彼はその名を捨て「長政」と改名。六角からの押しつけであった嫁も実家に送り帰し、六角氏従属を
跳ね除けて家督を継承した。小谷城3代目城主、この新当主こそが悲運の名将として名高い浅井備前守長政である。■■■■■■
長政は外敵に対抗するため尾張の織田氏と同盟、上総介信長の妹・市姫を娶り婚姻関係を結ぶ。織田氏という強力な後ろ盾を得て
長政は江北の支配権を回復、さらに六角氏との対決に及んだ。1568年(永禄11年)、足利義昭を奉じて上洛を狙う織田軍と連合して
六角義賢の軍勢と戦い、見事これを打ち破ったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

全山要塞の巨大山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではここで小谷城の構造について。この城があるのは標高494.6mの小谷山(伊部(いべ)山)。麓との比高は約400mに達する険阻な
山で、山頂部には大嶽(おおづく)と呼ばれる曲輪群が置かれていた。ただ、城の主城域はそこから南へ長く伸びる尾根の中にある。
(この他、小谷山には数方向に尾根が広がっている) この尾根には北(山頂側)から南(麓側)に向け標高398m・353m・300m・152mと
4箇所の小ピークがあって、それが山王丸(398m)・本丸(353m)・金吾丸(300m)・出丸(152m)という曲輪に造成されている。これらの
曲輪の間も数々の段曲輪で敷き詰められる梯郭式の構造を成し、名のある曲輪だけでも六坊〜山王丸〜小丸〜京極丸〜中の丸〜
本丸〜大広間〜御茶屋〜金吾丸と揃っている。本丸の東側には赤尾屋敷(家臣・赤尾氏の館があったとか)、西側には局屋敷と言う
腰曲輪も付随するが、それ以外は切り立った断崖に挟まれていて、攻め上がるには下の曲輪から順番に攻略するのが基本であろう。
京極丸は上記の通り京極氏を饗応(と言うか幽閉?)した曲輪、大広間と言うのはその名の通り城内で最も広い曲輪である。本丸の
裏(北側、中の丸方面)には幅15m×深さ10mという巨大な堀切を掘削しており、御茶屋〜本丸と中の丸〜山王丸で2つの区画割りが
行われていた。更に、これら曲輪の斜面は戦国期城郭として先進的な石垣を多用。本丸には2重天守も揚がっていたとの説がある。
写真は大広間から本丸を見た所で、法面下部に石垣が残存する様子が御確認頂けるかと。天守があったとすれば、この土壇の上に
建てられていたと言う事なのだろう。大広間曲輪への入口には黒金門(くろがねもん)と呼ばれる大掛かりな門が設けられ、名の如く
鉄板貼りで厳重な守りを固めていた。この他、御茶屋曲輪の脇には“馬洗池”と呼ばれる水源もあり、山城に必須の水利も確保されて
いる。金吾丸の射撃制圧下には大手となる堅固な虎口を構え、番所も設置して城内へ至る者を厳重に監視。現在、この番所までは
車道が整備され車で登る事が出来るのだが、出丸はそれより遥か下(麓側)にあるので気付かず通り過ぎそうである(苦笑)ちなみに
金吾丸の名は1525年の攻防戦において朝倉の援軍を率いた金吾宗滴(そうてき)こと朝倉太郎左衛門尉教景(のりかげ)が陣を構築
した事に由来するそうな。朝倉宗滴は朝倉氏5代を生き延びた長老にして常勝無敗の名将だ。■■■■■■■■■■■■■■■■
小谷城はこれだけで終わらない。主郭群のある尾根に並行するように、西側にもう1本の尾根があり、そこにも同じように段曲輪状の
曲輪群が並ぶ。ここには北から福寿丸・山崎丸という独立曲輪群があって、言わば本丸に対する出城のような役割を果たしていた。
2つの尾根は山頂の大嶽で結接。この大嶽は浅井亮政築城時の古本丸だとする説と、福寿丸・山崎丸と同様に本丸の出城だとする
考え方がある。また、大嶽の東に繋がる支尾根の頂部(標高385m)にも月所丸と言う出曲輪がある上、本城域の尾根と福寿丸・山崎
丸の尾根に挟まれた谷戸にも屋敷があったと言われており、小谷山は全域に防御施設が展開する大要塞になっていたようだ。なお、
六坊には6つの寺を集約(故に“六坊”の名がある)、山王丸には山王神社を祀ったと言われ、小谷城が城下の諸宗教権力も内包して
浅井氏による集権化を図ったと見る向きもある。当時、石垣の構築技術は宗教勢力の特権であったと言われており、それが小谷城に
使われているのは、このように寺社勢力の従属を成しえたからこそだとも考えられ申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

お市の方、無残■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後の小谷城は、皆様ご存知の通り悲運の落城を迎える。信長にとっては上洛の邪魔、長政にしてみれば父祖以来の宿敵である
六角氏を共同で屠ったまでは良いが、義兄・信長が次の攻略目標を越前の朝倉氏とした事で長政の状況は一変する。浅井と朝倉は
祖父・亮政以来の盟友であり、長らく友好関係を築いてきた間柄。しかも信長が朝倉攻略を長政に無断で始めたため、浅井家臣団は
信長に不信感を抱いてしまった。ここに来て隠居したはずの久政までもが介入するようになり、長政は苦境に立たされる。長政自身は
強大な信長に敵対するを良しとしなかったようだが、先の見えぬ父・久政や家臣は信長との断交を主張。様々なしがらみに縛られた
長政は止むを得ず信長との長く辛い戦いに流されていく。1570年(元亀元年)4月、越前出兵の信長に対して背後から浅井勢が攻め
かかった。この裏切りに信長は激怒、状況を見て一旦は撤兵したものの、すぐに態勢を立て直して浅井・朝倉との全面戦争に入る。
同年6月21日、織田軍は小谷城下を焼き討ち。更に28日、朝倉の援軍を得た浅井軍と、徳川の援軍を率いた織田軍が姉川河川敷で
激突。これが姉川の合戦である。結果は徳川勢の奮闘によって織田軍の勝利となり、浅井・朝倉軍は敗走する。この戦いで浅井勢は
勇将・遠藤喜右衛門直経(なおつね)が戦死してしまった。直経は織田家との同盟成立当初から信長の暗殺を主張、徹底的に信長を
敵視していた人物。その読みは正しかったのか、結果的に長政は信長の手によって滅ぼされる訳だ。■■■■■■■■■■■■■
姉川の合戦後、信長はなおも小谷城に居座る長政を攻略するため木下藤吉郎秀吉に付城(敵城に対する攻略・監視の城)・横山城
(長浜市内)の城代を命じて小谷城の監視に当たらせた。横山城は姉川の南岸にあり、小谷城とは約9kmの距離。北国街道や中山道、
北陸脇往還などを封鎖して小谷城を南から締め上げる事が可能な位置に存在している。これを見た長政は防備を固めるべく小谷城を
拡張、援軍の朝倉軍も独自の陣地を構築した。福寿丸や山崎丸はこうした経緯で築かれたと考えられ、福寿丸の名は朝倉の将・木村
福寿庵から、山崎丸は同じく朝倉家の実力者・山崎長門守吉家が守備した事に由来するそうだ。大嶽にも朝倉勢の主力が入渠した。
秀吉側も負けてはおらず、大小の砦を築いて小谷城一帯の浅井・朝倉軍を包囲する。この包囲合戦は3年の長期に渡ったが、その間
浅井方の諸将が徐々に織田方へと寝返り、それに応じて秀吉の包囲網は小谷城に迫っていく。■■■■■■■■■■■■■■■■
1573年(天正元年)8月8日ついに信長本隊が岐阜城(岐阜県岐阜市、当時の信長居城)を出陣。小谷城の北側へ回りこんだ信長は
まず朝倉の援軍を叩き潰し、そのまま越前の朝倉本拠へ侵攻した。8月20日、朝倉の本城である一乗谷城(福井県福井市)が落ちて
朝倉氏は滅亡する。然る後、信長は小谷城へ取って返し総攻撃を開始。27日、秀吉率いる3000の兵が山中を直登し京極丸を占拠。
先に「攻め上がるには下の曲輪から順番に攻略するのが基本」と記したが、秀吉はその策を採らず、いきなり中間の曲輪を押さえて
しまったのである。恐らく、城内に内通者を募り手引きさせたのだろう。“人たらし”秀吉お得意の作戦だ。ともあれ、これにより久政が
陣取る小丸と、長政の居所である本丸の間は分断されてしまった。本丸の裏に大堀切がある事が災いして、長政は京極丸の秀吉を
撃退できず、連携の取れなくなった浅井勢は各個撃破の対象となる。追い詰められた久政は自害し、それを知った長政も9月1日に
自刃している。この時、秀吉は長政を降伏させようと「父の助命が条件」とする長政に「久政はまだ生きている」と方便を突くものの、
程なくその嘘がバレ、長政は赤尾屋敷で切腹したと言う。なお、従前この自害(小谷城落城)は8月28日の事とされてきたが、近年の
再検証で9月1日だったとの説に改められている。斯くして、江北に覇を唱えた浅井氏は3代で滅亡した。ちなみに、市姫と3人の娘は
長政自身の意向で信長の許へと送り返された。政略結婚と言えども仲睦まじかった長政夫妻は、せめて姫だけでも生き延びる事を
望んだのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃城、沈黙の聖地に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして近江・越前は信長の勢力下に入り、江北は秀吉が領有する事となった。秀吉はいったん小谷城に居を構えたが、山中険しい
山城では領国経営に不便だとし新たに長浜城(長浜市内)を構築、それに伴い小谷城は廃城になった。これと前後して、自身の姓を
木下から羽柴に改める。これは織田家重臣・丹羽五郎左衛門尉長秀と柴田権六勝家から一文字ずつ頂戴し「羽」「柴」としたもので、
当時はまだ“成り上がり者”の端くれに過ぎなかった秀吉の政治工作(ゴマすり)だったのだが、いずれにせよ小谷城の落城が秀吉に
“一国一城の主”という地位を与え、「羽柴筑前守」さらに「関白・豊臣秀吉」としての立身出世を極める栄華の第一歩となった訳だ。
廃城に伴い、小谷城からは建材や石垣石材などが長浜城へ流用され、それらの一部は更に他の城の資材に転用されている。中でも
有名なのが彦根城(滋賀県彦根市)西ノ丸三重櫓で、長浜城へ移された小谷城天守の古材が再利用されたと伝承されている。但し、
近年の科学的検証においては、この説には否定的見解が立てられている。真偽は兎も角、この櫓は1951年(昭和26年)9月22日に国
重要文化財となった。他に“長沢御坊”こと滋賀県米原市にある浄土真宗布施山福田(ふくでん)寺の書院は浅井長政から寄進された
小谷城居館部の建物が由来だとかで、浅井御殿と呼ばれている。桁行16.29m×梁間12.07m、茅葺入母屋造りで1961年(昭和36年)
4月26日に滋賀県指定有形文化財とされている。長浜市内にある曹洞宗小谷山(しょうこくさん)実宰院(じっさいいん)にも小谷城から
移されたと伝わる山門があり、極めつけは浅井歴史民族資料館で「小谷城落城を再現したジオラマ」の中に使われている門扉は長き
流浪の末にそこへ収蔵された本物の小谷城脇門の扉なんだとか。この移転歴には諸説賛否あるそうだが、果たして真実や如何に?
一方、秀吉の栄達と引き換えに長い眠りに就く事となった小谷城跡は風雪に埋もれ、自然の山林へと変貌していったが、手付かずの
遺構は1937年(昭和12年)4月17日に国史跡と指定され、2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の
1つに選出された。それまではひっそりした山の中に曲輪・堀の跡や石垣などが残っているだけだったのが、百名城選出以降は史跡
整備や観光振興が行われるようになり、現在では山麓に戦国歴史資料館などが建てられている。戦国大名の居城山城として貴重な
存在なのは勿論、その規模の大きさにも驚かされ、全域を回るとなれば1日がかりでも足りない位でござろう。2017年(平成29年)3月
25日には直近に北陸自動車道「小谷城SIC」も開業し、ますます交通の便が良くなったのも有り難い。熊出没注意!■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
彦根城西ノ丸三重櫓(伝小谷城天守の再移築)《国指定重文》
福田寺御殿(浅井御殿、伝小谷城御殿移築建築)《県指定文化財》
実宰院山門(寺伝では小谷城城門)・伝脇門扉(浅井歴史民族資料館内保存品)








近江国 虎御前山城

虎御前山城 織田信長本陣跡

 所在地:
(湖北町域:
(中野町域:
滋賀県長浜市湖北町河毛・湖北町別所・中野町
旧 滋賀県東浅井郡湖北町河毛・別所)
旧 滋賀県東浅井郡虎姫町中野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★■■



虎姫の嘆きと、小谷城攻略最前線■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小谷山の南南西方向、山裾同士が密着する位に近い位置にあるのが虎御前山(とらごぜやま)。古くは長尾山と呼ばれ、平野の中に
単独で存在する小山だ。その昔、長尾山の山中にある井筒(いつづ)という泉の畔に住んでいた娘が、世々聞(せせらぎ)長者という
若者と愛し合うようになり結婚したものの、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末この山の淵に
身を投げて死んでしまったそうな。娘の名は虎姫(とらひめ)と言い、この山が虎御前山または虎姫山と呼ばれるようになった由来と
伝えられている。長浜市に合併する前の町域「虎姫町」という町名も、この悲話に基づいている。■■■■■■■■■■■■■■■
八相山(やあいやま)とも呼ばれる虎御前山は、歴史を遡ると多数の古墳が構築された山で、現在も虎御前山城としての遺構の中に
いくつも古墳が残存、「信長馬場古墳群」と名付けられた円墳・方墳・前方後円墳などが見て取れる。更には、室町幕府の草創期に
初代将軍・足利尊氏とその弟・左兵衛督直義(ただよし)が主導権争いに火花を散らした観応の擾乱(かんのうのじょうらん)において
1351年(正平6年/観応2年)9月12日、この山に陣取る直義軍へ尊氏軍が攻撃をかけ、直義方が敗退し越前へ逃亡すると言う八相山
合戦が起きている(八相山というのは虎御前山の南半分を指すとも言われ、この戦いはそこで行われたと考えられる)。周囲からは
屹立し、見通しの利く山は利便性に優れており、故に古墳や合戦の舞台となったのだろう。恐らくは浅井氏も何かしらの城砦を構えた
可能性も考えられるが、歴史上で虎御前山城の築城が確認されるのは、上記の通り織田軍による小谷城包囲戦の最中だ。1570年、
姉川の戦い以降小谷城を締め上げていく織田軍は前線基地として多くの付城群を構築していくが、その1つがこの虎御前山城であり
築城されたのは攻防戦最終盤の1572年(元亀3年)8月。浅井軍に肉薄していく木下秀吉はここに陣城を構え、小谷城の眼前へ迫る。
虎御前山の山頂(標高224m)と小谷城出丸との距離は1km弱、山麓間の平野部は僅か500mに満たない至近距離である。現在、この
細い平野部に北陸自動車道と国道365号線が走るのみで、まさしく“狭い通路”でしかない地形だ。当時、この狭隘部には小谷城の
城下町があったとされるが、そのすぐ隣にまで織田軍が陣地を構えたとあれば、小谷城下の民は既に浅井軍の庇護を受けられない
状況に陥っていた訳で、浅井家の統治体制が崩壊した事を意味する。武田信玄を退け、暗躍していた将軍・足利義昭を追放した上
浅井家の諸将も次々と寝返り、機は熟したと判断した信長は1573年8月8日、この虎御前山陣城へ入り小谷城総攻撃の軍議を練る。
朝倉勢の敗退を契機にまず越前を平定(20日)、取って返して26日に再び虎御前山城に帰陣。そして27日から小谷城への総攻めが
開始されるのである。虎御前山城で督戦する信長の前で、木下秀吉が電撃的な攻略戦を果たしたのは小谷城の項で記した通りだ。
斯くして小谷城は陥落、これで付城としての役割を終えた虎御前山城は廃城となった。後年、賤ヶ岳の戦いにおいても用いられたと
考える説もあるが、これは不明な点が多く確認は取れない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城内の遺構を楽しむ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
虎御前山は南北に長い形をしており、その長さは2kmにも及ぶ。半面、東西方向には殆んど幅が無く最も広い部分でも800m程だ。
必然的に尾根が一直線に延びる山容で、北辺に近い山頂に主郭を置き、稜線沿いにいくつもの曲輪が並ぶ連郭式の縄張を持つ。
一つ一つの曲輪が織田軍の各部将の持ち場、つまり陣跡とされており、現場の解説では北から柴田勝家〜羽柴秀吉〜織田信長
本陣(ここが山頂)〜堀久太郎秀政〜滝川左近将監一益(たきがわかずます)〜丹羽長秀〜蜂屋兵庫助頼隆(はちやよりたか)〜
多賀信濃守貞能(たがさだよし)の陣跡だとか。このうち、特に堀秀政陣跡・信長本陣・羽柴秀吉陣跡は曲輪の周囲を土塁で囲って
導入部を堀切で切断するなど技巧的である。山の中枢部だから念入りな造成が行われたのか、若しくは賤ヶ岳合戦時?の改変を
受けたものなのか、諸説分かれる所である。なお、これらの人名を当てているのは推測に拠るものらしいので、必ずしも本当にその
武将がその陣を守っていたのかは不明。小谷城を臨み帯曲輪まで備えている羽柴秀吉陣跡こそ信長本陣だとする説もある。城内
各所には礎石建物跡も検出されており、陣城とは言え恒久的な建築物が備えられていたらしく、信長が“総攻撃の指揮を執る”のに
相応しい城郭となっていたと考えられよう。信長の伝記「信長公記(しんちょうこうき)」にも、虎御前山城(砦)の出来栄えを称賛する
文言が書かれてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、麓の南端から車道が通じていて虎御前山公園(ここが丹羽長秀陣跡)までは車で入れる。駐車場も完備。そこからは徒歩で
北側の曲輪群を見て回る事になる(もちろん、入山の時点から徒歩で入るのも良いだろう)が、遊歩道が整備されているので危険な
行軍にはならない。一応、古墳上に作られた滝川一益陣跡にNTTの通信塔が設置されているのでそこまで車道は繋がっているが、
これは業務用車両の専用道のようなので公園駐車場で留めておくのが吉。むしろ、古墳を横目に歩きながら先に進む方が、次々と
名の知った武将の陣地が現れて来るので楽しく巡れてオススメだ。小谷城とは反対方向になるが、南側の眺望を見れば織田軍が
啓開したと言う軍道が現在まで使用されている様子も確認できる。城は廃されても、その歴史は地元に脈々と受け継がれている。
城山は1981年(昭和56年)2月19日、当時の虎姫町(現在は長浜市)指定史跡となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■
余談だが、蜂屋頼隆陣跡の傍には現在展望台が設置されている。で、ここから何を見るのかと言うと、眼下の田圃に毎年描かれる
田圃アートの画像。と言っても田圃の一角に、ささやかな絵柄が作られるので某青森や某埼玉の巨大作品とは全く違う物なのだが
これはこれで“地元密着な田圃アート”なので面白い。夏〜初秋までが見頃。期間限定なので、その時季には是非ご覧あれ♪■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








近江国 宮部城

宮部城址碑

 所在地:滋賀県長浜市宮部町
 (旧 滋賀県東浅井郡虎姫町宮部)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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「善祥坊継潤」の宮部氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田軍の攻勢により小谷城が締め上げられ、浅井家臣の中から秀吉の下へ寝返る者が出始める。そんな者の中に名が挙がるのが
宮部善祥坊継潤(みやべけいじゅん)である。と言っても単なる裏切者という人物ではなく、以後の秀吉幕下では柱石となり、遂には
豊臣政権の中で奉行並みの格式を有するまでの重鎮となったのだから只者ではない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宮部氏は湯次(ゆすき)下庄の庄司として起こった家で、湯次下庄と言うのは現在の長浜市湯次町(宮部町の隣にある町域)にある
湯次神社の管理下にある荘園。つまり湯次神社の神官一族が宮部氏の祖であり、これが宮部にも勢力を伸ばし新たに宮部神社を
創建、それにより宮部氏となったそうだ。中世は神仏習合であったため“社僧”と言う存在の宮部氏は、荘園管理者として伊香郡用水
(近江北部、高時川から分流する農業用水網)の運営にも関与したと考える説もあり、宗教・農業など様々な権益を以って地域支配を
深めていったのであろう。継潤は元々近江国坂田郡醒ヶ井(現在の滋賀県米原市醒井)の国人・土肥刑部少輔真舜の子に生まれ、
湯次神社僧侶・宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行、後に宮部へ戻り、浅井長政の家臣として働くようになった。この頃に
宮部神社一帯を強固に要塞化。これが宮部城で、継潤の居城となるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、主家・浅井家は織田家との同盟そして決別という運命を辿る。継潤も長政配下として織田軍と果敢に戦ったそうだ。ところが
織田軍の攻勢が激しくなると次第に耐え切れなくなり、1572年10月に秀吉の降誘に乗って寝返る事となる。この折、秀吉は継潤との
信頼を証する為、甥の治兵衛を継潤に託した。その為、治兵衛は宮部次兵衛尉吉継(よしつぐ)と名乗る事となる。形の上では養子、
実質的には人質を取った継潤は、秀吉の信に応うべく以後は浅井勢と激しい戦いを繰り広げた。寝返り早々、それまで同僚であった
浅井家臣・野村兵庫が守る国友城(長浜市内)を攻め、逆に銃撃を受け重傷を負うという戦いぶりを見せる。国友は落とせなかった
ものの、この傷は“織田への忠誠の証”として十分な成果となっただろう。1573年になると浅井勢が宮部城を攻めに来たが、継潤は
守りに努め、そこへ秀吉が援軍に駆け付け浅井軍を撃退すると言う経緯を辿った。「信長公記」の中では1572年8月〜9月の段階で
信長から宮部村の要害を守るよう命じられた、とされている。虎御前山城の項で記した織田の軍道というのも、宮部と三川(みかわ)
集落を結ぶもので、三川は虎御前山城の麓にある集積拠点、宮部はその南に姉川の渡河点を有する重要拠点であり、即ち美濃や
京都方面から小谷城包囲戦の最前線へ物資・兵員を送り込む一大軍事ルートの中、浅井勢の攻勢範囲にある姉川の往来を堅持
するためには必須の防衛地点だったのが宮部城だと言えるだろう。秀吉が横山城から虎御前山城へと前線を押し上げられたのも、
(他の浅井方諸将が寝返ったのもあるが)宮部城が担保できる状況、つまり継潤が味方についたからこそなのかもしれない。故に、
驚喜した秀吉は継潤を繋ぎ止めるべく治兵衛を人質に出したのだろう。通常、攻めているのは秀吉側なのだから寝返って来た国人
「から」人質を取る筈なのに、この事例では逆に降伏してきた継潤「へと」人質を出しているのである。当時、秀吉がどれだけ宮部城を
確保するのに必死だったかが分かる話でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浅井家が滅亡した後、秀吉が長浜城の主となるや継潤には3100石が与えられた。これは羽柴家中において4番目の序列に当たり
(羽柴小一郎秀長・浅野弥兵衛長政・蜂須賀小六正勝の次)秀吉が継潤を重視していた様子が良く分かる。この後、秀吉が信長の
命令で中国地方の攻略を担当するようになると継潤もそれに従い転戦、鳥取城(鳥取県鳥取市)攻略戦などで重用され、後の豊臣
政権で重役となる素地を培う事になるが、反面、城主の居なくなった宮部城は元の神社へと戻ったようである。現在、宮部神社は
宮部町(宮部集落)の入口を守るかのような存在感を見せているが、しかし城跡としての遺構は然程に見受けられない。かろうじて
宮部神社の裏には疎水が流れており、恐らくこれが濠の名残なのかと思える程度だ。ただ、地図(航空写真)を見れば宮部集落は
整然とした町割りになっているので、もしかして平城たる宮部城の曲輪割りがその形だったのか?と想像すると、かなり大掛かりな
城域を誇った堅城だったのかもしれない。写真は宮部神社境内にある城址碑。後ろに鳥居が見えるので神社内なのだとお分かり
頂けるだろうが、この石碑…実に撮影し難い位置にあって困る(笑)木陰で被写体は真っ黒だし、しかも見付け辛い場所、オマケに
中腰にならないと撮れない中途半端な大きさ―――それがどれほどの物なのかは、実際にご覧下さればw■■■■■■■■■■
ところで、人質に出された治兵衛は小谷城攻防戦の終決後に秀吉へと戻された。その後、今度は畿内での政略のため三好氏へと
送り出されて(これも人質)、三好孫七郎信吉(のぶよし)と名乗る事に。これも用が済めば送り返され、最終的には…悲劇の貴公子
関白・豊臣秀次として人生を終える事になる。最初から最後まで、秀吉の“手駒”として使い捨てられた人生であった。合掌。■■■



現存する遺構

堀・郭群




長浜城  近江八幡城