近江国 長浜城

長浜城模擬天守

 所在地:滋賀県長浜市公園町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★★☆



長浜前史―――「今浜」の時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2010年(平成22年)1月1日、平成の市町村合併としてはかなり遅めの時期だが長浜市は東浅井郡・伊香郡を全て吸収し、滋賀県の
湖北地域(琵琶湖の北岸)を統一する大きな市となった。更に遡れば、滋賀県で3番目に市制を敷いた(1943年(昭和18年)4月1日)
歴史ある、賑わいのある市と言える。この長浜市、中世まで遡ると今浜と呼ばれる町で、彼の地に初めて城が築かれたのは南北朝
時代の事だ。1336年(延元元年/建武3年)「婆娑羅大名」として有名な佐々木道誉(どうよ)こと京極四郎左衛門尉高氏が築城して、
後に江北守護・京極氏の配下である今浜氏や上坂(こうざか)氏が守っていたとされる。だが戦国時代の到来と共に京極氏は衰退、
江北は京極家臣団が相争い主導権を取り合う状況に陥っていく。こうした中で守護・京極中務少輔高清の腹心である上坂治部大夫
景重(家信の事か?)は他の国人衆と対立を深め、1501年(文亀元年)今浜にて合戦を行ったと言う。この戦乱は1505年(永正2年)
和睦に及んだが、家信の次代・治部大輔信光の頃に再燃し1523年(大永3年)にも再び今浜城の戦いが発生した。今度の戦いでは
上坂勢は敗退。上坂家と京極高清は一蓮托生の関係にあり、また数度に及ぶ戦いは京極家の家督争いに端を発していたので、翌
1524年(大永4年)高清や信光は国を棄て尾張へと逃亡したのだった。斯くして今浜城は廃絶したらしく(詳細は不明)、守護・高清を
追放した国人衆の中から浅井備前守亮政(あざいすけまさ)が台頭、江北は戦国大名化した浅井家の領土となっていき申した。■■
その浅井家は険峻な山城である小谷(おだに)城(長浜市内)を本拠に、下野守久政(ひさまさ)―備前守長政(ながまさ)と代を継ぐ。
江南の戦国大名・六角氏との抗争を繰り広げる中で着実に勢力を広げ、長政の実力を見込んだ織田上総介信長は妹のお市を彼に
嫁がせ同盟を結ぶ程であった。織田・浅井同盟の実現により信長は美濃を攻略したばかりか、上洛して足利義昭を室町15代将軍に
推戴する事も成功させている。しかしその後、長年の縁戚である越前の大名・朝倉氏とのしがらみから長政は信長と破約するに至り
結果として1573年(天正元年)8月〜9月の戦いで小谷城は落城、浅井家は滅亡した。一連の小谷城包囲作戦では信長の家臣・羽柴
藤吉郎秀吉が大いに活躍し、また小谷城への総攻撃に於いても主要曲輪を早期に占拠する大功を挙げている。この戦功に対して、
信長は秀吉に浅井家の旧領である小谷一帯を与えた。斯くて秀吉は念願の“城持ち大名”に出世したのである。■■■■■■■■

秀吉、長浜の町を創る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
入封に際して、秀吉は山深く城下町経営に不便な山城の小谷城を廃し、かつての今浜城跡地を改修し新たな居城を築いた。また、
「今浜」の名を信長から一字拝領し「長浜」に改める。秀吉が「主君へのゴマスリ」と言える政治的パフォーマンスを行った事により、
現在に続く長浜という町の名が成立するのである。1573年から開始された築城は1576年(天正4年)頃に完成し、秀吉が入城。長浜
城下では免税施策が採られ大いに経済発展していくが、これには秀吉の妻・寧子(ねね)の献策が大きかったと言う。これぞまさしく
“内助の功”と呼べる賢妻が居てこその「秀吉出世の第一歩」となった城だった訳だが、このように「(現代風に言えば)経済特区」の
効果を肌身を以って実感する事が、後の天下人となる素養や経済力を育てたのは事実だろう。また、長浜期の秀吉は宮部中務卿
継潤(みやべけいじゅん)・田中久兵衛吉政・増田仁右衛門長盛(ましたながもり)・大谷刑部少輔吉継それに石田治部少輔三成と
言った“近江衆”と呼ばれる子飼いの家臣を発掘、これが後に豊臣政権の柱石になっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■
そうした中で1582年(天正10年)6月2日、本能寺で信長が明智日向守光秀の謀反に遭い急死。当時、秀吉は中国地方へ出陣中で
長浜城には寧子ら秀吉の身内だけが残っていた。明智勢は畿内の地盤を固める為、長浜への侵攻が予想されたが留守を預かる
寧子は“多勢に無勢”と迷わず城を放棄し逃げ延びる。故に明智方の武将・阿閉淡路守貞征(あつじさだゆき)は当城を無血占拠。
後に秀吉が畿内へ帰還、山崎の戦いで明智勢を破ると城は奪還され、光秀に加担した貞征は処刑となり長浜の平穏は守られた。
しかし、信長没後の所領配分を決めた清洲会議では秀吉に代わって柴田修理亮勝家が江北を領する事となり、勝家の甥・伊賀守
勝豊(かつとよ)が長浜城主となった。だが勝豊は養父となった勝家とは不仲だったらしく、それを突いて秀吉は勝豊を懐柔する。
結果、勝豊は勝家を裏切り秀吉に城を明け渡すのだが、それを契機として賤ヶ岳の戦いの戦いが勃発し秀吉と勝家の全面対決に
至る訳だ。斯くして、勝家を倒した秀吉が天下人の地位に躍り出るようになり、長浜城はこうした意味でも「秀吉出世の城」としての
重要な鍵となったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1585年(天正13年)に秀吉家臣の山内対馬守一豊(やまうちかつとよ、やまのうち、かずとよとも)が長浜城主に任じられる。これは
秀吉の甥で当時はその後継者と目されていた羽柴右近衛権少将秀次(豊臣秀次)が近江国を与えられ、一豊が秀次の宿老として
据えられた事による。一豊は他の所領も有する中で長浜城を居城としたが、この年の11月29日に近畿地方〜中部地方一帯を天正
大地震が襲い壊滅させ、長浜城も甚大な被害を受けた。この被災で一豊は一人娘の與禰(よね)姫を失っている。■■■■■■■

江戸時代の“商都”長浜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代が進み徳川幕府成立によって近江の首府が彦根城(滋賀県彦根市)へと移る中で、1606年(慶長11年)徳川譜代家臣の内藤
豊前守信成が駿河国駿府(静岡県静岡市)4万石から異動を受け長浜城主に任じられる。信成は三河一向一揆・三方ヶ原の戦い・
長篠の戦い・小牧長久手の戦いそれに小田原征伐など、徳川家康歴戦の戦いに参加した勇士であったが、長浜入封の翌年である
1612年(慶長12年)7月24日、長浜城内で病没した。その為、城主(家督)は長男・紀伊守信正(のぶまさ)が継承。信正も父に劣らぬ
勇将で、大坂の陣においても活躍した。この功績で1615年(元和元年)閏6月、内藤家は摂津国高槻(大阪府高槻市)に転封となり
元和偃武(徳川幕府が完成させた天下泰平)による一国一城令(全国の城を整理統合する命令)もあって、これを機として長浜城は
廃城となった。破却に伴い、建物や石材などは彦根城へと移設される事になったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、長浜は商人町として隆盛する事となった反面、城の跡地は耕作地へと変貌したと言う。その耕作地も近代化で市街地となり、
主郭部は琵琶湖に洗われた事もあって、現状で城址の明確な痕跡は残されていない。琵琶湖に浮かぶ島のような主郭に繋ぐような
帯曲輪が陸地から延び、琵琶湖沿岸部にも何重もの堀を巡らせた大掛かりな曲輪群があったと想像されている縄張り。当然、湖の
水運を担う港も城に内包されていた筈だ。長浜城は秀吉の統治拠点、商業都市、そして港湾城郭としての面を兼ね備える城だった
訳だが、近世以降は商業都市一本で成り立つようになった事が皮肉にも町の原初となる城を滅失させる理由となった。現状、堀は
埋め立てられ、主郭は陸地に飲み込まれ、JR長浜駅の西側一帯(主郭外縁部?)が「豊公園(ほうこうえん)」と呼ばれる公園となり
市民の憩いの場となっている。この公園は1909年(明治42年)に開園、豊太閤(太閤豊臣秀吉)所縁の旧城址として豊公園と名付け
られたもの。1983年(昭和58年)に天守を模した市立長浜城歴史博物館が建てられている。館内では長浜城や秀吉関連の史料が
展示されている他、豊公園の敷地内に長浜城の埋没石垣遺構の移設展示、更には琵琶湖畔の波打ち際に“太閤井戸”と呼ばれる
井戸跡が残されている。但しこの井戸は後の耕作地化に伴う農業井戸だとする説もあり、必ずしも城郭の遺構かどうかは不明だ。
(そもそも、湖に面した城で井戸を掘る必要があったのか?)一応、長浜城跡としては1962年(昭和37年)9月7日に長浜市の史跡と
指定されている。また、近年では豊公園の再整備事業が計画されており、それに伴い園内各所で発掘調査も行われている。新たな
知見に拠れば、長浜城の実態に関して再考察が為される可能性もあろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で、移築遺構と伝わる建築物には有名なものが。彦根城の天秤櫓は長浜城から移されたもので、こちらは1951年(昭和26年)
9月22日に国指定の重要文化財となっている。また、長浜市内にある浄土真宗長浜別院大通寺の台所門(矢の根門)は長浜城の
大手門だったそうで、これは本瓦葺の三間一戸薬医門。1966年(昭和41年)12月9日に長浜市指定文化財とされた。更に同市内の
天台真盛宗宝生山知善院の表門は長浜城の搦手門だったとか。これも1966年12月9日、長浜市指定文化財に。三間一戸棟門で、
屋根の正面は本瓦葺、背面は桟瓦葺となっている。とまぁ、戦国期の城郭としてはかなり明確に建物が残されている部類であるが
中でも大通寺は現在の長浜市街地における中心的な観光名所であり、かつての城郭建造物がそこに移されて今なお生き長らえて
いると云うのは、城から寺へと町の拠り所も移った様子を如実に表していて興味深い。城の時代が終わって、民衆の活力で繁栄を
築き上げた町―――それが長浜という町の本質だという事なのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・郭群
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
彦根城天秤櫓《国指定重文》
大通寺台所門(旧大手門)・知善院表門(旧搦手門)《以上市指定文化財》




彦根城  小谷城周辺諸城館