近江国 彦根城

彦根城天守と玄宮園

 所在地:滋賀県彦根市金亀町・尾末町・城町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★☆
★★★★☆



近江の“新首都計画”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で金亀(こんき)城。城が築かれた山は元々「金亀山」と呼ばれており、確かに亀が泳いでいるような敷地だった事から
名付けられたものであろう。徳川幕府重臣・井伊家歴代の居城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中世、琵琶湖の水運は首都・京都への物流・情報集積路として重要なものだった。そんな琵琶湖の東岸、陸路で中山道や
北国街道(北陸道)とも結節する要衝たる彦根の地は、豊臣政権時代は豊臣秀吉直臣の行政官僚・石田治部少輔三成が
佐和山城(彦根市内)を築いて治めた近江国の重要拠点だ。「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と
呼ばれたほどに絢爛豪華な佐和山城であったが(ちなみに島左近勝猛(しまかつたけ)は三成配下の勇将)、関ヶ原合戦で
三成率いる西軍が敗れたため所領は没収、彼は斬首された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三成に代わってこの地を拝領したのが徳川四天王の1人、井伊修理大夫直政。関ヶ原合戦の戦功により18万石でこの地を
与えられたのだが、“徳川譜代の先鋒”として西軍首魁である三成の知行地を治めるよう命じられた訳だ。佐和山は上記の
ように水陸交通の要所であり、これから徳川幕府が全国統治を進めるには大坂の豊臣家はじめ西国諸大名を抑え込む為
東日本への関門となる当地を絶対的防御拠点にする事を見据えての戦略だ。直政は三成の統治を払拭すべく佐和山城を
破却し、彦根山(金亀山)に新城を計画した。「目に見える形で」時代の覇者が変わったと示すべく、三成の城を廃し井伊家
(徳川幕府)の新しい城を築くのである。築城直前の1602年(慶長7年)2月1日、関ヶ原戦時に受けた鉄砲傷が元で直政は
死去するものの、彼の長男・兵部少輔直継(なおつぐ)が事業を引き継ぎ、1603年(慶長8年)から徳川幕府の威信をかけた
工事が開始される。琵琶湖水運を押さえ、京の都や豊臣氏に対抗する最重要拠点としてありとあらゆる資材が投入された。
天守は大津城(滋賀県大津市)天守、天秤櫓は長浜城(滋賀県長浜市)大手門、太鼓門櫓は佐和山城門、西ノ丸三重櫓は
小谷城(滋賀県長浜市)天守の移築と言われ、石垣の石材も安土城(滋賀県近江八幡市・東近江市)から持ってきたものと
考えられている。近江国内各所の名城を統合する事で、近江における“新首都建設”を喧伝する意図もあったのだろう。畿内
各所に睨みを利かせる彦根城の建設は、徳川幕府にとって今後の政権運営を安定化させる最重要課題であり、幕府からも
普請奉行が派遣されたのみならず、諸大名にも手伝い普請を申し付ける「天下普請」として工事が行われた。■■■■■■

戦う近世城郭!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高113mの山頂に天守を築いて本丸を構えた平山城で、細長い丘陵部沿いに鐘ノ丸や西ノ丸を付随させた縄張り。さらに
山腹の森でこれらの曲輪を隔絶させて、麓には藩主御殿のある二ノ丸、家臣屋敷の三ノ丸を作り、濠を回し防御している。
城の南東側に表門、南西側には大手門を開くが、いずれも山を登ると天秤櫓直下の大堀切に合流。この大堀切に敵を集め
上にある櫓群から一気に制圧する仕掛けだ。大堀切からぐるりと鐘ノ丸へ回り(本丸側から背を向ける形になる)、大堀切を
橋で渡って天秤櫓を突破しないと本丸へは入れないが、最終手段としてその橋を自落させてしまえば堀が渡れなくなるので
本丸への侵入は完全に不可能となる。戦国期の山城と同様の迷宮が構えられている訳で、近世城郭である筈の彦根城が
実戦を重視した第一級の戦闘要塞として機能していた事を物語る。城の搦手口(北東側)からの攻略も、同じように西ノ丸
直下の堀切に誘い込まれ、そこで封殺するようになっている。また、山の斜面を回り込む敵を阻害する為に、山腹各所には
登り石垣も備えられているのだが、これは秀吉の朝鮮出兵において倭城(わじょう、朝鮮占領地で日本軍が築いた城郭)で
多用された“最新技術”であり、彦根城が築城時点における多様な築城理念を吸収して作られた証だ。濠の外周に沿った
塁壁では鉢巻腰巻石垣(土塁の上端部と下端部だけ石垣で固めた構造)を取り入れており、見どころも多い。往時は城の
西側〜北側が松原内湖が入り込んでおり(現在は埋め立てられている)水城としての利点もあった。■■■■■■■■■
これだけの重装備となった彦根城は、第1期・第2期工事を経て1606年(慶長11年)一応の完成を見て城主の直継が入城。
これにて佐和山城は完全に廃された。大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後、直継は弟(直政2男)の掃部頭直孝(なおたか)に
家督を譲り、その直孝は第3期工事を開始し、1622年(元和8年)全ての普請が完了。着工から20年あまりをかけてようやく
彦根城は完成した訳である。同時に三成の佐和山城下町は彦根城下町へ町ごと移されている。直孝の時代、3回に亘って
加増を受け井伊家は30万石を有するに至り、加えて幕府蔵米5万石も預かる任に就き計35万石の格式を誇った。■■■

彦根城主・井伊家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
直孝の跡は彼の5男・掃部頭直澄(なおすみ)が継ぎ、更にその跡を継いだ4代藩主・掃部頭直興(なおおき、直澄の甥)は
1677年(延宝5年)に彦根城外郭部に玄宮園(げんきゅうえん)庭園を造営している。直興の後は掃部頭直通(なおみち)―
掃部頭直恒(なおつね、両者とも直興の子)と代を重ねるが、2人とも早世した為に7代藩主として直興が直該(なおもり)と
名を改めて復帰している。以後、掃部頭直惟(なおのぶ)―主殿頭直定(なおさだ)―備中守直=iなおよし)と継ぐものの、
直≠ヘ病に倒れたので直定が再び藩主に。そして掃部頭直幸(なおゆき)―掃部頭直中(なおなか)―左近衛権中将直亮
(なおあき)―掃部頭直弼(なおすけ)―掃部頭直憲(なおのり)と、明治維新まで井伊家16代の居城として威容を保った。
ちなみに、江戸幕府最高役職である大老は井伊・酒井・土井・堀田の譜代4家からのみ選出されているが、中でも井伊家は
歴代6名が名を連ねている。隠居から当主に復帰した直該は大老再任を受けている程だ。そうした要職就任者のうち、特に
有名なのが幕末の大老・井伊直弼であろう。この直弼、父・直中の14男しかも庶子であった事から、普通なら藩主になれる
筈もない境遇だったのだが、兄らが次々と他家へ養子入りしたり、早世したために家督を継ぎ、遂に大老にまで上り詰めた
人物である。側室の子であるので、彼は彦根城内の槻御殿で生まれ、埋木舎で学問に励んだ。不遇な生まれを自嘲しつつ
いつか世に出る日に備えて勉学は怠らなかった事から、彦根藩主としては善政を敷き大成し大老に取り立てられたのだが
時代は西洋諸国の砲火に怯える頃、幕府の為に大ナタを振るおうとした直弼は諸人の反感を買い落命したのは御存じの
通りである。故に彦根藩は35万石から20万石へと減封され、幕府からも白い目で見られるようになった。跡を継いだ直憲は
父・直弼が幕府に殉じて暗殺されたのに酷な処分を受けた事を不満とし戊辰戦争ではいち早く新政府側に与する。藩祖の
直政が徳川の先鋒として重用されたのに対して直憲はあっけなく徳川に見切りを付けた形ではあるのだが、ともあれこれで
彦根藩は明治政府側として生き残る事に成功した。戊辰戦役の恩賞として1869年(明治2年)6月、直憲は賞典禄2万石を
与えられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

荒廃から保全、そして国宝へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃藩置県後、彦根藩領は彦根県になり、長浜県・犬上県となった後に滋賀県へと統合。彦根城は明治政府の廃城令では
存城の扱いとされ陸軍省の所轄となったが、兵営敷設や古建築の老朽化に伴っていくつかの建物が撤去されてしまった。
このままでは残る全ての建物も売却されて破壊されるのが確実な状況となったが、それを憂う声が上がったため、1878年
(明治11年)10月、彦根巡幸中の明治天皇に大隈重信が城の保存を働きかけ、天皇の下命を得る。これにより城の保存が
決定し、城域は宮内省の管轄(彦根御料所)となった。さらに旧藩主・井伊家に下賜され、1944年(昭和19年)井伊家から
彦根市へ寄付されて現在に至っている。1951年(昭和26年)6月9日、彦根城跡は国の史跡に指定され、同年9月22日には
天守と附櫓および多聞櫓(天守群)・太鼓門および続櫓・西ノ丸三重櫓および続櫓・二ノ丸佐和口多聞櫓・天秤櫓が国の
重要文化財となる。更に翌1952年(昭和27年)3月29日、天守群は国宝指定、1956年(昭和31年)7月19日に中濠・内濠内
約50万uが国の特別史跡になっている。1963年(昭和38年)7月1日に馬屋も国の重文に、2016年(平成28年)3月1日には
史跡範囲が追加指定され申した。 特に馬屋は他の城に現存する例がなく貴重なものと言えよう。これに関連して1957年
(昭和32年)から1968年(昭和43年)にかけて国宝・重文の各建築物が解体修理を受けている。また、1987年(昭和62年)
表御殿が復元され「彦根城博物館」として公開されている。大名庭園である玄宮園・楽々園も1951年6月9日に国の名勝に
指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山頂に輝く国宝天守は小柄ながら切妻破風・千鳥破風・唐破風・華頭(火灯とも)窓の意匠で技巧を凝らし、独特の美観を
醸し出している。3重3階(+地下1階)の望楼型天守には詰め込み過ぎな装飾であるが、これは元の建築が大津城の5重
天守であり、その古材を凝縮して再編した結果だ。天守の昭和解体修理の際、部材に符号が振られている状況を確認し
移築伝承の正しい事が立証されている。また、これらの符号を逆計算した事で、大津城天守の推定立面図も作成された。
一方で最上階の高欄(ベランダ)は実際に外へ出る事が出来ない「飾り」だけのもので、単に移築天守の再構成という話
だけでなく、小さめな天守を豪華に見せようという意図があった様子も物語る。やはり徳川幕府の威光を知らしめるための
喧伝装置が、飾り金具なども多用して山頂に鎮座する天守だったと言う事なのだろう。それでいて天守壁面に備えられた
狭間は外見から分からないように塗り込められており、将軍家の徳を表しているとも言われる。但し、内部には急階段や
隠し部屋が備えられていて、いざ実戦となれば徹底抗戦する為の仕掛けが随所に存在している。こういう遺構を探すのも
彦根城見学の要点であろう。平成以降も天守の修理保全は継続されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2006年(平成18年)4月6日に財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選出されている。かつては第一級の軍事
要塞であった彦根城、現在は第一級の文化財としてその重要度は増していく一方でござる。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

天守閣及び附櫓と続多聞櫓《以上国宝》
本丸太鼓門櫓及び続櫓・天秤櫓及び続多聞櫓・二ノ丸佐和口櫓及び続多聞櫓
西ノ丸三重櫓及び続長櫓・馬屋《以上国指定重文》・玄宮園・楽々園・埋木舎
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定特別史跡
玄宮園・楽々園は国名勝




安土城・伊庭城(伊庭陣屋)・伊庭御殿  長浜城