「近世城郭」の誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
日本史上において欠かせない革命的な城郭としてあまりにも有名な城、安土(あづち)城。それまでの中世城郭が領主の居館や
戦時の要塞としての機能しか無かったのに対し、安土城は武士による中央集権国家機構の政庁として設計された初めての城。
近世城郭の創始たる城だが、所在地である安土山を全山城郭化しており、もちろん戦闘要塞としての側面も持ち合わせている。
南近江は室町時代から戦国時代にかけて守護大名として勢力を根付かせていた佐々木六角氏が所領とし、六角氏は安土山の
隣にある山の繖山(きぬがさやま)に観音寺(かんのんじ)城(近江八幡市内)を築いて権力基盤を強化、戦国大名化していた。
観音寺城は戦国初期の段階から石垣を使用した城造りを行った先進的な城だった。従前、石垣の構築は寺社勢力が特権的に
独占していた土木技術で、その技法は門外不出だったものを六角氏が取り入れた訳で、戦国大名たる六角氏の勢力が如何に
強いものであったかがこれで証明されるのである。現代では「城といえば石垣」くらいに城郭遺物として認知されている石垣だが
当時、武士がそれを用いる事は非常に特殊な事例だった。そんな観音寺城を擁する繖山から尾根伝いに延びる一支峰である
目賀田山(安土山の当時の名前)には、六角家臣である目賀田氏の城・目加田(目賀田)城が作られていたと言われる。1568年
(永禄11年)尾張・美濃を治めていた新進気鋭の大名・織田上総介信長は足利将軍家の忘れ形見・義昭を奉じて上洛、室町幕府
再興を行った。この上洛時、六角氏は信長に敵対して進軍を阻止しようとしたが織田勢の勢いは凄まじく、六角勢は観音寺城を
放棄して逃亡する。必然的に南近江も織田領に組み込まれる事になった。そして信長が天下の形勢を握るようになりつつあった
1576年(天正4年)目賀田氏42代と言われる賀田摂津守貞政は代わりの領地を拝領する事で目加田城を明け渡し、ここに信長は
天下布武の集大成となる新城を計画した。安土城の築城である。「安土」の名は「平安楽土」の意を込めたものだとか。■■■■
信長は宿老にして能吏である丹羽越前守長秀(にわながひで)を総奉行に、大工棟梁として岡部又右衛門を任命して築城開始。
又右衛門は信長の故郷・尾張にある熱田神宮の宮大工にして、代々の岡部家は室町幕府から修理亮(内裏造営と掌る役職)の
職を拝命していたという名工である。この他、羽柴筑前守秀吉や西尾小左衛門義次など織田家重臣が各種奉行職を担当して
築城が進められた。翌1577年(天正5年)には天主が竣工し、1579年(天正7年)頃にほぼ全域が完成したと見られる。本格的な
近世城郭のものとしては史上初となる(天守相当の大櫓や「天守」と称する御殿建築は以前から存在していた)天主は、5層7階
(6階とも)外観に金や朱の装飾を施した絢爛豪華なもので当時最高の人工美を極めていた。天主台は不等辺多角形をなし、
この上に巨大な望楼型天主が建てられて、その秀麗さは宣教師フロイスによって遠くヨーロッパまで喧伝された。天主内部には
当代一流の絵師・狩野永徳の描いた襖絵が飾られ、これもまた贅沢なものだ。さらには多宝塔や能舞台、信長の寝所までもが
設けられていたと考えられているが、本来は物見櫓である天守としては異例の構造。住居として天守を用いたのは、この安土城
天主と豊臣秀吉の大坂城(大阪府大阪市中央区)天守のみである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安土城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は琵琶湖南岸にある標高198mの安土山を啓開して築かれた。現在、安土山の西側には西の湖と呼ばれる琵琶湖の内湖が
接している。当時、山の北側には大中の湖と言う内湖も広がっており、これらの湖を城の背後を固める濠として利用。必然的に
城下町は南側にのみ広がる構造で(東側は繖山が塞いでいる)、戦闘正面を限定するのみならず、城下からの視線を一元的に
集約し「信長の威光を知らしめる」という視覚効果を生じる事になった。山頂に独立天主、そこから本丸・二ノ丸・三ノ丸と下って
入口には多聞櫓と大手黒金門を配しており、山の尾根には八角平・馬場平・茶所・ハ見寺などの拠点曲輪を築いている。城の
縄張りを見ると、他の城と特に異なる注目点は大手道の存在。通常、城郭内の通路というものは敵の攻撃を防ぐために何度も
細く折れ曲がり、侵入者の進撃速度を落とすような工夫がなされるものだが、安土城の大手道は大手門から二ノ丸まで、幅広く
一直線に伸びるものになっている。しかもこの大手道は整然と石段で固められ、侵入者を拒むどころか“堂々たる登城路”となり
大手口から山上部分まで一気に登れるような構造。一説に拠れば、信長は当城に京都から天皇を招きいれる事を計画しており
その行幸に相応しい通路を用意したとも言われる。敵の足止めを狙うような安っぽい通路ではなく、威風堂々たる通路を万人に
見せ付けて信長の天下覇業に揺るぎが無い様子を喧伝しようとしたのだろう。天皇までがこの道を登り“信長に参内”する事に
なれば日本の君主は信長である、という証明にもなる。発掘調査によると本丸御殿は帝の住居である清涼殿と全く同じ造りに
なっていたと考えられ、天皇を招く際の宿館とするに相応しい構造だった。信長は天主に居住していたとなれば、天皇を信長が
“見下ろす”形になり、信長の政治的野望が達成される事になろう。安土城の大手道は戦術的防御機能ではなく、戦略的政治
統制に基づいて造られたのだろうか。一方で、大手道の先、二ノ丸から本丸まで至る道は通常の城郭と同様に屈曲した導線で
城の防御構造に即した造り。大手道沿いには家臣屋敷が並ぶので(詳細下記)、「信長の居住領域だけは堅固に守る」という
意思表示で家臣と信長の区別を明確にして、君臣関係を絶対的なものとする為の大手道構造と解釈する説もある。この場合、
天皇云々という話は度外視される(既に信長は朝廷など眼中に無かった?)理論になるだろう。二ノ丸から本丸への進入路は
尾根を大きく迂回する形にして、しかも本丸虎口には黒金門と呼ばれる大きな多聞櫓門が塞いでおり、当時の防御理論上では
十分に堅固な構造となっていた為、大手道が直線でも守りに遜色はないと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■
安土城で確立される“織豊系城郭(織田・豊臣政権で基幹となった城郭形態)”の三要素は石垣・瓦葺・礎石建物と言われるが
このうち石垣は上記の通り観音寺城で先行して用いられており、恐らく信長が六角氏の城を見て自身の城にも取り入れたので
あろう。建物に瓦を葺くのも、元来は寺社建築のみで城郭建築では板葺きや柿葺きが標準だったが、これも信長が寺院権益を
屈服させて安土城に使ったと考えられる。瓦を葺けば必然的に建物重量が増加するので、従前のような掘立柱建築では支え
きれない。地盤を固める礎石建築となるのも当然の話だが、これは石垣と組み合わせる事で防御性を各段に向上させる結果を
もたらした。このような安土城の成功事例が爆発的に全国へ広がって「城と言えば石垣、瓦の櫓、天守のような高層建築」という
認識が一般的になる。「城=天守」という観念も含め、安土城の概念は現代の日本人にまで浸透する劇的なものとなったのだ。
(注:織豊系城郭の最初の事例は安土城ではなく宇佐山城(滋賀県大津市)と言われる)■■■■■■■■■■■■■■■■
安土山の中腹から麓にかけては上記の大手道に沿って家臣屋敷が多数作られ、安土が織田政権の首都として機能するよう
整えられた。これらの屋敷は柴田権六勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・前田又佐衛門利家ら織田家中の重臣のみならず、当時は
同盟者(大名としては信長と同等である筈)であった徳川家康のものまで在り、信長と家康の関係性を研究する材料になって
いる。こうして信長が「自らに従う者を集約・管理する」支配体制が、その後の大坂や江戸に通じる武家政権の政略的な都市
計画へ発展した事を示していよう。しかし、平成に入ってからの発掘調査で新たに大手口を入った左手の空間が、屋敷地では
なく馬場であった事実が解明されたりしており、安土城の全貌はなお不透明である。■■■■■■■■■■■■■■■■■
政権中枢となる存在だったが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安土は琵琶湖の水運を利用して京まで半日、北陸まで約1日、城下の中山道・北国街道を使えば信長の本拠であった岐阜城
(岐阜県岐阜市)・尾張国にも近く、まさに織田信長の中央政権構想としてはうってつけの適地であった。こうした陸路・海路の
先には織田家に敵対する勢力が控えるものの、破竹の勢いとなっていた織田軍は程なくそれらを平らげるだろう。軍勢を差し
向けるにも、天下の中心に近い安土からならば早急にそれが可能だ。この城を礎に天下布武を実現しようとした信長だったが
1582年(天正10年)6月2日、重臣・明智日向守光秀の謀反に遭い京都・本能寺で横死する。安土城もその混乱の中で焼失して
しまった。光秀軍が放火したとも、敵に奪われる事を恐れた信長の2男・左近衛権中将信雄(のぶかつ)が自焼(失火)したとも、
土民が火を放ったとも言われており、真相は謎のままである。ただ、城内全域が失われた訳ではなかったようで、この時点では
廃城になっていない。信長死後の裁定をした清洲会議で安土城の再建が決められ、織田家後継となった三法師(信長嫡孫)は
安土城を居城にする事とされている。たが豊臣秀吉の勢力拡大に伴って新たに大坂城が建てられ、豊臣政権下では近江国の
首府として近江八幡城(近江八幡市内)が新造された事もあり、必要のなくなった安土城復興計画は霧散してしまった。結果、
1585年(天正13年)頃には廃城となったようである。秀吉が新たな天下人となったため、前権力者たる信長の遺風を廃絶させる
政治的意図もあったと考えられよう。この後、彦根城(滋賀県彦根市)の建設資材として安土城内から石垣材が持ち運ばれた
経緯があり、近年の発掘調査が行われるまでは人知れず風化するに任されていた。現在ではハ見寺遺構と大規模な穴太流
(あのうりゅう)石垣が残るのみだが、日本史上における重要性は消えるはずもなく調査研究が継続されている。■■■■■
城域は国史跡の指定を1926年(大正15年)10月20日に受けたが、この時点では戦前の史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく
「記念物」としての扱いであった。戦後になって文化財保護法が施行された事から、改めて1950年(昭和25年)に国史跡となり、
1952年(昭和27年)3月29日には特別史跡に変更されている。多少の損害があったとは言えど、見事な石垣はかつての栄華を
偲ばせており、2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つにも選ばれた。1989年(平成元年)
以降、20年をかけた滋賀県による発掘調査・復元が一応の完了を見て、江戸時代に部分的な埋め立てを受けた大手道の形を
元に戻す工事も行われている。ただ、安土城全域を調査するとなると百年単位の話になるそうで、それらは次世代での発掘調査
作業に託されている。なお、安土城の敷地内には臨済宗遠景山ハ見寺があり、三重塔・二王門(楼門)が残存。この寺は信長が
城内に建立した寺で、他の城では鎮守の社や堂を備える事はあるものの、寺そのものを創建する例は稀有。当然、寺の境内は
一つの曲輪を成しており、安土城内での防御機能や政治運営に活用されていただろう。三重塔は1901年(明治34年)3月27日、
二王門は1903年(明治36年)4月15日に、上記の如く史蹟名勝天然紀念物保存法での重要文化財に指定されている。■■■■
“夢幻の”天守■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、安土城と言えば天主の推測であろう。信長がキリスト教の聖地・バチカンへ安土城を描いた屏風を贈った記録があり
それが発見されれば第一級の絵画史料となり得るのだが、現物は現在行方不明となっているので、文献資料に頼るしかない。
これらの書面から想定される設計図を現代の建築史家が描き起こしており、安土城天主の想像図は数種に及ぶ。そんな中で
名古屋工業大学教授(当時)だった故・内藤昌(あきら)工学博士が「天守指図」と題された建築図面資料を発見、それを基にし
1980年(昭和55年)安土城天主の復元案を提示した。それに拠れば地階から3階までの4層が吹き抜け構造となり、空いている
空間には多宝塔(仏塔)が設置されていたとされている。確かに、安土城天主台の礎石はその部分だけが抜けており、この論と
一致する点が見受けられる。「天守指図」という書は江戸時代に加賀藩作事奉行の池上右平が元資料を書写したものとされ、
その中には不定形な平面を有する7層建て建築の床面図が描かれていた。この形状が安土城天主台の形と合致するために、
内藤博士は「天守指図」は安土城天主の構造を描いたものと判断した訳だ。一方で、江戸時代に描かれた「天守指図」には
信憑性がない(そもそも安土城天主の図面とは記されていない)として偽書(あるいは誤写の図面)と判断する研究家もおり、
結論は出ていない。個人的には、わざわざ書写してまで残された図面があって、それが安土城天主の平面と一致するならば
(多少の誤差や歪みがあったとしても)それは“記録に残すべき安土城天主の姿”だったのではないかと思うのだが?ともあれ
内藤博士の復元案は有力視されるようになり、1992年(平成4年)のセビリア万博に出展された安土城天主復元模型もそれに
基づいて制作された。この模型は以後、安土城の学習施設「安土城天主信長の館」で保管・展示されている。なお、現在では
20年続いた発掘調査の結果(考古学的視点)からも天主復元の新案が出されるようになっており、それに拠れば天主の裾は
天主台石垣からはみ出して建てられた“懸け造り(京都・清水寺の舞台のように足場を組んで上層の建物を支える構造)”と
なっており、天主中段層にはテラスが備えられ信長が眼下を睥睨するようなものだったと云う斬新な復元案である。■■■■
信長はこの天主を1581年(天正9年)の7月15日、盂蘭盆会(盆祭り)に際して提灯や松明で飾り付け“日本初のライトアップ”を
行ったとか。しかも1582年の正月には安土城内へ一般庶民までも招き入れて見物させ、信長自らが見物料を徴収したそうだ。
防衛施設である城を一般公開するとは大胆な話だが、信長自身はもはや無敵の存在で、この城に攻めて来る者など居ないと
信じていたのだろう。それよりも城の見事さを万民に見せつけ織田政権の強固さを宣伝する意義の方が重要だと考えたのか。
盂蘭盆会のショーアップも含めて、この城は実に見事な政治装置として働いたのだ。しかし、信長が急死すると同時に安土の
城も夢幻の如く消え去る。織田政権は意外な程に脆く崩れ、武家政権が真に強固なものとなるにはあと30年の歳月を要した。
斯くて徳川政権の幕藩体制が安定期を迎えた頃、城の常道となっていた天守は不要なものとなっていた訳だ。諸行無常なり。
余談だが旧安土町での所在地「下豊浦」は「しもといら」と読むそうだ。なかなかの難読地名なのだが、同じく旧安土町内には
「上豊浦」もあり、こちらは「かみとようら」と普通に読む。この違いは何なんだ…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|