近江国 安土城

安土城天主台

 所在地:
滋賀県
近江八幡市安土町下豊蒲
東近江市南須田町
(下豊蒲地域:
 (南須田町地域:
旧 滋賀県蒲生郡安土町下豊蒲)
旧 滋賀県神崎郡能登川町南須田)

駐車場
御手洗

遺構保存度
公園整備度

: あり
: あり

:★★★☆
:★★★■■



「近世城郭」の誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
日本史上において欠かせない革命的な城郭としてあまりにも有名な城、安土(あづち)城。それまでの中世城郭が領主の居館や
戦時の要塞としての機能しか無かったのに対し、安土城は武士による中央集権国家機構の政庁として設計された初めての城。
近世城郭の創始たる城だが、所在地である安土山を全山城郭化しており、もちろん戦闘要塞としての側面も持ち合わせている。
南近江は室町時代から戦国時代にかけて守護大名として勢力を根付かせていた佐々木六角氏が所領とし、六角氏は安土山の
隣にある山の繖山(きぬがさやま)に観音寺(かんのんじ)城(近江八幡市内)を築いて権力基盤を強化、戦国大名化していた。
観音寺城は戦国初期の段階から石垣を使用した城造りを行った先進的な城だった。従前、石垣の構築は寺社勢力が特権的に
独占していた土木技術で、その技法は門外不出だったものを六角氏が取り入れた訳で、戦国大名たる六角氏の勢力が如何に
強いものであったかがこれで証明されるのである。現代では「城といえば石垣」くらいに城郭遺物として認知されている石垣だが
当時、武士がそれを用いる事は非常に特殊な事例だった。そんな観音寺城を擁する繖山から尾根伝いに延びる一支峰である
目賀田山(安土山の当時の名前)には、六角家臣である目賀田氏の城・目加田(目賀田)城が作られていたと言われる。1568年
(永禄11年)尾張・美濃を治めていた新進気鋭の大名・織田上総介信長は足利将軍家の忘れ形見・義昭を奉じて上洛、室町幕府
再興を行った。この上洛時、六角氏は信長に敵対して進軍を阻止しようとしたが織田勢の勢いは凄まじく、六角勢は観音寺城を
放棄して逃亡する。必然的に南近江も織田領に組み込まれる事になった。そして信長が天下の形勢を握るようになりつつあった
1576年(天正4年)目賀田氏42代と言われる賀田摂津守貞政は代わりの領地を拝領する事で目加田城を明け渡し、ここに信長は
天下布武の集大成となる新城を計画した。安土城の築城である。「安土」の名は「平安楽土」の意を込めたものだとか。■■■■
信長は宿老にして能吏である丹羽越前守長秀(にわながひで)を総奉行に、大工棟梁として岡部又右衛門を任命して築城開始。
又右衛門は信長の故郷・尾張にある熱田神宮の宮大工にして、代々の岡部家は室町幕府から修理亮(内裏造営と掌る役職)の
職を拝命していたという名工である。この他、羽柴筑前守秀吉や西尾小左衛門義次など織田家重臣が各種奉行職を担当して
築城が進められた。翌1577年(天正5年)には天主が竣工し、1579年(天正7年)頃にほぼ全域が完成したと見られる。本格的な
近世城郭のものとしては史上初となる(天守相当の大櫓や「天守」と称する御殿建築は以前から存在していた)天主は、5層7階
(6階とも)外観に金や朱の装飾を施した絢爛豪華なもので当時最高の人工美を極めていた。天主台は不等辺多角形をなし、
この上に巨大な望楼型天主が建てられて、その秀麗さは宣教師フロイスによって遠くヨーロッパまで喧伝された。天主内部には
当代一流の絵師・狩野永徳の描いた襖絵が飾られ、これもまた贅沢なものだ。さらには多宝塔や能舞台、信長の寝所までもが
設けられていたと考えられているが、本来は物見櫓である天守としては異例の構造。住居として天守を用いたのは、この安土城
天主と豊臣秀吉の大坂城(大阪府大阪市中央区)天守のみである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

安土城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は琵琶湖南岸にある標高198mの安土山を啓開して築かれた。現在、安土山の西側には西の湖と呼ばれる琵琶湖の内湖が
接している。当時、山の北側には大中の湖と言う内湖も広がっており、これらの湖を城の背後を固める濠として利用。必然的に
城下町は南側にのみ広がる構造で(東側は繖山が塞いでいる)、戦闘正面を限定するのみならず、城下からの視線を一元的に
集約し「信長の威光を知らしめる」という視覚効果を生じる事になった。山頂に独立天主、そこから本丸・二ノ丸・三ノ丸と下って
入口には多聞櫓と大手黒金門を配しており、山の尾根には八角平・馬場平・茶所・ハ見寺などの拠点曲輪を築いている。城の
縄張りを見ると、他の城と特に異なる注目点は大手道の存在。通常、城郭内の通路というものは敵の攻撃を防ぐために何度も
細く折れ曲がり、侵入者の進撃速度を落とすような工夫がなされるものだが、安土城の大手道は大手門から二ノ丸まで、幅広く
一直線に伸びるものになっている。しかもこの大手道は整然と石段で固められ、侵入者を拒むどころか“堂々たる登城路”となり
大手口から山上部分まで一気に登れるような構造。一説に拠れば、信長は当城に京都から天皇を招きいれる事を計画しており
その行幸に相応しい通路を用意したとも言われる。敵の足止めを狙うような安っぽい通路ではなく、威風堂々たる通路を万人に
見せ付けて信長の天下覇業に揺るぎが無い様子を喧伝しようとしたのだろう。天皇までがこの道を登り“信長に参内”する事に
なれば日本の君主は信長である、という証明にもなる。発掘調査によると本丸御殿は帝の住居である清涼殿と全く同じ造りに
なっていたと考えられ、天皇を招く際の宿館とするに相応しい構造だった。信長は天主に居住していたとなれば、天皇を信長が
“見下ろす”形になり、信長の政治的野望が達成される事になろう。安土城の大手道は戦術的防御機能ではなく、戦略的政治
統制に基づいて造られたのだろうか。一方で、大手道の先、二ノ丸から本丸まで至る道は通常の城郭と同様に屈曲した導線で
城の防御構造に即した造り。大手道沿いには家臣屋敷が並ぶので(詳細下記)、「信長の居住領域だけは堅固に守る」という
意思表示で家臣と信長の区別を明確にして、君臣関係を絶対的なものとする為の大手道構造と解釈する説もある。この場合、
天皇云々という話は度外視される(既に信長は朝廷など眼中に無かった?)理論になるだろう。二ノ丸から本丸への進入路は
尾根を大きく迂回する形にして、しかも本丸虎口には黒金門と呼ばれる大きな多聞櫓門が塞いでおり、当時の防御理論上では
十分に堅固な構造となっていた為、大手道が直線でも守りに遜色はないと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■
安土城で確立される“織豊系城郭(織田・豊臣政権で基幹となった城郭形態)”の三要素は石垣・瓦葺・礎石建物と言われるが
このうち石垣は上記の通り観音寺城で先行して用いられており、恐らく信長が六角氏の城を見て自身の城にも取り入れたので
あろう。建物に瓦を葺くのも、元来は寺社建築のみで城郭建築では板葺きや柿葺きが標準だったが、これも信長が寺院権益を
屈服させて安土城に使ったと考えられる。瓦を葺けば必然的に建物重量が増加するので、従前のような掘立柱建築では支え
きれない。地盤を固める礎石建築となるのも当然の話だが、これは石垣と組み合わせる事で防御性を各段に向上させる結果を
もたらした。このような安土城の成功事例が爆発的に全国へ広がって「城と言えば石垣、瓦の櫓、天守のような高層建築」という
認識が一般的になる。「城=天守」という観念も含め、安土城の概念は現代の日本人にまで浸透する劇的なものとなったのだ。
(注:織豊系城郭の最初の事例は安土城ではなく宇佐山城(滋賀県大津市)と言われる)■■■■■■■■■■■■■■■■
安土山の中腹から麓にかけては上記の大手道に沿って家臣屋敷が多数作られ、安土が織田政権の首都として機能するよう
整えられた。これらの屋敷は柴田権六勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・前田又佐衛門利家ら織田家中の重臣のみならず、当時は
同盟者(大名としては信長と同等である筈)であった徳川家康のものまで在り、信長と家康の関係性を研究する材料になって
いる。こうして信長が「自らに従う者を集約・管理する」支配体制が、その後の大坂や江戸に通じる武家政権の政略的な都市
計画へ発展した事を示していよう。しかし、平成に入ってからの発掘調査で新たに大手口を入った左手の空間が、屋敷地では
なく馬場であった事実が解明されたりしており、安土城の全貌はなお不透明である。■■■■■■■■■■■■■■■■■

政権中枢となる存在だったが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安土は琵琶湖の水運を利用して京まで半日、北陸まで約1日、城下の中山道・北国街道を使えば信長の本拠であった岐阜城
(岐阜県岐阜市)・尾張国にも近く、まさに織田信長の中央政権構想としてはうってつけの適地であった。こうした陸路・海路の
先には織田家に敵対する勢力が控えるものの、破竹の勢いとなっていた織田軍は程なくそれらを平らげるだろう。軍勢を差し
向けるにも、天下の中心に近い安土からならば早急にそれが可能だ。この城を礎に天下布武を実現しようとした信長だったが
1582年(天正10年)6月2日、重臣・明智日向守光秀の謀反に遭い京都・本能寺で横死する。安土城もその混乱の中で焼失して
しまった。光秀軍が放火したとも、敵に奪われる事を恐れた信長の2男・左近衛権中将信雄(のぶかつ)が自焼(失火)したとも、
土民が火を放ったとも言われており、真相は謎のままである。ただ、城内全域が失われた訳ではなかったようで、この時点では
廃城になっていない。信長死後の裁定をした清洲会議で安土城の再建が決められ、織田家後継となった三法師(信長嫡孫)は
安土城を居城にする事とされている。たが豊臣秀吉の勢力拡大に伴って新たに大坂城が建てられ、豊臣政権下では近江国の
首府として近江八幡城(近江八幡市内)が新造された事もあり、必要のなくなった安土城復興計画は霧散してしまった。結果、
1585年(天正13年)頃には廃城となったようである。秀吉が新たな天下人となったため、前権力者たる信長の遺風を廃絶させる
政治的意図もあったと考えられよう。この後、彦根城(滋賀県彦根市)の建設資材として安土城内から石垣材が持ち運ばれた
経緯があり、近年の発掘調査が行われるまでは人知れず風化するに任されていた。現在ではハ見寺遺構と大規模な穴太流
(あのうりゅう)石垣が残るのみだが、日本史上における重要性は消えるはずもなく調査研究が継続されている。■■■■■
城域は国史跡の指定を1926年(大正15年)10月20日に受けたが、この時点では戦前の史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく
「記念物」としての扱いであった。戦後になって文化財保護法が施行された事から、改めて1950年(昭和25年)に国史跡となり、
1952年(昭和27年)3月29日には特別史跡に変更されている。多少の損害があったとは言えど、見事な石垣はかつての栄華を
偲ばせており、2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つにも選ばれた。1989年(平成元年)
以降、20年をかけた滋賀県による発掘調査・復元が一応の完了を見て、江戸時代に部分的な埋め立てを受けた大手道の形を
元に戻す工事も行われている。ただ、安土城全域を調査するとなると百年単位の話になるそうで、それらは次世代での発掘調査
作業に託されている。なお、安土城の敷地内には臨済宗遠景山ハ見寺があり、三重塔・二王門(楼門)が残存。この寺は信長が
城内に建立した寺で、他の城では鎮守の社や堂を備える事はあるものの、寺そのものを創建する例は稀有。当然、寺の境内は
一つの曲輪を成しており、安土城内での防御機能や政治運営に活用されていただろう。三重塔は1901年(明治34年)3月27日、
二王門は1903年(明治36年)4月15日に、上記の如く史蹟名勝天然紀念物保存法での重要文化財に指定されている。■■■■

“夢幻の”天守■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、安土城と言えば天主の推測であろう。信長がキリスト教の聖地・バチカンへ安土城を描いた屏風を贈った記録があり
それが発見されれば第一級の絵画史料となり得るのだが、現物は現在行方不明となっているので、文献資料に頼るしかない。
これらの書面から想定される設計図を現代の建築史家が描き起こしており、安土城天主の想像図は数種に及ぶ。そんな中で
名古屋工業大学教授(当時)だった故・内藤昌(あきら)工学博士が「天守指図」と題された建築図面資料を発見、それを基にし
1980年(昭和55年)安土城天主の復元案を提示した。それに拠れば地階から3階までの4層が吹き抜け構造となり、空いている
空間には多宝塔(仏塔)が設置されていたとされている。確かに、安土城天主台の礎石はその部分だけが抜けており、この論と
一致する点が見受けられる。「天守指図」という書は江戸時代に加賀藩作事奉行の池上右平が元資料を書写したものとされ、
その中には不定形な平面を有する7層建て建築の床面図が描かれていた。この形状が安土城天主台の形と合致するために、
内藤博士は「天守指図」は安土城天主の構造を描いたものと判断した訳だ。一方で、江戸時代に描かれた「天守指図」には
信憑性がない(そもそも安土城天主の図面とは記されていない)として偽書(あるいは誤写の図面)と判断する研究家もおり、
結論は出ていない。個人的には、わざわざ書写してまで残された図面があって、それが安土城天主の平面と一致するならば
(多少の誤差や歪みがあったとしても)それは“記録に残すべき安土城天主の姿”だったのではないかと思うのだが?ともあれ
内藤博士の復元案は有力視されるようになり、1992年(平成4年)のセビリア万博に出展された安土城天主復元模型もそれに
基づいて制作された。この模型は以後、安土城の学習施設「安土城天主信長の館」で保管・展示されている。なお、現在では
20年続いた発掘調査の結果(考古学的視点)からも天主復元の新案が出されるようになっており、それに拠れば天主の裾は
天主台石垣からはみ出して建てられた“懸け造り(京都・清水寺の舞台のように足場を組んで上層の建物を支える構造)”と
なっており、天主中段層にはテラスが備えられ信長が眼下を睥睨するようなものだったと云う斬新な復元案である。■■■■
信長はこの天主を1581年(天正9年)の7月15日、盂蘭盆会(盆祭り)に際して提灯や松明で飾り付け“日本初のライトアップ”を
行ったとか。しかも1582年の正月には安土城内へ一般庶民までも招き入れて見物させ、信長自らが見物料を徴収したそうだ。
防衛施設である城を一般公開するとは大胆な話だが、信長自身はもはや無敵の存在で、この城に攻めて来る者など居ないと
信じていたのだろう。それよりも城の見事さを万民に見せつけ織田政権の強固さを宣伝する意義の方が重要だと考えたのか。
盂蘭盆会のショーアップも含めて、この城は実に見事な政治装置として働いたのだ。しかし、信長が急死すると同時に安土の
城も夢幻の如く消え去る。織田政権は意外な程に脆く崩れ、武家政権が真に強固なものとなるにはあと30年の歳月を要した。
斯くて徳川政権の幕藩体制が安定期を迎えた頃、城の常道となっていた天守は不要なものとなっていた訳だ。諸行無常なり。
余談だが旧安土町での所在地「下豊浦」は「しもといら」と読むそうだ。なかなかの難読地名なのだが、同じく旧安土町内には
「上豊浦」もあり、こちらは「かみとようら」と普通に読む。この違いは何なんだ…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



※「天主」の表記について
当頁では安土城のみ「天主」の文字を使い
他の城では「天守」と表記しています


現存する遺構

ハ見寺遺構《三重塔・二王門・金剛二力士像・鉄鐔は国指定重文》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定特別史跡








近江国 伊庭城(伊庭陣屋)

伊庭城(伊庭陣屋)址 石垣

 所在地:滋賀県東近江市伊庭町
 (旧 滋賀県神崎郡能登川町伊庭)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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水郷の集落にて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安土山の山頂から北北東へ約2.5km、水郷として知られる旧能登川町の中でも特に昔ながらの風情を残す伊庭(いば)集落の
中にあった中世城郭および近世陣屋の跡が伊庭城(伊庭陣屋)でござる。伊庭集落は周囲一面を田圃に囲まれており、しかも
その田圃は近代になって干拓・新田開発されたものなので、往時は琵琶湖の内湖に浮かぶ島のような状態になっていた。今も
なお集落のすぐ北〜西〜南は大同川(伊庭内湖)が囲み、水田の中は用水・排水を兼ねた瓜生川が縦貫。集落の至る所にも
水路が張り巡らされて、水に豊かな土地であった事がよく分かる。平安の御代、伊庭千軒と称され朝廷領(皇室御料)であった
伊庭荘は、1156年(保元元年)崇徳上皇が六条判官源為義を召し抱えた際に所領として与えたとか。その後、為義の孫である
頼朝が鎌倉幕府を開く頃の建久年間(1190年〜1199年)観音寺城主・佐々木行実の4男である出羽権守実高(重遠とも)へと
与えられている。父・行実は佐々木六角氏の一族で、この当時の観音寺城主であったが、後に彼の従兄・三郎秀義の系統が
家督を継承し室町時代の六角氏へ繋がっていく。行実自身の後継は六角氏一門衆の重臣・平井氏となったらしいが、系譜が
混沌としており定かではない。兎も角、伊庭荘を得た実高は伊庭姓を称するようになり伊庭氏を興した。これもまた六角家臣の
重鎮として力を付けていく。六角氏は総じて代替わりの際に家督争いが起き、その都度国人衆の力を借りて権力の再結集を
図っていたため、必然的に六角一門衆にして在地領主の雄(伊庭内湖の水運権で絶大な力を有するようになった)・伊庭氏は
国人衆のまとめ役となっていたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉幕府打倒の折、佐々木六角氏は足利尊氏の盟友として重きをなし南近江の守護職を得た。室町体制下において守護は
専ら京の幕府に伺候して政務に携わる事が慣例であり、現地支配を守護代に託す事となる。南近江守護代に任じられたのは
伊庭氏であった。伊庭家は主家・六角家と足利将軍家の取次を行ったりする一方、応仁の乱後に六角氏が9代将軍・義尚から
追討を受けると六角勢の中核として甲賀ゲリラ戦に良く働いた。斯くして16世紀初頭になる頃、時の当主・伊庭出羽守貞隆は
主家である六角氏を凌ぐ権勢を持つに至る。これを危険視した六角氏12代当主・大膳大夫高頼は、1502年(文亀2年)10月に
「伊庭連々不義の子細共候間」として貞隆討伐の兵を挙げたのである。実はこれに先立ち、1460年(長禄4年)六角四郎政堯
(まさたか、高頼の従兄弟)が貞隆の兄弟と見られる人物を殺害する事件が起きており、六角氏が積年に及んで伊庭一族を
処分しようと企んでいた事が伺える。高頼の攻撃を受けた貞隆は湖西に逃れ、そこで管領・細川右京大夫政元の援助を受け
反撃に転じた。この反攻は凄まじく、高頼を観音寺城から追い落とすまでに至ったが、結局は和議を結んで終了した。これを
第1次伊庭の乱と呼ぶ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、中央政界を牛耳った政元が暗殺されると事態は急変した。政権を取り仕切った政元が居なくなったことで将軍職を
巡る争いが発生し、足利義澄と足利義材(よしき)が対立するのである。京都を逃れてきた義澄が高頼を頼るが、後に高頼が
義材へ鞍替えしたため、義澄は伊庭貞隆の保護を受けるようになった。こうして義澄派の貞隆と義材派の高頼という構図が
出来上がり、両者は1511年(永正8年)頃から戦い始めた。これが第2次伊庭の乱だ。伊庭氏は六角氏を離れて湖北の大名
浅井氏に与し継戦するが、この戦いは1520年(永正12年)8月に伊庭貞隆・貞説(さだとき)父子の敗北で終わった。■■■■
これには異説もあり「近畿内兵乱記」には1514年(永正11年)2月に「伊庭貞説父子没落」とされている。■■■■■■■■■
以降、伊庭氏の勢力は振るわず没落したようだが、伊庭荘の本領は維持されていたらしく、伊庭氏の滅亡や廃城の時期は
不明。ただ、伊庭氏分流と思われる家は明治まで存続、その中に生まれた伊庭貞剛は住友財閥を勃興させた人物だとか。
話は飛んで江戸時代、1698年(元禄11年)3月に旗本の三枝土佐守守相(さいぐさもりすけ)が7000石で近江国内で神崎郡
蒲生郡・野洲郡の3郡を所領に与えられ、伊庭城跡に采地陣屋(代官所)を置く。これが伊庭陣屋でござる。三枝氏は元来、
甲斐武田氏の家臣で、武田信玄の重臣として名を馳せた三枝土佐守虎吉が著名。虎吉は武田家の駿河侵攻に働き、かの
地で防戦に努めていたのだが、武田家滅亡に伴い徳川家康に服属するようになった。直後の本能寺の変を経て、甲斐国が
徳川領に編入されると、甲斐統治を行った4人の奉行(徳川四奉行)の1人に数えられるようになる。斯くして徳川譜代家臣と
なった三枝氏のうち、虎吉の5代後裔にあたるのが守相。近江に封を得て以来、明治維新まで三枝氏の政庁として当陣屋は
用いられた。維新後、陣屋建築の一部が村役場に転用されたらしいが、1879年(明治12年)8月に陣屋跡地が伊庭小学校と
なり廃絶したようだ。現在は小学校も移転し、その跡地に勤節館(きんせつかん、伊庭町自治会事務所)が建てられている。
陣屋跡地周辺には水路が流れ、往時は濠として機能したのだろう。勤節館の目の前には水路を渡る橋が架かり、その名も
「ぢんやばし」つまり陣屋橋である。この橋の東側に写真の城址石碑が立てられており、その石垣は陣屋時代のものだとか。
景観としてはかなり素晴らしく、しかもこの地は連歌師・飯尾宗祇の生誕地らしくそれを顕彰した石碑もある。■■■■■■■
ところで、明治維新で禄を失い一士族になった三枝家の当主・守道とその子・守経は江戸屋敷から近江へ移住。伊庭村から
分村した北須田(伊庭の近郷)に住み、守国神社を建立した。当時、北須田村には氏神が無かった為に建てたそうだが、この
守国神社の祭神である守国命(もりくにのみこと)とは、三枝氏の始祖にして仁明天皇の後裔である三枝守国だ。三枝氏は
この後、血脈が絶えて断絶してしまったが、神社は今でも地域の守り神として祀られている。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣








近江国 伊庭御殿

伊庭御殿跡 石垣

 所在地:滋賀県東近江市能登川町
 (旧 滋賀県神崎郡能登川町能登川)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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徳川将軍の宿館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代、徳川将軍が外出する際の宿泊・休憩用の館として築かれたものが「御殿」あるいは「御茶屋」と呼ばれる史跡。
特に江戸時代初期は将軍が頻繁に江戸と上方を往復したため、街道沿いにこうした遺構が残されている。近江国内には
4つの宿館が用意され、水口(みなくち)御殿(滋賀県甲賀市)・柏原(かしわばら)御殿(滋賀県米原市)・永原(ながはら)
御殿(滋賀県野洲市)そしてこの伊庭御殿が確認されている。幕藩体制の草創期、特に大坂で豊臣氏が残存していた頃、
将軍の旅程には十分な警護が必要と考えられ、敵方の不意打ちや野盗の襲撃に備える施設が各所に用意されたのだ。
また、高貴な身分である将軍に供するべく、豪華な建物や風流な庭園も造営されている。■■■■■■■■■■■■■
伊庭御殿の設置については幕府大工頭・中井家の史料に「寛永十一年甲戌年伊庭御茶屋御作事之事 小堀遠江守」との
記載があり、1634年(寛永11年)の事と確認できる。既に豊臣家は滅亡した後だが、当時は後水尾天皇が譲位して独自に
院政を敷くようになり、幕府との政治的対立が高まっていた時期。3代将軍・徳川家光が上洛して決着を図ろうとしており、
この遠征に用いるべく伊庭御殿が作られた訳だ。畿内に御殿を新造する事で、徳川将軍家の威勢を見せつけ朝廷に対し
圧力を加える意図もあったのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記の文言から分かる通り、この御殿の造営は小堀遠江守つまり小堀政一(まさかず)が取り仕切っている。政一は当代
一流の文化人で、その偉業は茶道・華道・作庭・作事など多岐に渡っており、徳川幕府の儀式典礼に大きく関わっている。
将軍家の城である駿府城(静岡県静岡市葵区)・江戸城(東京都千代田区)・二条城(京都府京都市中京区)は勿論の事、
仙洞御所(後水尾上皇の御所)や各所の寺院建築、茶室の造営など活躍は記しきれない大家なれば、上に列挙した近江
四御殿は全て彼の手によるものだ。そして実際に建築工事を行ったのは中井家で、「江州伊庭御殿御茶屋御指図」と云う
設計図が残されており、それには御殿・御湯殿・御料理間・石垣池などがあったとされている。■■■■■■■■■■■

御殿の存在場所■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御殿の場所は繖山山塊の北西麓部、現在ではJR東海道本線の線路と山の斜面に挟まれた狭隘な敷地を使っている。
線路を跨いだ西側には臨済宗長福山大徳寺、線路に沿った南側には日蓮宗統一山妙啓寺があるので、場所の特定は
しやすいが、肝心の陣屋跡地は看板が1枚立つだけ(写真)なので見過ごし易い。山からの傾斜面が平野部に合流する
最末端の位置にあるのでこのような狭隘な敷地となっており、近江四御殿のうち他の3箇所がほぼ方形の敷地を有して
いるのに対して、伊庭御殿だけは東西およそ35m×南北90m程と、かなり細長くて屈曲した形となっている。それでもこの
場所を選んだのは、平地より1段高く、眼下に琵琶湖やその内湖をいくつも眺める事の出来る風光明媚な立地だった為と
考えられる。伊庭御殿は朝鮮人街道に接し、彦根から瀬田へ抜ける中間地点にござった。この朝鮮人街道とは、現在の
滋賀県道2号線に相当して、本来は中山道の脇街道であるが、織田信長が安土城を築城した時に新道として整備され、
以後、歴代の権力者が常用道路として用いた経緯がある。当然、徳川将軍家もそれを踏襲し、特に徳川家光はこの道を
将軍上洛の専用道とし、諸大名が参勤交代に使う事すら禁じたとされる。将軍以外に使えたのは、李氏朝鮮から江戸の
幕府へ定期的に送られた使節「朝鮮通信使」のみであった事がその名の由来だ。余談だが、明治以降の近代化によって
この道は宅地化や鉄道敷設などで大きく改変され、いつしか道筋が分からなくなってしまったのだが、1990年(平成2年)
滋賀県立彦根東高校の生徒が調査を行い正確な経路が判明したそうだ。地元の熱意が、古い歴史を呼び覚ましたという
好例として評価されよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国史跡になるが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、家光の上洛は1634年を最後に行われなくなった。以後、幕末まで将軍が上洛する事例は無く、結果的に御殿は
使われる機会がなくなったのである。こうした傾向から、各地の御殿や御茶屋は次々と廃されるようになった。永原御殿が
1685年(貞享2年)に廃されており、恐らく伊庭御殿も同じ頃に廃止されたと見られてござる。現状では、能登川町内にある
愛宕神社の御旅所(祭礼神輿が巡行の際に休憩する場所)とされており、日常的には地域住民の運動場として使われて
いる。それ故、然程目ぼしい遺構はなく、石垣の断片や井戸跡、池泉跡(庭園があった証拠)と思しき窪地があるだけだ。
しかし大規模な改変や破却を受けた事が無いため、1986年(昭和61年)と1997年(平成9年)の2回にわたって発掘調査が
行われた。1回目の調査は学術調査で、地表面から約20cm下から建物の一部と見られる石列や建物礎石の根石、井戸
痕跡が検出され、それらは中井家の指図とほぼ合致し、図面通りの建築物があった事が証明された。ただ、遺物は他に
僅かしか出土せず、小菊紋瓦・軒平瓦・瀬戸香炉の破片・伊万里焼の瓶・土師器皿などにとどまった。2回目の調査でも
小菊紋瓦が1点出てきたのみ。これら、遺物が少ないのは御殿の使用年代が少なく、機会も限られた様子を物語る。また
現在の地表面から少し掘った程度の浅さから出土した事も、遺物が既に散逸してしまった理由であろう。■■■■■■■
ともあれ、指図の図面と一致した遺構が確認された成果は大きく、幕藩体制の確立期に将軍の権威を示すべく行われた
上洛の実態を具体的に示した遺跡として貴重であり、また地元では御殿跡を「御殿地(ごてんじ)」と呼んで来歴を口伝して
いる事から、2020年(令和2年)3月10日、伊庭御殿は永原御殿と共に国の史跡に指定されてござる。現地の案内板には
「建物の構造や設計者がわかる、たいへん貴重な遺跡」と書かれているが、まさにその通りであろう。願わくば、図面が
残っているのだからその通りに御殿を復元して―――と云うのは無理と思われるので、せめて史跡としてもう少し手入れを
綺麗にして頂きたいものでござる(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
繖山の南東側山麓、伊庭御殿跡からちょうど山の反対側にある臨済宗御都繖山(ぎょとさんざん)石馬寺(いしばじ)には
伊庭御殿の建築物を移築して大方丈(旧本堂)にしたと伝わっており、この伝承が正しければ貴重な御殿遺構が現存して
いる事になろう。寺伝では、織田・六角の戦いで焼け落ち、豊臣秀吉の弾圧を受けた後に徳川幕府からは庇護を受け、
家光が御殿を下賜して寺の再興を果たしたとか。なるほど、さもありなん…と思える歴史ではある。■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・石垣・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
石馬寺大方丈(伝伊庭御殿建築)




鵜殿城・市木城  彦根城