紀伊国 鵜殿城

鵜殿城跡 主郭土塁

 所在地:三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿矢渕
 (旧 三重県南牟婁郡鵜殿村矢渕)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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「鵜殿氏」と言うと…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三重県の最南端部、南牟婁郡(みなみむろぐん)紀宝町にあった丘城。鵜殿地区は、平成の市町村大合併の中でもかなり遅めの
2006年(平成18年)1月10日に紀宝町と合併、それまでは鵜殿村として存在していた。この鵜殿村は当時、日本で一番小さな村で
(市町村としては高知県香美郡赤岡町(当時)が最小)面積僅か2.88kuしかなかった。何せ鵜殿村は東西×南北それぞれ約1.8km
程度しかなく、紀宝町に合併した今では村の全域が「鵜殿」の住居表示となっている程だ。そんな鵜殿地区の中、紀宝町役場から
550mくらい西へ行った所に紀宝町ふるさと歴史館があり、その裏山(西側)が鵜殿城跡。車は歴史館の駐車場に停車可能。敷地
一帯はふるさと歴史公園…と称する児童公園になっており、来訪してまず目にするのが児童遊具なので少々不安になるのだが、
そのまま山を登れば、堀切や土塁の遺構が現れる。この山は標高40.5m、つまり比高40mの小丘陵で、山頂部一帯をほぼ円形の
曲輪とし、どうやら曲輪内部を平坦に造成した残土を土塁として掻き揚げている。山容(と言うほどの山でも無いのだが)は南北に
細長いので、曲輪の南側と北側にそれぞれ堀切を掘削して遮断線としているが、基本的にはそれだけの単郭城郭である。写真は
曲輪の内部から見た土塁で、風化して“薄くなった”土塁が、それでも緩やかに円弧を描いている様子は良く分かろう。鬱蒼と生い
茂る木々の向こうには鵜殿の街並み(と言うか、眼下の工場)と鵜殿港そして熊野灘が眺望できるのだが、どうやら鵜殿城の裏手
現状で紀宝町立矢渕中学校の敷地を挟んだ西側にもっと高い山があり(こちらは標高108.2mと桁が上がる)、そこに詰の城となる
飯盛口城があったそうで、鵜殿城はあくまで周囲の監視を主眼とした城だったのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■
築城の年代や起源は不明だが、現地の豪族・鵜殿氏の城と伝わる。平安中期、藤原北家の左近衛中将・藤原実方(さねかた)が
熊野別当(熊野神域の統括を行う者)の娘に子を産ませ、そこから発生した家系が鵜殿氏に繋がるのだとか(諸説あり)。若しくは
高倉下命(たかくらじのみこと、神話上の人物で神武天皇に霊剣を献上したとされる)の末裔とも言われ、虚実入り混じるも総じて
“高貴な血筋”を強調した遠祖を持つ、とされている。いずれにせよ熊野の宗教的権威を背景とし紀宝町周辺に勢力を得た一族で
恐らく鎌倉時代には既に鵜殿城を根拠地としていたと想像される。南北朝動乱期、紀伊半島の諸豪族は南朝方・北朝方の其々に
分かれ戦ったが、鵜殿氏は1341年(興国2年/暦応4年)それまで属していた南朝方から北朝方へと鞍替えしたため、この城は南朝
勢の攻撃を受ける事となった。この年の9月3日、北朝軍との戦いに勝利した相野谷(おのだに、現在の紀宝町北部)の南朝軍は
同月18日に鵜殿城を包囲。攻城戦は日夜続いて4日間に及ぶが、遂に落城せず21日に撤退するに至った。鵜殿城は立派な実戦
城郭だったのである。その後、南北朝合一にて一旦は平和な時が訪れ、鵜殿氏の中には海運交易の縁から三河国へと移住する
者が現れる。そう、鵜殿と云う名に聞き覚えのある方もいるだろう。駿遠の太守・今川家の家臣の中に鵜殿氏が居るのだが、その
祖となるのはここ南紀の鵜殿氏だったのだ。結局、戦国騒乱の本格化に伴い紀伊鵜殿氏は歴史の闇へ消え、鵜殿城も廃れたが
他方、三河へ移った鵜殿氏は今川家、後に徳川家に仕えて江戸幕府旗本として存続していった。■■■■■■■■■■■■■
そんな鵜殿城跡は1974年(昭和49年)2月1日、鵜殿村(当時)指定文化財となり現在に至っている。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








紀伊国 市木城

市木城跡の案内板

 所在地:三重県南牟婁郡御浜町大字上市木字岡地

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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峠へ通じる街道を■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
市木は「いちぎ」と読む。JR紀勢本線の紀伊市木駅から西へ約1.9km、市木川のS字蛇行地点に隣接する、三重県道739号線と
同141号線が交わる「上市木」交差点付近が城跡だが、現在は宅地となっている為に遺構らしきものは何もない。古来、吉野の
北山と熊野灘を結ぶ経路は風伝(ふうでん)峠を越える道が最短距離であったが、市木の集落は峠から海へと直行する位置に
あり、街道掌握の城であったと推測される。地誌書「紀伊続風土記」上市木村の項には「古城跡  村中にある。堀の形が残る。
 新宮堀内氏が有馬を攻めた時、有馬氏が出城を築いたと言い伝う」とある。また、紀伊徳川家の調査書「寛永記」市木条下は
「古土井南向 東西口十三間南北十九間 堀の幅五間 但し、水堀」とあり、江戸時代には堀跡や土塁が残存していた。■■■
この城は現地の豪族・有馬氏の城であった。有馬氏は現在の三重県熊野市有馬町を本拠とした家で、熊野信仰の拠点である
熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を統括する役職「熊野別当」から派生した一族とされる。有馬町には
産田(うぶた)神社があり、その神官であった榎本氏が現地の地名を採って有馬氏と改姓したもの。平安時代後期、全国各地で
開拓領主が武装化して武士が誕生する中、神官である有馬氏も武士団化していき、室町時代になると北は尾鷲市〜南はこの
御浜町あたりまで勢力を拡大させたと言う。1454年(享徳3年)には上記の鵜殿氏と有馬氏が阿田和(あたわ、市木の南)の地で
合戦に及んだと、熊野の史書「熊野年代記」にござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが戦国時代の最盛期になると、熊野川の南に所在する新宮から堀内氏が北進して来る。堀内氏は熊野水軍を掌握し、
中央政権との繋がりも重視する等、時流に乗った政策で勢力を拡大させた。必然的に有馬氏との対決が起こる訳で、こうした
状況下、有馬方の有馬伊賀守や九鬼中務が防備の為に築いたのが市木城だった。斯くて1550年(天文19年)この地で合戦が
起こり、堀内勢は金剛寺陣所(上市木集落内)を本陣とし、両軍共に多数の死傷者が出た。市木の戦い以後も両者の争いは
長く続いたが、有馬氏は継嗣が無く断絶すると言う顛末を迎え、結局は時の堀内氏当主である堀内安房守氏虎の次子・楠若
改名して有馬主膳氏善(うじよし)を養子として迎え入れる事になる。事実上、有馬家は堀内家に乗っ取られた訳だ。更に後年
氏善は兄・氏高が早世したため堀内宗家を継ぎ、有馬氏の家督は立ち消えになってしまう。形式上、氏善の5男・氏時が有馬
主膳氏時として家を残すが、その子孫は江戸時代になって堀内に復姓してしまったので有馬の名は残らなかった。■■■■





赤木城・竹原八郎屋敷  安土城・伊庭城(伊庭陣屋)・伊庭御殿