紀伊国 赤木城

雲海に包まれる赤木城址

 所在地:三重県熊野市紀和町赤木字城山
 (旧 三重県南牟婁郡紀和町赤木字城山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★■■



築城の神様・藤堂高虎公のデビュー作■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会が続日本百名城の中に選定した名城。しかし、その歴史は戦国後期〜
江戸時代初頭までという極めて短命なものである。時代を濃縮した山城と言える城だが、創建したのは“築城の神様”・藤堂
和泉守高虎なのだから続百名城に入るのも当然でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
既に織田信長も死し、豊臣秀吉が全国統一を図ろうとしていた頃の1585年(天正13年)、紀伊国は概ね豊臣家に制圧され、
秀吉の弟・大和大納言秀長の所領に組み込まれた。当時、高虎はこの秀長に従う家臣であり、有能な吏僚として頭角を現し
つつあった。だが、紀伊の南端部では中央政権への反抗が続き特に牟婁(むろ)郡周辺では1586年(天正14年)8月、奥熊野
国人衆らが蜂起する。秀長は討伐を行うが、地の利・時の利を得た一揆軍の根絶は難しく一進一退の状況が続く。その為、
当地・北山の代官(山奉行(材木奉行))となっていた高虎は、討伐軍の策源地となる山城を築く事になったのである。これが
赤木城の創始で、1588年(天正16年)から1589年(天正17年)にかけて築城された。その結果、北山一揆は壊滅する事となり
反抗者を根絶やしにせんとする豊臣政権の代行者となった高虎は、赤木城の赤木川を隔てた対岸にある田平子(たびらこ)
峠で一揆の首謀者らを1589年5月に処刑している。嘘か真か分からぬが、高虎は赤木城の完成を祝うと称し周辺の農民を
城に招き入れ、彼らを一網打尽にして田平子峠刑場に送り込んだのだとか。故に、現地の伝承でこのように唄われている。
「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨て処は田平子じゃ」と。ただ、史料を精査するとこの謀略は高虎家臣が行ったものともされ
更には築城年にも1585年の時点とする説もある為、必ずしも断定的な事は言えない。■■■■■■■■■■■■■■■

浅野家の城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1591年(天正19年)1月22日に秀長は病死。その養子・郡山中納言秀保(ひでやす)も1595年(文禄4年)4月16日に没した為
大和大納言家(豊臣秀長家)は断絶。それに伴い藤堂高虎は独立大名になり、伊予国板島丸串(愛媛県宇和島市)7万石へ
居を移す。紀伊国は関ヶ原合戦の後、1600年(慶長5年)10月から浅野左京大夫幸長(よしなが)の所領となっている。よって
赤木城も浅野家の持ち城となった訳だが、幸長没後に弟の但馬守長晟(ながあきら)が跡を継ぐ頃、天下統一最終戦となる
大坂の陣が勃発する。浅野家の軍勢も大半が大坂へ出陣する中、1614年(慶長19年)12月に再度の北山一揆が発生した。
北山の地侍や山伏らが新時代(徳川幕藩体制構築期)の統制に反発して起きたと言われるこの一揆では、浅野家の南紀に
於ける主力拠点となっていた新宮城(和歌山県新宮市)を落城させようと行軍を始めたが浅野家の軍勢は大坂冬の陣での
和議が成立するや取って返して、一揆討伐に全力を注ぐ。結局、1615年(元和元年)1月までに残党狩りまで完了し、一揆の
首謀者らはまたもや田平子峠刑場で粛清された。この戦いにおいても、赤木城が浅野長晟の本陣になったそうだ。さりとて、
大坂夏の陣を経て元和偃武(げんなえんぶ、戦国騒乱の終結)が果たされると徳川幕府は「一国一城令」を発布して大名の
居城以外の城は廃される事になる。それにより赤木城も廃絶するのであった。僅か30年に満たない歴史の城だ。なお、現在
三重県と和歌山県の境はおおよそ熊野川および北山川を基準としているが、令制国時代には牟婁郡(荷坂峠以南)までが
紀伊国であるため、赤木城の所在地も三重県だが紀伊国に属する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

赤木城の縄張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は赤木集落のある小盆地の北西隅、比高差30m程の丘陵を使って作られている。大規模な山ではないので平山城として
分類される事も。山の頂は標高238mを指し、尾根は北・南東・南西の3方向に伸びており(「Y」の字を逆さにした感じ)、その
3方向にそれぞれ曲輪を張出す縄張となっている。必然的に南側のみが緩斜面の山容で、それ以外の方角はかなり険しい
切り立つ崖で守られていた。山頂部が台形をした主郭、その北には小規模な北郭を置き、南東側尾根には東郭1と東郭2が
2段構えに並ぶ。同様に南西側尾根にも西郭1と西郭2(更に下段の小曲輪群も)を置くが、西郭側は細長くて面積が小さい。
恐らく東郭が戦闘正面、西郭は搦手口という感じだったのだろう。西郭の下(東西尾根の間に挟まれた谷戸)には南郭1と2が
あり、ここは平時の居館だったか?南郭内では竈の痕跡も確認されている。ただ、東郭の下にも鍛冶屋敷と呼ばれる空間が
構えられ(現在は駐車場)、ここからは土坑・ピット・焼土層が検出されていて、これも居館址だったのか或いは鍛冶屋敷の
名の通り鍛冶工房があったのかと想像される。即ち、赤木城は居住や武器生産なども内包した城郭だったと言う事だろう。
圧巻なのは何と云っても城内ほぼ全域が石垣で固められている事。平均して3m〜4m程の高さなので後に高虎が築くような
巨大な近世城郭には及ばないが、反りの少ない、直線的な面取りが行われる石垣は“高虎流”の萌芽を十分に感じさせて
くれるものである。無論、城内各所には横矢が掛かり、曲輪の接続部には堅牢な虎口を開いており、恐らく初めて築城した
高虎が「さすが築城名人」となるだけの素質を以って築いた城だと再確認させられる素晴らしさだ。■■■■■■■■■■
(史料に残る限り、改修や参加ではなく高虎が自ら新規築城した城としては赤木城が最古のものと考えられる)■■■■■
関連(因縁?)深い田平子峠刑場跡と共に城は1982年(昭和57年)4月に三重県史跡とされていたが、1989年(平成元年)
10月9日に国指定史跡となった。それに伴い1992年(平成4年)〜2004年(平成16年)にかけて発掘調査が行われ、上記の
土坑や焼土層などの他、天目茶碗・釘・砥石や貯水遺構、門礎等も出土。更に詳細な整備計画も策定され、崩壊していた
石垣の修復が行われた。そのため、現地の石垣は全てが往時のものではないのだが、足りない石材は近隣の赤木川から
採集して補い、歳月を経た今では全く違和感なく立ち並んでいるのが素晴らしい。加えて、降雨量の多い紀伊半島の山間
盆地にある地勢は濃霧を発生し易い環境にあり、雲海に浮かび上がる赤木城の姿は竹田城(兵庫県朝来市)にも負けない
“天空の城跡”として話題になる事もしばしば。実際、拙者が赴いた際にも「今から霧に包まれる」というタイミングで(写真)
登城した際の感激もひとしおでござった。公共交通機関で来訪するには余りに遠く、幹線道路からも離れていて自家用車で
行くにも難儀する“険城”だが、高虎公築城人生第一歩の城にして天空の城跡なれば、城好きとしては欠かせない名城だ!



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








紀伊国 竹原八郎屋敷

竹原八郎屋敷跡 花知神社

 所在地:三重県熊野市神川町花知

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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護良親王を遇した館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝時代の争乱を記した軍記物「太平記」の中で、南朝の忠臣として描かれる竹原八郎宗親の館と伝わる史跡。■■■■
かねてから鎌倉幕府の支配に不満を募らせていた後醍醐天皇は1331年(元弘元年/元徳3年)遂に挙兵し、京都を引き払い
笠置山(京都府相楽郡笠置町)に籠るが、幕府勢は大軍を以って山を落とし天皇を捕縛した。そのため後醍醐帝は廃位され
隠岐へと流罪になる。その一方、後醍醐天皇の子・護良親王(もりながしんのう、もりよしとも)は父と同じく倒幕の戦いに身を
投じ、幕府の追手を躱して熊野へと落ち延びた。各地を転々としながら幕府打倒の令旨(りょうじ、皇太子の発する命令書)を
出し、山伏の姿に化けて逃避行を続ける。そんな中、ある村へと辿り着いた親王は1件の家に仮泊した。家の主は戸野兵衛
(とのひょうえ)この地の有力者・竹原八郎宗親の甥だと言う。兵衛良忠の家には病人が居たが、親王は祈祷で病を癒した為
兵衛の信頼を得た。そこで正体を明かした所、剛の者である兵衛は親王に臣従し、親王の警護を行い、更に実力者たる叔父
竹原八郎入道にも協力を求める。八郎は即座に兵衛の申し出を快諾し、自身の館に親王を招いて手厚くもてなした。親王は
ようやく心強い味方を得て安堵し、この屋敷で還俗(げんぞく、出家の身から俗世に戻る事)して八郎の娘を愛妾としたそうで
一説には2人の間に子が授かったとか。ともあれ、八郎は親王の令旨を奉じて倒幕の軍を発し、伊勢の地頭や守護代を襲う
活躍を見せる。後醍醐天皇に代わり皇位に就いた光厳天皇の日記「光厳院宸記」には1332年(元弘2年/元徳4年)6月29日
「地頭両三人討チ取ラレ守護代宿所焼キオハラル。コレ熊野山ヨリ大塔宮ノ令旨ヲ帯ビ竹原八郎入道大将軍トナリ襲来。」と
あり、大塔宮(護良親王の還俗前の名)と竹原八郎の働きが音に聞こえていた様子が感じ取れ申そう。■■■■■■■■■
そんな竹原八郎の館跡にはいくつか比定地があるのだが、こちらは熊野市神川町花知(はなじり)にある花知神社である。
蛇行する北山川を挟んで和歌山県東牟婁郡北山村には国道169号線、三重県熊野市側では三重県道40号線が並走する
区間、両者を繋ぐ奥瀞橋の南西300mの位置にこの神社がある。小さな社が置かれる“村の鎮守”と云った神社なのだが、
それに似つかわしくないほど立派な土塁が境内の北〜東〜南の3方を取り囲んでいる(西側は川を背にしているため無い)。
その土塁の周囲には堀も掘られ、綺麗な方形居館の体を成した。ただし、現状で残る堀は北面のみである。土塁には石塁と
なっている部分もあるが、これは当時の館の遺構と言うよりは、神社として整えられた際のものであろうか?いずれにせよ、
土塁や堀は非常に状態が良く、常時手入れが為されているようで感激的だ。敷地は東西40m×南北44mを数え、土塁幅は
8m、堀の幅は8m×深さ6mだったと現地案内板には記されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
竹原八郎、その後の消息は定かでないものの功績が認められ1912年(大正元年)11月17日、正四位の位階を追贈された。
斯くして“地域の誇り”となった八郎の館跡とあって、花知神社の境内は1964年(昭和39年)4月28日に「竹原八郎屋敷跡」の
名で熊野市の指定文化財(史跡)となる。戦前の“皇国史観”によって実を伴わない南朝遺跡が各地で史跡指定された事も
あったが、この竹原八郎館跡は(比定地とは言え)明瞭な遺構が残されており、評価に値する史跡と言えよう。■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
館域内は市指定史跡




伊賀上野城・百地丹波屋敷  鵜殿城・市木城