伊賀国 伊賀上野城

伊賀上野城模擬天守

 所在地:三重県伊賀市上野丸之内
 (旧 三重県上野市丸之内)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



大名権力を排除していた国で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧上野市、現在の伊賀市にある大規模な平山城。別名で白鳳城。単に上野城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代における伊賀国は、室町期の守護・仁木氏が没落していた上に近隣有力大名の勢力圏から外れた空白地であり
国人土豪が割拠する自治地域になっていた。そのため、国の中心となるような大きな城が築かれずにいたのだが、1581年
(天正9年)天下人になりつつあった織田信長が伊賀へ侵攻、大がかりな蹂躙を行って国を併呑し(天正伊賀の乱)配下の
滝川三郎兵衛雄利(かつとし)を入国させ、統治に当たらせる。ようやく中央集権体制に組み入れられた伊賀国で、雄利は
新たな館を構えた。平安時代に平清盛が建立し、天正伊賀の乱で焼け落ちた真言宗上野山平楽寺の跡に築かれたこの
館が、伊賀上野城のはしりと言える。平楽寺の西にはかつて仁木氏が置いた守護館もあったと言い、伊賀統治に相応しい
場所だった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本能寺の変で信長が没した後、羽柴筑前守秀吉が勢力を急拡大していく中で1583年(天正11年)秀吉の命を受けた脇坂
淡路守安治(わきざかやすはる)がが雄利を伊勢国へ駆逐して伊賀を平定。1585年(天正13年)閏8月に秀吉は大和から
筒井藤四郎定次(つついさだつぐ)を伊賀へ移し20万石の太守に任じたのでござる。ただ、実質的な伊賀の石高は5万石
程度に過ぎず、旧領・大和の領地を召上げられた上に京から遠く山深い伊賀へ移されたのは事実上の左遷人事だったと
推測される。何はともあれ、新たに入国した地での統治基盤を確立する必要に追われた定次は1587年(天正15年)頃より
雄利の旧館を大規模に改変し、本丸・二ノ丸・三ノ丸から成る近世城郭を作り上げている。斯くして伊賀上野城の基礎が
成立したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後に再度の改変を受けた為「筒井古城」と呼ばれるこの城は3重天守を本丸の北東隅位置に揚げ、丘陵頂部のうち主に
東側部分を重点に縄張りが成されている。石垣は穴太(あのう)流の野面積みだったと言われ、無骨ながらも堅固なもの
だったようだ。筒井古城の築城工事は天正から文禄年間(1592年〜1596年)にかけて継続され申した。■■■■■■■
さて、秀吉没後の覇権を争った1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦において定次は東軍・徳川家康を支持。これについては、
父祖伝来だった大和国を召し上げられ、左遷人事で伊賀国へ追いやられた事を恨んで、豊臣政権に反旗を翻して家康に
与したという説がある。真偽の程は兎も角として、関ヶ原前哨戦となる上杉討伐に従軍し東国へ向かった定次の留守中、
西軍の新庄駿河守直頼・越前守直定父子が伊勢への進撃路を確保するために伊賀上野城を攻撃、いったんは陥落して
しまう。ところが東国から反転してきた筒井勢は関ヶ原で奮戦、東軍に勝利をもたらし伊賀上野城も奪還したのでござる。
このため、戦後も徳川家康から所領を安堵され、江戸幕府開闢時点においては、伊賀国は筒井家の領土となっていた。
しかし1608年(慶長13年)、突然の幕命により定次は改易されてしまう。理由はさまざまに推測され、定次がキリシタンで
あった事、家臣出奔などの不行状、伊賀国が大坂に近い畿内要地であった事、筒井家が豊臣家恩顧であった事などが
挙げられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

藤堂家の支城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、召し上げられた伊賀国は、隣国・伊勢国の太守であった藤堂和泉守高虎の所領に加えられ申した。これにより
伊勢・伊賀22万石(後に10万石が加増され32万石に)の大大名となった藤堂家は、居城とした津城(三重県津市)と共に
領内の重要拠点として伊賀上野城の大改修を行っていく。高虎は外様大名ながら家康の信任厚く、大坂に残る豊臣氏を
封殺する「大坂城包囲網」の一翼を担って伊勢・伊賀の支配を任されたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■
対豊臣勢力との決戦に備えて1611年(慶長16年)から築き直された伊賀上野城は、筒井古城の本丸よりも西側に広げた
本丸とし、その中でも西寄りの位置に天守台を構えている。そして本丸の西端面を高虎お得意の反りが少ない直線的な
高石垣で固め、その直下に満々と水を湛えた濠を設けていて堂々とした威圧感を高めている。西へ西へと偏重した城の
造りは、敵が西から攻撃してきた場合の備えを最優先とした意図があり、即ち、大坂の豊臣氏を仮想敵としたものだった。
藤堂家の記録「高山公(こうざんこう)実録」に拠れば、「(大坂攻めで負けた場合)大御所公(家康)は上野の城へ引取、
大樹(将軍)秀忠公は江州(近江国)彦根の城に入せ給ふべし」と、徳川家康から特命を受けたと言われる。また、築城の
神様として名高い高虎が得意の手法とした方形の曲輪作りも垣間見え、本丸西部が綺麗な直線で形取られているのは
勿論の事、そこから南側へと大きく拡張された二ノ丸も完全に長方形の縄張りで用意された。ほぼ左右対称となったその
二ノ丸には、南西側に西大手門、南東側に東大手門が置かれており、この2つの門も殆ど同型・同規模の枡形門だった。
その枡形は、南側は開口部となりわざと仕切りの塀や高麗門を置かず開放しておきながら、武者溜りを囲う西・北・東の
三方は連結した多聞櫓で固められている。障壁のない南面の様子で油断した敵を誘い込みながら、三方の多聞櫓から
釣瓶撃ちにするこの構造は、高虎ならではの「鉄砲戦を意識した」ものだと言えよう。さらに、忍者の里である伊賀らしい
話として、高虎は領内の忍びの者を全国に放ち、他の城の長所を調べさせ上野城の築城に役立てようとしたのだとか。
一方、筒井古城も上手く新城郭の縄張りに組み込まれ、部分的に改変された場所があるものの、この曲輪の中に本丸
御殿が設置されていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
着々と工事が進行し、豊臣軍に対する準備が整えられつつあった伊賀上野城。しかし、歴史の流れには思わぬ頓挫も
用意されていた。5重6階、附櫓を伴う複合式の構造で建築されていた天守が、完成間近の1612年(慶長17年)9月2日に
暴風雨の被害を受け倒壊してしまったのである。もともと高虎は、前任地・今治城(愛媛県今治市)の天守を解体し伊賀
上野城へと移築しようとしていたらしい。ところが丁度その頃、幕府が丹波亀山城(京都府亀岡市)を築いていたので、
解体した今治城天守の資材をそちらの工事に献上してしまった。そのため結果的に上野城天守は一から作り直す事と
なり、ようやく竣工寸前まで漕ぎ着けたのだったが、敢え無く全壊してしまう。程なく大坂の陣が勃発し、仮想敵であった
豊臣氏が滅亡してしまったため、天守の再建は不要なものとなった上、築城工事そのものも未完成のまま中止となって
しまった。故に、本丸から北側の敷地は特に手を入れる事のない原生林のままで留め置かれ、筒井古城の北辺には
未使用で放置された栗石(石垣の裏込石)が残された。加えて、高虎は本領である伊勢国の津城へ引き上げたので、
上野城は藤堂領の支城とされる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中、幕府は一国一城令(一令制国または一大名には居城以外の城を認めない法令)を発布して各地の城郭が
破却されたが、上野城は伊賀国の本城として廃城を免れた。原則的に支城を認めない一国一城令の制限下にあって、
このような事例は特に珍しいもので、他には仙台藩伊達家における白石城(宮城県白石市)、秋田藩佐竹家の横手城
(秋田県横手市)・大館城(同県大館市)、熊本藩加藤家の八代城(熊本県八代市)くらいしかない。これは、藤堂家が
伊勢と伊賀という2つの令制国を保有していた為、それぞれの国に1つずつ城を置くという事で可能とされたものだった。
(但し、法令に抵触しない要害・陣屋などは全国に多数存続)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、上野城は城代・藤堂采女家が管理し、本丸御殿は城代屋敷となる。とは言え、津城は平易な館作りの城郭だった
ため、高虎自身が「有事の際は伊賀上野城に拠る」と述べている。未完成でも上野城の守りは固いという証明であろう。
なお、本丸御殿が城代屋敷だったので、藩主が上野城へ赴いた際の御成御殿として二ノ丸にも御殿が建てられていた。

明治維新後に天守誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、約250年に亘り藤堂家の支城として戦時の備えになった伊賀上野城だったが、結局明治維新により活躍の機会は
なく廃城とされる。建物がほとんど取り壊され、東大手門の多門櫓一帯が一時期三重県庁の上野支庁として使われたが
それも1887年(明治20年)に解体。さらに高石垣や濠は放置され城跡は荒れるに任せられた。しかし1896年(明治29年)
伊賀の実業家・田中善助氏が整備を行い公園として一般開放している。さらに昭和初期には衆議院議員の川崎克氏が
私財を投じて天守台上に模擬天守を建立し、城跡としての面影を復したのでござる。この模擬天守は3重3階で高さ23m
高虎が建てようとしていた5重天守とは規模も様態も異なるが木造で建てられており、昭和復興天守ながらコンクリート
造りではない情緒あるもの。これを以って、一時は“最後の天守建築”というのが売り言葉になっており申した。ちなみに
この模擬天守は「伊賀文化産業城」と名が付けられている。建築主となった川崎氏が「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、
文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」として命名された。軍国主義の足音が聞こえてくる時代にあって、
なかなか含蓄のある言葉であろう。1932年(昭和7年)10月14日に地鎮祭を執り行い、翌1933年(昭和8年)11月19日に
棟上式、1935年(昭和10年)10月18日の完成。5重天守用の天守台に築かれている為、寸法が合わず周囲を塀が取り
囲んでいるものの、完成から既に数十年の歳月が経ち今やすっかり上野の景観に溶け込んでいる(写真)。また、この
復興天守は1985年(昭和60年)3月18日に伊賀市の有形文化財に指定されており申す。■■■■■■■■■■■■
1967年(昭和42年)12月27日に城跡は国史跡と指定され、現在に残された堅固な要塞ぶりは黒澤明監督作品の映画
「影武者」の撮影地として利用された。2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに
選ばれている。現存建築として、手当蔵(武器庫)が三重県立上野高校の敷地内に残存している。また、米蔵(部分)も
城域内にある伊賀流忍者博物館の敷地内に「忍者伝承館」として移築されている。■■■■■■■■■■■■■■
なお本丸西端の高石垣は通説で「日本一高い石垣」と言われていたが、測定の結果29.5m(水面上23.5m)で、徳川期
大坂城(大阪府大阪市中央区)二ノ丸六番櫓下石垣の30mに僅かながら及ばない事が判明。とは言うものの、たった
50cmの差であるから両者とも日本一と呼んでも差し支えはないのではなかろうか (^ ^;■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、高虎入魂の堅固な要塞は近隣にある史跡・鍵屋の辻や松尾芭蕉生家と併せて忍者の里の観光名所で
ある事は間違いないだろう。鍵屋の辻というのも今どきはあまり流行らないのかもしれないが…(爆)■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
《復興天守は市指定文化財》
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
手当蔵・米蔵(一部)





伊賀国 
百地丹波屋敷

百地丹波屋敷址石碑

 所在地:三重県伊賀市喰代
 (旧 三重県上野市喰代)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■
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伊賀の有力土豪・百地氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
百地(ももち)山砦、百地丹波城とも。呼び名は色々考えられるのだが、要するに戦国時代における伊賀地方の有力土豪
百地氏の城館跡でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊賀といえば忍者の里。忍者といえば実働諜報員として働く下忍の上にそれを束ねる中忍がいて、更に指導的な立場の
頭領である上忍と、階層別に組織されているというのが良く知られた話であるが、服部氏・藤林氏と並び「伊賀三上忍」に
数えられたのが百地氏である。もっとも、近年は忍者研究も本格化して“上忍・中忍・下忍”という階層関係は無かったと
考えられるようになってきている。つまり“上忍”と言うような身分があった訳ではなく、単純に地域の実力者として周辺の
地侍(そもそも忍者という概念そのものが空想の産物であり、技能に長けた武士が伊賀地方に多かっただけの事)たちを
統率していたのが上記の「三上忍」だったのだろう。そう考えれば(忍者云々はさて置き)普通に地方豪族の一典型である
百地家の城館として存立したのがこの屋敷だったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
実際に忍者としてどれだけ働き(暗殺・破壊活動・諜報・攪乱など)があったかは兎も角として、百地氏が伊賀地方の中で
かなり強大な権力者であった事は間違いない。忍者ものの劇画等でよく描かれる百地三太夫、そのモデルとなった人物
(あるいはそのまま本人と考えるべきか?)百地丹波守はとりわけ有名にして、1544年(天文13年)「木津家宮座文書」に
「喰代(ほおじろ)もゝ地殿」との記載が残り、目立たぬ事が必須である忍者でありながら伊賀地方で有力な土豪であった
事が文献上に残って(しまって)いる。ちなみに「百地丹波守」という名は特定の一個人を指しているのではなく、歴代の
百地家当主が代々受け継いだ名称でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

伊賀、土豪の城館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その百地氏の居館だったこの城は、喰代字城谷にある曹洞宗龍王山青雲寺の裏山が敷地だ。青雲寺は百地氏の
菩提寺と言われ、寺の境内自体が城の外郭の一部となっている。長さ250m×幅60m(最大)、小高く森深い丘陵となって
いる城跡の中には大きく4つの曲輪が区切られ、それが横一列に並ぶ連郭式の縄張りである。こうした曲輪はそれぞれ
外周を高い土塁と堀で囲って、内部を綺麗な平坦面に削平。特に、主郭と目される“郭C”と呼ばれる曲輪は70m×40mと
大規模な広さを有し、東側には堀切が掘削されて、南側に自然地形を利用した堀が構えられている。郭Cへの進入路は
折れ曲がりを用いた虎口を成し、堅固な守り。曲輪の西・北・東を囲む土塁は崩落のために保全工事の手が加えられて
いるものの、比較的良好な残存状況。東側土塁は高さや厚みもある事から、物見櫓台であった可能性もある。その一方
南側の土塁は部分的に欠けており、他の土塁と比べて低い事から当時は塀が置かれていたのかもしれない。さらに、
郭Cの内部には幅1m余りの溝があり、曲輪内を区画した痕跡と考えられ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■
これだけ見事な中世城館遺構が残っているのはかなり感激モノであるが、伊賀市内にはこの城の他、同様の中世城館
跡が250箇所を数えると言う。その中でも喰代・蓮池地区は特に多く分布しており、百地城の近隣だけでも安場氏館跡や
奥氏城跡、上山氏館跡など14箇所もの遺構が確認されてござる。これほど多数の城館があったという事は、伊賀地方に
おいては国をまとめるような強大な国主が居らず、各郷村ごとの惣主が独立統治し割拠していた状況を物語っている。
そうした中で戦国乱世の時代を迎えた為、いつしか惣主の中でも特に有力な者(上記した上忍三家など)のうち12人が
指導者となり、郷村の集合自治が行われるようになったのである。これを伊賀惣国一揆と呼ぶ。程なく、最有力者である
服部家は三河徳川家と縁を持つようになって家臣に加えられた為、実質的に伊賀国内の首領は百地家が務めるように
なった。しかし一方、伊賀周辺の諸国は織田信長の天下統一事業により中央集権体制の中に組み込まれつつあった。

伊賀の蹂躙とその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
自治独立を保ち続ける伊賀国に対して、まず最初に手を出そうとしたのは伊勢国統治を任されていた信長の2男・北畠
信雄(のぶかつ)である。1578年(天正6年)伊賀侵略の前線基地にしようと神戸(かんべ)の地に丸山城(伊賀市内)を
築いたが、情報収集に長けた(忍者ゆえに当然の事である)伊賀衆はこれを素早く察知し、城が完成する前に百地党が
先制攻撃を仕掛けたのでござる。丸山城はもろくも焼け落ち、築城計画は頓挫。怒った信雄は前後の見境なく翌1579年
(天正7年)9月、伊賀へ派兵した。ところがこれも地の利を活かした山岳戦で迎え撃った伊賀衆の猛反撃を食らい、壊滅。
この時、百地党は布引口(鬼瘤(おにこぶ)峠)で戦ったという。もともと信雄は武略の才なく、しかも十分な計画も無しに
攻め込んだのだから返り討ちにあって当然の顛末であった。これを第1次天正伊賀の乱と呼ぶ。■■■■■■■■■■
さて信長は信雄の独断専行を露知らず、報告された惨憺たる状況に「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と大激怒。
ふがいない息子に伊賀攻略は任せられぬとばかりに大兵力を結集させ、1581年9月に6万(3万とも)もの軍勢で伊賀国を
周囲6道から攻撃させたのでござった。さすがにこの大軍には抗せず、伊賀衆は大敗を喫する。伊賀殲滅の命を受けた
織田軍は、伊賀国内の城砦はもとより寺社も焼き払い、武士農民の区別なく全ての人を撫で斬りにしていく。百地城も
この戦いで落城、廃城となる。残った伊賀衆は伊賀南西端の柏原城(三重県名張市)に追い詰められ籠城するが、後の
足取りは良くわからない。織田軍の蹂躙を受け全滅したとも、落ち延びて紀伊国へ逃げたとも言われる。ともあれ、この
第2次天正伊賀の乱で伊賀国は織田領に併合され、百地党も消滅したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■
なお、伝承によれば紀伊へ落ち延びた百地丹波守の子孫が、江戸時代になって伊賀上野城の城代家老・藤堂釆女に
より伊賀藩士に取り立てられ藤林家を再興したという。この釆女なる人物も、実は服部家縁者だったと言われるので、
戦国乱世の荒波で消え去ったはずの伊賀上忍三家は、60余年の歳月を経て再び伊賀の地で相まみえた事になる。
歴史の因果を物語る逸話でござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




伊勢亀山城・正法寺山荘  赤木城・竹原八郎屋敷