伊勢国 伊勢亀山城

伊勢亀山城 現存多聞櫓

 所在地:三重県亀山市本丸町・西丸町・若山町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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鎌倉期以来、関氏が居城とした古城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
もともと、亀山市内には1265年(文永2年)(1264年(文永元年)との説も)関左近衛将監実忠(せきさねただ)が築いたと言う
亀山古城があった。丹陵城や若山城とも別称されるこの城は、北伊勢地域に勢力を拡大し、いくつかの分家を起てた関氏
本家の本拠として栄えた。しかし戦国時代になると尾張の織田上総介信長が伊勢へ侵攻、亀山周辺も制圧される。当時の
城主・関安芸守盛信(もりのぶ)は織田家への臣従を余儀なくされ、更に1573年(元亀4年)には亀山から追放されてしまう。
ところが信長の横死後、羽柴筑前守秀吉による天下統一事業が行われると関氏は亀山への復帰が認められ、盛信や彼の
子・長門守一政(かずまさ)が城主に返り咲きを果たした。秀吉配下となった関氏は、羽柴家に敵対した滝川左近将監一益
(たきがわかずます)が亀山城へ来襲すると一旦は城を逃れるが、程なく奪還している。@@@@@@@@@@@@@@
1590年(天正18年)羽柴秀吉あらため関白・豊臣秀吉による天下統一が成ると、全国的な国替えが行われる。これにより
一政は陸奥国白河(福島県白河市)5万石へと移されて、岡本下野守良勝(よしかつ、宗憲(むねのり)とも)が2万2000石を
以って亀山城主に任じられた。良勝は荒廃していた亀山古城を破却し、そこから南東に位置する丘陵地に新城を築く。@@
(新城への移転は既に関盛信~一政の代に行われていたとする説もあるが、いずれにせよ良勝が大改造を行っている)
これが近世の伊勢亀山城の起こりである。鈴鹿川北岸台地を利用したこの城は、通説によれば亀山古城から南東方向へ
場所を移したもので、尾根筋を堀切で遮断し、西から順に西出丸・本丸・二之丸・東三之丸が一直線に並ぶ連郭式の縄張。
(但し、西出丸は後記する寛永期改修により増設された曲輪)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
西出丸と本丸の南側には広大な南三之丸も設置されている。東三之丸と南三之丸は近世城郭らしく直線を多用した曲輪に
なっている一方で、主要部の本丸や二之丸は自然地形を基礎とした複雑な形状だ。江戸から上方へ通じる東海道は、伊勢
亀山城の東三之丸に突き当たるが、ここがこの城の大手とされる。その東海道は城の南外縁部に沿って進み、南三之丸を
ぐるりと迂回し西方へ抜けるようになっていた。つまり、伊勢亀山城は東海道を封鎖し得る重要な場所に築かれていたので
ござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
とは言え、築城当初の亀山城は垣根で周りを囲む簡素な城郭だったようだ。当城の別名を「粉堞(ふんちょう)城」と呼ぶが、
この「粉堞」とは姫垣を意味する事からも、当時の城の状況が推測できよう。話が逸れるが、この「粉堞城」を「粉蝶城」と
記載している例が見受けられる(堞/蝶の字が異なる)のだが、亀山市の見解では「堞」の字の誤読・誤植、或いは近代の
印刷物を出版する際、「堞」の活字の代用として「蝶」の表記が使われ流布したものと考えている。元々の「粉堞城」と言う
記述は江戸時代に出された亀山藩地誌書「九々五集(くくごしゅう)」巻第一の城地・年譜部にある「名所十詠」の中の一節
「霊鼈戴地幾千載 前水後山粉堞城 古昔守州伊勢彦 亀齢山壽成名」との文言だが、これを粉蝶城とすると意味合いが
かなり変わってくる。粉蝶、白い粉の蝶々はモンシロチョウ(紋白蝶)の事なので、白く化粧された城という風合いになる。
白く塗り固めた城と言うならば白漆喰の城…だとすれば白鷺城(姫路城(兵庫県姫路市)の雅称)と同じような意味だろう。
もっとも、「粉堞城」との言い回しも姫垣に漆喰を塗って体裁を整えたという感じだろうから、結果的には同義なのかも?
話を本筋に戻すと、良勝は本丸に3層の天守を築く所まで工事を進めたものの、1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦で
西軍に与したため、改易の憂き目を見る。良勝に代わって徳川家臣の三宅惣右衛門康貞(やすさだ)が城番となったが、
結局は旧主・関一政が3万石で城主に返り咲いた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

幕府の陰謀?手違いで天守喪失@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところが1610年(慶長15年)7月19日、伯耆国黒坂(鳥取県日野郡日野町黒坂)へ一政は転封となってしまい、三河国作手
(愛知県新城市作手)から5万石で松平(奥平)下総守忠明が入封。その忠明も、大坂夏の陣の論功で1615年(元和元年)
6月10日に摂津国大坂(大阪府大阪市)へ移った為、亀山の地は天領に。四日市代官の支配や津藩属領期を経て1619年
(元和5年)9月29日、三河国挙母(ころも、現在の愛知県豊田市)から1万石で三宅越後守康信が入城した。康信は康貞の
子である。翌1620年(元和6年)8月に2000石を加増され三宅氏の所領は1万2000石となり、康信の後は長男の大膳亮康盛
(やすもり)が継いだ。ところがこの相続時期に亀山城は大きな災難に遭遇する。@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1632年(寛永9年)9月27日に康信が死去、江戸住まいであった康盛が領国から離れたまま家督を相続したのだが、ちょうど
その時、幕府は出雲国(現在の島根県西部)の大名・堀尾山城守忠晴(ほりおただはる)に「亀山城」の修理を命じていた。
これに基づいて忠晴は伊勢亀山城で大掛かりな解体作業を開始し、天守を撤去させたのである。されども、そこまで工事を
進めた所で幕命が丹波亀山城(京都府亀岡市)を指していた事が発覚。伊勢亀山城の解体作業は中止されたのだが、結局
天守は再建されず終いであった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
実はこれには裏があり、最初から伊勢亀山城天守を破却させる口実として幕府が謀った陰謀だったという説がある。わずか
1万2000石の小大名に天守は贅沢だと睨まれたのかもしれない。当時、東海道の拠点だった伊勢亀山城は将軍が上洛する
際の宿館とされており、城の規模や構造に関しては特に神経質になっていたのだろう。いずれにせよ、新城主である康盛が
領国不在の時期に為された どさくさ紛れ の椿事で、伊勢亀山城の天守は滅失してしまったのである。@@@@@@@
ちなみに、将軍の宿泊所であった事から本丸御殿は将軍御成用のものとされ、城主の居館は二之丸御殿であった。@@@

徳川譜代大名が入れ替わる@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その康盛が1636年(寛永13年)5月18日に挙母へと戻されると、6月23日からは三河国西尾(愛知県西尾市)3万5000石より
加増移封された本多下総守俊次(としつぐ)が5万石で入府する。俊次は3年をかけて伊勢亀山城の大改修工事を執り行い
本丸北端に天守代用の3重櫓、そして旧天守台の上に多聞櫓を建設した。天守台改め、多聞櫓台となった石垣は野面積み
ながら高さが14.5mもある。牛蒡積みの工法であったため堅固な構造を維持し、しかも扇の勾配を成す優美なもの。更には
横矢をかける張り出しがあり、実戦性能も高い。この上に天守があったと言うなら、確かに幕府から睨まれるかもしれない。
(多聞櫓建立は俊次入府前や正保年間(1644年~1647年)と言う説もある)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その他、この寛永の大改修では上記した西出丸の新造、外堀の整備などがあり、これを以って近世伊勢亀山城の形態が
完成したと言えよう。ただ、藩庁である二之丸御殿は江戸時代全般を通じて常に改変・拡張が行われていた。表向と奥向、
それに台所や女中部屋が連結する事で構成された二之丸御殿は建築面積665坪(2194.5㎡)にも及んでいたのでござる。
1812年(文化9年)火災で焼失してしまうが、ほどなく再建され幕末に至っている。@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、俊次は1651年(慶安4年)4月4日に近江国膳所(ぜぜ、滋賀県大津市)へ移封されて、同じく5万石で石川主殿頭憲之
(のりゆき)が入城するも、彼も1669年(寛文9年)2月25日に山城国淀(京都府京都市伏見区)へ移され、今度は下総国関宿
(千葉県野田市)から板倉隠岐守重常(しげつね)が同様に5万石で入府した。板倉氏は周防守重冬(しげふゆ)―近江守
重治(しげはる)と代を重ね、1710年(宝永7年)1月26日に志摩国鳥羽(三重県鳥羽市)へ転封。然る後、幕府老中も務めた
大給(おぎゅう)松平左近衛将監乗邑(のりさと)が6万石で入るも、1717年(享保2年)11月に山城国淀へ。再び板倉重治が
伊勢亀山城へ戻り、子の相模守勝澄(かつずみ)が代を継ぐものの1744年(延享元年)3月に備中国松山(岡山県高梁市)へ
移封となり、その備中松山から石川主殿頭総慶(ふさよし)が6万石で入って伊勢亀山城主になったのでござった。@@@@
ここまで代を重ねてきた松平(奥平)・三宅・本多・石川・板倉・松平(大給)の各氏はいずれも徳川譜代の家柄で、東海道の
要衝である伊勢亀山が幕府にとって重視されていたかが良く解かろう。とかく、江戸時代において徳川譜代の大名が任地と
される場所は交通や経済の要衝である事が多いからだ。また、こうして封を移される大名は往々にして幕閣の重要な位に
就く事が通例となっており、在地に縛られない事が出世するための必要条件だったとも言える。しかしそのため、伊勢亀山
城主はここまで定着する事がなく、故に天守解体などの過誤まで発生していたのだが、ようやく総慶以後、明治維新まで
石川氏が亀山城主の任を継承していく。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
総慶の後、主殿頭総堯(ふさたか)―日向守総純(ふさずみ)―日向守総博(ふさひろ)―主殿頭総師(ふさのり)―主殿頭
総佐(ふさすけ)―主殿頭総安(ふさやす)―日向守総和(ふさとも)―主殿頭総禄(ふさよし)―総脩(ふさなが)―日向守
成之(しげゆき)と続いたのである。この間、総博期の1790年(寛政2年)に藩校の明倫舎が創設され、総安の頃に九思堂と
改編されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

僅かに残る遺構を大切に@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
最後の藩主・成之は1869年(明治2年)6月19日に行われた版籍奉還で亀山知藩事となるも、1871年(明治4年)7月14日の
廃藩置県で職を解かれ、そのまま亀山城も廃城とされたのだった。当時の古写真がいくつか残り、大手門や二之丸御殿の
様子が伺えるものの、ほとんど全ての建物は破却され、城地も大半が市街化造成されてしまった。現在にまで残るのは、
旧天守台である多聞櫓台近辺の石垣と、その上に乗る多聞櫓、部分的な土塁や堀跡のみだ。城地は亀山市役所一帯の
台地上に当たるが、高低差以外は城の名残を感じられる様子は無い。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
また、移築遺構として二之丸御殿の玄関式台・書院部分が市内西町の天台真盛宗延寿山遍照(へんしょう)寺本堂として
改造利用されている。これら現存遺構のうち、何と言っても特筆すべきは多聞櫓だが、これは三重県内に元位置のまま残る
唯一の城郭建築物であるため、基台石垣と併せ「旧亀山城多聞櫓」として1953年(昭和28年)5月7日、三重県の史跡に指定
されている。ただ、江戸時代における多聞櫓は壁面が全て白漆喰で塗り込められていたのだが、明治以降の改造によって
平成期まで下見板張りの姿になってしまい(写真)、窓にもガラスが填め込まれ、旧状とはだいぶ異なる様態を晒していた。
21世紀になると城址の史跡価値を高める事業が行われるようになり、2006年(平成18年)二之丸の帯曲輪周辺が江戸時代
末期の形状に復元された。これと前後して亀山城跡の発掘調査が行われ旧態が明らかになってきたが、近世亀山城の地下
下層から中世のものと見られる薬研堀が確認された。実はこれが関氏段階の中世亀山城ではないかと考えられるようになり
亀山古城から近世亀山城の移設時期に一石を投じている。一方で2007年(平成19年)4月15日に三重県中部地震が発生、
亀山では震度5強を観測しており、多聞櫓の石垣が一部崩落してしまった。しかし、崩れたのは1972年(昭和47年)の台風
被害を補修する為に新しく積んだ部分だけで、もともとの城郭遺構である石垣部分は何ら損害がなかったのである。伝統的
工法が、時に近代の土木工学よりも優れている事を立証した訳で、亀山城は色々な面で現在の史跡保全の在り方に疑問を
投げかけている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
なお、改変を受けていた多聞櫓も旧状に戻す工事が行われた。2011年(平成23年)8月から破損個所を直すと同時に下見板
撤去と漆喰で塗り直す作業が進むも、何とこの工事中の2012年(平成24年)12月14日夜、不審火により一部が焼ける事件も
起きている。天守解体の件と言い三重県中部地震と言い、何かと不運に見舞われる伊勢亀山城であるが、とりあえず2013年
(平成25年)4月7日の修復完成式典まで漕ぎ着け、現在では白壁の櫓になって一般公開されており申す。願わくば、今後は
亀山の平和と安寧の象徴としてこの多聞櫓が存続していって頂きたい。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

多聞櫓《県指定史跡》・石垣・土塁・郭群
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
遍照寺本堂(二之丸御殿玄関式台・書院部分)





伊勢国 
正法寺山荘

正法寺山荘跡

 所在地:三重県亀山市関町鷲山
 (旧 三重県鈴鹿郡関町鷲山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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寺を兼ねた武家居館@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
読み方は「しょうぼ(濁音になる)うじさんそう」。関氏が築いたと言われる、寺院を兼ねた城館。永正年間(1504年~1521年)
初期が築城年代と見られ、築城者は号を可似斎と称した関盛貞。関氏の系図には諸説あり、定まらないのだが一説には関
盛信の3代前に遡った人物が盛貞とされる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この砦のある羽黒山は、古来から当地の信仰対象となっていた山で、現在も羽黒山権現神社がある。中世において、山岳
信仰の場は往々にして険峻な地形や霊的な加護の力を利用して城砦化する事が多く、そのような過程の中で、この山荘が
築かれたようだ。正法寺山荘が置かれる以前より、羽黒山には砦があったという話もある。@@@@@@@@@@@@@
盛貞は京都の大徳寺から末寺を勧進し、ここに創建。故に、正法寺と呼ぶ。この山荘敷地は羽黒山の麓部にある平場で、
西側が山を背にした地形となっていて、残り三方は蛇行する小野川が天然の堀となっている要害の地。小野川沿いには
他にも寺が建てられ、正法寺を含め計5つの堂宇が並んだと言うが、後に廃寺となったため今に残るのは移転して場所が
変わった曹洞宗河上山端光寺(ずいこうじ)だけである。この端光寺は関氏累代の菩提寺だ。@@@@@@@@@@@@
さて話を正法寺山荘へ戻す。天然の水濠に守られた敷地の中は寺であると同時に関氏の居館ともなり、山荘化していた。
平坦な敷地は堀や土塁で7つの曲輪に分割されていたが、居館としての性格が重視されたのかこれらの堀や土塁は然程
高くない。個別の曲輪で防衛するのではなく、敷地全体が要害である事に主眼を置いていた現れであろうか。@@@@@
その曲輪の中には、少なくとも4棟の建物があったようであり、井戸や石組みの排水溝も整備されていた。神聖な雰囲気に
包まれた緑の山の中、生活環境も整えられた武家居館は、さぞかし立派なものだったに違いない。北勢地域の中心勢力で
あった土豪・関氏の威勢もあり、高名な連歌師である柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がしばしばここを訪れ、詩歌を
詠んだという記録が残っており申す。1521年(大永2年)宗長は「八十の瀬の 水かみたかし あきのこえ」と詠み、可似斎は
「ながれもきりの おくふかきやま」と続けた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
宗長日記には「むかし、山寺ありけるとなん。牟(ほこ)と楯の用意にや。をのづからの巖を楯、矢ぐら門は石を棟柱、四方
 五十町、谷めぐりてみゆ、凡(およそ)、数万軍兵とりむかへるともおそるべくもみえず」「鷲山正法寺とて山庄あり、巖たかく
 苔ふかく、松杉いく村ともなく凡寺のさま、高尾神護寺にも似たり」と記載されている。@@@@@@@@@@@@@@@@
しかし天正年間(1573~1592年)になると北勢地方は尾張の織田信長に侵略され関氏が没落、主を失った正法寺は廃寺と
なる。江戸時代までは小さな庵があったと言うが、山深きこの地はいつしか風化していった。されど1977年(昭和52年)から
発掘調査が行われ、正法寺山荘は再び陽の目を見たのである。10年間に渡る国・三重県・関町(当時)の調査が行われて
北宋銭・明銭といった銭貨や笄(こうがい)・釘・瓦などの建材、天目茶碗・青磁・白磁・染付皿など生活用品(文化史料)が
出土、室町時代における武家居館の状況が解明された。その結果、1981年(昭和56年)1月24日に国の史跡に指定された。
現在、館跡地は比較的よく整備され土塁や石段、排水溝などが見て取れる。今も井戸は滾々と水が湧き、敷地の片隅には
関氏の墓所も。ただ、山の奥にある史跡なので訪れる機会はなかなか無いかもしれない。国の史跡として道路標識などは
置かれているものの、道は険しく、あまり一般向けの観光名所とは言えないだろう。それでも、敷地内にはおよそ200本の
桜が植えられているので、春の花見にはもってこいの場所。秋の紅葉も見事なので、時季を選べば景色を眺めるだけでも
楽しめる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




神戸城・羽津城  伊賀上野城・百地丹波屋敷