艱難辛苦を味わった神戸氏の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
かんべじょう、と読む。伊勢の国人、神戸(かんべ)氏代々の居城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
桓武平氏の流れを汲む伊勢の名族・関氏から分流した神戸氏は、領地とした河曲郡(かわわぐん)神戸郷から姓を取り、
当初は宗家である関氏に服属しつつ沢城(同じく鈴鹿市内にあった別の城)を構え勢力基盤を築いていた。伊勢国内は
関氏の他にも国司の北畠氏や安濃郡の長野氏、北勢の有力者である赤堀(あかほり)氏や佐脇氏など、在地性の高い
氏族が複雑に割拠する状況にあったが、神戸氏はこれらの勢力と覇を競い実力を蓄えていく。こうした中、北畠氏から
養子<入りし神戸氏の家督を継いだ下総守具盛(とももり)が旧来の家中体制を刷新すく天文年間(1532年〜1555年)に
この城を築き居を移したとされる(異説あり、下記参照)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
具盛の後嗣・蔵人大夫長盛(ながもり、具盛の子)の代になると関氏の隷属から脱し独立。神戸郷から西に領土を広げ、
関氏の領土である鈴鹿郡を越して東近江にまで影響力を拡大したと言われる。このため近江守護・佐々木(六角)氏と
緊張状態を生じ、1552年(天文21年)に長盛が死去し家督を継承した神戸氏6代目・下総守利盛(としもり、長盛の子)は
六角氏との対決に臨むようになる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
沢城から神戸城に本拠を移したのは若くして武略に長じたというこの利盛の頃、弘治年間(1555年〜1558年)とする説も
あるが、神戸氏が特に外敵と盛んに交戦している時代である事を考えれば、納得のいく考証でござろう。■■■■■■
1557年(弘治3年)六角氏が伊勢国内へ侵攻、柿城(三重県三重郡朝日町柿)を包囲。柿城主の佐脇氏は神戸氏と同盟
関係にあったため、利盛は救援の軍を発し、1000騎で六角軍と対陣した。ところが留守となった神戸城を、事もあろうに
利盛の家臣にして神戸氏六奉行の一人とされた佐藤中務丞父子が奪ってしまう。佐藤父子は六角氏に通じて、寝返りを
かけたのである。反乱に気付いた利盛はあわてて兵を返すも、心血注いで整備した自らの居城はなかなか落とせない。
仕方なく利盛は、佐藤氏の居城である岸岡城(鈴鹿市岸岡町)を占拠。佐藤父子に代わり岸岡城を守っていた古市与助
(佐藤家の家臣)を味方に取り込んだ事によるのだが、主の城を家臣が奪い、家臣の城を主が奪うという妙な逆転劇が
演じられたのは、戦国の世の悲哀というか、何とも可笑しな話でござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岸岡城で神戸城奪還の作戦を練った利盛は、母方の縁家である長野氏から援軍を派遣してもらい、総攻撃を開始した。
これでようやく神戸城は手中に戻り、逃亡した佐藤父子も追撃し十宮村に潜んでいた所を発見、誅殺したのだった。■■
頼みとした佐藤氏が敗死して、六角勢は撤退。利盛は防備を固めるべく、東の岸岡城や北の高岡城(鈴鹿市高岡町)を
神戸城の支城群として整備した。しかし激動の時代を過ごした利盛は、2年後の1559年(永禄2年)わずか23歳の若さで
没してしまう。利盛に子はなかった為、出家して土師(はぜ)福善寺(真言律宗太一圓南山福善寺)の住職となっていた
弟の下総守具盛(もちろん上記の具盛とは別人、友盛とも記す)が還俗し家督を相続。■■■■■■■■■■■■■■
その直後、赤堀氏の城であった浜田城(三重県四日市市浜田町)が長野家の軍に攻められると、今度は長野家と決別し
同盟していた赤堀氏の救援を行い長野勢5000の大軍を迎撃する。更に、神戸家の家臣・朝倉掃部助盈豊(みつとよ)が
羽津(はづ)城(三重県四日市市、下記)主・田原国虎から攻められると2000の兵を率いてこれも迎撃するなど、縦横に
活躍する。この頃が神戸家の全盛期であったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田家による乗っ取り、そして神戸氏の滅亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、1567年(永禄10年)から1568年(永禄11年)にかけて尾張の織田弾正忠信長が北伊勢に侵攻した事で事態は
一変する。尾張全土を掌握し美濃までも支配下に収めた織田家の勢いは凄まじく、神戸勢は高岡城と神戸城で防戦し、
1567年8月の戦いは防ぎきったものの、このままでは落城する事が明らかであったため1568年2月に止む無く降伏。その
条件として、神戸氏の名跡を残す代わりに家督を信長の3男・三七郎信孝(のぶたか)に継がす事となったのでござる。
具盛は何とか命を長らえ、その後も織田家と伊勢・近江国人衆との融和に動くが1571年(元亀2年)信長の命令によって
強制的に隠居させられ近江国西大路(滋賀県蒲生郡日野町)で幽閉されてしまい、神戸城も信孝のものとなった。以後、
信孝が城主となった神戸城は1580年(天正8年)に大改修され、5重6階の天守を揚げ、金箔瓦で装飾したきらびやかな
建物が林立し、曲輪の周囲も高石垣で固められた織豊系城郭として生まれ変わる。この天守は北東に小天守、南西に
附櫓を備えた複合式天守であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1582年(天正10年)信孝が四国遠征のため伊勢を離れ大坂へ出征すると、ようやく具盛は赦され神戸城の留守居役を
任されたが、程なく病を得てしまい城を退去し、安濃津(三重県津市)の地で没した(異説もあり)。一方の信孝は渡海
直前に本能寺の変が発生し実父・信長が斃れた為、羽柴筑前守秀吉と共に謀反人・明智日向守光秀を討伐した。その
結果、織田家の行く末を決める清洲会議で信孝は美濃国岐阜城(岐阜県岐阜市)へ居を移す。伊勢の地は信孝の兄・
織田左近衛権中将信雄(のぶかつ)の領土になり、神戸城は信雄家臣・滝川三郎兵衛雄利(かつとし)の持城とされる。
この後、信雄と対立し敗北した信孝は自刃、神戸氏は絶家した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本来の主である神戸家が絶えた神戸城も変化の時を迎え、伊勢国内の城を再編した1595年(文禄4年)天守が桑名城
(三重県桑名市)へ移築されてしまう。このため、桑名城の隅櫓に神戸櫓の名を持つものが存在していたが、残された
古写真では2重櫓であり、5重だったという神戸城天守とは規模が異なる。勿論、縮小移築された可能性もあるのだが、
神戸城からの移築説は伝承に過ぎず正しい言い伝えではないとする見解もある。移築の真偽はともかく、天守を失った
神戸城は1600年(慶長5年)滝川雄利が関ヶ原合戦で西軍に加担したため改易されてしまい、1601年(慶長6年)新たに
一柳四郎右衛門直盛(ひとつやなぎなおもり)が尾張国黒田(愛知県一宮市)から移封されて5万石で城主となる。その
直盛も1636年(寛永13年)6月1日に伊予国西条へ6万8000石で加増転封とされ、結局、神戸は天領に。■■■■■■■
廃城と復活を経て明治維新まで存続■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため城は破却されるが、1651年(慶安4年)石川播磨守総長(ふさなが)が1万石で入封し、陣屋が設置される事に
なる。1660年(万治3年)大坂定番の役を任じられた事で更に摂津国内に1万石を加増、2万石となった石川家は総長の
後に若狭守総良(ふさよし)―近江守総茂(ふさしげ)と代を重ねたが1732年(享保17年)3月1日に常陸国下館(茨城県
筑西市)へ国替えされ、河内国西代(にしだい、大阪府河内長野市)から本多伊予守忠統(ただむね)が新たに神戸へ
入った。本多家の石高は1万石だったが、1745年(延享2年)には5000石を加増され合計1万5000石でござった。■■■
忠統は若年寄だった事から1746年(延享3年)に神戸城の再築が許され、旧来の神戸城遺構を活用した再建神戸城が
1748年(寛延元年)に竣工した。以後、廃藩置県までの約120年間は本多家が神戸城主の地位を継承する。■■■■
忠統の後、2代・上総介忠永(ただなが)―3代・丹後守忠興(ただおき)―4代・伊予守忠「(ただひろ)―5代・伊予守
忠升(ただたか)―6代・伊予守忠寛(ただひろ)―7代・河内守忠貫(ただつら)と続く。このうち、3代目の忠興から6代目・
忠寛までの4人は大坂加番代の任に就き、7代・忠貫は伊勢山田奉行の職にあった。また、5代・忠升は藩政改革を断行、
神戸城内の藩校を教倫堂(こうりんどう)として再編、江戸屋敷内には進徳堂という学問所を置いた。6代・忠寛の時代で
ある1854年(安政元年)安政東海地震が発生、神戸城が大破する被害を受けている。■■■■■■■■■■■■■■
明治維新後、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県で神戸県が成立、後に安濃津県へ編入、更に三重県が成り、役目を
終えた神戸城は1875年(明治8年)廃城、破却。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
神戸城は微高地の本丸を中心とし、その北東側に二ノ丸が連なり、そこから更に南東へ三ノ丸が続く梯郭式の縄張り。
教倫堂は三ノ丸内に設置。三ノ丸は堀を隔てた本丸の南側へ延伸して入り込んでおり、馬場とされていた。馬場部分を
南曲輪とも呼称したようだ。馬場から西にも敷地が繋がり、これが西曲輪と呼ばれている。本丸から西曲輪まで広域に
見れば渦郭式とも分類できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在に残る神戸城の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし廃城により外郭部の堀は埋め立てられ、現状では城の周囲が完全な住宅街となっている。また、二ノ丸・三ノ丸
跡地は三重県立神戸高校の敷地とされ、城址として残っているのは本丸跡地と内堀の一部のみ。■■■■■■■■
さりとて、この残存部分がかなり良好な状態で保全されているのが凄い。神戸公園となり都市公園化されているものの、
石垣や土塁がほぼ完存し、堀にも満々と水が湛えられているのだ。特に、本丸内部にそびえる天守台は綺麗な石垣が
往時のまま残っている(写真)。この天守台、恐らく神戸信孝改修時のものが連綿と残されているようで、切石を使わず
自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣である。河原石を利用したため比較的丸めの石が多用されつつ、しかし
隅石は算木積みの様相を見せており、構築当時としては最新技術が投入された事が良くわかる。と言うか、野面積みで
算木積みというのはかなり特殊な事例と思えるが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、この遺構が評価されたようで1937年(昭和12年)12月14日に神戸城跡は三重県指定史跡となった。ちなみに、
教倫堂跡も1942年(昭和17年)4月27日、同じく県指定史跡とされている。この他、移築された建物が2つあり、ひとつは
浄土真宗正覚山蓮華(れんげ)寺(鈴鹿市東玉垣町)鐘楼となっている二ノ丸太鼓櫓、もう一つは四日市市西日野町の
浄土真宗椎木山顕正寺に移築された高麗門形式の大手門だ。1990年(平成2年)3月30日に四日市市の指定文化財と
された顕正寺の山門は、一般的な寺の山門に比べて非常に背が高いのが特徴だが、これは騎馬武者がそのまま門を
通れるように工夫した神戸城の大手門を移築した事に由来しているそうだ。蓮華寺鐘楼、顕正寺山門は共に旧藩主・
本多家の家紋である立ち葵の紋が瓦に刻み込まれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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