伊勢国 津城

津城跡 戌亥三重櫓台の石垣(左)本丸東面模擬三重櫓(右)
 所在地:三重県津市
丸之内・東丸之内
西丸之内・中央 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



中世城郭「安濃津城」の創始■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三重県の県庁所在地である津市、かつては伊勢国安濃津(あのつ)と呼ばれていた町だが、この「津」というのは
元来「港」を意味する言葉であり、つまりは「安濃(あのう)の港」という事になる。よって、町の名の由来からすれば
安濃が起こりであり、津は町の機能を示していた言葉に過ぎない訳なのだが、いつの間にやら安濃ではなく、津と
呼ばれるようになったのである。即ち、ここは港そのものが町の名として定着するくらい重要な港湾都市・水運の
要衝だったのだ。その繁栄ぶりは薩摩国の坊津(ぼうのつ)、筑前国の博多津と共に日本三津の一つとされ申した。
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と謳われる程、安濃津の港は伊勢一国を支える経済力を持っていた訳だ。
そんな安濃津に城が築かれたのは戦国時代後期の事。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
もともと安濃郡を統治していたのは伊勢の名族国人である長野氏であったが、隣国・尾張から織田上総介信長が
勢力を伸張するに及び、1568年(永禄11年)から安濃郡も攻撃され、力及ばず長野氏は織田家の軍門に下る。
1569年(永禄12年)に結ばれた和議の条件として、信長の弟・三十郎信包(のぶかね)が長野氏の名跡を継ぐ事と
され、実質的に長野の血筋は織田家に吸収されたのだった。以後、安濃郡の統治者となった信包は、この土地に
大規模な拠点城郭を築いた。これが津城の始まりとなる安濃津城である。一説には1570年(元亀元年)頃の創築と
される安濃津城だが、1580年(天正8年)には5重の天守を上げて完成したというのが確実視される。■■■■■■
縄張りには織田家の宿将にして伊勢・伊賀方面に通暁した滝川左近将監一益(たきがわかずます)が関わった。
(永禄年間(1558年〜1570年)に長野一族の細野壱岐守藤敦(ほそのふじあつ)が築城したという説もある)■■■

関ヶ原戦役を経て藤堂家の城へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、本能寺で信長が斃れると豊臣秀吉が天下統一事業を継承、覇業が完成した後の1594年(文禄3年)9月に
信包は秀吉の命で所領を没収され、安濃津城には秀吉子飼いの将である富田左近将監知信(とみたとものぶ)が
5万石で入る。1599年(慶長4年)10月28日に彼が没したので、城主の地位は嫡男・富田信濃守信高(のぶたか)が
継承。翌1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の前哨である上杉討伐に際して信高は徳川家康に味方し東国へ向かうが、
その出陣中、西軍諸将が伊勢平定を目指して安濃津城を攻撃する動きを見せたため、急遽、富田勢は家康の下を
離れて安濃津城の防衛に奮闘する。東軍の先鋒、西軍への防波堤という形となった信高は周辺の味方勢力からも
援軍を得て約1700(1300とも)の兵で安濃津城に籠城。だが、対する西軍は毛利右京大夫秀元ほか3万もの大軍で
安濃津城を攻略した為、圧倒的劣勢に陥る。8月24日から開始された攻防戦は激烈を極め、天守を含め城内外の
建物は軒並み炎上、本丸陥落寸前まで至るが最終的に高僧・木食応其(もくじきおうご)の勧告により和議が成り
開城(開城までの経緯には諸説あり)。同月27日に城を出た信高は高野山へ上り剃髪した。■■■■■■■■■
この攻防戦の後に9月15日の関ヶ原本戦が行われ、家康率いる東軍が大勝利を収める。全国の統治権を確立した
家康は、西軍の食い止めに尽力した信高を評価し津城主への復帰と2万石の加増を認めた。信高は津城を修築し、
3重に縮小されたものの、天守も再建された。更に1608年(慶長13年)信高は伊予国宇和島(愛媛県宇和島市)へ
12万石の大名として加増転封とされ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて富田氏移動後の津には、築城名人として名を馳せた藤堂和泉守高虎が伊予国今治(愛媛県今治市)から封じ
られる。この当時、高虎が領有したのは伊勢・伊賀などの計22万石。時おりしも徳川幕府が大坂の豊臣氏を封殺
せんと一大包囲網を形成する頃で、外様大名ながら家康の信任篤かった高虎は、大坂の東方である伊勢・伊賀を
固めて大坂包囲網の一端を担うべく入国したのである。そのため高虎は、1611年(慶長16年)頃から伊賀上野城
(三重県伊賀市)と津城の再整備に着手し、近世城郭として強固な備えを施した城を作ろうとした。■■■■■■

近世城郭「津城」の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして生まれ変わった津城は、四周を石垣で固めた方形の本丸を中心とし、東西に東の丸・西の丸が連郭式に
繋がり、その3郭をぐるりと幅の広い内堀が囲む縄張り。さらに内堀の外側には二ノ丸が用意されている。東の丸・
本丸・西の丸が連郭式ならば二ノ丸は輪郭式の連なりと言えよう。二ノ丸からは北に京口門、西に伊賀口門、南に
中島口門が開き、最外周の三ノ丸と繋がっていた。この3門は土橋で三ノ丸と接合しているが、いずれも橋の途中で
折れがある筋違橋なのが特徴だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三ノ丸は武家地や町人地からなる城下町を構成していたが、町割りは明確に策定され、城下の西側は湿田として
干拓を禁じられ、平時は水田の耕作地、戦時は泥田堀として城の防衛機能を果たすよう考慮されている。加えて
三ノ丸は南に岩田川、北に安濃川が流れ、天然の外濠となっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
本丸に話を戻すと、方形の4方を北多聞櫓・東多聞櫓・南多聞櫓・西多聞櫓と4つの多聞櫓で囲んだ上、隅位置には
丑寅三重櫓(北東側)・月見櫓(二重櫓、南東側)・戌亥三重櫓(北西側)と3つの櫓で防備する。東の丸と西の丸の
出入口はそれぞれ東鉄門と西鉄門の櫓門で塞ぎ、その脇には太鼓櫓(東側)と伊賀櫓(西側)の2基の二重櫓が
控えていた。つまり本丸だけで三重櫓×2基・二重櫓×3基・多聞櫓×4基と、まさに鉄壁の構えで防備していた事に
なる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そしてこの本丸の特徴として最たるものが、塁線が直線で構成されている事だ。関ヶ原前後の近世城郭というと、
それまでの戦訓から壁面を細かく折れ曲げて横矢を懸ける事が常套手段とされていた。横矢懸かりとは、敵兵が
侵攻してくる予想位置に、わざと張り出した部分を作って側面から狙撃する陣地を築く事だ。しかし高虎はそうした
折れを作らず、直線的な平面で曲輪を守っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
津城のみならず、前任地の今治城や、徳川幕府の命により縄張りを策定した名古屋城(愛知県名古屋市中区)、
丹波篠山城(兵庫県篠山市)などでも同様の縄張りを考案しており、これは高虎が得意とした技法なのである。
では横矢を懸けず直線的な縄張りで、果たして防御が可能なのかが問題となる訳だが、こうした城では防御戦法
そのものが違うのだ。個々の敵を横矢で討ち取るのではなく、横一直線に並んだ塁線(多聞櫓があればなお良し)
上から大規模火力で一斉制圧を図る事を目的としている。徳川幕府の絶対的軍事力を背景とし守城戦に適応した
縄張りを見事に完成させた城郭、それが高虎の城なのである。斯くして、面的な制圧を為し得る津城の本丸は、
内部に御殿も構えて名実共に安濃郡の中心となったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同様に、西の丸も二ノ丸との連絡口を二階門という櫓門で固め、その脇に玉櫓と呼ばれる西の丸角櫓(二重櫓)を
置いて侵入者を挟撃するようになっていた。もともと、西の丸と東の丸は本丸の馬出的な存在であり、その防備は
非常に固いものでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、築城工事の途中で大坂の陣が発生し、仮想的である豊臣氏が滅亡したのでそれ以上防備を固める必要が
無くなった。よって、本丸南西位置に揚げる予定だった天守は築かれず、また、東の丸は建物が1棟もなく、石垣も
組まない状態で工事が終了してしまったのだ。高虎の築城術を存分に発揮する予定だった津城は未完成の城郭と
して江戸時代250年を過ごす事になったのである。また、二ノ丸は旧来の安濃津城の縄張りを踏襲しているため、
高虎流の縄張りと異なり横矢が懸かる“折れを多用した”外縁部となっている。その塁上には櫓が12基もあったが
これまた、前時代的な平櫓ばかり。このため、堅固な本丸・西の丸に対し不完全な東の丸や二ノ丸という不安定な
構造になってしまい、高虎自身「津城は平時の居館にして、戦時は伊賀上野城を頼る」と評したのだった。■■■■

藤堂家12代を経て明治維新に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、大坂の乱が終息した後に戦乱が訪れる事はなく、津城は藤堂家12代の居城として幕末まで安泰であった。
大坂の陣の功績によって1615年(元和元年)と1617年(元和3年)にそれぞれ5万石の加増を受け、合計32万石の
大封となった藤堂家は高虎の後、左近衛権少将高次(たかつぐ)―左近衛権少将高久(たかひさ)―和泉守高睦
(たかちか)―和泉守高敏(たかとし)―大学頭高治(たかはる)―和泉守高朗(たかあき)―和泉守高悠(たかなが)
―和泉守高嶷(たかさど)―左近将監高兌(たかさわ)―和泉守高猷(たかゆき)―左近衛権少将高潔(たかきよ)と
家名を繋ぐ。この間、津城は1639年(寛永16年)本丸天守台脇に埋門を増設する工事を行っている。一説によれば、
藩主の身を案じた奥方が非常時の脱出路を必要としてこの埋門設置を決したと言う。この門は小天守台と南多聞
櫓の間を抜け、本丸外周部の犬走りに抜ける事ができた。言い忘れたが、石垣の下部に犬走りという細い通路状
平面を用意するのも高虎流築城術の特徴だ。これも今治城や丹波篠山城で同様の構造を見せている。犬走りは、
通路として機能するのは勿論だが、第一義的には石垣下部の土台を安定させ崩落を防ぐ目的で作られている。
その後の津城は1662年(寛文2年)4月の大地震で城壁を破損し、さらに同年12月、大火により西の丸を残して全焼
してしまう不運にも見舞われている(富田氏時代の大小天守はこの時に失われたとする説もある)。この火事からの
復旧工事は7年半もの歳月を要し、1670年(寛文10年)6月にようやく竣工している。■■■■■■■■■■■■■
高兌の時代には藩校として有造館(ゆうぞうかん)が創立された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、大政奉還・鳥羽伏見の戦い当時の当主は高猷であったが、はじめ佐幕派であったはずの彼は、戦局不利と
見てにわかに新政府側へ寝返る。藤堂家の裏切りをきっかけとして幕府軍は崩壊、鳥羽伏見の戦いで大敗北を
喫す。あまりに唐突なその変心ぶりは敵味方の両方から蔑まれ、「裏切り者の犬」と呼ばれた。そのため、1871年
(明治4年)6月28日に代替わりして藤堂家12代目・津藩知藩事となった高潔は、裏切り者の汚名を雪ぐため家督
相続以前より積極的に行動、藩政改革の挙行や明治天皇の伊勢神宮参拝の警護などを勤め上げた。されども、
知藩事就任直後の同年7月14日に廃藩置県が行われ免官される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近現代の悲哀■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
津城は存城とされたが陸軍省の管轄に置かれ、1885年(明治18年)櫓などの建造物は入札により売却・破却へ。
1889年(明治22年)ようやく城地は陸軍省から藤堂家に払い下げられたが、結局、大半の堀が埋立てられた挙句
ほとんどの敷地が市街地化されてしまった。更に、太平洋戦争後には本丸南側の内堀が戦災瓦礫の廃棄場所と
なってしまい消滅。北側の堀も縮小されている。然る後、ようやく史跡整備が行われるようになり1958年(昭和33年)
2月28日、津市の指定史跡とされ、それにあわせて本丸東鉄門の櫓台跡に模擬三重櫓(写真右)が建造された。
但し、これはあくまでも模擬櫓であるため、実際にこの位置にこのような櫓があった訳ではない。先に述べた通り、
本丸内の別の位置に丑寅櫓・戌亥櫓という2基の三重櫓があったが、それと比較してこの模擬櫓は規模こそほぼ
同じものの、意匠も異なっており、往時の津城の様子を再現した物とは言えないのが残念だ。本来、津城にあった
三重櫓は破風が一切なく、石落しもない簡潔な外見。屋根の棟の上にも鯱は無かった。加えて、屋根の反りも殆ど
無い直線的な作りで、1層目の最下部だけは壁面に瓦を塗りこめた海鼠壁になっており防湿性を向上させていた。
この模擬櫓もなかなかに質感があって悪くはないのだが、見学する時は史実に基づいていない建物である事を
念頭に置いて見るべきでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、本丸跡地と西の丸跡が公園として一般開放されており、本丸は洋風庭園、西の丸は日本庭園となっている。
現存建築物はないが、藩校・有造館の講堂の正門であった入徳門が1971年(昭和46年)に西の丸内に移築されて
おり、また、高虎が心血注いで築き上げた勇壮な石垣が周囲を固めているのが見所だ。■■■■■■■■■■■
(入徳門は1968年(昭和43年)1月20日、津市文化財に指定)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、城址は2005年(平成17年)3月17日に三重県指定史跡に格上げされている。そして2017年(平成29年)4月6日
財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選ばれた。近代化で形を変えたとは言え、やはり“築城の神様”
藤堂高虎公の居城は名城と呼ぶに相応しいと言う事だろう。願わくば、続百名城になったからには今後の整備保存
史跡活用を有効に行って欲しいものである。何せあの高虎様が集大成として作った城なのだから…。■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群
城域内は県指定史跡

城内移築建造物として
入徳門(藩校有造館講堂正門)《市指定文化財》





伊勢国 
伊勢上野城

伊勢上野城址 井戸跡

 所在地:三重県津市河芸町上野
 (旧 三重県安芸郡河芸町上野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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伊勢豪族・分部氏の預かった城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上野城、しかも三重県とくれば普通思い浮かぶのは伊賀上野城だろうが、伊勢上野城というのも確かに存在した。
場所は旧安芸郡河芸町上野、現在は市町村合併で津市河芸町上野となった本城山公園でござる。■■■■■■
築城時期は明確ではない。諸々の記録を紐解けば、1548年(天文17年)分部(わけべ)氏から三間氏にこの城が
預けられたという記載がある。分部氏は伊勢国に古くから根差す豪族。戦国期には長野氏(津城の項を参照)の
配下に組み込まれていたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし確実な築城時期を挙げるとすればもう少し後、織田信長の伊勢侵攻に関連しての話らしい。1568年頃から
始まった信長の伊勢進出により長野氏が服属、信長の弟・信包が長野家の養子に入り安濃郡・奄治(あんき)郡を
支配下に収めた事で時の分部氏当主・分部左京亮光嘉(みつよし)を普請奉行に命じ1570年に築かせたという。
信包は統治の本拠として安濃津城を必要としたが、それが完成するまでの間、この伊勢上野城を仮の拠点として
利用したのでござった。1580年、安濃津城が完成し信包はそちらへ移ったため、伊勢上野城には光嘉がそのまま
城代として在城。以後、伊勢上野城は分部氏の城として存続していく。1594年の国替で信包が伊勢を離れた後も
光嘉は豊臣秀吉から伊勢上野の領地を安堵され秀吉直臣の地位を与えられ、1598年(慶長3年)7月には1万石の
独立した大名として認められた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
と同時に、徳川家康とも深い親交を持つようになっていた縁から1600年の関ヶ原前哨戦では安濃津城の富田信高と
共同戦線を張り東軍に参加、西軍による伊勢平定戦で大いに奮戦した。信高と同様、一旦は城を明け渡し高野山へ
閉塞した光嘉であったが、やはり信高と同じように戦後家康から功績を認められ伊勢上野城主に復帰の上、1万石を
加増(合計2万石)されたのだった。斯くして、徳川幕藩体制における伊勢上野藩が成立した。■■■■■■■■■

立藩程なくして廃城、現状は公園に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1601年(慶長6年)11月29日、関ヶ原戦役時の傷が元で光嘉は死去。伊勢上野城主の地位と分部家の家督は、
外孫に当たる分部左京亮光信(みつのぶ、長野次右衛門正勝と光嘉の娘の間に産まれた子)が承継する。光信は
外様大名として徳川家への対応に心を砕き、京都二条城(京都府京都市中京区)や駿府城(静岡県静岡市葵区)の
手伝普請、大坂の陣への出兵など、さまざまに功績を残した。これが評価され1619年(元和5年)8月27日、近江国
大溝(現在の滋賀県高島市)へと転封されるのだが、同時に伊勢上野藩は廃藩になり紀伊徳川家領へ編入、城も
廃された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は東西約250m、南北約550mの規模。現状、その城址は上記のように本城山青少年公園になっている。標高
約30mの高台を利用したこの公園は広々とした野原が拓け、頂部に展望台が設置されているのだが、どうやらその
展望台は、主郭北西隅にあった伊勢上野城の天守台の上に建てられているようだ。天守台の上に展望台を、まぁ
目的としては正しいかもしれないが史跡保護の観点から正しいかどうかは…かなり疑問 (^^;■■■■■■■■
展望台の是非云々は置いておくとして、その他には井戸跡(写真)や櫓台・土塁などが見て取れる伊勢上野城址。
特に土塁は、30m×45mの規模だった本丸の周囲で所々に残存しており、城跡であるよすがを漂わせている。■■
と言っても、城郭愛好家の目で見なければ全然判らないような土堤なので、公園化ですっかり子供が踏み荒らして
いるような状況でござる。まぁ、これも時代の流れで致し方無い事であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
主郭の周辺にはいくつかの曲輪が用意され、土塁や堀で区切られていた。特に主郭東側の堀は幅20mにもおよぶ
巨大なものだったと言われる。その堀を隔てた所にあったのが二ノ丸との事で、本丸と二ノ丸を囲む北・西・南側の
平坦地には家臣団の侍屋敷が置かれていた。堀も雑木林の中に隠れて残っている。■■■■■■■■■■■■
なお、かつて本丸の一角に“本城松”と呼ばれる松の巨木が生えていて、伊勢湾の海上を航行する漁民が目印と
して尊重していたという話が残る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等





伊勢国 
草生城

草生城址 土塁

 所在地:三重県津市安濃町草生
 (旧 三重県安芸郡安濃町草生)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
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生い茂る草に埋もれた草生城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
くさわじょう、と読む。長野氏分流、草生氏の居城。南北朝時代、長野氏5代目・豊藤(とよふじ)から分家したとされる
草生氏は(詳細不明)1438年(永享10年)中尾民部・雲林院(うじい)氏らの軍勢と共に長野越後守満藤(みつふじ)に
従い、幕府に翻した伊勢守護の世保(よやす)土岐持頼(もちより)を大和国三輪(奈良県桜井市)近辺で討ち取った
記録が残る(持頼が討たれたのは1440年(永享12年)との説も)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、江戸時代前期に記された軍記物「勢州軍記」には家所(いえどころ)・分部(わけべ)・細野の3家と共に長野氏の
与力として「侍三百人、内馬上五十騎、小人二百人、合五百之大将」と記されてござる。この草生城は、正確な築城
年代は不明ながら、戦国時代に時の草生氏当主であった草生越前守が築いたと見られる。■■■■■■■■■■■
経ヶ峰東麓、舌状台地端部になった標高130mの丘陵を城地とし、東西約250m×南北90mの規模を誇る平山城。城内
北西部、台地最高所が主郭で、その北西隅には櫓台が残る。主郭の周囲は幅広い空堀で囲まれ、そこから東側へと
大きく分けて3つの曲輪が連郭式に繋がっている。また、主郭の南側にも比較的大きな曲輪が啓開されてござる。■■
これらの曲輪群のうち最大のものが二の郭で、縄張り図を見る限り主郭の倍の広さがある。二の郭の南端は特に高い
土塁で固められ、反対に北側には出丸状の小曲輪が点在。恐らく主郭は詰めの丸で、実際の運用拠点はこの二の郭
だったのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田信長の伊勢侵攻により長野氏が降伏、この折に草生氏も織田家の軍門に降り、城も落とされたと見られる。以後、
手付かずのままで廃城となったようだが、それが幸いして比較的良好な遺構が現在まで残る。惜しむらくは、手付かず
過ぎて放置?と思えなくもない状況か (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三重県道28号線(亀山・白山線)沿いにあるが、駐車場がないのが難点。草生集落の中、浄土真宗左近山西蓮寺の
西側約400mあたりに史跡案内標識があるので、そこから分け入っていくと城跡が待ち受けている。■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




松坂城・松ヶ島城  神戸城・羽津城