伊勢国 松坂城

松坂城址石垣

 所在地:三重県松阪市殿町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



蒲生氏郷、南伊勢の首府を築く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1588年(天正16年)蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)が四五百森(よいほのもり)に築城した平山城。よって、別名にて
四五百森城と呼ぶ。主郭部の全域を石垣で固めた壮大な城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信長亡き後の覇権を豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧・長久手の合戦において秀吉方へ付いた氏郷は、家康方の
北畠三介信雄(のぶかつ)領を攻略し、その功労として信雄の旧領・伊勢国の南半分12万石を与えられた。入国当初、
信雄の本城であった松ヶ島城(松阪市内、下記)に居を構えた氏郷だったが、この城は海に近すぎて統治に不便であり
しかも狭隘であった事から、新たな城を築く。平野部に独立した丘陵・四五百森を城地に選び築いたのがこの松坂城で
あった。氏郷の築城以前、この場所には北畠家の部将・潮田長助正重(うしおだまさしげ)が1570年(元亀元年)頃に
築いた城があり、築城に適した選地だったと言えよう。これにより松ヶ島城は廃城となる。氏郷の築城にて付けられた
「松坂(現在は松阪)」の地名は、吉祥に繋がる「松」の字と天下人・秀吉の本拠であった「大坂(これも現在は大阪)」の
「坂」を組み合わせて命名されたものと言われており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松坂城のすぐ北には坂内(さかない)川、南には愛宕川と名古須川が流れ、これを天然の外堀とし標高35mの四五百森
頂部を本丸に構えた城地だ。その本丸も上段と下段の2段に分かれており、上段に天守と御殿が置かれた。天守台の
大きさは約16m×17mの不等辺四角形、高さ約6.4m。文献から天守は3層だったとされているが、意匠など詳しい事は
不明。されども、近年の発掘調査により建物の構造はわかってきている。天守は付櫓、さらに敵見櫓、加えて多聞櫓、
そして金ノ間(きんのま)櫓まで連続していて、本丸上段で大規模な櫓群を構成していた。また、付櫓を介して本丸御殿
(後世、兵部(ひょうぶ)屋敷と呼称された)へ繋がっていて天守と御殿が連結していたのである。この構造は、安土城
(滋賀県近江八幡市)天守と御殿が一体となっていた状況に酷似している。信長の信頼篤かった氏郷は自らの居城を
造るにあたり、安土城を手本としていたのだろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘調査の結果明らかになったのはもう一つ。出土した瓦の中には金箔を圧した物が在った他、1579年(天正7年)の
紀年銘を刻んだ物が含まれていた。この年は松ヶ島城の築城年であるため、松坂城の構築において同時に廃城とした
松ヶ島城の古材をそのまま転用した事が確実となったのだ。当時は破却された建物の部材を再利用する事が常識で
(他城でも同様の事例あり)松坂城の築城にもそうした材料を用いていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
縄張りは最上段の本丸上段を中心とし、一段下がった高さで東に本丸下段、西に希代(きたい)丸、南に隠居丸を配置。
その下段には本丸と隠居丸の間に位置する南東側に二ノ丸が置かれ、ここまでの主郭部は全て石垣で固めた豪放な
城でござった。野面積みながら、場所により高さ10mを超える高さにして、所々に巨石を組み込んで見る者を圧倒する
石垣は実に見事。これらの曲輪を全て外周からぐるりと三ノ丸が包囲する縄張りで、その三ノ丸は幅15〜31m、総延長
2kmに及ぶ水濠で囲まれていた。この濠には城の大手が東向きに開き、搦手は南側。他に、西向きにも出口があった。
これらの出入口、それに城内の曲輪を繋ぐ門は総て厳重な虎口で固められ、折れを多用した複雑なものになっている。
一方、三ノ丸の南半分には八幡宮が置かれ、その部分はほぼ手付かずの自然な山の状態。城の鎮守となる社を神域と
して取り込んで保全し武運長久を願ったという精神的側面も窺える縄張りなのでござる。■■■■■■■■■■■■■

城主転変の後、紀伊徳川家の支城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
氏郷はこれだけ大掛かりな城を整備したものの、1590年(天正18年)秀吉が全国統一した事に伴う国替えで会津若松へ
移封され、翌1591年(天正19年)関白・豊臣秀次(秀吉の養子で当時後継者とされていた人物)の配下武将である服部
釆女正一忠(かずただ)が3万4000石で城主に任じられる。城代として家臣の石黒毛右衛門を置いた一忠であったが、
1595年(文禄4年)秀次が失脚した事件に連座して切腹し、代わって古田兵部少輔重勝(しげかつ)が城主になる。彼は
近江国日野城(滋賀県蒲生郡日野町)からの移封。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1606年(慶長11年)病死すると弟の大膳大夫重治が継ぐも、大坂の陣で戦功を挙げた事で1619年(元和5年)2月13日に
石見国浜田(島根県浜田市)へ転じた。以後、松坂は紀伊徳川家の属領となり、その代官が支配するようになる。紀伊
徳川家の伊勢領18万5000石を支配する本拠地とされた松坂であるが、しかし城内の構造は蒲生氏郷築城時以来大きく
手を加える事なく使われ続けていた。このため、老朽化による建造物の欠落が続出し、遂に1644年(正保元年)台風で
3層天守は倒壊してしまった。結局、天守はそれきり再建される事なく松坂城から消滅。一国一城令や武家諸法度など
幕府の城郭に対する統制が厳しい時代だったため、これは当然の事でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
その反面、1657年(明暦3年)から城代制になり大久保四郎右衛門が初代松坂城代に就任した事で、1794年(寛政6年)
二ノ丸敷地内に徳川陣屋が建立されている。とは言え、城の荒廃は進む一方。石垣の修築が時折行われる程度で、
建物はなおも滅失していったようだ。明治最初期に撮影されたと思しき松坂城裏門の古写真では、屋根を茅(かや)で
葺いていた様子が残されている。これは、大風で瓦屋根が崩落した為、代用品として茅葺屋根を据えたものと言われ、
松坂城の維持管理がほとんど行われていなかった状況を如実に物語っている。併せて、本来櫓門であったのを棟門に
簡略化しているとの事。門の鏡柱が太く大きな建材で建てられているのに対し、屋根が農家のような茅葺(それも穴が
開いている)である状態は、実に異常なもので滑稽。城の修築というものが如何に大きな負担であったかを窺わせる。

廃城、そして公園整備の途■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結果、明治維新により松阪城(維新後、大阪に倣って松阪に改称)は廃城。外郭部の濠はほぼ全て埋め立てられて、
城内の建築物も大半が撤去された。また、残っていた二ノ丸御殿も1877年(明治10年)失火により失われている。■■
しかし壮大な石垣を擁する主郭部の敷地は残存したので、1881年(明治14年)城跡公園(松阪公園)として一般開放。
このため、城地は1952年(昭和27年)7月9日に三重県指定史跡となっている。史跡指定範囲は45142u。■■■■■■
現在、松阪公園である松坂城跡は都市公園として整備され、江戸末期以来崩落していた石垣は全て綺麗に復旧されて
いる。また、城内隠居丸跡には本来城下にあった本居宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」が1909年(明治42年)火災被害を
未然に防止する目的で移築され一般公開されている。この建物に関しては1953年(昭和28年)3月31日、国特別史跡に
指定された。加えて城の南、搦手口を出た先には幕末の1863年(文久3年)に構えられた紀州藩の松坂御城番同心組
屋敷長屋が現存。これも主屋2棟が2004年(平成16年)12月10日国指定重要文化財になっており、土蔵1戸前も2003年
(平成15年)3月17日に三重県指定文化財になっている。この土蔵は城内隠居丸で米蔵として使われていたものを移築
したらしい。これらの組屋敷建築物は観光用として部分的に一般公開されているが、大半は現在も藩士子孫の御家族が
お住まいの「現役住居」であるので、見学の際はご注意を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに、市内白粉町(おしろいまち)にある天台真盛宗教主山来迎寺の裏門は松坂城の中門を移築したものと伝えられ
1988年(昭和63年)4月26日、松阪市指定文化財に。城の内外を合わせて色々と見所の多い松坂城なのだが、薀蓄を
抜きにしても石垣の上から見る松阪の町の風景は格別なので、散策するにうってつけの城跡でござろう。■■■■■■
2006年(平成18年)2月13日、日本城郭協会から日本百名城の一つにも選ばれている。2011年(平成23年)2月7日には
城跡のうち約4.7haが国の史跡にも指定され、今後もますます目の離せない名城である。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡
城下御城番組屋敷に主屋2棟《国指定重文》

移築された遺構として
苗秀社倉庫(旧松坂城隠居丸米蔵)《県指定文化財》
来迎寺裏門(旧松坂城中門)《市指定文化財》

城内移築建造物として
本居宣長旧宅鈴屋《国指定特別史跡》





伊勢国 
松ヶ島城

松ヶ島城址 史跡標柱

 所在地:三重県松阪市松ヶ島町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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織田軍に備えた城から織田政権の統治城郭へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1567年(永禄10年)伊勢国司・権中納言の北畠具教(きたばたけとものり)が、織田軍の侵攻に備えて築いた「細首城」が
創始とされる。保曽久美あるいは細汲・細頸とも記された細首の地は、伊勢湾に注ぐ三渡(みわたり)川河口を横目に見る
水利に恵まれた地であると共に、伊勢神宮へと至る参宮古道を塞ぐ水陸の要衝だった。城地は平野部から海へ突出した
半島(或いは点在する島そのものを繋いだ)地形を利用して築かれたらしく、本土から概ね北西方向へ延びる敷地の中を
いくつかの曲輪として分割した連郭式の縄張りであったようだ(現在は干拓され、全て陸地に取り込まれている)。細首と
云う城の名は海に突き出す城の縄張りを表したもの、細汲と言うのも水路が複雑に入り組んで土地が細分化された環境を
示したものではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時の北畠家は隣国・尾張の織田上総介信長から攻勢を受けており、具教はこの城に家中の剛将・日置(へぎ)大膳亮を
入れて守らせた。だが桶狭間合戦で勝利した信長は日の出の勢いで所領を拡大させており、1569年(永禄12年)北畠氏は
信長に降伏。この時、北畠勢の大半が大河内(おかわち)城(松阪市内)に集結させて織田軍と戦っていた為、日置大膳も
それに合流すべく細首城を退去、城を自焼させた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
具教には実子・左近衛少将具房(ともふさ)がおり家督も継がせていたが、織田家へ服従するにあたり信長の2男・信雄を
北畠家当主として迎え入れる事となる。この後、邪魔者とされた具教・具房父子は信長・信雄の謀略で排除され、具房は
幽閉、剣豪として名を馳せた具教は暗殺された。また、日置大膳は織田家臣を経て徳川家康に召し抱えられた。■■■■
さて、北畠家を乗っ取った信雄は田丸城(三重県度会郡玉城町)を居城としていたが、1580年(天正8年)大火により焼亡し
住処を失った。あまりの被害に信雄は田丸城の再建を諦め、この細首城を新たなる居城に定め、それに伴って大規模な
拡張が行われている。本丸には5層の天守が揚げられたと言い、織田一門の豪壮な城として威容を誇ったようだ。信雄の
入居と同時に細首の地名は吉祥を担いで「松ヶ島」と改められてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小牧・長久手の戦いで鍵となった城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、1582年(天正10年)本能寺の変で信長が斃れると、織田家の遺領配分を決めた清洲会議により信雄は清洲城
(愛知県清須市)へ移る。故に、松ヶ島城には信雄の家老・津川玄蕃允義冬(つがわよしふゆ)が入城。義冬の妻と信雄の
妻は姉妹なので信雄と義冬は義兄弟にあたるのだが、次第に羽柴筑前守秀吉が天下人として台頭するようになると義冬は
秀吉に迎合、それに対して信雄は敵対するようになっていく。その結果、1584年(天正12年)3月6日に義冬は粛清された。
これを契機に織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉が干戈を交える小牧・長久手の戦いが勃発するのだが、城主を失った
松ヶ島城には義冬に代わって滝川下総守雄利(たきがわかつとし)が配された。同じく信雄重臣であった雄利にも秀吉から
降誘の手が伸びていたものの、雄利はこれを拒絶し城の守りを任された。小牧の戦いが長く続く中、秀吉の弟・羽柴小一郎
秀長が伊勢方面へ陽動の軍を動かし松ヶ島城に攻め掛かるも、雄利は日置大膳や家康から援軍として送られた服部半蔵
正成らと共に40日の籠城戦に及ぶ。この時、服部半蔵は二ノ丸に入り伊賀者・甲賀者100を指揮し鉄砲戦を為したそうだが、
城方はおよそ3000、それに対して攻め手は秀長以下、筒井陽舜房順慶(つついじゅんけい)・織田民部大輔信包(のぶかね、
信長の弟)・田丸中務大輔直昌(たまるなおまさ)・藤堂和泉守高虎(とうどうたかとら)・蒲生源左衛門尉郷成(さとなり)・九鬼
右馬允嘉隆(くきよしたか)ら歴戦の勇将が率いる2万だったとか。圧倒的兵力差は如何ともし難く、4月9日には開城降伏と
なったが、雄利や半蔵らは戦意を失っておらず、この後にそれぞれ他の城を奪って秀吉勢に抗い続け申した。■■■■■■
この戦いの後、信雄は秀吉と和睦(実質的に服属)する事となり、松ヶ島を含む飯高(いいたか)郡の所領は失われた。■■
そして松坂城の項で記した通り、その領地は蒲生氏郷に与えられる事となり、四五百森への居城移転へと繋がるのである。
海際にある松ヶ島では、近世城郭の必須条件となる城下町の拡大に制約があるとされた為だとか。確かに、海を背にした
城では陸地が半面にしか無い事になる。だが一方で海運を重視した近世城郭もある訳で、海があるのは必ずしも不利に働く
訳では無いだろう。恐らく、松ヶ島周辺の陸地は水利に恵まれた事が逆に仇となり、開発しづらい湿地帯が多かったと言う
事だったのかもしれない。干拓が進んだ現代でもこの地は水田が広範囲に広がり、また海抜もほぼ0である事から、水害を
懸念しての移転というのが一番の理由だったかと思われる。信雄が移った清洲城も、同様の理由で江戸時代に名古屋城
(愛知県名古屋市中区)へ“城下町ごと”引っ越しを行っている(「清洲越し」と言う)のだが、松ヶ島城も松坂城への移転を
為すに当たり、城下町も強制移転させて「南伊勢の新府開拓」を早急に執り行った。参宮古道も松坂城下を通るように付け
替えられたのでこの地は一寒村となってしまい、その結果として松ヶ島城址には何も残らず、後世の干拓事業による整地で
大した遺構も無い状態。唯一、田圃の中に写真の小山だけがあるのだが、これは信雄が築いた5層天守の天守台だったと
伝わっていて、俗に「天守山」と呼ばれている。北畠家・織田家の栄枯盛衰を物語る城跡だが、地名(小字名)には城ノ腰・
丸ノ内・殿町・本町・堀ノ内など城に由来するものが記録されているのが僅かな痕跡。検地帳や古い地籍図等には天守跡・
城之内・南之内・日の丸・紙屋町・ほうく町・鍛冶町と言った地名(町名)も見受けられる。なお、天守山周辺では発掘調査が
行われ、金箔瓦などが出土。この城が確かに織田政権の一角を成す重要な城であった証拠は確認されている。この他に、
古銭・土師器・天目茶碗の破片なども掘り出された。その為、天守山一帯の287uが1956年(昭和31年)12月5日、三重県の
史跡に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現在の城址と、伝承される移築遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天守山の位置は三重県道699号線(六軒鎌田線)沿いにある八雲神社から真東に190m。と、この距離の説明だけでは良く
分からないが、実際の所ほかに目印になるような物が無い場所なので、これ以上は書きようが無い場所なのである。更に
その地点へ至る道は車が入れないような細道なので、歩いて行くのが最良の手段でござろう。来訪する際は御注意あれ。
ちなみに、旧城の縄張りが想定されるのはこの六軒鎌田線に沿った敷地であり、航空写真を見ると何となくその姿が浮かび
上がる感じだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された遺構としては、松阪市中町にある真言宗岡寺山継松寺の書院が松ヶ島城の古材を使って建てられているとの事。
書院は桁行9間×梁間6間、入母屋造り本瓦葺。屋根の鬼瓦には「寛永六年九月吉日伊勢山田ノ住人石品ハ吉佐衛門作」と
ある為、江戸時代にも何かしらの改修(改変)が行われたと考えられ(寛永6年=1629年)、どこまで松ヶ島城の遺材が残存
しているのかは不明だが、1960年(昭和35年)12月1日に松阪市の文化財に指定されている。それにもう1つ、同じく松阪市内
愛宕町にある真言宗愛宕山龍泉寺の三門も松ヶ島城からの移築と伝承される。ただ、この門に関しては松坂城の移築門との
説もある為、来歴には疑問符が付く。ともあれ、龍泉寺三門は1間1戸両開きの薬医門で、礎石上に本柱と控柱を建て本柱間を
冠木で継いだ形状。本瓦葺で棟の両端に鯱瓦を揚げており、城門の風格は見て取れる。こちらは1952年(昭和27年)3月13日
三重県の有形文化財となってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、松ヶ島城の曲輪を洗った三渡川は伊勢街道と交錯する事から古来より和歌の枕詞に使われていた。そしてこれらの
歌は伊勢の海と対になって詠まれている。川と海が入り混じる場所ならではと言う事だが、それは即ち松ヶ島城の要害ぶりが
川と海を巧みに利用した水城であった様態に通じる訳だ。そして三渡川の別名は「涙川」―――栄華を誇った織田家の行く末も
涙に消えたと、松ヶ島の地は訴えているかのようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
龍泉寺三門(伝松ヶ島城裏門)《県有形文化財》
継松寺書院(伝松ヶ島城書院部材)《市指定文化財》




田丸城  津城・伊勢上野城・草生城