伊勢国 田丸城

田丸城天守台石垣

 所在地:三重県度会郡玉城町田丸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
★★■■■



南北朝の戦いに始まる名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝並立が始まった1336年(延元元年/建武3年)、後醍醐天皇が吉野へ還幸し南朝を立てるにあたり、南朝方の
最有力武将であった北畠親房(ちかふさ)・顕信(あきのぶ)父子が南朝軍の拠点としてこの地に砦を築いた。これが
田丸(当時は玉丸)城の始まりでござる。南伊勢の抑えである田丸は神域である伊勢神宮やその外港に程近い上、
参宮街道と熊野街道が分岐する政治・交通の要衝。加えて城地は、宮川と櫛田川の中間点にあり、水利の確保にも
便利な地点だった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし親房は多忙の身、南朝勢力の増大を狙い遥か奥州へまで遠征し、顕信は南朝中枢・吉野の防備に赴く。結果、
田丸城は愛洲三郎左衛門宗実(あいすむねざね)が城代に任じられ、城を守る事になる。宗実は、一之瀬城(三重県
度会郡度会町)を拠点にして熊野海賊を支配した事から北畠氏に南伊勢守護を命じられた愛洲太郎左衛門の弟だ。
伊勢神宮を確保し、神領を領有すべく南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦を繰り返す。一例を挙げると1337年
(延元2年/建武4年)北朝方の有力武将・畠山上野介高国(たかくに)が田丸城を攻めるも宗実はよく防ぎ、これを撃退。
この当時、南北朝の勢力は拮抗状態にあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1339年(延元4年/暦応2年)9月19日に後醍醐天皇が没してから南朝方が劣勢となり、度重なる北朝方の攻撃に
晒されるようになった田丸城は1342年(興国3年/康永元年)遂に落城してしまう。しかし南北朝の争乱はまだまだ続き
1392年(元中9年/明徳3年)ようやく両朝は合一。以後、南伊勢は国司・北畠氏が領有するようになり、田丸城は愛洲
伊予守忠行(ただゆき)が城主になるのである。愛洲氏は後に田丸氏を名乗り北畠氏と同族であった家系から、城は
田丸御所とも尊称されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(愛洲氏の出自は清和源氏愛洲氏という説の他、北畠氏と同じ村上源氏という説がある)■■■■■■■■■■■■
1440年(永享12年)北畠氏が足利将軍家と和した事で田丸城は改修され、1467年(応仁元年)応仁の乱の地方伝播に
伴う田丸合戦が勃発。1532年(天文元年)には国一揆が田丸で発生する。田丸城は数々の戦乱に巻き込まれている
城なのだ。そして時代は更に激変していく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

織田家による伊勢制圧と共に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1571年(元亀2年)田丸中務少輔直昌(忠昌・具忠・具安など多数変名あり)が城主に就任。しかしこの頃、主家である
北畠家はすっかり没落し、隣国・尾張国から織田弾正忠信長の侵略を受けていた。1569年(永禄12年)から始まった
信長の伊勢侵攻は総勢7万とも8万とも言われる大軍で行われ、支えきれなくなった北畠氏は遂に1572年(元亀3年)
信長の2男・三介信雄(のぶかつ)へ家督を譲る事で和睦した。それにより伊勢全土は北畠信雄の支配下に入った。
そしてこの年、信長の命令で伊勢国内の諸城は破却されて、田丸城もこれに含まれたのである。田丸直昌は近隣の
岩出城(玉城町内)へ移されたが、父祖伝来の城を失い、信長の隷下に置かれた彼は、最終的に妻の兄(弟とも)で
ある蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)の与力となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが3年後の1575年(天正3年)信雄はそれまでの居城であった大河内(おかわち)城(三重県松阪市大河内町)を
廃し、改めて田丸城を再築して居を移した。この時に大改修を受けた田丸城は、本丸に3重の天守を上げ、主郭部の
大半を石垣で固めるようになり、いわゆる織豊系城郭の体裁を整える。伊勢支配の本拠地に相応しい堅城となった
田丸城は、加えて外城田(ときだ)川の流路を変更し城下を取り囲む外堀とした。なお、信雄は1576年(天正4年)11月
25日、北畠家旧臣の中で織田家に不服従であった者たちを田丸城へ誘い出し一同に粛清する「三瀬(みせ)の変」を
起こしている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1580年(天正8年)放火により田丸城は全焼してしまう。火を点けたのは何と城の金奉行で、煙硝蔵に火を放った
事から瞬く間に城全体が炎に包まれたのだった。壊滅した田丸城の姿に信雄は再建を諦め、松ヶ島城(三重県松阪市
松ヶ島町)へ移った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

田丸氏去って紀伊徳川家の支城へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
程なくして織田信長が本能寺の変で死去し、時代は豊臣秀吉のものになり、1584年(天正12年)松ヶ島城を得て伊勢
支配を任された蒲生氏郷は田丸直昌を再び田丸城主に据えた。こうして、旧城主・直昌の手によって田丸城は再建を
果たしたのである。もっとも、織田家の御曹司である信雄が再建できなかった城を建て直したと言うのだから、いくらか
簡略化した再興だったのかもしれないが。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、田丸氏の返り咲きも長くは続かなかった。1590年(天正18年)天下を統一した秀吉は大規模な国替えを命じ、
氏郷は会津若松城(福島県会津若松市)へ移される。直昌もこれに従い、田丸城を離れ陸奥国三春(福島県田村郡
三春町)へ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして城主不在となった田丸城、城代として岩出城から稲葉兵庫頭重通(いなばしげみち)が入り1600年(慶長5年)
関ヶ原合戦後には論功として加増も受け、4万5000石の大名に相応しい城の体裁を整えるべく、田丸城の大改修を
行った。この時、不要とされた岩出城は破却されている。稲葉氏は重通の孫・淡路守教通(のりみち)の代になった
1616年(元和2年)摂津国中島(大阪府大阪市東淀川区)へ移封。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
田丸の地は津城(三重県津市)主・藤堂和泉守高虎の領地に編入されるも、1619年(元和5年)からは紀伊徳川家の
領地に変更となった。これにより、その年から田丸城主に紀伊徳川家の附家老・久野丹波守宗成(くのむねしげ)が
任じられたのである。久野氏の石高は1万石。遠江国久野城(静岡県袋井市)から移って来た。■■■■■■■■■
以後、明治維新まで久野氏8代が田丸を治めた。宗成以後、外記宗晴(むねはる)―丹波守宗俊(むねとし)―備後守
俊正(としまさ)―丹波守俊純(としずみ)―近江守輝純(てるずみ)―伊織昌純(まさずみ)―丹波守純固(すみかた)と
続く。附家老は大名に準じた家格であり、陪臣ながら将軍への拝謁も可能な家柄であった。■■■■■■■■■■■

石垣見事な田丸城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ほぼ円形をした城の敷地は、その外周をぐるりと水濠が囲んで、東側に大手口、南側にもう一つ出入口が開く縄張り。
他に、橋をわざと架けずに途切れた状態のまま虎口だけ構えた搦手口が西側に置かれていた。戦闘正面となるべき
東側大手口からいくつもの虎口を経て三ノ丸・二ノ丸を登っていき、円の中心からやや西側へ偏った最頂部の本丸へ
辿り着く構造だが、それぞれの曲輪には帯曲輪や出曲輪が付帯していて、なかなか堅固な構え。更に本丸の北には
詰の丸と思しき北の丸が連結する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
各曲輪は主に土塁で仕切られているが、本丸全周と二ノ丸・北の丸の東側(つまり戦闘正面側)、それに大手虎口と
そこから三ノ丸まで繋がる道は石垣で固められ、防備を強化している。こうした石垣は全て稲葉氏在城時代の改修に
よるもの。そして本丸の北端には天守台(写真)。この天守台は東西約17m、南北約18mのほぼ正方形。内部は穴蔵
構造。石垣の高さは4mに達し、南側に付櫓台が置かれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城としての規模は決して大きくないが、実に巧妙な縄張りで戦国期の実戦的防備、近世の高度な築城技術が両立。
織豊系城郭の要素が凝縮されている、隠れた名城と言えよう。江戸時代には三ノ丸に御殿が置かれていたらしい。
そんな田丸城であるが、明治維新により1869年(明治2年)紀伊藩主・徳川左近衛権中将茂承(もちつぐ)が城知の
返還を命じた事で廃城とされ、1871年(明治4年)城内の建築物は全て破却もしくは払い下げられてしまった。城跡は
御料林(国有地)となり、外周部の濠は埋め立てられ、外郭部は宅地化の運命を辿る。■■■■■■■■■■■■
しかし、往年の名城が破壊されていく姿を見て1928年(昭和3年)5月、朝日新聞社創立者の村山龍平氏が私財を投じ
帝室林野局から田丸城跡国有地9町9反歩の払い下げを受け、田丸町に寄付。実は村山翁、出身はこの田丸で元は
旧田丸領の士族であった。幕末の1867年(慶応3年)田丸藩に出仕し、剣術だけでなく砲術の技量に優れて、優秀な
成績を褒章された事もある人物。廃藩により武士から転身し、大阪で朝日新聞社を興すも、郷土への情愛は薄れる
事なく、1926年(大正15年)には三重県田丸尋常高等小学校へ1万5000円を寄付した経歴も持つ。村山翁の計らいで
田丸城跡が旧田丸町所有地となって以後、城山公園として一般に開放され、これ以上荒廃する事は免れたのだった。
さらに1953年(昭和28年)5月7日、城跡は三重県指定史跡となり申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城郭愛好家が推す名城の今■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の田丸城跡敷地は、大手近辺の外郭部に玉城町役場や田丸保育園が建ち、三ノ丸が玉城町立玉城中学校の
敷地になっており、城の西側の濠も埋められてしまったものの、おおよそ城の旧状は保たれている。町役場の北側、
村山龍平記念館の敷地内には移築された三ノ丸奥書院。これは維新後、払い下げられていたものを約130年ぶりに
城内へ戻したもの。同じく玉城中学校の北側には富士見門が移築されて部分的に残る。明治維新直後、田丸城には
8つの城門があったが、それらは全て売却され7つまでが滅失した。三ノ丸から二ノ丸へ通じる富士見台に置かれて
いたこの富士見門(長屋門)だけは明治初年に町内宮古の乙部氏邸に移築された事で残り、1984年(昭和59年)3月
玉城町が譲り受けて城内に再移築されたのである(但し、旧位置への設置ではない)。現在残るのは門扉部分だけで
あるが、長屋門形式だった事からわかるように本来は両脇に侍溜があった。明治に乙部氏の邸宅へ移築された際に、
向かって右の部分が取り除かれ左の侍溜は乙部氏邸で間口3間半の納屋とされた為、このような現状になっている。
旧奥書院・富士見門ともに1994年(平成6年)12月8日、町指定有形文化財に。■■■■■■■■■■■■■■■■
移築ながら地方城郭で書院や門が残っているだけでも結構なものだが、それを抜きにしても、ここの石垣や土塁の
遺構は素晴らしい!連続する虎口がガッチリと石垣で固められている姿を見るだけで城郭愛好家ならば腰砕け(笑)
見事な石垣の残存具合が高評価だったのか、多くの票を集めて2017年(平成29年)4月6日、続日本百名城にも選出。
天守台から眺める展望は絶景で、広大な田園風景が見渡す限りに広がって感激モノ !!■■■■■■■■■■■■
城の事は良く知らないという方でも、この眺望を拝むのは価値があるだろう。近隣に伊勢神宮という有名な観光地が
ある為あまり目立たぬ史跡であるが、人知れぬ静かな名城として是非オススメしたい城跡でござるな。■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・石垣・郭群
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
三ノ丸富士見門・三ノ丸奥書院《いずれも町指定有形文化財》




鳥羽城  松坂城・松ヶ島城