志摩国 鳥羽城

鳥羽城址石垣

 所在地:三重県鳥羽市鳥羽

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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海賊大名・九鬼氏の勃興■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で錦城、二色城とも。「鳥羽の浮城」なる雅称もござる。海賊大名・九鬼(くき)氏の海城。「海賊」とは、現代人が思う
「海の盗賊団」と言う意味よりも、当時は「海上権益を有する武士団」と言う感覚が強い。■■■■■■■■■■■■■
鳥羽の町は旧名で泊とされており、かつては地名を由来とした泊氏なる一族が存在していたという。その泊、つまり鳥羽に
城を築いた最初の事例は南北朝時代に遡り、志摩国守護代の城であったと言われる。時代が下ると、志摩国には紀伊国
尾鷲郷九鬼浦(三重県尾鷲市九鬼町)から九鬼氏が流れ着いてきて(諸説あり)波切(なきり)城(三重県志摩市大王町
波切)に居を構えた。もともと、九鬼氏は紀伊熊野大社神官の末裔が紀伊半島沿岸部沿いに一族を広げていったものと
見られている。志摩国に根付いた九鬼氏も、これらの支族のうちの一家である。海沿いに領地を広げた事から分るように、
九鬼家は水船の操作に長け、海運や海上軍事力を裏づけに力を保っていた一族だ。■■■■■■■■■■■■■■■
さて、小国の志摩国は近隣の伊勢国や紀伊国からの影響を受ける事が多く、戦国時代は伊勢国司・北畠家の支配下に
置かれていた。しかし北畠家の支配力は必ずしも強いものではなかったため伊勢・志摩国内は土着の豪族が互いに覇を
競い、北畠家の目の届かぬところで仲違いの争いを起こす事が少なくなかった。こうした中、勇猛さで鳴らした波切城主・
九鬼大隅守嘉隆(よしたか)が伊勢志摩戦国史に登場し勢力を広げるものの、それは他の国人衆の反感を買う事となり、
逆に志摩国を追われ、伊勢湾を挟んだ対岸・尾張国の織田弾正忠信長へ臣従する道を選ばせる。■■■■■■■■■
以来、北畠家やその配下諸豪族への復讐を念じる嘉隆は、得意の水戦を以って信長の伊勢侵攻作戦を成功に導く。■■
1568年(永禄11年)北畠家を信長が降し、掃討作戦に参加した九鬼嘉隆は、かつて自分を追った伊勢国人らを討ち滅ぼし
あるいは降伏させた上、自身の本拠であった志摩国も平らげたのである。旧領を回復した嘉隆は、その後も織田水軍の
中核を為し数々の戦闘に参加、信長の信を得て所領を増やしていった。伊勢長島一向一揆討伐、石山本願寺攻防戦に
おける大坂湾海上封鎖・芸州村上水軍の駆逐など、嘉隆の参加した作戦はいずれも「信長が苦戦した戦い」として知られ、
如何に九鬼水軍が激烈な戦闘を重ねてきたかが伺える。この頃、嘉隆が信長から与えられた所領は志摩国を含め3万
5000石に達していたという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

九鬼氏による鳥羽城構築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1582年(天正10年)本能寺で信長が斃れた後は豊臣秀吉に仕え、所領を保持。1586年(天正14年)磯部の恵利原にある
「天の岩戸」(三重県志摩市磯部町恵利原)に参籠した嘉隆は愛染明王の神託を受け、妻の父・橘主水宗忠の旧城だった
鳥羽城を本拠とする事に決めた。宗忠はかつて他の伊勢国人らと共に嘉隆に敵対し、九鬼氏が伊勢・志摩を平定するに
あたり娘を嫁に出して降伏した人物である。その居城だった鳥羽の城は、当時、前島(観音山とも)と呼ばれ、三方を海に
囲まれた要害であった。この頃、秀吉が大坂に巨大城郭を建築し、諸大名に賦役を課している真っ最中。嘉隆は船団を
用いて石垣構築用の石材を海上運搬する役目を得ており、三河国幡豆(はず、現在の愛知県幡豆郡)から海上輸送した
石のうち余剰となったものを鳥羽城石垣の石材に充てる。これらの石を含めて造られた石垣は、鳥羽城の全体を堅固に
固めた。現在は埋め立てられ陸地の中に取り込まれてしまっているが、“前島”の名の通り、当時の鳥羽城の城地は海に
突き出た島であり、これが全体的に石垣で固められていた姿はさぞかし壮観だった事だろう。■■■■■■■■■■■
嘉隆による鳥羽城新造工事は実に8年にも及び、1594年(文禄3年)8月にようやく完成。本丸には3層の天守も揚げられて
いた。九鬼氏はその後、秀吉による朝鮮出兵で渡海の先陣を切る働きを挙げ、鳥羽城を本拠とした所領は5万5000石に
まで加増され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
嘉隆が隠居して嫡子の長門守守隆(もりたか)に家督を譲ったのは1597年(慶長2年)の事。一説に拠れば、嘉隆が人と
いさかいを起こし、それに対して五大老・徳川家康が下した判決に不服を覚えた事による抗議の隠居だと言われている。
果たしてそれが原因なのか、1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍に属して鳥羽城を占拠し、家康と
敵対した。一方、城を離れた守隆は東軍に味方し、奇しくも九鬼親子は東西に分かれて戦う運命になったのでござる。
伊勢方面の地理に明るい守隆は、西軍方の桑名城(三重県桑名市)を攻め立て城主・氏家純利の首級を上げた。これが
東軍方最初の勝利だったため家康は彼の働きをたいそう喜び、鳥羽城主の地位を安堵した。9月15日の関ヶ原本戦でも
家康の采配は当たり東軍が大勝利を掴む。その報に接した嘉隆は鳥羽城を灰燼に帰される事を恐れ、城を棄て岩倉の
田城(たしろ)城(鳥羽市内)へ退去する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、家康から鳥羽城奪還の命を受けた守隆は戦功の加増と引換えに父・嘉隆の助命を嘆願。池田三左衛門輝政らの
口添えも得た事で、家康はその願いを聞き届ける。急ぎこの知らせを届けるべく鳥羽城に向かった守隆であったが、西軍
大敗北に観念していた嘉隆は、田城城から更に答志島の和具へ落ち延び同年10月12日、助命の報を聞く前に洞泉庵で
切腹してしまっていた。享年59。嘉隆が生きていては九鬼家に害が及ぶと考えた守隆の家臣・豊田五郎右衛門が、独断で
嘉隆に自刃を促したという話もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

内藤忠重による近世城郭化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、九鬼氏の命脈は保たれ守隆は所領を堅守。鳥羽城は九鬼水軍の本拠地であり続けた。だが1631年(寛永9年)
9月15日に守隆が没するとその5男・大和守久隆(守隆嫡男・良隆の養子に入り嫡孫の地位にあった)と3男・式部少輔隆秀
(隆季とも)は家督を争い御家騒動を起こしてしまう。これを知った江戸幕府は翌1632年(寛永10年)久隆を摂津国三田
(さんだ、兵庫県三田市)、隆秀を丹波国綾部(京都府綾部市)へ飛ばしてしまった。三田藩は3万6000石、綾部藩は2万石。
2家に分断された九鬼氏は、父祖伝来の地・鳥羽を後にした。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
良港を擁し、海上交通の最重要拠点であった鳥羽はこれ以後、徳川譜代・親藩大名が交代で城主に任じられる。九鬼氏の
退去後、まずは常陸国から3万5000石で内藤志摩守忠重(ただしげ)が入城、飛騨守忠政(ただまさ)―和泉守忠勝と代を
重ねている。内藤忠重は鳥羽城の改修も行い、二ノ丸・三ノ丸を増設。鳥羽城を近世城郭に変化させた。■■■■■■■
こうして完成形になった鳥羽城。敷地となった南北に細長い卵型の前島は南部に頂を置く小山で、その最高部に本丸を
構え、そこから麓に向けて幾重もの帯曲輪を設けた様子は、彦根城(滋賀県彦根市)の縄張りに似ている。形態としては
平山城に分類されるものだが、海に浮かんだ島を利用した立地は海城として区分でき、しかも元々は九鬼水軍の船団を
収容するように考えられている縄張りだった事から、海賊城(軍船を停泊させる舟入を内包した城郭の形態)の代表例と
言えるだろう。その証として、鳥羽城の大手は何と海に向かった波戸水門(港)とされ、全国的にも類を見ない。一般的な
海城は、単に海を水濠として防御に利用するというだけの事だが、城の大手が陸に背を向けた海側だというのは、海賊
城の中でも特に鳥羽城だけの特殊事例でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、内藤氏の統治は3代続いたが1680年(延宝8年)に取潰された。内藤忠勝は6月26日、徳川4代将軍・家綱の葬儀に
おいて江戸の芝・増上寺で同輩の永井信濃守尚長を刺殺し、翌27日に切腹となったからだ。■■■■■■■■■■■■
急遽城主不在となった鳥羽城は約8ヶ月間幕府の直轄地とされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、忠勝の甥(実姉の子)は21年後の1701年(元禄14年)同様に江戸城(東京都千代田区)松の廊下で刃傷事件を
起こして切腹となっている。有名な浅野内匠頭長矩、元禄忠臣蔵事件の張本人でござる。■■■■■■■■■■■■■

譜代大名が城主を歴任■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それはさて置き、内藤氏の後は1681年(天和元年)下総国古河(茨城県古河市)から移った土井周防守利益(とします)が
7万石で鳥羽城主に任じられた。石高の不足分は伊勢国度会・多気・飯野、近江国蒲生、三河国設楽・渥美・宝飯・額田の
計8郡を飛び地として拝領している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
利益は1691年(元禄4年)2月9日に肥前国唐津(佐賀県唐津市)へと再転封。その唐津から入れ替わって鳥羽へ来たのが
大給(おぎゅう)松平和泉守乗邑(のりさと)。石高は6万石。土井利益同様、石高の不足分は伊勢、三河、近江の飛び地で
補っている。鳥羽入府当時、乗邑はまだ6歳であったがその後19年間を城主として過ごし成長、1710年(宝永7年)1月26日
伊勢国亀山(三重県亀山市)へと移った。亀山から更に山城国淀(京都府京都市伏見区)、下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ
転じ、抜群の政治感覚を身につけた彼は老中に補任され、徳川8代将軍・吉宗の信任を得て江戸幕府三大改革の一つと
される享保の改革を強力に推進したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話が逸れたが、亀山から入れ替わって鳥羽城主になったのが板倉近江守重治。石高は飛び地の伊勢・三河領を含めて
5万石。彼は1717年(享保2年)11月に再び亀山へ戻り、戸田松平丹波守光慈(みつちか)が山城国淀から6万石で鳥羽へ。
その光慈も1725年(享保10年)10月18日、信濃国松本(長野県松本市)へ移され、稲垣和泉守昭賢(いながきてるかた)が
下野国烏山(栃木県那須烏山市)から3万石で入ったのである。志摩での領地の不足分は、度会・多気・飯野の3郡から
飛び地として補なった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
稲垣氏は以後、対馬守昭央(てるなか)―摂津守長以(ながもち)―信濃守長続(ながつぐ)―対馬守長剛(ながかた)―
摂津守長明(ながあきら)―長行(ながゆき)―長敬(ながひろ)と続き、8代140年に渡って鳥羽城主の地位を継承した。
この間、1824年(文政4年)長剛(が藩校の尚志館(しょうしかん)を設置している。加えて、幕末に外国船が数多く日本へ
来航するようになると、当時の日本において有数の良港であった鳥羽を守るため、また、神国防衛を奉ずる伊勢神宮を
鎮撫する為、時の鳥羽藩主・稲垣長明は藩内各地に台場を構えている。ところが、こうした台場構築には多額の費用が
かかるので、鳥羽藩の財政が逼迫する事態に陥る。国を守る為の台場を造るとは言え、それで国が傾いては本末転倒と
云わざるを得ない。結局、これらの台場が用いられる事はなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

維新後、都市化の荒波に揉まれ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そのまま明治維新を迎え、鳥羽城は1871年(明治4年)に廃城となる。建物は全て破却、埋め立てられた蓮池堀の跡には
錦町が開かれ、二ノ丸跡は造船所が置かれる。太平洋戦争後、家老屋敷跡に鳥羽市役所や鳥羽幼稚園(現在は廃園)が
建設されて、現状は二ノ丸に鳥羽市立鳥羽小学校(現在は移転)、本丸がその校庭という状態。本丸北側の曲輪が城山
公園なる小公園にされている。市役所の前、市街地に飲み込まれた城跡公園と言うと、遺構が全て破壊され“城跡”とは
名ばかりのものが御約束だが、鳥羽城址はそれほどでもなく(もちろん、遺構の大半は消え去っているものの)、主郭部の
石垣が綺麗に残り、小学校や幼稚園もそのまま「曲輪跡」という敷地を確認できるように建てられている。城山公園からは
眼下に海を見渡せて、ここが海賊城であった事がよくわかる。1965年(昭和40年)12月9日、三重県指定史跡になったのも
相応だと思われる城跡でござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鳥羽小学校の移転にあたり、2010年(平成22年)に天守台や本丸跡で発掘調査が行われた。また、2013年(平成25年)には
鳥羽市立図書館で天守の寸法が具体的に記された古文書が発見されている。発掘では天守の存在を証明できなかったが、
この古文書によってそれが裏付けられ、天守1重目と2重目は同大、5間×6間の大きさであり、3重目は3間半×3間1尺だった
模様。四方には3尺の走りがあったそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、城址には雌井戸・雄井戸という2つの井戸が残っている。その井戸は城跡の東にある相島(現在の御木本真珠島)の
弁財天と通じていて、中に棲む龍が城と相島とを往復しているとの伝説が残る。このため大晦日の晩には城と相島の間の
海上は船を通さないと決められ、通せば龍神に出会って災難を被ると信じられていたのでござる。■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・石垣・郭群
城域内は県指定史跡




願證寺  田丸城