伊勢国 願證寺

現在の願證寺境内

 所在地:三重県桑名市長島町又木
 (旧 三重県桑名郡長島町又木)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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信長を悩ませた長島一向一揆の“要塞”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長島の歴史は一向一揆と切り離すことができない。木曽川・長良川・揖斐川(木曽三川)の河口にあたるこの場所は、
輪中(わじゅう)として中洲が独立しており、尾張・美濃・伊勢の三国境界でもあったため古くから水運が発達、独特の
文化・風土が作られてきたのだった。こうした輪中、つまり“島そのもの”が城と言っても過言ではない上、その輪中の
中に細かい城や砦、武装化した寺院が構えられ、より強固な防衛を行っていたのでござる。一説に「長島」の地名は
「七島」が転訛したものだと言い、多くの中州が浮かんでいた様子を物語る。■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした城砦群の中の一つ、長島城は安濃(あのう、現在の三重県津市)工藤氏の一族であった伊藤重晴が1482年
(文明14年)頃に築城、長島を領有するようになったが、一方でこの頃には浄土真宗の中でも本願寺派が勢力を拡大。
本願寺8代法主(ほっす)であった蓮如(れんにょ)の13子(6男)・蓮淳(れんじゅん)が長島に長嶋山願證寺を建立し、
北伊勢地方布教の一大拠点としたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これら一向宗勢力は次第に領主の伊藤氏と対立、遂に1537年(天文6年)これを追放して長島城を乗っ取り自治権を
確立してしまった。以後、戦国末期まで長島城と願證寺は一体不可分のものとして機能していく。■■■■■■■■
1561年(永禄4年)、伊勢国司・北畠氏に属する服部左京進友定が長島城に入り城を改修したと伝わるが、当時の伊勢
国司の北畠氏はこの一揆に抗する実力を持たず、その虚を突き次第に尾張の織田弾正忠信長に伊勢支配の実権を
奪われてしまった。以後、長島を巡っては織田家と一向宗の対立となる。信長は一向一揆を許さず派兵に至るものの
長島城・願證寺には一向宗徒のみならず信長に国を追われた武将なども集結しており、中洲をそのまま利用した難攻
長島要害は長きに渡る戦いを繰り広げていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

信長の長島大虐殺で破却■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そうした中、信長に負けて美濃国を失った斎藤治部大輔龍興(たつおき)が1567年(永禄10年)長島に入る。この報を
聞いた信長は長島の総攻撃を命じ、1569年(永禄12年)北伊勢地方は織田家に制圧された。ところが一向宗も反撃に
転じ翌1570年(元亀元年)、一揆衆と交戦した織田軍は大敗し、総大将の織田孫七信興(信長の実弟)が自害。これに
激怒した信長は1571年(元亀2年)に自ら兵を率いて長島を攻略したが、やはり落とすことはできなかった。■■■■■
1573年(天正元年)にも派兵を行ったが一揆勢の抵抗は激しく、この時に桑名に居た信長の重臣・滝川左近将監一益
(たきがわかずます)は伊勢を追われてしまい、止むを得ず講和するに至ったのでござる。■■■■■■■■■■■
進展しない状況に業を煮やした信長は1574年(天正2年)7月〜9月、長島に徹底した大虐殺を敢行する。老若男女を
問わず長島城・願證寺ほか諸城砦に立てこもる一揆勢20000人を殺害、9月29日に長島城が陥落した事を最後にして
30年を越す長島一向一揆はとうとう殲滅されたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これ以降、長島城を含む北伊勢5郡は桑名城(桑名市内)主の滝川一益が治めることとなり、賤ヶ岳の戦いに連動した
籠城戦ではここが滝川軍の本営になっている。一益が開城した後は織田三介信雄(おだのぶかつ、信長の2男)・豊臣
右近衛権中将秀次(秀吉の甥)・天野周防守景俊(かげとし)・福島掃部頭正頼(左衛門大夫正則の弟)などが城主を
歴任する。天守もあったと言われる織田信雄時代の長島城であるが、1585年(天正13年)11月29日に発生した天正
大地震で倒壊してしまい、それを契機に信雄は居城を清洲城(愛知県清須市)へ移した。■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉の時代となった事で、信長の討伐により壊滅した願證寺は慶長年間(1596年〜1615年)に復興を許された。
ただ、旧来の願證寺があった場所から南へ移り、又木村(現在の桑名市長島町又木)での再建となる。一向一揆拠点で
あった元の願證寺は杉江の地(現在の桑名市長島町杉江)にあったとされ、その場所は明治時代の河川改修によって
長良川流路の中に水没したそうな。写真は現在の長島願證寺だが、当然ながら当時のものとは全く別のものでござる。
とは言え、一向一揆の伝承は受け継がれているようで、境内には「長島一向一揆殉教之碑」が建立されている。■■■

余談:その後の長島城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
願證寺としての歴史は以上だが、ここからは長島のその後について。徳川時代の到来で1601年(慶長6年)福島正頼は
大和国宇陀(奈良県宇陀市)3万石へ移封され、菅沼志摩守定仍(すがぬまさだより)が上野国阿保から2万石で長島へ
入った。以後、徳川譜代家臣の城となる長島城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1621年(元和7年)菅沼織部正定芳(さだよし、定仍の次代(弟))が近江国膳所(滋賀県大津市)3万1000石へ移されて
一旦は廃藩となるものの、1649年(慶安2年)2月28日に松平(久松)佐渡守康尚(やすなお)が1万石を与えられ下野国
那須(栃木県大田原市)から入部。こうした徳川譜代家臣の時代に輪中の統合や新田開発が行われるようになった。
久松家は康尚の子・佐渡守忠充(ただみつ)が1702年(元禄15年)8月21日に改易となるが、同年9月1日からは常陸国
下館(茨城県筑西市)より移ってきた増山兵部少輔正弥(ましやままさみつ)が長島藩2万石の領主となり、そのまま8代
175年を増山氏が治めて明治に至る。河内守正任(まさとう)―弾正少弼正武(まさたけ)―対馬守正贇(まさよし)―
河内守正賢(まさかた)―弾正少輔正寧(まさやす)―対馬守正修(まさなお)―備中守正同(まさとも)と続いた。■■■
江戸時代を通じて長島城は拡張されてきたが、廃藩置県を経て1872年(明治5年)廃城、破却。長島藩は長島県となるが
直後に安濃津県へ統合し、更に三重県に変更されている。県庁としての役を外れた長島城はいくつかの建造物が払い
下げとなったが、そのうち長島町西川の浄土真宗光耀山信行寺に移されたという四足門は1959年(昭和34年)の伊勢湾
台風で流出滅失、長島町殿名の浄土真宗佐々木山深行寺(じんぎょうじ、現在の願證寺の東隣にある寺)に本堂として
移築された奥書院は1989年(平成元年)新築に伴い取り壊されてしまった。現在にまで残っているのは長島町又木にある
浄土真宗紫雲山蓮生寺の山門となっている旧大手門だけで、1876年(明治9年)この地に移されたものだが、これも若干
縮小された規模のものになっている。ともあれ、長島城唯一の現存遺構であるため1983年(昭和58年)12月10日、この
旧大手門は当時の長島町指定文化財となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それ以外の残されていた遺構は農地開発・木曽三川治水工事・伊勢湾台風などで全て滅失、現在は旧大手橋と杉馬橋
付近に石垣の一部が残るのみである。城地そのものは桑名市立長島中部小学校・長島中学校の敷地。■■■■■■



現存する遺構(長島城)

堀・石垣

移築された遺構として
蓮生寺山門(旧長島城大手門)《市指定文化財》




桑名城・柿城  鳥羽城