伊勢国 桑名城

桑名城本丸跡

 所在地:三重県桑名市吉之丸 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★★■■



桑名城が築かれるまで@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
伊勢国は古来から伊勢神宮を祭る重要な国であり、早くから日本史に登場する。@@@@@@@@@@@@@@@@@
桑名の地名も「日本書紀」(「古事記」と並ぶ日本最古の正式史書)に記されており、672年に起きた壬申の乱で6月27日に
大海人皇子(おおあまのみこ、後の第40代・天武天皇)が桑名郡家(郡衙)に駐屯したとある。また、その妻・鸕野讃良皇女
(うののさらら、後の第41代・持統天皇)も70日ほど滞在していた。「桑名」という地名の由来は、この地の開発領主となった
豪族「桑名首(くわなのおびと)」の名から採られた、或いは桑の木が多く植えてあった所と言う意味から名付けられたとも。
地形的に見ても交通の要所として有名だ。木曽川・長良川・揖斐川の河口にある町で、これら木曽三川の水運と伊勢湾の
海運が集中する港町として多いに発展、江戸時代は東海道唯一の海路「七里の渡し」の発着場としても重要視されてきた。
(桑名は東海道53次のうち42番目の宿場町、尾張熱田から7里が海路で接続していた)@@@@@@@@@@@@@@@
桑名に城が築かれた記録は、鎌倉幕府草創期の1186年(文治2年)源頼朝に味方した伊勢平氏の桑名三郎行綱が領地を
与えられ、館を構えた事に始まるとされている。戦国時代には1513年(永正10年)伊藤武左衛門実房(さねふさ)なる者が
城を築き東城と称される一方、樋口内蔵が西城、矢部右馬允が三崎城と呼ばれる城を築城。この3城を総じて桑名三城と
言い、桑名城の前身は東城であったと考えられている。更には桑部城(桑名市内、桑部~城山台の辺りか?)と呼ばれる
山城も築かれていたが、織田信長の伊勢侵攻で落城。伊藤実房とその子・武左衛門実倫(さねのり、東城の2代目城主)は
織田家へ従属するようになったと伝えられている。信長に平定された伊勢一帯は織田家重臣・滝川左近将監一益の所領に
加えられたが、本能寺の変後に彼は羽柴筑前守秀吉と対立し失脚。織田三介信雄(のぶかつ、信長2男)の領地となった
桑名には家臣の天野周防守景俊が入るも、羽柴秀吉改め豊臣秀吉が天下を得て豊臣政権が成立するに及んで国替えと
され、今度は秀吉の甥・豊臣秀次の所領となる。当時、秀次は秀吉の後継者とされ、彼は桑名の守りとして家臣・服部一正、
次いで一柳右近直秀(ひとつやなぎなおひで)を城主に据えた。1591年(天正19年)の事と言われ、桑名城には直秀の手で
天守が構えられたとも考察されているが、これは神戸(かんべ)城(三重県鈴鹿市神戸)から移築されたとの説がある。
ところが、秀吉に実子・拾丸(後の秀頼)が誕生した事で状況は一変。謀叛の罪を着せられた秀次は命を奪われ、桑名は
1595年(文禄4年)に氏家内膳正行広(貞和とも)が2万2000石で入府。だが氏家氏は1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦にて
西軍に与した為、改易されてしまうのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この他、大給(おぎゅう)松平和泉守家乗(いえのり)が城主となり、水谷九左衛門光勝(みずたにみつかつ)が守ったとの
説も。光勝は地元・伊勢の地侍と目され、徳川家康が本能寺の変の直後に伊賀の山道を抜けて領国・三河へ落ち延びた
いわゆる 神君伊賀越え の際に道案内を引き受けたとも云われ、その功績から四日市代官、名古屋築城の作事奉行、
伊勢山田奉行などを歴任したそうだ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

“戦国最強武将” 本多忠勝の桑名築城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
関ヶ原戦役の後、徳川氏の世になると家康股肱の臣・本多平八郎忠勝が上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)から
10万石で移封されて来る。忠勝は1601年(慶長6年)揖斐川河口に水城を新築、神戸城の櫓なども移築して大規模な城を
作り上げた。これが別名で「扇城」や「旭城」と呼ばれる海道の名城、近世桑名城である。ここまで、桑名行綱・伊藤実房・
一柳直秀らの名が上がり、彼らがそれぞれ築城者として数えられる諸説が挙げられている訳なのだが、現在に残る近世
城郭としての形に完成させたのは忠勝であり、彼が桑名城の築城主として最も知られている人物であろう。川岸の広大な
敷地を城地とし、中心に方形の本丸を置き外周に二ノ丸・三ノ丸・朝日丸などの曲輪を輪郭式に配置した縄張。4重6階と
伝わる天守を筆頭に、51基の櫓、12基の多聞櫓が建ち、門は46基、水門も3箇所に設置。井戸は14本、武具蔵が9戸前。
曲輪の外縁が殆ど多聞櫓で連結され、更に舟入を有して軍船の出入にも供する事ができる鉄壁の守り。さすがは徳川
四天王に数えられる忠勝ならではの堅城と言えよう。更にそのまた外周も外郭が取り囲み、外濠がぐるりと周回。本丸を
中心に、扇形の敷地を拡げた縄張ゆえ「扇城」の雅称が付いたとか。城下町も整えられて、現在の桑名市街地の原型は
忠勝の築城によって成立したと伝わる。なお、忠勝が新天守を揚げた事によって一柳時代からの旧天守は神戸櫓と呼称
されるようになった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1609年(慶長14年)6月に隠居した忠勝の後は2代城主・美濃守忠政(ただまさ)が継ぐものの、1617年(元和3年)7月14日
西国の押さえとして忠政は播磨国姫路(兵庫県姫路市)15万石に加増転封となる。代わって入ったのは久松松平隠岐守
定勝、山城国伏見(京都府京都市伏見区)5万石から6万石加増で11万石を領した。彼の手により南の方二ノ丸が増設。
その次代、隠岐守定行の頃となる1626年(寛永3年)に桑名城下は上水道も整備され、東海道有数の宿場町・港町として
発展。こうした江戸時代の都市整備が現在の桑名市の町割りを形作っている。@@@@@@@@@@@@@@@@@

次々と変わる城主、荒れゆく城郭@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1635年(寛永12年)定行は4万石を加増されて伊予国松山(愛媛県松山市)へと移封された。代わって桑名城主となった
越中守定綱は定行の弟。前任地は美濃国大垣(岐阜県大垣市)6万石であったが、定行の所領を引き継いで11万石へと
加増された。この後、久松松平家は摂津守定良―越中守定重と続くが、その定重の時代である1701年(元禄14年)2月
6日に町の大半を焼く大火が発生、城も焼け落ちた。以後、天守は再建されなかった。この被害からの復興を目指して
桑名藩では財政改革を行うべく郡代の野村増右衛門を登用し数々の施策を行ったが、急すぎる改革に旧門閥が反発し
野村は道半ばで死罪に処せられてしまう。この一件が幕府に露見し、失政を咎められた定重は1710年(宝永7年)閏8月
15日、懲罰的に越後国高田(新潟県上越市)11万3000石へ移封され申した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これに代わり備後国福山(広島県福山市)10万石から松平(奥平)左近衛少将忠雅が同石高で入封。1711年(宝永8年)
3月28日に久松家から奥平家に桑名城が引き渡され、以後、下総守忠刻(ただとき)―下総守忠啓(ただひら)―下総守
忠功(ただかつ)―下総守忠和(ただとも)―下総守忠翼(ただすけ)―下総守忠堯(ただたか)と継承する。奥平松平家は
服部半蔵正成や鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき)の末裔が仕官した尚武の家風として有名だが、7代113年の
治世は度重なる大火や洪水被害に見舞われ、桑名城も荒廃の一途を辿った。@@@@@@@@@@@@@@@@@
1823年(文政6年)3月24日、忠堯は武蔵国忍(おし、埼玉県行田市)へ移封。久松松平左近衛権少将定永(さだなが)が
桑名城主となり、再び久松松平家の治世に置かれたのである。越中守定和(さだかず)―越中守定猷(さだみち)と代を
重ね、江戸時代末期の1859年(安政6年)8月22日に定猷が早世すると、美濃国高須(岐阜県海津郡海津町)藩主・松平
摂津守義建(よしたつ)の7男である越中守定敬(さだあき)を養子として迎え入れ申した。佐幕派の定敬は武断で徳川
将軍家を補佐。1864年(元治元年)に京都所司代に任命され、実兄である会津(福島県会津若松市)藩主・松平肥後守
容保(かたもり)と共に京都における治安維持・倒幕運動阻止を受け持った(容保は京都守護職)。鳥羽・伏見の戦いと
それに続く戊辰戦争では徹底抗戦を主張、将軍の徳川慶喜が恭順した後も新政府軍と戦闘を続け、遂には函館五稜郭
(北海道函館市)まで辿り着いた。しかし1868年(明治元年)1月28日に城主不在の桑名城は既に開城し、新政府軍への
降伏を証する目的で辰巳櫓が焼き落とされている。この辰巳櫓は、天守が大火で失われた後に桑名城の天守代用櫓と
見做されていた象徴的な櫓で、これが焼かれた事で桑名城の開城を明示した訳である。@@@@@@@@@@@@@

現在は九華公園として市民に開放@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうした経緯により明治維新後この城は廃され、建物も順次解体されてしまった。更に石垣の石材までもが持ち去られ、
四日市港の護岸工事に転用されたと言う。堀は改変されて貯木場(帝室林野局熱田出張所)に、御殿及び本丸敷地の
一部は東洋紡績工場となった。本丸残存部と二ノ丸を残し他の曲輪や堀も整地・埋め立てされ、大半は桑名市街地の
宅地となっていく。かろうじて残された主郭部が1928年(昭和3年)に九華公園として整備され、1942年(昭和17年)1月
17日には城址旧域が三重県史跡に指定されたが、更に伊勢湾台風などで護岸の破損が進み、その改修を経たために
かつての威容はごく一部だけ現存する水堀や石垣などに見受けられるのみでござる。これ以上の破壊や改変を防ぐ為
比較的残存状態の良好な三ノ丸部分の石垣およそ500m分が「桑名城城壁」の名称で1965年(昭和40年)7月23日に
桑名市指定史跡となっている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
伝承に言い残される移築建築は、桑名市大福にある浄土真宗桑部山了順寺の山門が城門を移築したものとされる他
浄土真宗小向山浄泉坊(三重県三重郡朝日町大字小向)という寺に三ノ丸御殿が転用されたとされている。ともあれ、
九華公園は名勝として知られ、木曽三川を押さえる重要な城跡の風情を偲ばせている。@@@@@@@@@@@@@
なお、2003年(平成15年)揖斐川沿いに桑名城の蟠龍(ばんりゅう)櫓を模して国土交通省水門統合管理所を建造。
模擬櫓の登場により、かつての桑名城に思いを寄せる景観を作り出し申した。他方、桑名城の石垣石材を持ち出して
構築された四日市港防波堤は「潮吹き防波堤」の名で知られ、1996年(平成8年)12月10日に国の重要文化財と指定
されている。これは桑名城の遺構と言うべきか?言わざるべきか?@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

石垣《市指定文化財(部分)》・井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
了順寺山門(旧城門)・浄泉坊堂宇(旧三ノ丸御殿)
各所石垣石材(桑名城石垣転用材)





伊勢国 
柿城

柿城跡

 所在地:三重県三重郡朝日町向陽台
 (旧 三重県三重郡朝日町大字柿字西ノ広)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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住所表示が変わったそうで@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
JR関西本線朝日駅の前、朝日町体育館の100mほど西側にある小山が城跡。現状で残る城山は50m×80m程度の大きさで
その山頂部(比高20mくらい)が主郭であったようだが、往時はその下段に2つの曲輪を従えた(現在は湮滅)3つの曲輪を
備えた平山城だった。拙者が訪れた頃は鬱蒼とした竹薮の中で(写真)立ち入るのはなかなか難しかったのだが、今では
綺麗に公園(向陽台(こうようだい)1号公園と言う)化されたらしく、非常に来訪しやすくなっているそうだ。この「向陽台」と
言う住所表示も平成20年代の宅地造成で新しく設定された地名で、それまでは「柿(かき)」と言う地名だった。故に城名は
「柿城」である。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
柿城は佐脇(沢木とも)氏の城。もともとは周防国(現在の山口県南東部)熊毛郡小方に居住していた佐脇宗喜という者が
南北朝期(1358年(正平13年/延文3年)か?)縁あって伊勢守護の仁木右京大夫義長(にっきよしなが)に従ってこの地に
入り、その子・佐脇宗政が1360年(正平15年・延文5年)に築城したという記録が「伊勢名勝志」に残る。伊勢名勝志は伊勢
亀山藩(三重県亀山市)の藩校・明倫館の教授であった宮内黙蔵(みやうちもくぞう)が1889年(明治22年)11月に著した
伊勢の地誌書であり、伊勢各所の名所・旧跡や地勢を各郡ごとに網羅している。@@@@@@@@@@@@@@@@@
北勢地域では近隣諸国も含めて抗争が多く、佐脇氏も度々の戦闘に加わっており、柿城が築かれた1360年の9月28日に
柿城主・佐脇三河守が近江国観音寺城(滋賀県近江八幡市)で流れ矢に当たって戦死という記録がある。ここで言われる
三河守とは宗喜の事なので正しくは柿城主ではないが、ともあれ宗政の父は築城直後に亡くなったようだ。宗喜戦死の
一件は伊勢名勝志にも記載されてござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
しかし、その後も柿城は歴代の佐脇氏によって継承され、1457年(長禄元年)には内裏造営のため柿郷の佐脇三河守が
650文を献納したと言われており申す。(歴代の佐脇氏は三河守を名乗ったらしい)@@@@@@@@@@@@@@@@
年代が下って1557年(弘治3年)3月、近江国の大名・六角左京大夫義賢(ろっかくよしかた)が配下武将の小倉三河守に
北伊勢侵攻を命令。小倉軍は柿城に攻め寄せて攻撃を開始した。これに対して、佐脇氏と同盟を結んでいた神戸城主の
神戸利盛が1000の兵で救援にはせ参じたのだが、六角方は謀略を以って神戸城に内訌を起こさせ、利盛の軍を退けた。
後詰の居なくなった柿城だったが、城兵は固く守り何とか小倉軍を退けようと奮闘するも、結局、小倉方は柿城に対しても
謀略戦を展開。城主・佐脇宗勝(宗喜とも?)が偽りの和睦で城外に誘い出された所を急襲され、落城し焼け落ちた。@@
宗勝は討たれたようで、柿郷佐脇氏は断絶。この時、柿城は廃城となったのでござった。@@@@@@@@@@@@@@
なお、佐脇氏の元来の出自は三河国佐脇郷(愛知県宝飯郡御津町)とされる。この為、別流とみられる家系が徳川家に
仕え江戸時代には旗本となっている。前田又左衛門利家の実弟にして、主君だった織田信長の勘気を被り徳川家康の
下へ出奔、佐脇家に養子入りしたのち三方ヶ原の戦いで戦死した佐脇藤八郎良之(よしゆき)はこの家系。@@@@@@
また、柿城を枕に討死した宗勝、その3男・彌助は絵師・岩佐又兵衛の養子となり荒木松重と名乗っている。この又兵衛、
本名は荒木村直と言い、織田信長に謀反を起こし一族郎党を全滅させた摂津国有岡城(兵庫県伊丹市)主・荒木摂津守
村重(あらきむらしげ)の末子だ。つまり佐脇彌助は荒木村重の義孫に入った事になる。佐脇氏の祖・佐脇宗喜は周防国
熊毛郡小方に居た頃、荒木祖神の裔だったため荒木氏との縁が非常に深く、この養子縁組はある意味順当なものだ。
そのため、宗勝の他の息子も柿城を落ち延びた後、荒木氏を名乗った。子孫は桑名城下に居住し、桑名藩の政にも参与
したとの事でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




足助地域諸城郭  願證寺