三河国 真弓山城

足助真弓山城址 復元物見櫓と本丸櫓

 所在地:愛知県豊田市足助町須沢・足助町真弓・足助町東真弓
 (旧 愛知県東加茂郡足助町足助須沢・足助真弓・足助東真弓)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★☆



重伝建地区・足助を眺める山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山間の鄙びた街並が目を惹く足助(あすけ)町。現在は豊田市へと合併されたがその情緒に変わりはない。そんな
足助の町を見下ろすように築かれているのが真弓山城でござれば、観光名所となるべく戦国時代の山城を再現し
いくつもの復元建築が建てられ、見事な城が現代に蘇っている。故に、今現在「足助城」と言えばこの城を指すが
本来の名は真弓山城であり、足助周辺には多数の城跡が散在するために区別する注意が必要でござろう。■■
足助地域を治めた土豪は平安末期に入植した足助(浦野)氏、真弓山城を築いて用いたのも足助氏…というのが
通説だったようだが、実は足助氏が真弓山城を築いた訳ではなく、15世紀つまり戦国時代になってから鈴木氏が
築いたというのが正しいらしい。鈴木氏は紀州の出自、一族中の重善は源義経が奥州平泉へと逃避行した際に
後を追って国を出たものの、途中で義経が討死したと聞き旅を諦め、ここ三河矢並郷(豊田市内)に土着して代を
重ねた。これが戦国時代に国人として自立し三河国内各所に分家を立てていくのだが、鈴木氏は岡崎の松平家
(後の徳川将軍家)4代・右京大夫親忠(ちかただ)と縁組するなどして松平家との関係を深めていく。こうした中、
諸家並び立つ内の1家が足助へ入り足助鈴木家を興し、15世紀〜16世紀頃に真弓山城が本格的に築城されたと
考えられているが、正確な築城年は不明である。足助鈴木家は初代を忠親とし、2代目が重政と続く。■■■■■

松平家臣としての鈴木家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、鈴木家と松平家の関係は時に敵対へと転じる事もあり、1525年(大永5年)には松平家7代・次郎三郎清康
(きよやす、徳川家康の祖父)が2000の兵力で真弓山城を攻めて圧倒、城主の鈴木雅楽守重政は嫡子・重直に
清康の妹・久姫を嫁に迎える事で和議に及んだ。しかし1535年(天文4年)12月5日、所謂“守山崩れ”と呼ばれる
事変で清康は急死した為、その衰退を予測した鈴木家は再び松平家と断交。久姫は離縁させられ実家へと戻り、
更に後、1554年(天文23年)鈴木家は3500の兵を擁する駿河今川家の侵攻を受け、その傘下に入ったのである。
ちなみに後年、久姫は幼くして実母と生き別れになった徳川家康の母代わりとなり養育・後見にあたっている。その
家康が桶狭間合戦以後に岡崎城(愛知県岡崎市)で今川家から独立して三河統一を目指すと、1564年(永禄7年)
真弓山城は3000余の徳川軍に攻められる。既に城主が越後守重直に代替わりしていた足助鈴木家は、今度こそ
敵わじと見て降伏。重直は嫡男・信重を人質に差し出し、以降は徳川家に臣従した。■■■■■■■■■■■■
1571年(元亀2年)甲斐の武田軍が三河へと侵攻した際、重直は城を捨てて逃亡。武田に降る道もあっただろうが
それを選ばなかったのは、徳川家臣として腹を括った証であろう。重直は一族を連れて家康の下へと落ち延びた。
武田信玄は下条伊豆守信氏を真弓山城の城代として入れるも信玄が死した1573年(天正元年)即座に徳川家は
奪還へと動き、家康の長男・岡崎三郎信康を大将とした軍勢3000で落城させた。斯くして城は鈴木家の手に戻り、
足助鈴木家は信重への代替わりを経て1590年(天正18年)まで在城していた。が、豊臣秀吉の全国統一に伴って
徳川家は関東へ移封される事となり、足助鈴木家はそれに従って関東へ居を移すも、後に信重の子・足助鈴木家
5代目となる康重は野に下り浪人になったと云う。ともあれ、足助鈴木家が退去した事で真弓山城は廃城になった
ようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

美麗に演出された山城公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
公称で標高301m、国土地理院の地形図では307mと記録されている真弓山の山頂部を細長く啓開して本丸とし、
その両端部から四方に段曲輪を重ねていく縄張。麓にある足助の町から本丸までは比高170mもあり、足助盆地
直近にある山としては一番高い位置にある絶妙な地点だ。足助鈴木家はこの真弓山城を本城として、周辺に
浅谷(あざかい)城・安代(あじろ)城・阿摺(阿須利)城・大沼城・田代城・八桑城(新盛城)の6支城を配置しており
本城と併せた7つの城を足助七城と呼んでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1989年(平成元年)、愛知県は「愛知のふるさとづくり事業」として足助の山城を再現する事業を計画した。国から
支給された1億円の“ふるさと創生基金”を原資として、1990年(平成2年)〜1992年(平成4年)にかけて真弓山の
発掘調査を行った。その結果、鈴木氏時代の建物跡を確認し、擂鉢・鋏・釘などの日用品や硯と言った文房具、
茶道具などが出土。なお、足助氏による築城・使用を裏付けるものは検出されず、これにて城の来歴が鈴木氏に
拠るもののみと断定できる成果にもなってござる。こうした発掘結果に基づいて、遺構保護の盛土を行いながら
城址の復元整備工事が進み、1993年(平成5年)5月に「城跡公園足助城」が開園する。この公園名が真弓山城を
足助城と称する由来になっている。公園化されたおかげで、本丸(主郭)に高櫓と長屋、南ノ丸に井楼の物見台と
厨(くりや、厨房や居住空間を兼ねた建物)、西ノ丸にも大きな物見台(写真)、他にも各所で板塀や門が建ち並び、
戦国時代の山城が分かり易く再現されている。また、城内通路も綺麗に整備されて来訪者が見学し易い状態が
維持されているのが有り難い。兎角、山城というと坂が険しく藪だらけで歩くのも困難…という場所が多いものの、
真弓山城ではそうした心配は全くない。但し ――― 公園は有料見学施設でござる(当然、入城時間も制約アリw)
別名で松山城・足助松山の城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等







三河国 飯盛山城

飯盛山城跡

 所在地:愛知県豊田市足助町飯盛
 (旧 愛知県東加茂郡足助町足助飯盛)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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名勝・香嵐渓に面した小さな山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも「足助城」と称され紛らわしいが、真弓山城とは別のもの。飯盛山は「飯森山」の字を充てる事もある。
1961年(昭和36年)3月30日、愛知県指定史跡となっている。「愛知のふるさとづくり事業」の城郭整備事業では
飯盛山城が整備候補として挙げられたものの、県史跡であり改変が出来ない事から真弓山城が事業地に決定
された。飯盛山の山裾を取り囲むように巴川(三河の大河である矢作川の支流)が蛇行し、その渓流は紅葉や
花の名所として知られる「香嵐渓(こうらんけい)」の名で観光名所となっており、そこに城を再現すれば抜群の
集客が見込める、という皮算用だったらしい。まぁ、今となってはそれをせずに香嵐渓単体で風雅を楽しむ方が
幽玄さに集中できると思えるので、正解だったのではなかろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伝承に拠れば、この城こそ足助氏の城として用いられた物のようだ。尾張源氏・源重遠(みなもとのしげとお)は
尾張国春日井郡浦野(愛知県名古屋市)の地に根付き浦野四郎を名乗り、その孫である浦野右兵衛尉重長が
三河国加茂郡足助荘の荘官となった事で足助氏を興す。改姓した足助重長は源為朝(頼朝の叔父)の娘を娶り
源氏との繋がりを強め、さらに重長の娘は鎌倉幕府2代将軍・頼家に嫁いで公暁(くぎょう)を産んだと伝わる。
公暁の生母には諸説あるものの、これが事実であれば足助氏は将軍家の外戚という事になろう。■■■■■
重長の頃の足助氏は黍生(きびゅう)城(足助町内)を本拠としていた。その重長は源平の争乱で戦死した事で
嫡子の重秀が足助氏2代となる。この重秀の頃、治承年間(1177年〜1181年)と考えられる期間に飯盛山城が
築かれ、足助氏の本拠が移されたと考えられている。鎌倉幕府が成立し、京の朝廷がそれを打倒せんと狙った
1221年(承久3年)の「承久の乱」では、重秀の子・重成らが朝廷側に与して戦った経緯もあるが、それ以後も
足助氏が滅亡する事なく存続している為、幕府側に就いた者もいたと考えられよう。その結果、足助氏は3代
重朝(重成の兄)―4代・佐渡守重方―5代・頼方―6代・貞親(さだちか)―7代・重範(しげのり)―8代・重政と
続いている。この間、臼木ヶ峯城・城山城・大観音城・成瀬城・真弓山城(上記)が足助氏の支城として築かれ
これに黍生城と本拠である飯盛山城を加えた7城が足助七屋敷と称される。但し、真弓山城は発掘の結果で
足助氏時代の痕跡が出ていない為、この伝承が必ずしも正しいとは言えない。■■■■■■■■■■■■■■

南北朝争乱と足助氏の消滅■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、鎌倉時代後期になると執権・北条氏の独裁色が鮮明となり、他の御家人との対立が激しくなってくる。■■
1285年(弘安8年)霜月騒動で有力御家人の安達氏が粛清されたが、この際に足助一族の中の重房が連座して
滅ぼされ申した。遡れば公暁の一件や承久の乱での宮方参戦もあり、足助氏は鎌倉幕府御家人とは言えども
“本流”からは外れた位置にあった訳で、霜月騒動での処遇を不服とした足助一族はこの後に起こる後醍醐
天皇の倒幕運動へ積極的に加担するようになっていく。貞親や重範は事破れ幕府の追討に命を落としたが、
幼少の重政を叔父の重春(重範の弟)が良く助け遂に幕府を打倒、足助氏は建武新政に取り立てられた。が、
重政が長じた事で重春は足助を去って安芸国(現在の広島県)へと移り住んだと云う。時を同じくして他の足助
一族も離散して往き、当主であった重政もいずこかへ消え去る運命となる。丁度その頃に鈴木氏が足助の地へ
進出、足助鈴木氏の時代を迎える事になり申した。一説には鈴木重則(忠親の曽祖父)が足助重範の猶子と
なり足助家の家督を継承したともされるが、これは鈴木家が足助を領有する“大義名分”を得る為の創作か?
ともあれ、足助重政の代を以って飯盛山城は廃城になったと考えられるが、一方で鈴木時代にも使われ続け
1590年の関東移封で廃城処分になったと見る説もあり、真相は良く分からない。■■■■■■■■■■■■■
飯盛山の標高は254m。麓の海抜(国道420号線、巴橋地点)は117mなので、比高差140m弱ある。しかし山容は
なだらかで、香嵐渓から続く遊歩道が整備されているので、山登りをしても全く苦は無い。むしろ、香嵐渓から
山の緑を愛でながら歩くのに丁度良い散策路と言え、先述した「山城再現」をしてしまったら風情が台無しに
なっていたのではなかろうか。まぁそれは個人的感想ではあるが、城目線で見ればこうした散策路の中に曲輪や
門の名残を発見でき、宝探しをするような楽しさがある。もっとも、それほど明瞭な遺構がある訳ではない上に
縄張は山頂からの細尾根に段を構えるだけの古典的なものなので(何せ古い時代の城なので致し方無い)、
遊歩道を登って降りて御仕舞い、という淡白な感じでもあるのだが…。山の南麓にある曹洞宗飯盛山香積寺
(はんせいざんこうしゃくじ)は飯盛山城の居館跡地と伝わるので、併せて見学すればより一層味わい深い。
この他、山中には足助鈴木氏5代の墓も鎮座している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、南北朝時代の関白・太政大臣にして和歌の大成者である二条良基(にじょうよしもと)が戦火の都を
逃れ、ここ足助へ滞在したという伝説がある。足助重範の娘・滝野は良基の側に仕え、やがて三吉丸という
男子を産んだ。その三吉丸が成長するや成瀬基久と名乗り、一軍の将になったと言われる。そう、後に犬山城
(愛知県犬山市)主となる成瀬氏の誕生だ。そもそも良基が足助へ来たのも、滝野が男子を産んだのも伝説に
過ぎぬのであるが、成瀬基久は良基の庶子とされており、その母は足助一族…。南北朝期を境に歴史上から
足助氏は消え、入れ替わるように成瀬氏が勃興したと云うのなら、なかなかに面白い話でござるな。■■■■



現存する遺構

堀・土塁・井戸跡・郭群等
城域内は県指定史跡







三河国 足助陣屋

足助陣屋址

 所在地:愛知県豊田市足助町陣屋跡
(旧 愛知県東加茂郡足助町足助陣屋跡)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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陣屋→県分庁→郡役所→町役場→県事務所となったが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
愛知県道366号線を梶平(かじひら)交差点で曲がり、足助橋で足助川を渡った突き当りには、近年解体されるまで
愛知県足助農林振興センターの建物(写真)が建っていた。その系譜を遡ると、愛知県足助事務所→足助町役場→
愛知県東加茂郡役所→伊那県足助庁と繋がり、それ以前にあったのが足助陣屋だ。住所表示が「足助陣屋跡」と
あるように、この場所は江戸時代から足助の町を治める役場が連綿と置かれていたのでござる。■■■■■■■
戦国期の終わりと共に足助鈴木氏によるこの地の支配は終焉を迎え、江戸幕府が成立した後は天領や尾張藩の
家老であった成瀬家の領地になる等の時代を経てきたのだが、1681年(天和元年)本多淡路守忠周(ただちか)が
5000石で足助に封じられた。この為、旗本本多家の支配陣屋として築かれたのが足助陣屋である。■■■■■■
忠周は徳川家康股肱の重臣・本多平八郎忠勝の曾孫に当たる人物だ。父・能登守忠義(ただよし)の5男であり、
忠義もまた3男坊である事から、平八郎家の宗家を継ぐ立場には無く、故に別家を立て旗本に取り立てられたので
ある。しかし足助陣屋を築いた翌年、1682年(天和2年)丹波氷上郡に2000石を加増され、更に1683年(天和3年)
2月2日には寺社奉行となった事で3000石を追加、合計1万石で大名に列せられた。こうして足助陣屋は、正式に
足助藩の役場として機能するようになり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1687年(貞享4年)職務怠慢を理由に将軍・徳川綱吉から寺社奉行職を解任され、1689年(元禄2年)6月
3000石は没収された。よって石高は7000石、再び旗本となった足助本多家は、1702年(元禄15年)から交代寄合
旗本(参勤交代を行う旗本)として明治維新まで存続する事になる。以降、足助本多家は忠貞(たださだ)―忠強
(ただたけ)―忠弘―忠保(ただやす)―忠堅(ただかた)―忠昶(ただあきら)―忠恒(ただつね)―忠曄(ただてる)―
本多主水(実名不詳)―忠陳(ただのぶ)と続くが、殆どが養子縁組による家督相続で、実子相続は忠弘〜忠保、
忠昶〜忠恒、忠曄〜主水の3回しか無かった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
維新後、1869年(明治2年)9月11日〜1871年(明治4年)11月20日まで陣屋の建物がそのまま伊那県足助庁として
使われたものの、伊那県の廃止後は破却され1883年(明治16年)跡地に東加茂郡役所が新築された。結果、今や
陣屋の遺構は全く残らない。2020年(令和2年)現在、足助農林振興センターの建物も解体されて更地との事。■■
写真の撮影位置が陣屋の御門前、木戸で3方への道を塞ぎちょっとした枡形空間を構成していた。御門の脇には
長屋が左右両方に建ち、その奥に土蔵、そして陣屋の主館が連なる。主館の内部は、玄関を囲うように使者間
座敷・次ノ間と仕切られ、勝手側に台所や内庭が構えられていた。主館の裏には薪部屋、井戸、小屋などがあり
全体で領主の生活空間と政務庁舎とを兼ねた構造だ。それらの建築が並ぶ南西側(写真では向かって左手)には
広い庭(畑)が構えられ、その一番奥に米蔵と稲荷の社があったとされる。この縄張りを見る限り、完全に平時の
居館であり、防御の工夫らしきものは殆ど見受けられない。幕府が成立して80年余りして建てられた陣屋ゆえに
泰平の世の役宅としての機能しか有していなかったのでござろう。背後に山を構えていたものの、戦の備えとなる
ようなものは無く、三州の商都・足助を見守る役場としてのみ存立していた。明治の近代化以後、陣屋の建物は
滅したが、しかし足助の古い町並みは今も良く残り、国の重要伝統的建造物保存地区になっている。陣屋探訪より
重伝建を散策する方が、足助の楽しみ方としては正解なのであろう(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■







三河国 能見城

能見城跡

 所在地:愛知県豊田市榊野町桜県
(旧 愛知県東加茂郡旭町榊野字桜県)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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県道開通でざっくりと削られた城山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
愛知県道19号線「土岐足助線」が阿摺川(あすりがわ、矢作川の支流)を渡る「榊野(さかきの)大橋」の南側に、
切通しで削り残された小高い丘(道路の西側斜面)がある。そこには写真の如く「能見(のうみ)城址」と書かれた
大きな看板が立っている。ここが能見城の跡、いや正確に言えば道路で削られた場所が城跡である。阿摺川が
大きく蛇行する半円の内側へと突出する山塊の頂部に、不整形楕円形をした約1200uの敷地を有し、最高所が
主郭、その北東と南西にそれぞれ副郭が付属していた。現状、看板のある位置は海抜320m程の高さだが、山が
削られる前は330mを超えていたであろう。阿摺川の河畔は280m前後なので、城の比高は50m程度有った。■■
築城されたのは戦国前期の永正年間(1504年〜1521年)と見られ、能見二郎左右衛門(松平光親?)が居城と
していた。この光親は松平家の3代当主・左京亮信光(のぶみつ)の8男で、後に岡崎市内で新たな城を構えて
(岡崎の能見(のみ)城)そちらへ移居してござれば、この家系は能見松平家として明治維新まで続いている。
能見氏が代々続いた事は分かっているものの、一方で当城の経歴はそれ以外よく分からない。場所柄、三河と
美濃を繋ぐ街道に沿い、更に信濃方面へも近い事から山間の国境を睨む要衝であった事は想像できるものの
この周辺の小領主集団「阿摺衆」や足助鈴木氏など、近隣勢力はその時々で時流に合わせて集合離散を繰り
返しており、能見城がどのような戦歴を辿り、また廃城に至ったのかは不明でござる。■■■■■■■■■■
県道19号線の拡幅工事に先立ち、1998年(平成10年)愛知県埋蔵文化財センターによって発掘調査が行われ
主郭跡には物見櫓が、南西曲輪には土坑墓があった事が確認されてござる。この土坑墓からは座葬の人骨が
出た。その他、主郭跡では皿・陶器(瀬戸・美濃)・土師器・甕(常滑)・天目茶碗・宋銭(元祐通宝)等が出土。
戦国期にこの地域でどのような生活形態が営まれていたかを判断する材料となり申した。埋没層を調べると
第一期(室町時代中期〜江戸時代初期)として能見城が実働していた時代、第二期(江戸初期〜中期)として
墓地になっていた時代(土坑墓はこの頃か?)、第三期(江戸時代中期〜昭和まで)には畑作地となっていた
頃と分類され、城山の大まかな変遷が確認できている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
県道19号線を北から南へ走って行けば必ず巨大な看板が目に入るので(南から北だと難しい)見つけるのは
容易い。路肩に駐車余地もあり、車で行けば簡単に来訪できる筈だ。看板の位置まで登る事も可能。ただ、
城跡と言ってもそれだけなので、わざわざ行く程の場所でも無いだろう。遺構らしい遺構が壊滅で残念…。





作手地域諸城館  桑名城・柿城