重伝建地区・足助を眺める山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山間の鄙びた街並が目を惹く足助(あすけ)町。現在は豊田市へと合併されたがその情緒に変わりはない。そんな
足助の町を見下ろすように築かれているのが真弓山城でござれば、観光名所となるべく戦国時代の山城を再現し
いくつもの復元建築が建てられ、見事な城が現代に蘇っている。故に、今現在「足助城」と言えばこの城を指すが
本来の名は真弓山城であり、足助周辺には多数の城跡が散在するために区別する注意が必要でござろう。■■
足助地域を治めた土豪は平安末期に入植した足助(浦野)氏、真弓山城を築いて用いたのも足助氏…というのが
通説だったようだが、実は足助氏が真弓山城を築いた訳ではなく、15世紀つまり戦国時代になってから鈴木氏が
築いたというのが正しいらしい。鈴木氏は紀州の出自、一族中の重善は源義経が奥州平泉へと逃避行した際に
後を追って国を出たものの、途中で義経が討死したと聞き旅を諦め、ここ三河矢並郷(豊田市内)に土着して代を
重ねた。これが戦国時代に国人として自立し三河国内各所に分家を立てていくのだが、鈴木氏は岡崎の松平家
(後の徳川将軍家)4代・右京大夫親忠(ちかただ)と縁組するなどして松平家との関係を深めていく。こうした中、
諸家並び立つ内の1家が足助へ入り足助鈴木家を興し、15世紀〜16世紀頃に真弓山城が本格的に築城されたと
考えられているが、正確な築城年は不明である。足助鈴木家は初代を忠親とし、2代目が重政と続く。■■■■■
松平家臣としての鈴木家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、鈴木家と松平家の関係は時に敵対へと転じる事もあり、1525年(大永5年)には松平家7代・次郎三郎清康
(きよやす、徳川家康の祖父)が2000の兵力で真弓山城を攻めて圧倒、城主の鈴木雅楽守重政は嫡子・重直に
清康の妹・久姫を嫁に迎える事で和議に及んだ。しかし1535年(天文4年)12月5日、所謂“守山崩れ”と呼ばれる
事変で清康は急死した為、その衰退を予測した鈴木家は再び松平家と断交。久姫は離縁させられ実家へと戻り、
更に後、1554年(天文23年)鈴木家は3500の兵を擁する駿河今川家の侵攻を受け、その傘下に入ったのである。
ちなみに後年、久姫は幼くして実母と生き別れになった徳川家康の母代わりとなり養育・後見にあたっている。その
家康が桶狭間合戦以後に岡崎城(愛知県岡崎市)で今川家から独立して三河統一を目指すと、1564年(永禄7年)
真弓山城は3000余の徳川軍に攻められる。既に城主が越後守重直に代替わりしていた足助鈴木家は、今度こそ
敵わじと見て降伏。重直は嫡男・信重を人質に差し出し、以降は徳川家に臣従した。■■■■■■■■■■■■
1571年(元亀2年)甲斐の武田軍が三河へと侵攻した際、重直は城を捨てて逃亡。武田に降る道もあっただろうが
それを選ばなかったのは、徳川家臣として腹を括った証であろう。重直は一族を連れて家康の下へと落ち延びた。
武田信玄は下条伊豆守信氏を真弓山城の城代として入れるも信玄が死した1573年(天正元年)即座に徳川家は
奪還へと動き、家康の長男・岡崎三郎信康を大将とした軍勢3000で落城させた。斯くして城は鈴木家の手に戻り、
足助鈴木家は信重への代替わりを経て1590年(天正18年)まで在城していた。が、豊臣秀吉の全国統一に伴って
徳川家は関東へ移封される事となり、足助鈴木家はそれに従って関東へ居を移すも、後に信重の子・足助鈴木家
5代目となる康重は野に下り浪人になったと云う。ともあれ、足助鈴木家が退去した事で真弓山城は廃城になった
ようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
美麗に演出された山城公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
公称で標高301m、国土地理院の地形図では307mと記録されている真弓山の山頂部を細長く啓開して本丸とし、
その両端部から四方に段曲輪を重ねていく縄張。麓にある足助の町から本丸までは比高170mもあり、足助盆地
直近にある山としては一番高い位置にある絶妙な地点だ。足助鈴木家はこの真弓山城を本城として、周辺に
浅谷(あざかい)城・安代(あじろ)城・阿摺(阿須利)城・大沼城・田代城・八桑城(新盛城)の6支城を配置しており
本城と併せた7つの城を足助七城と呼んでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1989年(平成元年)、愛知県は「愛知のふるさとづくり事業」として足助の山城を再現する事業を計画した。国から
支給された1億円の“ふるさと創生基金”を原資として、1990年(平成2年)〜1992年(平成4年)にかけて真弓山の
発掘調査を行った。その結果、鈴木氏時代の建物跡を確認し、擂鉢・鋏・釘などの日用品や硯と言った文房具、
茶道具などが出土。なお、足助氏による築城・使用を裏付けるものは検出されず、これにて城の来歴が鈴木氏に
拠るもののみと断定できる成果にもなってござる。こうした発掘結果に基づいて、遺構保護の盛土を行いながら
城址の復元整備工事が進み、1993年(平成5年)5月に「城跡公園足助城」が開園する。この公園名が真弓山城を
足助城と称する由来になっている。公園化されたおかげで、本丸(主郭)に高櫓と長屋、南ノ丸に井楼の物見台と
厨(くりや、厨房や居住空間を兼ねた建物)、西ノ丸にも大きな物見台(写真)、他にも各所で板塀や門が建ち並び、
戦国時代の山城が分かり易く再現されている。また、城内通路も綺麗に整備されて来訪者が見学し易い状態が
維持されているのが有り難い。兎角、山城というと坂が険しく藪だらけで歩くのも困難…という場所が多いものの、
真弓山城ではそうした心配は全くない。但し ――― 公園は有料見学施設でござる(当然、入城時間も制約アリw)
別名で松山城・足助松山の城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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