三河国 田原城

田原城址 復元大手門

 所在地:愛知県田原市田原町巴江
 (旧 愛知県渥美郡田原町巴江)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★★■■



東三河の有力氏族・戸田氏による創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今宮城とも。巴江(はこう)城の別名もある丘陵城。現在は海岸線が埋め立てられ市街地が広がるが、往時は
城の間近まで入り江になっており、そこに起こる渦潮の様子から巴江の名が付けられたと言う伝承が残る。
となれば、田原城は海城でもあった事になろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創建は室町中期の1480年(文明12年)頃、現地の武士・戸田弾正左衛門尉宗光によるものと言われる。
宗光は元来、三河国碧海郡上野(現在の愛知県豊田市)の国人であり、一方、田原を含む渥美郡は一色式部
少輔政照(いっしきまさてる)が郡守護代として治めていた土地。無論、一色氏は室町幕府の「三管四職」に
数えられる名門の家であるが、応仁・文明の乱で政照は軍を率いて上洛しており領国は留守にしていた。この
間隙を衝き宗光は田原を奪取、城を築いたのである。帰還の途を閉ざされた政照は閉塞するしかなく、この後
渥美郡は戸田氏の支配下に入った。宗光―弾正忠憲光―左近尉政光―弾正少弼宗光と代を受け継ぐ間に、
渥美半島の統一を果たした上、東三河の重鎮として戸田氏は名を上げ申した。■■■■■■■■■■■■
しかし、同時期に三河の最大勢力となったのは岡崎の松平次郎三郎清康であった。この為、宗光は松平家に
従うようになり、清康から偏諱を受けて康光と改名した。されど“守山崩れ(清康が家臣に誤殺された事件)”で
松平氏は急激に衰退していき、三河国は東の今川氏、西の織田氏に狙われる地となってしまった。これにより
康光は強大な今川氏へと従属する事を余儀なくされ、松平家の嫡子・竹千代(清康の孫)を人質として今川の
本拠・駿府(静岡県静岡市)へ護送する役を負わされる。が、事もあろうに康光はこの場面で裏切り、竹千代を
駿府に送らず織田家へと引き渡してしまうのである。一説には竹千代は1000貫(500貫とも)で売り飛ばされた
とも言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この事態に激怒した今川方は1547年(天文16年)大軍を派遣して田原城を攻め落とし報復、戸田康光は討死
するのである。同年中に今川軍は織田方の橋頭堡となっていた安祥(あんしょう)城(愛知県安城市)も2万の
大軍で攻め落とし、城代・織田大隅守信広を捕虜とした。この信広は織田家当主・弾正忠信秀の庶長子、即ち
あの上総介信長の兄である。信広と竹千代は捕虜交換とされ、漸く駿府に竹千代が送られる事になる訳だが、
安祥城の攻略は最初からそれを目的として今川家の軍師・太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)が企んだ
ものと言われる。雪斎の智謀で竹千代の駿府来訪がやっと叶い、その雪斎により竹千代は養育される訳だが、
誰あろう竹千代とは後の天下人・徳川家康の事である。田原城は、家康の幼少期における最大の危難に一枚
噛んだ城なのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(どうでも良いが、戸田康光という人はこんな暴挙を犯してタダで済むと思っていたのだろうか?)■■■■■■

戦国乱世の終幕と共に入れ替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話が逸れたが、戸田康光の討死後、田原城には天野安芸守景貫(あまのかげつら)が入城。程なく岡部石見守
輝忠、更に朝比奈肥後守元智(あさひなもととも)が今川の城代として入るようになる。着実に領土を広げていき
日の出の勢いを得た今川氏であるが、1560年(永禄3年)5月19日に今川治部大輔義元が桶狭間の戦いで戦死
すると、今度は急速に没落していく。一方の竹千代長じて松平蔵人佐元康はこれで三河への帰参を果たして、
父祖の功績に倣い国主としての地位を回復していく。元康、つまり家康は今川勢力の排除を行い、この過程で
1565年(永禄8年)家康の家臣・本多豊後守広孝が朝比奈元智の守る田原城にも攻めかかった。今川の忠臣と
して知られる朝比奈一族は義元の没後も斜陽の今川家に忠節を尽くして良く城を守ったが、時代の流れには
抗えず田原城は落城してしまう。元智はいずこかへ姿を消し、城はそのまま広孝が城主を務める事に。■■■
以後、徳川家の関東移封まで広孝とその子・彦次郎康重が所領7000余貫で城を受け継いだ。■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の天下統一によって領地再編が為され、本多父子は上野国白井(しろい、群馬県
渋川市)2万石へと移る。東三河は吉田城(愛知県豊橋市)に入った池田三左衛門輝政が領有し、田原城には
伊木清兵衛忠次(いぎせいべえただつぐ)が輝政の城代として配される。伊木は田原城の改修に着手し、近世
城郭へと再整備していき、現在に残る田原城の縄張りは基本的にこの時代の名残でござる。従前は土造りで
あった城が石垣で固められたのもこの時。石垣は海の波に洗われ、さながら海上要塞の体であったと言うが、
この時代東海道一帯の諸城は、軒並み豊臣系武将によって改修工事を受けている。これは関東に移封された
徳川家康を封じる為、秀吉の内意を受けて行われた工事だった。渥美半島の先端にある田原城は、東海道の
本筋からは外れるが三河湾の海上要衝として同様の扱いを受けていた事がよく解る逸話であろう。■■■■

江戸時代には三宅氏の城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦に勝利して天下は徳川家康のものになった。今度は家康が大規模な
国替えを命じる立場に替わり、こうした東海道沿いの諸城は徳川譜代家臣が固めるようになるのである。■■
田原城も例外ではなく、播磨国姫路(兵庫県姫路市)に移転した池田家に代わり、徳川家臣の戸田土佐守尊次
(たかつぐ)が伊豆国下田(静岡県下田市)から移され1万石で城主とされた。竹千代を売った康光の弟が光忠、
その光忠の孫が尊次である。光忠は康光に同心せず、故に今川からの追討も逃れ、家康が自立するとそれに
従った為、戸田氏と言えど徳川からの信任篤く譜代家臣に名を連ねていたのだ。尊次は大坂夏の陣の直前に
病没したので、その跡を因幡守忠能(ただよし)が相続。更にその跡は伊賀守忠昌(ただまさ)が継承する。
この忠昌は後に幕府老中となる逸材であるが、老中就任前の1664年(寛文4年)5月9日に肥後国天草郡富岡
(熊本県天草郡苓北町富岡)2万1000石へ加増転封。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この為、田原には三河国挙母(ころも、愛知県豊田市)から三宅土佐守康勝(みやけやすかつ)が1万2000石で
封じられ、明治維新まで三宅氏が代々の城主を務めている。康勝以後は備前守康雄(やすお)―備後守康徳
(やすのり)―備前守康高―備後守康之―備前守康武―能登守康邦―備前守康友―対馬守康和―備前守
康明(やすてる)―土佐守康直―備後守康保(やすよし)と12代205年の治世になった。康勝の入封時に城の
改修が行われた他、17世紀になると新田開発の為の干拓事業により城の眼前まで入り組んでいた海が陸地に
変わり、海城としての様相は失われた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
9代・康和の治世、1810年(文化7年)9月には藩校の成章館も置かれてござる。■■■■■■■■■■■■■
なお、田原の人物として最もよく知られているのは渡辺崋山だろう。崋山は10代・康明が没した際、他家からの
養子となる康直の入嗣に反対した人物だが、康直はその人物を見込み、家老に抜擢した。崋山もまた、主君と
なったからには康直を実直に補佐し、それまで災難続きで財政破綻していた田原藩の建て直しに尽力。数々の
功績や洋学を取り入れる開明的思想は、ここで詳しく述べるまでもないだろう。康直が前藩主・康明の血縁者で
ある康保に家督を戻したのも、崋山の遺志を酌んでの事だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

田原城の縄張りと現代の公園化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その康保は明治維新で田原知藩事に任じられるが、廃藩置県で免官。田原藩は田原県、さらに額田県となり、
最終的には愛知県へと編入され申した。これに伴い、田原城は廃城。■■■■■■■■■■■■■■■■■
1872年(明治5年)頃から城内諸建築は破却されて、現存する建物は何も無い。ただ、城跡そのものは比較的
良好に保全されてきた。そもそも田原城は平地上にごく僅かな隆起をしている低丘陵を城地としたものであり
(故に平城と分類される事もある)、最高所を本丸の敷地とし、その北側に藤田曲輪、南側に三ノ丸と二ノ丸が
東西に分置され、全体が直線的に並ぶ縄張りを基幹とする。縄張図上では連郭式に見えるが、高低差までを
含めれば梯郭式とすべきだろう。本丸の東(山麓部)に腰曲輪状の下曲輪が連結、西側の濠中には帯曲輪が
障壁として延び、本丸に対する側面攻撃を防いだ。このように多重防御、あるいは比高を考慮した縄張である
事が梯郭式としての成立要件を生している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
藤田曲輪と本丸、そして二ノ丸・三ノ丸を隔絶するのは堀切であるが、これは地山そのものに元々あった谷を
更に削りこんで生成したものと考えられている。そして南端の大手口からは侍屋敷の敷地が広がるが、これも
街路を鍵折れにして防備とした。これら侍屋敷地、それに藩校・成章館の敷地を取り囲み外郭線も構築されて
いる。天守はなく、石垣も城内の要所のみに用いられただけだが、戦国期以来の実戦的な縄張りが継承されて
いた事がよくわかる城であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした敷地が、現在は巴江神社境内(旧本丸)・田原市立博物館(旧二ノ丸)・護国神社(旧三ノ丸)・田原市
民俗資料館(大手前の侍屋敷地)・田原市立田原中部小学校(成章館跡)として転用され、加えて市立博物館
西側に連なる敷地は渡辺崋山を祀る崋山神社となっている。これら一帯は現代の町並みに変貌しながらも、
旧来の起伏はそのままなので、旧城の“雰囲気”は何となく感じられよう(「何となく」だがw)。■■■■■■■
一方、藤田曲輪側は完全に宅地造成されてしまったので、跡形も無い。また、市立博物館を中心とした地域が
城跡の様子を残した公園に整備され、田原城最大の櫓であった二ノ丸二重櫓と大手門である桜門(写真)が
再建されているものの、古写真に残る姿と再建二重櫓は全く趣きが異なっている上に、市立博物館建築時に
旧来の遺構を破壊してしまったため批判を受けたとの話が伝わっている。二ノ丸二重櫓は下見板張りの外壁、
初重には石落しとなる出窓が構えられていたが、再建二重櫓は白漆喰塗込の上に出窓はなく、破風の形状も
全く違ったものになっている。あくまで「模擬建築」でしかない物だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堀切跡が庭園風の通路に改変されているのも(非常に風情があって良い庭園なのだが)本来の用途とは異なる
史跡整備として問題視されているのが残念。とは言え、1994年(平成6年)に復元された桜門の続塀が海鼠壁に
なっているのは旧態通りであるし、その前に延びる水濠から見る風景はまさしく往時の田原城を垣間見るようで
素晴らしいものと言えよう。熱心な城郭愛好家からはしばしば否定的な見られ方をする城跡だが、個人的には
好感が持てた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等




蒲郡市・豊川市内諸城砦  作手地域諸城館